コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

暑苦しい夜は御本といえば龍角散

2009-07-26 00:55:00 | 新刊本


落語論-寄席で見つけた落語の真髄』(堀井 憲一郎 講談社現代新書)

フルハイビジョン47型のデジタル映像で花火を見ても、ちっともおもしろくないように、落語は寄席で見なければ落語ではないという。TV落語とは、TV花火なのか。それなら私はほとんど落語を見たことがないことになる。やはり、談志を別格のように絶賛している。反省した。「こんだ寄席で談志を聴いてみようか」。

私見ながら、養老孟司や佐藤優など現代にライター数あるうちで、堀井憲一郎は最優秀の一人。この『落語論』にも、「観客論」が立てられているのは秀逸。そうなんだ、あらゆる批評や評論に、観客論、聴衆論、読者論は欠かせないのだが、試みる人はきわめて稀だ。



マルクスは生きている』(不破 哲三 平凡社新書)

未読だが、ぱらぱら拾い読みしたところでは、不破さんには、この分野のライターとして活躍したほうが、政治家としてより大きな影響力を期待できると思う。よい意味でプロフェッショナルな物書きなのに、ちょっと驚いた。政治家の余技なんてものじゃない。



『江戸の閨房術』(渡辺 信一郎 新潮選書)

当時、世界最先端といわれた江戸時代のセックス教本を解説している。フェラチオからGスポット、潮吹きなど、江戸期にすでに知られていたのに感心。「世界に冠たるスケベ」という自慢はもっとしていいと思う。



時間の本質をさぐる』(松田 卓也 二間瀬 敏史 講談社現代新書)

<宇宙論的展開>と副題があるように、物理学的な時間論。半分まで読んだが、さっぱりわからぬ。わからないまま読了した場合、はたして読んだといえるだろうか。いえるのである。私など、書評を読んだだけの本についても、平気で議論できる物知りとして知られている(恥知らずという人も一部にいるが)。ようするに、読者論(らしきもの)をすればいいのだ。

(敬称略)


隅田川の花火

2009-07-26 00:13:00 | ノンジャンル


駒形橋で見物の群衆に遭遇。混んでるはずだ。交通整理のお巡りさんに尋ねると、「京葉道路まで行けば渡れるでしょう」とのこと。この蒸し暑い夜に、欄干は満員電車なみの停滞。「立ち止まらないで下さい!」とハンドマイクされても、歩くほうが難しい。花火は遠く小さく、音も聴こえない。でも、今夏の初物である(ちょっと変だが)。

下町のあんちゃんたちが浴衣デートに及ぶのはいいのだが、どれも帯とベルトを一緒にして、「天才バカボン」風になっている。いつもパンツを見せるほどズボンを下げてはいているのに、どうして浴衣になると腰高に着てしまうかな。浴衣の帯とは、映画「悪名」の勝新太郎のように、腰骨の下、尻の割れ目はじまり辺りで締めるものだ。

女の子の着付けは、さすがにまあ様になっているが、浴衣の柄と帯の色の悪趣味なのには唖然とする。江戸とはいわず、ほんの20年前でも、あんな浴衣を着て歩いていたら、「頭がおかしい」と目引き袖引きされただろうに。金魚や朝顔の柄ではなぜいけないのか。

花火が終わった一人の帰り道。浴衣姿の娘が歩きながら片手に持った携帯に見入っている。いま別れたばかりの彼氏か、家族からのメールかもしれない。携帯の画面の灯りに照らされ、少し放心したような白い頬と紅い唇が薄闇に浮き上がり、ちょっと官能的だった。俺が歌人なら、短歌のひとつやふたつものすることができたろうに、残念である。



ハッピーフライトとファニーゲームUSA

2009-07-23 23:43:00 | レンタルDVD映画

ハッピーフライト

ANAのホノルル便を舞台に、航空会社の「お仕事」が丁寧に描かれて楽しい。監督は、矢口史靖。男子のシンクロナイズドスイミング部が活躍する「ウォーターボーイズ」や田舎の女子高生がスィングジャズバンドを結成する「スウィングガールズ」など、その楽しい「やおい」作品作りには定評がある。

いまが可愛い盛りの綾瀬はるかは、もちろんスチュワーデス(CA=キャビン・アテンダントなんて「日本語」は認めないのだ)、その指導役のベテランスッチー(スッチーは俗語であるが日本語である)に寺島しのぶ。さすが色香がある。賑やかな俳優陣のなかで、ほかに印象的なのは、やはり田畑智子か。挿入歌は、フランク・シナトラ「カム・フライ・ウィズ・ミー」。

やまナシおちナシいみナシの「やおい」作品には、たいていセックスもない。少なくとも、セックスを人間性やその解放などにからめて描くことはない。物語性や主題を離れて人間をありのままに描くというのではなく、なぜ書かねばならないかという自分の情熱をひたすら書いているようにみえる。カラオケのように、定型を踏まえ、とにかく変奏し続けるのだ。

そのきわめてストイックな創作姿勢によって、あらかじめ作品性や作家性は消し去られ、まるで他愛のない作品ができあがる。そこが「やおい」を粋にしているのだと思う。優れた「やおい」作品があるのではなく、「やおい」というジャンルが優れている。そんな風に思っている今日この頃、劣悪な「やおい」を観てしまった。


ファニーゲームUSA

これはアメリカでのリメークだが、オリジナルは、カンヌ映画祭で途中退場が続出したという問題作。リメークも同じミヒャエル・ハネケ監督。「隠された記憶」という、どこが「衝撃のラストシーン」だったか、いまだにわからない映画を観たことがある。問題作ばかり手がけるヨーロッパの「芸術監督」です。謎の若者二人が、平凡な中流家庭を襲い家族を次々に惨殺していくというだけの話。

昔、「時計仕掛けのオレンジ」というやはり「問題作」がありました。観客の公序良俗意識を逆撫でし、ひたすら不快にするだけのためにつくったとしか思えず、ガラスを爪で引っ掻く音を延々と聴かされるような気になります。一種のクソリアリズムですね。真実は人々を不快にさせるというテーゼを反転させて、人々を不快にさせるものこそ真実だという詭弁を映像で観せつけられるわけです。

途中で席を立つ観客はもちろん、最後まで観てしまった観客の批判や賛辞さえ、冷笑するような反観客的な映画です。観客の居心地を悪くさせ、尻をもじもじさせれば、観客を変え、すなわち世界を変えた「衝撃の問題作」となるのです。実は、その得意顔こそ観客にとっていちばん不快なのですが。日本の「やおい」作品と比べて、何と野暮なんでしょう。

圧倒的な暴力の前に徹底的に無力な人間が、きわめてささやかな抗いを試み、必死に生き延びようとする。しかし、それらは結局無駄に終わり、当初の予定通り殺されてしまう。そう、少し育った子どもが、「人間なんて結局は死んでしまうんじゃないか!」という疑問を口にするのと同じ、また、そうした質問を哲学的な命題と受けとる度し難き幼稚さです。

もしかしたら、自分はほかの60億人の人間とは違って、死なないのかもしれないと本気で考えたことのある傲慢な人間しか、こういう映画は作れないし、好んで観ることもないでしょう。これを気取った言いかたにすると、「階級的不安」になります。実に、いい気なものです。だって、ほんとうの「階級的抹殺」は彼らから遠く離れた場所で、彼ら以外の人々に日々行われているからです。

(敬称略)

夢や希望を抱かず現実を引き受ける

2009-07-14 01:45:00 | ノンジャンル
 今回の東京都議選の得票数をみると、自民党145万票に対し、民主党229万票だそうである。都議選の総括とは、これが衆議院選だったらどうなるか、というシミュレーション以外にない。

 政権交代間違いなし、という見込みが出て、これから勝ち馬に鞍替えするやつが、メディアをはじめとしてどんどん出てくるから、政権交代がますます既定事実化していくことになる。

 で、都議選の総括とは、政権交代の実現性をはかるものだが、同時に政権交代後の現実が見えるものでもある。つまり、民主党に政権交代すると、どんな政策転換がなされるか、ということである。

 首都銀行東京、築地市場の豊洲移転、東京オリンピック開催には、民主党は反対か消極的な姿勢をとっているが、産業、福祉、教育など基本的な政策について、自民党と民主党に大きな違いはない。

 しかし、それはたいした問題ではない。たとえ社民党が、日本共産党が政権をとっても、日米安保条約の破棄ができないように、基本的な法律や制度を大きく変えることはできないからだ。また、大きく変えることが必ず国民の利益に結びつくという保証もない。

 したがって、政権交代の意味は、政策の転換にはない。政策政策とかまびすしくいっているのは、主に政治家と官僚とマスコミと政治学者である。それが彼らのレゾンデートル、ひらたくいえばビジネスだからいっているに過ぎない。

 現在、国民の間に政権交代が必要なほどの政策上の争点はない。となれば、都議選に惨敗しようと政権の座から落ちようと、自民党の敗北にとりわけ意味するものなどない。それが証拠に、この間の麻生政権にこれといった固有の失政や失策があっただろうか? 

 麻生太郎は、国民的な人気がありそうだとして総理大臣になり、いま国民的に不人気だといわれて解散を迫られ、首のすげ替えが取りざたされている。では、国民的人気不人気とはいったい何だろうか。あるいは、なぜ民主党の人気が高まったのだろうか。

 首相や政権の人気不人気、あるいは世論調査による政党支持率の変化、こうした事柄に騒がれるほどの意味はない。実態は何もない。ようするに、我々は、自民党に飽きたのである。ただ、それだけのことだと思う。飽きたから変えたいのだ。

 つまり、政権交代とは、政権交代そのものに意味があり、それ以上の意味や期待をくわえるのは、あまり意味がないように思う。なぜ飽きたか、と問われても困るし、とくに自民党を支持してきたという自覚もない。

 とはいえ、政権交代に積極的意味はもちろんある。しばらくは、国民も政治に飽きていない振りをしなければならない。選択の結果責任は負わなければならない。責任を負いたくなければ、英明な君主を戴く独裁政治を待つしかない。

 我々は幸いにも、アメリカのように英明な君主を求める国民ではない。国家に夢や希望を託さず、ただ現実を引き受ける国民がいる、成熟した国である。その国民は自民党的な現実に飽きている。

 民主党的な現実はまだ生まれていないから、その引き受け手も、まだ現実にはいない。しかし、現実の改変は必ずなされるのである。法律や制度のように、5W1Hは明記されないが、無名の人々が日々現実を改変していく。

 この夏に政権交代があるとすれば、そうした新しい現実を意識するきっかけとなるだろうと思う。そして、新しい現実も、それを意識することにも、何の価値判断も下せない。ただ、それを引き受ける、もうひとつの現実が生まれるということだ。

(敬称略)

シミュレーション:恥ずかしながら、10年前までずっとシュミレーションと発音してきた。数年前まで、ドストエフスキーではなく、ドフトエフスキーだと思っていた。政権交代も政権後退や政見交代と記したほうが、ずっとしっくりくる。自公政権が後退して民主党が前面に出てくるとしたほうが妥当な気がするし、既成政党による政治の見方と、我々の政治の見方を交代させるきっかけになればと思う。「庶民の目線で」などという気色の悪いものではなく、「我々」という共同体(協働性に基づく視線)を意識することであってほしい。

 
 


降参した歌 9

2009-07-09 01:56:00 | 音楽
オイラ、18歳の頃、浦和の飯場で土方していた。先月亡くなったN氏はその飯場の親方でした。オイラ、単調な穴掘り作業をまぎらすために、当時、流行っていたちあきなおみの「喝采」をよく口ずさんでいた。しつこく、毎日、朝から夕方まで、「いつものよ~に♪」と歌っていたら、「喝采のR」という綽名がついた。あの頃は、一生、このままでもいいやと思っていた。で、月もきれいであるし、今夜は、ちあきなおみ特集。

夜へ急ぐ人
http://www.youtube.com/watch?v=kpu1BCLLxDk
笑っちゃうほど凄いですね。昔のアングラ演劇の一幕かとびっくり。

冬隣
http://www.youtube.com/watch?v=7TZyE-pU9Hg&NR=1
とうりん? 知らなかった。辞典によると、ふゆどなりとは、冬の近づいた気配が感じられる晩秋のころ。「はしり火に茶棚のくらし冬隣/蛇笏」。夫君が亡くなる前に吹き込んだ曲らしい。

恋の奴隷
http://www.youtube.com/watch?v=DyPTIpVMsgk
とても可愛い。

伝わりますか
http://www.youtube.com/watch?v=W315DYxx33M
バカな顔した猫ですね。

ねぇあんた
http://www.youtube.com/watch?v=zHH6T0zaims
文句なし!

紅い花
http://www.youtube.com/watch?v=J1fn4BASJF8
歌詞が理屈っぽいが、名唱。

そっとおやすみ
http://www.youtube.com/watch?v=rs9icu_FXuU
布施明のも好きですが、これもいい。

黄昏のビギン
http://www.youtube.com/watch?v=VcsDsOEU3B0
オリジナルの水原弘も聴きたくなる名曲ですね。

(敬称略)