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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

当ブログについて

2037-12-31 23:59:59 | ノンジャンル
このブログを開設して早15年を過ぎようとしています。ネットの旧知だけでなく、未知の人のアクセスも少しずつ増えているようです。そこで当ブログの簡単な解説と便利な使い方について、ご案内をば。

まず、ブログタイトルですが、コタツの評論ではなく、コタツ評論という形容です。コタツに入ったままご託を並べているくらいに思っていただければ。

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以上



陪審員2番

2025-05-04 12:17:51 | レンタルDVD映画

クリント・イーストウッド監督の秀作と彼のファンや批評家はいうだろう。低予算ながら佳品であるといったという人や、もしかしたら、TVの二時間ドラマが頭をよぎった人もいるかもしれない。そのすべての感想に俺は頷く、その通りと太鼓判を押す、さらに加える。『陪審員 2番』について尋ねられたら、クリント・イーストウッド映画の傑作であると。

誰しも、陪審員映画の歴史的名作『12人の怒れる男』を想起するだろう。が、かの映画のように、12人の陪審員それぞれの人間ドラマにはしない。その背景をなぞるだけだ。議論を通じて民主主義が駆動する臨場感もない。イーストウッドは民主の人ではない。

彼が一貫して描くのは、西部劇のカウボーイだ。民主政が立ち上がる以前からそこにいて、立ち上がったときには消え去っている。家族や家庭を相手にしない。夫婦の愛情や家庭のぬくもりについて、むしろ、皮肉を越えて悪意すら感じるくらい、冷淡以上の冷酷と思えるほどの視線だ。

交流、交感、交情の場面が、法廷では敵対する検事と弁護士の間にだけ。ごくたまに短いものに限られ、意味のある会話はほとんどない。徹底的に情感を排している。近作『運び屋』でも、麻薬の運び屋となった老人イーストウッドが数少ない笑顔を見せるのは、受け取る側のマフイアのチンピラと二言三言を交感するときだけだった。

そんなイーストウッドが愛するのは仕事仲間と撮影現場だけだろう。だから、90歳を越えてなお、ハリウッド的にきわめて完成度の高い、驚くべき非ハリウッド的な作品を作り続ける情熱を保てる。

『12人の怒れる男』は法律を学ぶ学生なら必見の映画だろうが、『陪審員2番』はそういう役には立たない。何の役にも立たないかもしれない。ろくでもねえな、人間は、社会は、と98%くらいは思わせる。すべてに決着がついた後、女性検事長となったフェイス・キルブルー(素晴らしいトニ・コレット)が訪ねてきた玄関ドア前にひとり佇む姿と、その強靭な瞳に見据えられるまでは。 

カウボーイが主人公の西部劇のヒーロー映画である。今回はヒロインだが。おわかりいただけるだろうか。イーストウッド映画はこれだけなのだ、それだけのシーンを撮りたいのだ。イキらない、静かな意志だけがある。意見や認識や、幻想や妄想や、肉体や暴力などではなく、形而上下左右の区別をつけない。ただ意志のみを。       

『12人の怒れる男』のような劇的な展開はない。陪審員の評決不能がひっくりかえる、全員一致となる肝心の場面を描かない。合戦の模様を描かず、合戦の前後だけを映した黒澤映画『影武者』のように。

したがって、『12人の』へのオマージュではない。イーストウッドは『12人の』と同時代のハリウッド人士だから、参照と賞賛は区別する。ハリウッド黄金期を受け入れず、受け入れられなかったのだ。

昔のハリウッド映画のように、整然とした構成を保ちつつ、スムーズに映像は流れていくから違和感はまるでないが、人間ドラマを深めず、劇的な展開も避けるとは、じつに偏向を越えて偏屈にすら思える。そう、偏屈な映画といえるのだが、それはジジイがつくったからではなく、イーストウッドは最初から偏屈なのだ。

黒白をつけない灰色のグラデーション(濃淡)のラビリンス(迷路)に、屹立する西部劇のカウボーイひとり。強い陽ざしの下、帽子の庇に深い影となって、表情はわからず結ばれている口許だけが見える。腰のベルトに下がった銃の辺りに手をやっている。それは銃であって、誰からも正義とは呼ばれない。誰からも。

どうしてイーストウッド映画が俳優たちの尊敬を集めながら、長年ハリウッドで持て余されてきたか、ハリウッドやアメリカのリベラルたちがその処遇を扱いかねてきたか、その理由が想像できる映画でもある。

イーストウッド映画のなかでも、これほどハリウッドのコンテキスト(文脈)を無視し、芸術にも娯楽にも距離を置いて、なおかつ作家性(癖)の強い作品は他に見当たらない。

(止め)

 


伊丹十三と大谷翔平

2025-01-07 06:04:14 | ダイアローグ

伊丹十三と「戦後精神」

伊丹十三記念館 伊丹十三賞 第3回受賞記念講。

世代的に「総括」という言葉には忌避感が伴うのだが、「伊丹十三論」の「無さ」を入り口に、日本の「戦後精神」の「無さ」を通底して、戦後日本人を「総括」してみせた、内田樹入魂の伊丹十三論である。

物わかりのよいリベラルの代表のイメージだが、意外なことに「弱者の正義」に辛辣な舌鋒を下すなど、内田樹ファンを裏切る幅員も見せている。生まれてはじめて自発的に行った講演が伊丹十三で、『ヨーロッパ退屈日記』は20代の座右の書だったと明かす伊丹ファンとして、「憧れの人」の前では率直にありたかったのだろう。

『ヨーロッパ退屈日記』をテキストに、1933年生の「戦中派」である伊丹十三の「戦後精神」の瘤になった「屈折」と「含羞」について、二人の人物を補助線に語っている。一人は伊丹がメンターとして振舞い弟分であったとされる大江健三郎であり、もう一人は同年生まれの江藤淳である。大江を取り巻く忖度の権力性を指摘しながら、江藤淳のGHQ検閲研究を「妄執」と感心するほどの殉情と対比させて、「戦中派」伊丹の視座を探っている。

内田樹の読者であり、そのブログやツイッターにも接している者なら、内田にとって山本義隆が大江にとって伊丹十三に近い存在であることにすぐ気づくだろう。東大闘争に加担した内田はその意味で「戦中派」であり、「敗戦後」の「屈折」と「含羞」を共にしている。

東大全共闘の闘争宣言として有名な「連帯を求めて孤立を恐れず」を迂遠に引用さえしているが、東大全共闘議長であった山本義隆が一介の予備校講師として後半生を生きた「孤立」の姿に、暴力団や宗教団体と闘う渦中で、自死したとされる伊丹十三を重ねているように思う。

ちなみに、その山本義隆が『磁力と重力の発見』を上梓して、第30回大佛次郎賞(2003)を受賞した際に、選考委員の一人であった養老孟司は、東大全共闘運動への「感情的な留保」により選評を拒否して話題になったことがある。内田は養老に私淑するような関係らしいので、養老とこの事件について何か話し合ったのか興味深いところだ。

この講演録を読んで、ひとつ思いつくことがあった。内田の方法論は、起きても不思議ではないことがなぜ起こらなかったか、あるいは、語られるべきなのに語られなかったのはなぜなのか、「無さ=不在」について想像をや思考を巡らすことだ。本講演でも、なぜ包括的な伊丹十三論が書かれなかったかを入り口に、日本人の戦後精神に言及している。

そこで、思いついた。大谷翔平論は数々あれど、なぜか彼が毎回のコメントに繰り返す「勝利」について正面から考察したものに接したことがない。野球はゲームだから勝利を目指すのは当たり前だからか。たしかに、彼は日々の試合に勝ち、ワールドシリーズで優勝することを勝利としている。彼大谷翔平にとって勝利は自明の事実であるだろう。

では、私たちにとっては、大谷翔平の勝利はどんな意味があるのだろうか。他人のTVゲームの勝敗のように、何の関係や意味もないように思われる。ならば、なぜ私たちは彼の活躍に熱狂するのだろうか。何を彼の勝利に仮託しているのだろうか。舞台がMLBというアメリカであることの影響は何だろうか。力道山への熱狂と似たものは見つからないだろうか。

内田樹がけっきょく村上春樹を着地点にしたように、私もまた大谷翔平が念頭を去らないのである。これはかなり奇異なことに違いない。

(止め)

 

 

 

 


『ドライブマイカー』

2024-10-02 07:19:36 | ダイアローグ

『ドライブマイカー』を読んだ。海外の評価が高い映画の原作だから読んだ。映画の方は感心しなかった。中途で観るのを止めたくらい。無機質な空間に抽象的な人間が登場して観念的なセリフを述べるという映像作品は、肌に合わない。村上春樹の原作を読んでみて、そうした点ではかなり忠実な映画であることがわかった。

小説の方は中途で止めず読了したのは、小一時間もあればじゅうぶんな短編という条件の違いもあっただろうが、ステレオタイプな登場人物がいかにもありそうな会話に終始するという「無機質な空間に抽象的な人間」への違和感がなぜか反発に転じなかったのは、映画の場合は海外の評価を当て込んだ興行的なアプローチによるものと受け止めたのに比べ、小説では通俗的アプローチの底に淀んだ人間性への視線が感じられたからだろうと思う。

女性ドライバーの好ましい描写とコキュに対する「たいした人間じゃない」という判断に、誰しも「相棒」への友情とコキュに対する主人公の劣情を垣間見るだろう。村上春樹が前書きで述べているように、「女のいない男たち」というモチーフの連作小説という所以である。ここでは女性は評価の対象に過ぎないが、コキュに対してはその瞳や所作動作、感情の動きまで細かにホモソーシャルなまでに観察している。

妻とコキュとの情事を想像する場合にも、妻の放姿な肢体よりもコキュのそれを味わっているかのような、貧相な容貌と卑小な体躯からの憧憬が感じられる。女性から評価は得られるが、それ以上のことはけっしてない敗北感も横たわる。女性との間では、評価の交換が行われるだけだから、女性は出てこないに等しい。

対して、主人公とコキュとの間には、たがいの劣情だけがある。コキュは浮気妻に対するその美貌や業界的な地位への傾きという劣情が。主人公は浮気妻を通してコキュにほとんど肉感的なほど劣情を催し、それを隠して「友情」まで育もうとした。「たいした人間じゃない」という侮蔑は、コキュに向けてだけではなく、自らへの呟きでもある。

たびたび浮気をする妻を放置するほどじつは関心がない。そんな理解し難い自分をコキュに会わせてみたものの、何の感情も起きない。車窓を流れる風景のように、とらえどころがなく過ぎ去っていく、存在ともいえない何も覚えない空虚な人間。それをはたして人間と呼べるだろうか。人間の手がかりを与えない、そんな小説かなと思った。

。なんとかボーイズの決め台詞を思い出した。「金も要らなきゃ女も要らぬ、わたしゃも少し背が欲しい~♪」

(止め)


白いカラス

2024-04-04 23:38:51 | レンタルDVD映画

2003年公開のアメリカ映画だから、レンタルビデオ店の旧作の棚から見つけ出すのも難しいはずだ。Netflixには入っていなかったが、どこかのサブスク配信サービスから提供されているかもしれない。だとしても、黒人への人種差別を扱った地味ながら心に染み入る悲痛な文芸作品を観る人はごく少ないだろう。

なので、最初から最後まであらすじを辿りながら、この映画の「謎」と主人公が抱えてきた「秘密」を明かしてしまおうと思う。これから観ようかという人の邪魔をしてすまないが、なぜにこの映画は観る必要がないか、あるいはこのように批判的に観るべきだという今回の目的には必要だからしかたがない。

この『白いカラス』という映画が公開された2003年以後、トランプが大統領になり、「BLM( Black Lives Matter)運動」が起き、ロシアがウクライナを侵略し、イスラエルがガザで虐殺を続けている。そこで問い直されているのは、アメリカン・リベラリズムの正体といえるだろう。

この映画は、そんなアメリカのリベラリズムの欺瞞と偽善を余すことなく露呈した、逆説的な傑作だった。

監督は『明日に向かって撃て』の脚本家にして、『クレーマー、クレーマー』でアカデミー賞の監督賞を受けたロバート・ベントン、原作はアメリカ文学を代表するフィリップ・ロスという大物。

俳優陣も、アンソニー・ホプキンス(Coleman Silk)、ニコール・キッドマン(Faunia Farley)、エド・ハリス(Lester Farley)、ゲイリー・シニーズ(Nathan Zuckerman)という名優ぞろい。

映画好きなら素通りできない布陣だが、ハリウッドの良心的な俊秀が現代アメリカの苦悩を描き切る問題作に集結した、今年度アカデミー賞ノミネート作!という惹句が似合いそうな話題作だったろう。

Wikipediaのあらすじに、より詳細に書き加えてみた。

1998年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の名門大学で学部長を務めていたコールマン教授は、ある日の講義で、いつまでたっても出席しない二人の学生について、「スプーク(spooks)」と皮肉ったのが問題になった。「幽霊」という意味で使ったつもりが、俗語で「黒人」を表すため、人種差別発言だと教授会で問題になったのだ。

「幽霊のように姿を見ていないのに、黒人であるかどうかなどわかるものか!」と激怒したコールマン教授は、偽善的な「政治的公正 PC(political correctness )」に我慢がならなかったのだが、辞職のショックで妻が急死してしまう。

35年もつとめた大学を追われ、妻にも先立たれ、仕事と家庭のすべてを失ったコールマンは、森の家に逼塞することになるが、そこで同じように隠遁生活を送る作家ザッカーマンと親しくなり、ようやく前向きな生活を取り戻す気になっていく。

そんなとき、34歳のフォーニアという女性が彼の前に現れる。フォーニアは郵便局の窓口係、農場で馬の世話、大学の掃除婦をかけ持ちして働いていたが、タバコを唇から離さない、どこか投げやりな印象だった。

フォーニアは裕福な家に育つも、母親が再婚した継父に性的な虐待を受けて14歳で家出した。以来、自立して生きてきたが、結婚した夫レスターの暴力に苦しみ、火事で子供を死なせる不幸に見舞われ、辛い過去を負ってきた。

そんなまだ若いフォーニアと老人のコールマンは出会ったその日に身体の関係を持つが、心に傷を持つ者同士、次第に惹かれあっていく。しかし、追いかけてきたフォーニアの元夫レスターが二人に暗雲を投げかける。レスターもまた、ベトナム戦争の帰還兵であり、戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えて、フォーニアに執着していた。

そして、コールマンには、亡き妻にさえ隠し通し、これまで誰にも言わなかった秘密があった。

高校時代、ボクサーとして鳴らしたコールマンは、志願兵として入隊し、除隊後に軍人への優遇措置として大学の奨学金を得て、学者の道を歩んでいく。フォーニアと同じく、早くから自立したコールマンは、亡き妻にも秘密にした過去があった。

両親は亡くなり、兄弟はいない、天涯孤独の身の上といってきたが、コールマンには、母や兄、妹がいたのだ。なぜ、コールマンは家族を捨て、出生を隠したのか。

見かけ上は、白人そのものながら、黒人だったからだ。アメリカの黒人は、ほぼすべて白人との混血なため、遺伝の表れ方として、白人のような黒人が生まれることがある。

金髪碧眼色白であろうと、黒人の血が混じっていれば、アメリカでは、黒人、colored(カラード)とされる。若きコールマンは母に紹介して恋人に去られた苦い経験から、白人として生きる道を選んだのだった。

(続く)