コタツ評論

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在日

2009-01-30 02:06:01 | ブックオフ本
『在日』(姜尚中 集英社文庫)

表4の要約は以下。

一九五〇年、朝鮮戦争が始まった年に私は生まれた。なぜ父母の国は分断されたのか。なぜ自分たちは「みすぼらしい」のか。「在日」と「祖国」、ふたつの問題を内奥に抱えながら青年期を迎えたわたしは、日本名「永野鉄男」を捨て「姜尚中」を名乗る決意をした。在日二世として生きてきた半生を振り返り、歴史が強いた過酷な人生を歩んだ在日一世への想いを綴った初の自伝。文庫化にあたり大幅に加筆。

古本屋の100円コーナーになければ、手に取ることもなく、読んでみる気にもならなかっただろう。図書館の十進法分類なら、[4.3 2類 歴史][4.4 3類 社会科学][4.10 9類 文学]に分類され、書店の棚なら、「伝記・人物研究・回想録」「政経・思想・労働・社会・民衆史」「文化・芸能・風俗・生活史」「写真帖・絵葉書ほか」のどこかに入れられるはずだ。

古本屋の100円コーナーや廉価本コーナーとは、こうした学問体系や教養分野の垣根をとっぱらい、判型や装丁の差異も無視した地平線のようなものだ。古書以下資源ゴミ以上の「安物」の地平に、渡辺淳一の『愛の流刑地』やロバート・ケスラー『FBI心理分析官』、芥川龍之介『河童』、中野翠『私の青空』、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』といった本々が並べられているわけだ。

もちろん、「安物」も分類できる。最初から「安物」としてつくられた本、たくさんつくられ過ぎて「安物」である本、いまでは誰も読まなくなって「安物」となった本、新刊の時から誰も読みそうにないので「安物」とされた本、汚れ破れたりしているので「安物」になった本、などに分類することができ、それぞれはさらに小分類もできる。たとえば、本書『在日』なら、最初から「安物」としてつくられた本、にまず分類されるべきだろう。

それは、うさんくさい成り上がり社長の憂国本のような大きな著者写真の表紙を見ただけでも、「安物」を誰にも感じとれるはずだ。「ノーベル賞」を受賞したのでもなく、「獄中十八年」を過ごしたのでもないのに、TV出演者として有名というだけの大学教授が五八歳という中途半端な年齢で自伝を書くというところも、「安物」の資格充分である。

また、学者の書いた本らしく、本文の記述に添って*印の注が付くのだが、これが寸足らずというか、お粗末というか。たとえば、

[*三島由紀夫の割腹自殺・・・一九七〇年十一月、作家の三島由紀夫が「楯の会」のメンバー四人とともに、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室を占拠。天皇中心の国体護持と決起を求めたが受け入れられず、益田総監の目前で割腹自殺した。]

[*ミーイズム・・・自分のことしか考えず、ほかのことには関心を払わない自己中心主義。アメリカで一九七〇年代に生まれた言葉。]

など。こんな注釈に、本文254頁中20頁も費やされるのは、あきらかに原稿を水増しした「安物」ではないか。

最初から「安物」としてつくられた本、の小分類としては、「安物の考えを安物読者に伝える本」「安物の風俗や流行を扱った本」「安物に居直った本」などがあるが、本書『在日』は、「安物に居直った本」に分類できる。100円コーナーの意外な拾いものであった。

図書館や新刊書店とは、何が読みたいのかわかっているときに出かける場所である。何が読みたいのかわからないのに、何かを読みたいと思ったとき、図書館や新刊書店に行くべきではない。結局は、すでに読んできた本と似たような本を持ち帰ることになる。最初から、その本が読みたかったのだと納得したりする。

図書館や新刊書店では、わけもわからず読みたくない本をけっして手に取らない。読みたくない本とは、たいてい、内容がわからないか、文章が読みにくいか、著者が嫌いか、という場合が多いものだ。だが、こうした苦手な本でも、机に積んだり、携行するようになれば、パラパラとめくり、読み出し、わかる気がする、読めなくはない、案外いいやつだ、と考えをあらためることは珍しいことではない。もっとも決定的な、その本が書いている分野や領域にまったく関心がない、という理由ですら、かねてからの関心領域と結びつくのに気づき、びっくり覆ることがある。

つまり、本を選び、あるいは本から選ばれたような気になったとしても、それにたいした根拠はないのである。少なくとも、自分を納得させるだけの理由すらない場合がほとんどなのだ。といっても、世間に偶然の出会いというものはない、たいていの場合。おおげさにいえば、高度消費社会の中で、本と自分はともに商品として結びつけられたと考える方がつじつまが合う。

古本屋とその100円コーナーはそのつじつまからこぼれ落ちている。古本は商品だが、100円コーナーを漁る俺は、駅の屑入れから週刊誌を拾うホームレスとほとんど変わりない。実際にそうして仕入れられた雑誌を買うこともある。図書館のように無料ではなく、新刊書店のように懐が痛まず、100円とはいえ購い所有してからはじまる、商品性をあらかた失った書物と出逢う旅なのである。飛行機や列車を予約したり、宿を探したりしない、ぶらりと横町を曲がるだけだから、身なりを気にせず、土産もいらず、もいっぺん曲がってすぐに帰ってきてもよい、よくいえば気楽、もしくは怠惰な旅である。

さて、姜尚中が連れていってくれた『在日』の旅は、どんなだったか。よかったか? よかった。おもしろかったか? おもしろかった。何か困ったことはあるか? 少し困った。出かけなければよかったか? いや、そんなことはない。

姜尚中は俺より5歳ほど年長にして、ほとんど時代経験が同じだ。大学や職場の先輩たちとほぼ重なる。したがって、同じようなことを考え、似たように感じ、近いところで逡巡してきたのがわかるのだ。それがフラットに感想を話すことを少し厄介にしている。つまり、姜尚中固有の経験でありながら、共有の時代経験でもあるところの線引きが簡単な場合と、そう簡単ではないときがあるのだ。実感としては線引きできるのだが、その説明は難しい。

本としては前記の通り「安物」であるし、その文章も姜尚中のTVコメントと同じく平板な公式論が挟まれ、思い出に残る在日一世のそれぞれは、みな「優しかった」「優しい人だった」と回想されるなど、瑕疵は少なくないのだが、そうした欠点を補って余りある「在日二世・姜尚中」の率直には打たれる。その率直を底浅いと読めるなら、それは俺たちの時代が底浅いものだったからだと弁護したい気になります。感想文を書くには困るけれど、結論としては、けっこうよい本だと思いました。

というわけで、この項続く。

(敬称略)





松本清張ドラマ・疑惑

2009-01-25 01:27:44 | ノンジャンル
松本清張生誕100年開局50周年サスペンス「疑惑~8億円保険金殺人!!容疑者は北陸一の美人女将! 死刑か、無罪か!?金沢~博多~東京・・・国選弁護人が挑む有罪率99%の壁!!」

http://dramato.blog98.fc2.com/blog-entry-8388.html

よかったですね、沢口靖子。人形のようなお嬢さん役からその後泣かず飛ばずという既定コースを経て、水商売の泥を呑んだ汚れ役に挑戦して、女優開眼というやつですね。見違えました。奇天烈で鳴るキンチョールCM史上、もっとも奇天烈な女を演じて以来(豊満な付けバストまでしてマリリン・モンローに扮しました)、苦労しているなあと他人事ながら痛々しかったけれど、ようやく代表作らしきTVドラマを得てコタツ評論家としても慶賀に堪えません。

完璧な美貌に近い沢口靖子の唯一の欠点である上歯茎の過剰露出が、不幸な過去から心が歪み下品さを隠せない球磨子の叫びや大笑いなどに、よく似合いました。制作陣がこれに気づいたのは、やはりキンチョールのCMで大口を開けた沢口靖子を見てからのことでしょう。したがって、美人女優がことさらに顔を歪ませることで演技力をアピールするのとはこの場合違うわけで、欠点を特徴とする沢口靖子の勇気によってある上品さが残りました。

松本清張「疑惑」はこれまで何度もTV化されてきました。そのいずれも、ときどきの女優の演技開眼が取りざたされ、愛に飢えた女の悲劇的な愛情の結末という球磨子像と、演じる女優が二重三重に重なるメタフィクショナルな仕掛けでした。つまり、一見濃くて実は儚い女です。今回の沢口靖子は違いました。それは沢口靖子だからというより、主演がアクやエグミをまったく感じさせない田村正和だからのことでしょうが、沢口靖子という失礼ながら艶気に乏しい大根女優が、大根女優を自覚してなおかつ「飛ばなかった」知的な演技プランによるものと讃えたいのです。また、田村正和は相変わらず、希薄な存在感があるという不思議なスター田村正和を演じて、沢口靖子をよく盛り立てていました。

少しどうかと思ったのが、沢口靖子扮する球磨子を殺人犯扱いする扇情的な記事を書く新聞記者役の室井滋。眼を剥くひそめた眉を上げる口をあんぐりさせるなど、百面相のオンパレードにいささか白けました。これでは沢口靖子や田村正和の抑えた演技というより、希薄な存在感にマッチしません。TVの演技ではなく、よくいったとしても舞台や映画の演技です。容貌演技力とももう少し格上の女優を起用すべきではなかったでしょうか。とはいえ、これといったほかの女優が思い浮かぶわけではないところが、コタツ評論家の悲しいところです。

女優が払底しているといえば、このドラマのCMに中尾彬・池波志乃夫妻が登場します。古今亭志ん生の孫娘という血筋を引いて、この人は得難い女優でした。それが中尾彬と結婚して引退し、父・馬生に似たおもしろい顔を整形顔に変えてしまいました。一人のきわめて有能で個性豊かな女優を引退させたというだけでも中尾彬に不快なのに、あの愛嬌と色気がたっぷりあった一重顔まで変えてしまった背景に、どうしても中尾彬の尊大顔がダブってしまいます。女を洗脳するだけが得意という男がいて、洗脳されるのが大好きという女が残念ながらいます。この夫婦がTVに出てくる度に、好感度のグラフが下方に伸びるのは俺だけでしょうか。

閑話休題。
沢口靖子と田村正和によって、松本清張「疑惑」のTV化として上述のような新味はありました。しかし、視聴者の多くは、脱げた靴とスパナのトリックはすでに知っていたでしょう。もちろんそれでも楽しめました。しかし、もうひとつ欲張るとすれば、結末を変えてほしかった。判決は有罪であるべきです。「有罪率99%の壁」とサブタイトル中にも入っているし、国選弁護人である田村正和弁護士は、収監中の沢口靖子に接見して、「私は無実よ!」という叫びに、「そうさなあ、1000件に1件無罪になるかどうか」といわせています。そう、明らかに、周防政行監督の傑作痴漢冤罪映画「それでもボクはやっていない」を踏まえているのです。

ならばいっそのこと、田村正和弁護士が滔々と沢口靖子の無罪を立証する熱弁を振るった後、裁判官や傍聴人、検事までもが驚愕のうちに納得した後の判決は、有罪かつ死刑であるべきでした。日を改めた判決の日、裁判官は、「弁護人の主張にも一理あるが、すべて推測に過ぎない」と斥け、裁判官の一方的な推測を根拠に、99%の壁内に止め置くのです。有罪前提の扇情的な人格攻撃の記事を捏造したメディアが、田村正和弁護士の立証活動によって哀れな無実の女という感傷的な記事を売り、今度は司法の冷静な判断が下ったと有罪判決に沸き立つ。「無実だが有罪である」という司法の怖ろしさを最後のどんでん返しとして、結局は敗れ去る田村正和と沢口靖子の鉄格子を隔てた道行き、というメロドラマの結末にもなります。

このほうがよかったと思いませんか?

(敬称略)





祝オバマ新大統領

2009-01-21 21:45:36 | ノンジャンル
オバマ大統領就任式を視聴していて気になったこと3つ。もっとも深夜に生中継を見ていたのではなく、翌日のニュースのダイジェストに拠るのだが。

その1。宣誓式の呼び出しは「バラクエイチオバマ」だったが、自らは「バラクフセインオバマ」と名乗ったこと。略さないのが当然なのだろうが、「フセイン」というイスラム名を持つ大統領を選んだアメリカ国民にやはり驚く。同じイスラム名でもカシアス・クレイという「奴隷名」を捨てて「モハメッド・アリ」になったのと、最初から「フセイン」とでは全然違うようだが、ともに、成り上がる「アメリカンドリーム」を否定したところは同じである。モハメッド・アリは黒人奴隷の子孫として自らの意志に基づいて。バラク・フセイン・オバマは横滑りのエリート黒人として。

「フセイン大統領」のおかげで、中東系移民や黒人(アメリカではアフリカ系といわねばならないそうだが)、ヒスパニックなどの人種マイノリティもアメリカ風の名前に変えるのをやめる人が増えるだろう。WASP以外の白人であるイタリア系やドイツ系、ロシア系などもアメリカ的な名前に変えてきた歴史があり、映画スターの本名に、「えっ、そんな変な名前なの!」と驚くことがある。しかし、疑問はまだ残る。バラク・オバマというのはケニア人本来の名前なのだろうか。

その2。宣誓のとき、オバマが珍しくつかえたこと。宣誓の後、オバマの次女が父親に向けてグッド!とばかり親指を立てたのは可愛かった。大統領就任式というこれ以上ないほどの重大な公式行事に家族を同伴するなんて、家庭と公が重なるアメリカの市民意識にに感心した。園遊会に夫人はともかく、子ども連れは見たことがないものな。

PS:今日23日の朝日新聞を読むと、宣誓をリードする最高裁判事が宣誓の語順を間違えたそうで、昨夜やり直したという。オバマは間違いに気づいたので、一瞬絶句したが、間違いのまま復唱したようだ。間違いを正して復唱したらどうだったろうかと考えてみて、行事を滞らせず、法の代理人に恥をかかせず、リンカーンの聖書に手を置いて、オバマはあえて間違いを呑んだわけだ。「やったね!パパ!」という次女の親指を立てた「グッド」のサインは、宣誓をつかえた父親への励ましだったろうと思えた。それに対して、「心配したかい。でもパパは大丈夫だよ。ありがとう」と笑顔を返すオバマ。まるで誰かがシナリオを書いたような、誰もが微笑む場面だが、実は最高裁判事の間違いだったとわかってみると、次女は子どもながら直感的にすべてを理解した上で、パパのタフぶりを賞賛したのではないかとさえ思えてくる。「タフでなければ生きていけない 云々」という有名な言葉を思い出した。

その3。この間、TVニュースはオバマ大統領就任一色なのだが、俺が視聴した限りでは例の小浜市が出てこない。黒糖をふんだんに使った「オバマまんじゅう」でも売り出すのかと期待していたのに、誰か自主規制をうながすような野暮をいったのかしらん。「名前がおんなじ」と「日米同盟」に片思いという点ではさしたる違いもないわけだから、さすがに恥ずかしくなったか。もちろん、「日米同盟」派がだが。

(敬称略)

http://9101.teacup.com/chijin/bbs

ブルワース

2009-01-21 03:11:37 | レンタルDVD映画
CATVで2回目の鑑賞。ウォーレン・ベイティ製作・監督・脚本・主演。

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=483

破産して自暴自棄になった上院議員ブルワース(ウォーレン・ベイティ)は、自らに多額の生命保険を掛け、殺し屋に暗殺を依頼するが、週末までの命と焦って選挙運動で本音爆発というコメディ。黒人教会で黒人の自堕落な暮らしぶりをなじり、映画TV業界のパーティでユダヤ人の強欲を批判し、出陣式で大スポンサーの医療保険会社がアメリカの医療制度を潰して大儲けしていると暴露し、TVのニュースショーに出演すれば金持ちのためのメディアと笑いのめして、選挙戦は上を下への大騒ぎ。全米人気沸騰のブルワースは大統領候補にまで取りざたされる。そこに可愛いニーナ(ハル・ベリー)や謎の「殺し屋」がからみ、やけくそブルワースのアメリカ政治批判は覚えたてのラップに乗っていっそう加速していく。見どころはウォーレン・ベイティのラップなのだが、安倍晋三が河内温度を歌うようなものか。もちろん、まるで無様なのだが、だからこそ政治批判の真情が伝わるという仕掛けだ。

感心した点は、2つ。マイケル・ムーアが『シッコ SiCKO』によって、アメリカの医療制度の荒廃した現状を告発したドキュメンタリを公開した2007年に先立つ、1998年にこの映画が公開されていること。「ハンサムで血筋のよい女房がいる」というだけで凡庸な上院議員に過ぎなかったブルワースが、死の恐怖から気が狂って繰り出すラップによるアメリカ批判の主たる標的は巨大な保険会社である。ハル・ベリーと知り合ったおかげで黒人街をうろつき、麻薬の元締めのギャングL・D(ドン・チードル)からおなじみの人種差別批判をまくし立てられたときに、ブルワースは「問題は人種ではなく階級だ」と反論する。TVのニュースショーに出演したときは、「民主党も共和党も金の出所は同じ」といずれも金持ちのための政党だと指摘し、ラップに乗せて、「みんな怖れずにいおう~、ソーシャリズム(社会主義)を!」と歌う。さすが、ロシア革命を描いた『レッズ』(1981)を製作・監督・脚本・主演したウォーレン・ベイティの筋金入りの反体制派ぶりはマイケル・ムーアを上回る。

もうひとつは、ウォーレン・ベイティの激越なアメリカ批判は、インテリなら常識的なものだから、こうした映画が作れたのだろうと推測できる点だ。ブルワースがアメリカ批判をするとき、医療制度の欠陥、人種差別と貧困、メディアの偏向、政治の私物化など、すべて構造を示した上で具体的な指摘である。インテリだけかもしれないが、そこには共有認識があるということだ。俺たちの日本ではどうだろうか。『ブルワース』から『シッコ SiCKO』まで、少なくとも10年間の命脈を保つ問題意識が国民に共有されているだろうか。主義や信念は異なれど、知識階層に日本の問題がたちどころに10個挙げられるだろうか。俺は挙げられないと思う。それ以前に、自他共にインテリ・知識階層として、国民の問題に責任ある立場を引き受けようとする人々がいないと思う。庶民という呼称は嫌いではないが、メディアや政治の場で使われるとき、無責任なごまかし以外の何ものでもない。政治家や高級官僚、何10億ものギャラを得るTV司会者まで、自らを庶民と名乗って恥じない。わずかに天皇と皇族だけがそうはいわない。良心と責任感はどちらにあるだろうか。

アメリカには自他共に社会的影響力を自覚するインテリ層がいる。そのインテリ層では問題意識は具体的に共有されている。その2点に感心し、その2点が日本にはないと得心した。

ウォーレン・ベイティは偏屈で有名らしい。たしかにこんな映画をつくっては、ハリウッドを牛耳るユダヤ人やその上位の人々から覚えめでたいわけがない。たとえば、リチャード・ギアやマイケル・ダグラス、あるいはロバート・デ・ニーロがこれまで演ってきたような役柄は、俳優としての実績からみればウォーレン・ベイティにキャスティングされてもおかしくはなかった。本人は出たくもなかっただろうが。アカデミー賞の授賞式やショービズ関連のパーティなどでも名前が出たことがないと記憶する。こうした自らの信念を曲げぬ「変人」も日本で見ることは少ない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3

ただし、映画としては、2度も観るには値しない出来である。実は、『レッズ』もあまりよいとは思わなかった。その率直な主張と勇気には敬服したし、それをブルワースの自虐的なコメディにした成熟したセンスには脱帽するが、ブルワース以外の人物は類型にとどまり、絵づくりに余裕がなく平板な印象を拭えなかった。2度ともたまたまCATVで放映していたのを観てしまったという次第。しかし、これも縁である。

クレジットタイトルが長い。すべての俳優とスタッフの名前を列記したようだ。こういうプロデューサーや監督は好ましい。そのなかに、フランク・キャプラⅢ世という名前があった。ウォーレン・ベイティは教養として「アカ」かもしれないが、やはりフランク・キャプラがやりたかったアメリカ人なのだろう。

http://www.geocities.jp/yurikoariki/capra

(敬称略)






オリガ・モリソヴナの反語法 3

2009-01-15 18:00:07 | 新刊本
読了。小説を読む楽しさを満喫させてくれました。感謝。
この本を10冊ほど買い込んで、友人知人にプレゼントしたい気になっています。口添えはしない。「いいから、読んでみて」と差し出すだけ。この本を読んでおもしろくなければ、その人は小説という読書ジャンルと相性がよくないと考えるしかない。それほどの作品だと思う。『カラマーゾフの兄弟』新訳で話題の亀山郁夫などは、もっと舞い上がっていて、某雑誌のアンケートに答えて、『オリガ・モリソヴナの反語法』を2002年のベスト1小説に数え上げ、「女ドストエフスキーの誕生」とまで書いたそうです。

巻末の注や参考文献、池澤夏樹と米原万里の対談、亀山郁夫の解説まで読んでみて、これまでの感想を大きく訂正する必要はないと思いました。ただ、担当編集者にかなり抑えつけられたのでは、という想像はただの邪推だったようです。編集者とのやりとりが明らかにされているわけではなく、連載がすんなり単行本にまとめられたという経緯が対談で語られているだけですが、これほどの原稿を毎回渡されて喜ばない編集者いないはず。きっと最終回を読んだときは欣喜雀躍しただろうと思った次第です。

私も亀山郁夫の解説とほぼ同じ感想です。もちろん、不案内な私には、「女ドストエフスキーの誕生」や「最初で最後のラーゲリ小説」という指摘の当否については何も言えません。ただ、この小説を読めば誰もが感じるだろうミステリー小説としてのスケールの大きさ(国家的な陰謀が絡んでいたとかではなく、なぜその人はそうなのかという深度のことですが)。または、謎解きに増すメロドラマとしてのカタルシスについて。私も強く同意同感したわけです。とくに私もエレオノーラとボリス・ミハイロフスキー大佐の間の真実が明かされたときは、目眩がしました。

私なりにいえば、亀山郁夫がいうようにロシア語に翻訳して、「最初で最後のラーゲリ小説」としてロシアの読者に読ませたいという願いより、まず「ベルサイユのバラ」を成功させた宝塚で舞台化してほしいと思いました。誰よりも、日本の婦女子の紅涙を絞ってほしい。実現すれば、数十年に渡るロングランになるはずです。クラッシックバレエや民族ダンスなどの舞踊、プラハ・ソビエト学校の国際色豊かな子どもたちの歌々、とびっきりの美少女に「どハンサム」を鍛えるオリガ・モリソヴナの機知に富む叱声。実に宝塚向きではありませんか。

米原万里は、当初、この題材をノンフィクションとして構想したそうです。舞踊教師オリガ・モリソヴナもその反語法も実在しました。ソ連崩壊後に公開された史料の渉猟から、オリガの反語法の謎が浮かび上がってくる小説の筋立ては、そのまま米原の取材活動をなぞっています。自伝的小説であり、ベリアは実名で登場してその犯罪を暴かれるし、引用されたラーゲリの体験手記の筆者にインタビューもし、スターリニズム下で流転する登場人物の多くに実在のモデルがいるようです。

亀山がいうように、もしこの題材をノンフィクションにしたなら、スターリニズム圧制下に過酷な運命を強いられても、なお人間は人間であるという「反語法」を描くことはできなかったでしょう。「反語法(二枚舌@亀山郁夫)」とは逆説(パラドクス)のような純論理ではなく、何より発語であり行為だからです。人間は人間であるという順接を繋ぐ「反語法」の全体性の記述は、小説でしか成し得ない。亀山の解説をそう読みました。

したがって、日本には日本の「反語法」があるはずです。その担い手は、米原万里のように女性の中から出てくるのではないかと考え、唐突ですが、「宝塚過激に」といったのです。「オリガ・モリソヴナの反語法」とはたんなる言葉遊びなどではありません。ポジをネガに、ネガをポジに、現実を反転させて見せる先鋭的な表現であり、自らと周囲を変えていく力を持ちます。国家や権力を所与のものとは考えない女性こそ、「反語法」の遣い手にふさわしいと思えるのです。

オリガ・モリソヴナはすでにいっています。
「僕の考えではだって? 七面鳥だって考えるけれど、結局はスープの出汁になってしまうんだよ」

米原万里は何冊もエッセイ集を出していますが、小説はこの一冊しか書かなかったようです。しかし、この作品だけで後世までその名を記憶されるでしょう。私も、『オリガ・モリソヴナの反語法 』を読んだ幸福をけっして忘れないと思います。

(敬称略)