コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

夏休み子ども向け図書

2012-07-29 00:09:00 | ブックオフ本



『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』(水村 美笛 筑摩書房)

噂に違わぬ名著。ただし、「日本語の亡び」や「英語の世紀」を推し進めてきた大人より、子どもにぜひ読んでほしい。早熟なら中学生でも、高校生ならじゅうぶん読めるはず。お父さん、お姉さん、お祖父さん、お祖母さん、お母さん、お兄さん、叔母さん、叔父さん、そして学校や塾の先生、感受性豊かな子どもが身近にいたら、どうかこの本を贈ってください。例によって帯文。

「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか? 日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した!

そして、目次の章立て。

一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々 
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章 英語教育と国語教育


日本語を国語として読み書きすること。それがどれほど奇跡的なことなのか。しかし、奇跡の歴史はもはや過ぎ去り、遺産は蕩尽されてしまった後に、子どもたちの人生が続いていくこと。そこで、日本語は、日本と日本人は、どのように生きていくのか。「どのように」という問いを持ち続けることが否応なく強いられる、英語の世紀に入っていること。だから、この本をその子に、こう言って手渡してください。

「実は、私はまだ読んでいないんだ。私が読むには、いささか遅すぎるようだからね。もちろん、読むだけならできるが、それから考えて何かをはじめるほどの時間はないんだな。君にはこの本を繰り返し読む時間がある。考えることも、はじめることも、何度でもできる時間がある。だから、すぐには読まなくてもいい。でも、読んだなら、私にまっさきに感想を聴かせてくれないか」

殊勲は永井

2012-07-27 23:02:00 | ノンジャンル



FW永井謙佑が懸命に走っていく姿はまるで犬だったな。不恰好な走りだけれど、一直線に加速していく。スペインのGKやDFが、横丁から飛び出して猛然と向かってくる犬に怯えた子どものように、永井にあわてていたのが可笑しかった。1対2や1対1の場面が何度もあった。追加点はもちろん、3点くらい入っていてもおかしくなかった。オリンピックの日本代表は、相手が格上になるとよいゲームをするが、同格や格下になるとまずい展開をしがちだから、このまま快進撃とはいかないと思うが、ポインターやボルゾイを赤犬の雑種が追い回すのを見られたのは痛快だった。イギリスのサッカーファンも同じようなことをいっているな。

イギリス人Twitterから永井評を抜粋
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51368760.html

▽生まれたばかりの赤ちゃんみたいな顔をしてるのにプレーは悪魔そのもの、俺のハートはガッチリ持っていかれたぜ

▽狂った赤ん坊みたいにスペインのDFを破壊してたな、キラーベイビーだ

▽赤ちゃん顔の容赦ない破壊者、ナガイサンが来るまでエバートンの扉は開いている

▽ダッシュした時の足元の芝のめくれがスゲー、後ろからジャガイモを植えて回りたくなった

▽赤ちゃん顔の悪魔って言えばルーニーだかナガイのプレーは悪魔の親分、大魔王クラスだ

▽ナガイにとってのボールは犬のボールと同じ意味を持つんだよ

▽全力で走ると回転が凄くてマンガみたいに足がくるくる見えなかった、最初笑ってたけど気がついたら虜になった

▽赤ちゃんの顔をした殺し屋、新しいチャッキー、一発でやられた

(敬称略)

坂本龍一さん軽傷

2012-07-23 00:26:00 | 政治
「たかが電気」と坂本龍一さん警鐘を鳴らしたおかげで、坂本龍一さん軽少や坂本龍一さん軽症あつかいにしているわけだが、坂本龍一さん敬称は代々木公園を埋め尽くした7万人の坂本龍一さん景勝を見ているので、これからもその姿勢を坂本龍一さん継承していくだろう。

産経抄
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120721/trd12072103130001-n1.htm

たしか社外ライターが書く匿名コラムのはずだが、社名を冠しているのだから社論(といえるしろものではないが)に近いスタンスなのだろう。坂本龍一さんの名をあげて、これほど誹謗したのだから、筆者も名乗らなければ失礼だろう。

昨日の首相官邸周辺でのデモには鳩山由紀夫元首相も参加した。原発への恐怖心を利用して騒ぎを大きくしようと画策する左翼団体や金持ち文化人、それに選挙目当ての政治屋どもに踊らされていることに参加者はそろそろ気付かれた方がいい。

デモ参加者は、騙され踊らされている無知な人々。さっさと家に帰って、新聞やTVでも眺めていなさい。そういいたいのだろう。「世界一平和なデモ」(@天木直人)なので、ナメテイルのだろう。

たぶん筆者は、学生時代はヘルメットをかぶってデモ指揮のホイッスルくらい吹いていた、動員デモしか知らない世代なのだろう。実は、首相官邸前デモは、坂本龍一さんのような中高年を少なからず集めているのだが、「運動ですか? 学生運動以外に経験ありませんな、ガハハ」と時間と思考が止まっている彼(ら)には、市民参加は侮蔑の対象でしかないのだろう。

それなら、「されど電気」デモや集会を組織したらどうだろう。電力や電機関連メーカー労組を動員すれば、最初は数十人規模の少人数だった首相官邸前デモより、はるかに多い数千人くらいはすぐに集められるだろう。そのとき産経抄は、「東電や政治屋どもに踊らされていることに参加者はそろそろ気付かれた方がいい」と書くのだろうか。

いや、書く機会はないだろう。デモに参加した一般市民を「騙され踊らされている無知な人々」とし、デモに参加した元首相や議員を「政治屋ども」と罵る彼(ら)こそ、エジプトやシリアや中国で、デモに参加した人々に銃弾を浴びせる者たちの背景なのだ。デモを止めるために、銃弾の代わりに紙と言葉の礫(つぶて)を投げつけているわけだ。

デモの主張に反対するというより、デモする人々そのものに、その言葉と行動のすべてに、衆愚を見出して、嫌悪や怖れを抱いている。国民や市民のうちに自らを算入していない幽霊のような者たち。脚がない彼(ら)のデモはないだろう。



WBCとMLBとJPBPAとNPB

2012-07-20 23:11:00 | ノンジャンル

新井貴浩選手会会長

どのTV局のニュースでもトップニュース扱い。「プロ野球選手会の主張もわかるけれど、3連覇を期待していたファンの夢を壊さないでほしい」と締めていた。野球ファン以外にとっては、どうでもいいようなものだが、下を読んだ限りでは、WBC(ワールドベースボールクラッシック)の主張に妥当性があるように思う。

プロ野球選手会 WBC不参加表明
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120720/t10013729621000.html

WBC 日米双方が主張譲らず
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120720/k10013735871000.html

WBCには、世界にベースボールを普及させようという目的があり、プロ野球選手会にはそれがない。大リーガーが多数参加することにより、WBCが盛り上がり、スポンサーがつくのであって、日本の選手より貢献度ははるかに大きいという指摘も事実だろう。また、億万長者の大リーガーたちがケガした場合などに備える莫大な保険金の負担や、米日以外の参加国への資金援助などからも、収益の過半の配当を受ける必要があるという主張には肯けるものがある。

したがって、プロ野球選手会は金にばかりこだわらず、WBCに参加すべきだ、とは思わない。それ以前に、よくわからない点が多い。まず、WBCの矢面に立たされるのが、どうしてプロ野球選手会なのか。野球の世界的な普及という目的のために、WBCを開催して、参加選手に安全と安心を保障し、野球後進国に参加をうながすために資金援助をするというWBCの主張を吟味すべきなのは、日本プロ野球機構(NPB)ではないのかという疑問である。

WBCには運営会社があり、MLB(メジャーリーグ)の会長などが経営幹部が占めている。当然、日本側の交渉相手は、日本プロ野球機構を構成する球団幹部やオーナー企業のトップたちであるはずだ。プロ野球選手会に、WBCと直接交渉する権限や能力があるとは、とうてい思えない。プロ野球選手会がNPBに上げた主張がほとんど認められず、WBCの譲歩をほとんど引き出せなかったとすれば、その責任は上げて、WBCと交渉した日本プロ野球機構にあるはずだ。

かつて、選手の待遇改善を求めて、「ストライキも辞さず」と発言した古田敦也選手会会長に対して、読売巨人軍のドンである渡邉恒雄は、「たかが野球選手ずれが」と吐き捨てるようにいって、それこそプロ野球ファンが選手に托す「夢」をぶち壊しにしてくれたことがある。たしかに、最近発覚した、原巨人軍監督が選手時代に女性スキャンダルをネタに暴力団員に1億円を恐喝され、その仲介をしたのが現在はDeNA監督の中畑だったという週刊誌記事を読んだりすると、ナベツネの蔑視もわからなくはない。

その「たかが野球選手ずれ」に、WBCとNPBの合意を覆されたのか。あるいは、NPBがプロ野球選手会を抑えきれなかったのか。いずれにしろ、日本を代表する大手企業のトップたちが、アメリカのビジネスエリートたちに太刀打ちできず、「たかが野球選手ずれ」を矢面に立たせ、「ファンの夢を壊してはならない」ときれいごとを表にして、自分たちの失敗と力不足を隠しているように思えてならない。

最後に、プロ野球選手会とはどんな団体なのか。ウィキによれば、以下だそうだ。英称は、JPBPA(Japan Professional Baseball Players Association)http://jpbpa.net/

「選手の待遇改善や地位向上など要求に基づいて団結し、団体交渉を行う」労働組合日本プロ野球選手会と、「野球全体の発展を目的とする社会活動を行う」社団法人日本プロ野球選手会の2団体を兼ねている。労組が金のことをいうのは当たり前であり、日本の社団法人にWBCをアメリカと共催するような視野を持てというほうがおかしい。

ついでに、日本プロ野球機構は、英称NPB(Nippon Professional Baseball Organization)http://www.npb.or.jp/


実は実話です

2012-07-18 03:13:00 | ノンジャンル
 山手線I駅南口改札内側で、かれこれ30分、私は若い警察官に説明していた。そこへ、もう一人、中年の警察官がやってきた。
どうです
 と私は聴いた。
「どうも困りましたな。お二人の話が食い違うもので」

「食い違うも何も、それであっちは、何か私に求めているんですか?」
「あなたに謝罪してほしいといっています」
「ハッハ、謝罪とは。そういう問題じゃないでしょう。彼が暴力を振るったことが問題なんですよ。それはあっちも認めているんでしょ?」
「ぶつかっただけだといっています」
「それは嘘です」
「でも、やっぱり、上り階段を下りたのはよくないです。そのために階段を区切ってあるんですから」
「なるほど、それは一般論としては正しいです。だからといって他人に暴力を振るっていいわけじゃない。そうでしょう?」
「だから、そこが食い違っていて、カバンがぶつかっただけだとあの人はいっています」
「上り階段を下りたことから、上がってきた彼と口論になったというのなら、警察が介入する問題じゃないんですよ。彼がそこで重いアタッシュケースを私にぶつけた、4度も。それであなたたちを駅員が呼んだ。そういうことなんですよ」
「それを駅員たちも見ていたわけじゃなさそうだし」
「これではいつまでたっても埒があかないな。あなたたちが来る前に、彼にもいったんですがね。そんなに急いでいるなら、もう終わりにしてもいいよ、止めようかとね。止めますか? 私はそれでもいいんですが」
「いや、そういうわけには」
 と年配の警官はいった。
「じゃ、彼をここに連れてきてくださいよ。駅員が南口まで一緒に来てくださいというから私は来たのに、彼は現場から動かないといって来ない。どちらがいっているのが事実なのか、彼をここに連れて来ればいいんですよ」
「来ないんです。あなたのほうから来るべきだというんです」
「ほんと、しようもない。階段の途中でやりあっていたら、通行する人の邪魔になるから移動してくれと駅員がいっているのに、動かない。あっちはそういうガキなんです」

旦那さんは、あの人に何か求めているのでしょうか?」
「というと?」
「謝罪とか」
「別に何も、そんなこと私は一言もいっていませんよ」
 中年の警官は嬉しそうな表情になり、私の傍らの若い警官に、「ちょっと行ってくる」といって離れ、しばらくして戻ってきた。
「あなたと話したいといっています」
「しょうがないな。じゃ行きましょう」

 彼と揉めてから、かれこれ一時間が経とうとしていた。山手線ホームの階段下コンコースに、3人の警察官の中心に、見方によっては囲まれているように、彼は立っていた。すると、計5人の警官が出動しているわけだ。
「ラッシュアワーの忙しいときに、おまわりさんたちも迷惑な話ですね」
 と私ははじめて見る3人の若い警官たちを見回し、彼を見た。白髪の混じった頭の大柄な男である。180cm前後はあるだろう。かっぷくもよい。押しの強そうな大造りの目鼻立ちで、グレーのスーツを着ていた。50代にも60代にも見える。中小企業の社長か、団体役員といったところか。そばに、あの重い黒のアタッシュケースを置いている。
 私が歩み寄ろうとすると、彼の近くの若い警官が進み出て、
あまり近寄らないで、2mくらいは離れて」
 と制した。

 彼はニヤニヤ顔を傍らの若い警察官に向けた。
で、どうなの
「何がですか?」
「上り階段を下りてきたこの人が正しいのか、間違っているのか。警察の判断はどうなの? もう飛行機には乗り遅れてしまったんだが、その旅費の件をどうしてくれるのか、払ってくれるのか、この人に聞いてよ」
「だから、それはお二人で話し合うべきことで」
「よい年をして、何が正しいか正しくないか、警官に決めてもらおうというわけか。問題はそれより、君が暴力を振るったことなんだよ。君はそのアタッシュケースを振り回して、私にぶつけたね」
「上り階段を下りてきた、あんたが悪いんだろうが」
「自分が正しいと思っているなら、警官の判断を仰ぐ必要はないだろう? 上り階段を下りてきたからといって、そんな重いアタッシュケースを振り回して、人にぶつけていいという法はないんだよ」
「あんたがルール違反をするから、そんな目に合うんだ。ちゃんとルールを守っていれば、こんなことにならなかったんだ。そうじゃないか」
 と傍らの警官に同意を求める。若い警官は正面を向いたままで、彼のほうを向かない。
「語るに落ちるな。ルール違反をしたから、アタッシュケースをぶつけた。そういっているわけだ。それで、君は私に何を求めているんだ」
「反省がない。ちゃんと反省するという気持ちがない
「だから、反省の問題じゃないだろ。階段を下りたのと、アタッシュケースを振り回すという暴力行為では比較にならないんだよ。君は私だけでなくほかの人にもぶつけていたんだよ。だから、私は君を呼び止めたんだ。危ないじゃないかとね。狭い上り階段でそんなもの振り回したら、避けようがない。君は自分がどれほど危険なまねをしたのか、わかっているのか。ひとつ間違えば、怪我人が、ひどい怪我人が出たかもしれないんだ。だから、警官が来ているんだよ。わかっているのか?」
「じゃ、訴えればいいだろう。俺はいつでも受けて立つ」
「でも、旦那さんも、こちらの人の胸倉をつかんだと」
「この人がそう言ってるの? ぜんぜん違うだろ。嘘つきだな。この人が怒鳴りまくった拍子によろけて階段を踏み外しそうになったから、腕をつかんで引き戻したんじゃないか。よくいうよ」
「いいや、あんたは胸倉をつかんできた
「胸倉をつかんだのなら、りっぱな暴力じゃないか。それなら、君が私を訴えることができる。おもしろい、やってもらおうじゃないか」
「じゃ、やっぱり、警察署まで来ていただいて、そこで話していただくほかありませんな」
 年配の警官がうんざりした声でいった。
「私はいいよ、じゃ行こうか」
 しかし、彼は動こうとはしない。

「いいかい、最初から説明しようか。私は下りてきた。そのとおりだよ。君は上がってきた、アタッシュケースを振り回しながら。下り階段はいっぱいの人だったから、あふれて上り階段を下りる人は、けっこういた。上がってくる人は少ない。夕方のこの時間帯は、下車する人が圧倒的に多いからね。でも、もちろんみんな遠慮して、一列で下りていた。君が上る余裕はじゅうぶんにあった。下りてくる人たちを君が押しのけなければ上れないということはなかった。ここまではいいね

「君は下りてくる人たちに、その重くて硬いアタッシュケースを振り回し、ぶつけながら上ってきた。そして、すれ違いざまに、私にひどくぶつけた。だから、私は振り返り、君を呼び止めて、何をするんだ、危ないじゃないか!といった。そうだったね」
(いやいやいや)とばかりに彼は首を振った。
「あんたは俺の胸倉をつかんだんだ。それで俺が振り向いたときに、カバンが当たったんだよ」
「ちょっと待て、めちゃくちゃいうな。カバンが当たったのは、それが2回目だよ。すれ違って君が上、私が下という位置だろうが、どうして君の胸倉を私がつかめる。私の手はそんなに長くはないぞ」
「あんたが胸倉をつかんだから振り向いたんだ。カバンはそのときに当たった。あんたが胸倉をつかんだのが先だ」
「いいかい、私は君より階段の一段か二段下にいた。上にいる君の胸倉をつかんで振り向かせるには、後ろから前に腕を回すことになる。そんなことができるか? それに、もういちど、念のために訊くが、カバンはそのときはじめて当たったんだな」
「そうだ。俺はカバンをぶつけたりなんかしていない。たまたまちょっと当たるくらいはあったかもしれないが」
「いったい、どっちなんだ。私に先にカバンをぶつけたのか、たまたま当たったのか? 私が君の胸倉をつかんだから、振り向いたときにカバンが当たった。そういうことなのか?」
「そうだ」
「なるほどね。君が言うとおりだとすると、君は私に何もぶつけず、触れてもいない、何も言っていないのに、私は君を呼び止めたわけか? 何をするんだと。私はキチガイか?
 彼は黙っていた。

「二人とも、たがいに謝ればいいと思う」
 年配の警官がつぶやくようにいった。
 私は警官と彼を見た。彼はぼんやりしていた。
「私がここで謝ればいいのか?」
 彼はうなずいた。
「旦那さんも、こちらに謝罪を求めますか?」
 警官はとりなすようにいった。
 彼が口を開きそうになった。
「いや、謝罪は求めません。この人は自分が正しいと思っているんだから、謝らないでしょう」
 年配の警官は顔をしかめた。
「でも、この人が求めるなら、謝りましょう。上り解段を下りたのは間違っていた。謝ります」
 彼はホッとした顔でニコリとした。手を差し出せば、握手になりそうだった。警官たちも身体が緩んだようだった。
「君に謝罪は求めない。でも」
「君は私にありがとうというべきだよ。だから、感謝は求めたいな」
 誰の顔も見なかった。私は少し高く遠くを見た。8時はとうに過ぎているだろう。

「いまから、君が私に感謝すべき理由をいうが、3つある」
「まずひとつめは、私が呼び止めていなければ、そのまま君はアタッシュケースを振り回しながら上がっていったはずだ。下りて来る人はまだいたから、誰かよけきれず、倒れたり、転げ落ちて怪我したかもしれない。その可能性はそう小さくない。私はそれを防いだ。起きなかったことに、感謝する人はいないかもしれないが、もしそんな事故や事件が起きていたら、君の立場は大変なことになったはずだ」

「ふたつめは、私が君を制止したおかげで、こんなふうに警官がくる騒動になった。君は苦い思いだろう。私がいなければ、君はどこでもいつでも同じことを繰り返し、いずれただでは済まない危険を招き事故を起こしていたかもしれない。今後、君は多少腹が立っても、今回のことを思い出して、二度と同じことはしないだろう。君の将来を救ったのは、この私だ

「みっつめは、君は明らかに、私に暴力をふるった。4回、わざとアタッシュケースをぶつけたし、それは君自身が証言しているのにひとしい。そのほかにも、私の足の甲に、その重いアタッシュケースを置いたね。ちょっと痛かったよ。それには何が入っている? 鉄の塊のようだな。当然、私は君を警察に訴えることができる。これはケンカじゃないからね」

「もちろん、だからといって、君が逮捕されたり、起訴されるまではいかないだろう。でも、これから、警察に行って調書をつくらせることはできる。そうすれば、記録に残る。それはできるが、私はしない。忙しいおまわりさんたちを、これ以上煩わせるのは本意ではないからね。この3点について、君は私に感謝すべきだよ。ありがとうといっても、罰は当たらない」
 
 またも、彼が口を開く前に続けた。
「もっとも、この3つとも、結果的に私は君を救ったに過ぎない。君を救うためにしたわけじゃない。ありがとうといえといわれても、そんな気にはならないかもしれない。いいたくなければ、いわなくてもいい」
 みんな片づかない顔をしている。これで止めようかとすこし考えたが、口を開いた。

「そうそう、もうひとつ、結果的にじゃないのもあったな。君が私を怒鳴りあげて、興奮してよろけたよね。危うく階段を踏み外しそうになった。君の腕をつかんで引き戻したのは、とっさのことだったが、君が階段を落ちやしないかと心配する気持ちからだった。それは、君にも認めてもらいたいな」

 帰宅の車中で思い返しながら、そういえばよかったのに、と私は悔やんだ