コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

Vフォー・ヴェンデッタ

2006-09-20 21:22:15 | レンタルDVD映画
これはいいです。

ナタリー・ポートマンのために、Vがフライパン一つで目玉焼きの乗ったバタートーストを焼くところ。真似してみた。旨かった。が、カロリーは高いな、これ。

Vと同じ仮面をかぶった民衆が蜂起して国会議事堂に向かう。そして、一斉に仮面を脱ぐ場面にゾンビ映画がかぶさった。着ぐるみのようにゾンビを脱ぐと平凡な市民が現れるという具合に想像してみた。

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

2006-09-20 04:10:15 | レンタルDVD映画
トミー・リー・ジョーンズ監督主演。ある程度恣意な仕事ができる位置につくと、自ら製作や監督に乗り出すハリウッド俳優は少なくない。たいてい、非ハリウッド的なテーマと表現になるが、独り善がりな「芸術映画」をつくってしまう例は意外に少ない。と俺が観た限りではそう思う。


結果的にわけがわからない作品になってしまったとしても、それは「芸術」をめざしたせいではなく、未熟ゆえに失敗作になっただけだと思える。なぜなら、ほとんどの場合、ハリウッド俳優たちは今日的で根元的なテーマを選ぶからだ。この作品もメキシコからのアメリカへの不法越境者を扱う。メキシコ国境近くの老カウボーイと不法越境者を殺した国境警備隊員の二人旅は、アメリカからメキシコへ逆に越境していく。巨大なショッピングセンターでの消費にしか暮らしの実感を感じられない不毛なアメリカを出て、荒涼たる砂漠のメキシコに旅が入ってから、乏しきを分かつ人々の暮らし、その心のふれあいが、メキシコの砂や岩、樹木や草花と同じような自然物のように描かれていく。その乾いた風の中では、国境が無意味なだけでなく、共生という言葉も漂白されたリネンに過ぎないかのようだ。狂気を含む老年の夢想と滲むような男女の情感。友情も家族も幻影であったことに落胆する様子もなく、手垢で黒ずみ皺の深い履き古した靴のような男は、友を埋葬してどこかへ去っていく。ガキ向けではないという程度の「大人の映画」すら、日本映画に見つけるのはなかなか難しい。こんな成熟した映画がつくられるようになるには、あと何十年かかるだろうか。

銭金について(朝日文庫 車谷長吉)

2006-09-20 03:39:03 | ブックオフ本
「最後の私小説家」の凄まじいエッセイ集と惹句をつけたいところ。友人知人を実名を上げて言上げしている。これだけでもかなり世間を狭くするはずだが、その友人知人の多くが編集者なのだ。たとえていえば、町工場の父ちゃんが元請けの大会社の担当の言動を会社の前であげつらう蛮勇に近い。何も知らない読者は覗き見趣味を満喫できるが、書かれた本人は血相を変えるだろうし、元請けの大会社はひそかに取引停止を決めかねない。小説はしょせんつくり話。私小説も例外ではないとはいえ、これは事実に基づく(とされる)エッセイだ。そんな困惑に読者を引っ張り込むところが作者の虚実皮膜の手の内ということか。私小説を「ししょうせつ」と読むのは蔑称で、「わたくししょうせつ」と読むのが正しいらしい。知らなかった。

可楽驚嘆

2006-09-13 20:07:41 | ノンジャンル
三笑亭可楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝の「寝床」を聴き比べる。そんなちょっと贅沢な休日の午後を過ごした。「寝床」は、旦那のひどい浄瑠璃を店子や使用人たちが無理矢理聴かされるという噺。

1.可楽 2.志ん朝 3.圓生の順だ。

可楽ダントツカンペキ。志ん朝は主人公の旦那を演じるには、若すぎて声が張りすぎ。圓生の方がきちんと旦那と他の店の使用人や店子たちを描き分けている。ただ、可楽に比べると、構成がアンバランス、何度か明らかにくすぐりが滑って客の呼吸を捕まえ損ねている。なるほど、可楽、圓生、たぶん文楽たちに比べれば、志ん朝は大学の落研レベルかもしれない。しかし、ここは志ん朝に座布団一枚。旦那の浄瑠璃に堪らず蔵に逃げ込んだ番頭の吉兵衛、あきらめず見台を抱えたまま蔵を周りながら唸る旦那、やがて蔵の小さな窓を見つけそこから浄瑠璃を語り込み、蔵の中で最悪となった音響に吉兵衛は七転八倒、という安珍清姫もどきスラップスティック風たたみかけに大笑いした。


三笑亭可楽の「寝床」の完成度の高さはどうだ。旦那の浄瑠璃の会に店子を誘いに出向いた使用人の清三だが、皆から理由をつけてことごとく断られる。そのなんだかんだ、あすこが痛いのここが悪いの理由を旦那に細々報告するところが白眉。清三の他人事だからはじめは棒読みのような冷淡さが徐々に心配げになっていく調子、ふんふん聴いていた旦那がだんだん憮然となりやがて苛立ち声が高ぶり、「清三!おまえは丈夫ですかっ」「何の因果か、ここ二三年丈夫で、トホホ」と半泣きとなる対照の妙に至るまでに、同じ人物の声音を変えていく巧みさ。旦那の不機嫌さは凄みすら漂って怖いほどだ。

浄瑠璃聴くのが嫌なら店子は追い出し、使用人には暇を出すという旦那の我が儘と冷酷さ、面従腹背ながらご馳走で別腹をなだめる小狡い店子たち、互いの虚実に陰影を与えるからこそ、旦那たちの愚かしさや浅ましさが際立ち、その人間くさい地面で交じり合うときにふと浮かび上がる可笑しみを我が事のように笑える。そんなドライな笑いを描き出す可楽の「新しさ」。洒脱や粋というより、モダンがしっくりくる。

また、くすぐりの一つひとつがたまらない。「金物屋の女房ときたら、四季孕んでやがる、まるで泥棒猫だよ」(四季孕むというデフォルメに気づかさせないほどさりげないブツブツ)「火事場で物食うようで忙しくっていけねえ」(聴くに耐えない浄瑠璃がはじまる前にと、せっかくのご馳走をあわてて食べる情けない様子が目に浮かぶよう。これもあり得ない行動と気づかさせない)「魚河岸にマグロを並べたようにゴロゴロしやがって」(ご馳走にマグロの刺身が出る伏線がある)。「うちは物食って寝る宿屋じゃありません」(寝床にやや強引につなげている。円生や志ん朝は、ただ、「宿屋じゃありません」で済ませたが、可楽のように、ここは「物食って寝る」でなくては。可楽は簡潔至極だが、細心緻密な描写をしている)。落語通には、「おめえさんが可楽を知らなかっただけじゃねえか」と笑われるだろうが、脱帽、参りました。

紀子様男児出産

2006-09-07 23:27:02 | ノンジャンル
秋篠宮以来、41年ぶりの男児出産で男系皇統が維持されたとマスコミは大騒ぎである。
近所の主婦は、口をそろえて、「雅子さんが可哀相よねえ。キャリア捨てて嫌々結婚したのにい」と「渡鬼」風感想。うん、本質を突いている。ミッチーブームからこっち大衆天皇制に移行し、天皇家は戦後民主主義の聖家族になった、という見方が一般的だと思っていたが、マスコミはいつの間にか男系皇統と大祝賀報道するまでになっていた。憲法改正して元首にしたいならともかく、象徴に性別は関係ないはず。別に女性天皇を望むわけではないが、いったいフェミは何やってる? ところで、今日の読売新聞によれば、秋篠宮ご夫妻は、「性別や障害の有無は医師に尋ねない」と決めていたという。それを読んで、一瞬、障害児が生まれていたら、と考えた。障害を持った宮様の成長を国民が一喜一憂しながら見守っていく。そんな情景を想像してみた。