コタツ評論

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今夜は人間椅子

2020-01-19 12:42:00 | 音楽
最近、「人間椅子」が youtube で世界的に「発見」されて、ヨーロッパツアーが決まったそうだ。

「人間椅子」インタビュー
https://natalie.mu/music/pp/ningenisu

─アルコールが曲作りにプラスになったことはなかったんですか?

ないです(キッパリ)。それはキッパリ言いますけど、そもそも酒を飲んで曲は作れないですよ。自分の気持ちが楽になるだけで、創造には役に立たないです。

─酒とドラッグはロックではカッコいいものとなってるけど、そんないいもんじゃない、と。

そういうロックの固定観念がありますけど、俺のロックの捉え方が人と違うのかもしれないね。ロックってやっぱり精神の自由さっていうか、それを表すものだと思うんですよ。物事ってだいたい、だんだんアカデミックになってつまらなくなっていくんですけど、ロックはアカデミックにならずにやれるし、素人ががんばればやれる。そこが素晴らしいと思うんだけど、その自由さがセックスとかドラッグとか、そういうところに結びつきがちっていうか、結びついちゃうんだよね。みんな同じもんだと思って。

バンドでは食えないため、かたわら肉体労働で生活費を稼いでいた頃、「職場の人間関係もよくて、毎日が楽しく、酒が美味しくて、それで毎日飲んでいたら」、手が震えて演奏が思うようにできなくなったそうだ。

「アル中」になるのは、何やらストレスや鬱屈を抱えて逃避するためかと思っていたが、そうとばかりはいえないんだな。肉体労働の心地よさやその仲間たちと飲む酒の場の楽しさがわかり、また酒に溺れる人が多いのも知っていたのに、私が下戸のせいかろくに気づかなかった視点だった。

並みのインタビュアーなら、
「生活のために肉体労働をする分、音楽活動ができないストレスが、酒に溺れた要因のひとつだったのではないですか?」
と神妙さを装って尋ねるところだが、さすが吉田豪はそうはしない。

そう訊けば、「それはあるかもしれない」と和嶋慎治は不承不承答えるかもしれないが、それでは対手の思考の幅を拡げる「たられば」の問いにはならず、こちら側の「アル中=疾病」という予断への誘導を意図するものになる。インタビュアーに誘導尋問は禁物なのだ。

そうした「想定問答」にも和嶋は、後段の「生活と音楽」を語るなかで、「どちらか」ではなく「どちらも」であると、きちんと答えている。「問わず語り」とはたがいの知性に信頼関係があって成り立つもの。「対談」といえるほど優れたインタビューとなっているわけだ。

それとは真逆なのが、TVのニュース画面で連発される、「総理!~について、受け止めは?」の「受け止め」です。「バカの体言止め」と世に言われておりますが(ヘイヘイ、アタシもよく「体言止め」しますよ)、インタビュアーとインタビューイ(インタビューされる人)の卑小愚劣な関係性が眼を背けたくなるほど露呈しています。

さて、では、人間椅子をば。どうか検索してほかの曲も聴いてください。

NINGEN ISU / Heartless Scat(人間椅子 / 無情のスキャット)


(敬称略)






で、


ここにアライあれ

2020-01-15 02:51:00 | ノンジャンル
レバノンに「脱国」したゴーンさんが、その記者会見で自らが追い落とされた日産の「クーデター」の背景となった、仏ルノーとの提携関係の強化を説明するなかで、「アライアンス」という言葉を何度も口にした。

香港の民主化デモを台湾の人々が支持し、「独立派」が支持する蔡英文が圧勝した台湾の総統選に、香港の民主化活動家たちも参加した。

来たる衆院選に向けて、野党第一党である立憲民主党は、国民民主党だけでなく日本共産党をも視野に入れた、安倍打倒の野党共闘を組もうとしている。

競合関係にある企業同士が、利益を生み出すために協力し合う体制や経営スタイルを指して、ゴーンさんは「アライアンス」(alliance)といったのだが、本来は「同盟」「縁組み」と訳される古い古い言葉である。

その後、左翼運動の停滞のなかで「統一戦線」づくりに模索されたこともあったが、国民レベルで息を吹き返したのは「勝手連」あたりからではないか。

現在では、「連携」「提携」「助力」「助勢」など、何らかの先行活動に自らが働きかける際の自発的な関係性を表す言葉として使われている。つまり、「助太刀」を買って出る。売りつけたり買わされたりするものではないわけだ。

「アライアンス」を縮めて、「アライ」と呼称されることが多い。たとえば、「見かけない人だが、誰?」「あの人ね、札幌から来たアライさん」「ふーん、はるばる応援に来てくれたのか」と軽い気持ちが大切なのかもしれない。

「クマさん、どう、いっしょにやらない?」「オオカミさん、ぼくも前からいっしょにできないものかと思ってたんだ」



Friendship Between A Grey Wolf And A Brown Bear
https://whatzviral.com/photographer-documented-the-friendship-between-a-grey-wolf-and-a-brown-bear/
「止め」

今週の明言 Do not ~

2020-01-10 21:09:00 | ノンジャンル
ベト・タン・グエンはベトナム難民のアメリカ作家だそうです。

Writers from a minority, write as if you are the majority. Do not explain. Do not cater. Do not translate. Do not apologize. Assume everyone knows what you are talking about, as the majority does. Write with all the privileges of the majority, but with the humility of a minority.-viet thanh nguyen

(止め)

今週の明言…、

2020-01-02 10:44:00 | 政治
「これで有罪が前提で差別がはびこり、基本的人権が否定されている、不正な日本の司法制度の人質ではなくなる」

レバノンから日本の司法批判をしたゴーン声明について、記者たちから問われた弘中惇一郎弁護士は、

「思い当たる節は多々ある」

と認め、「たとえば…」と具体的に列挙した。

どちらも当事者にしかできない明言だが、後件については、なぜかほとんどの新聞・TVはとりあげていない。

もう一つ忘れてはならないメディアの迷言は、「無断出国」だ。今後は「不法入国」ではなく「無断入国」というべきだろう。もしかすると、「無断出獄」もありか。たしかに、「すみませんが」と断れば、たいていのことは通るところが日本社会にはある。

在日外国人が最初に覚える言葉は、「すみません」だそうだ。「邪魔だからどけよ」というより、「すみません。ちょっとそこ空けてくれませんか」のほうが摩擦が起こらないに決まっている。一見、英語の Excuse me に近い用法だから、在日外国人にも使い易いのだろう。

ただし、「すみませんが…」と一拍置く場合は、そう軽々しい頼みばかりではない。「すみません」と謝っているように、下手に出ているように思わせて、「が」という接続助詞に、「…」を加えて、これから話す内容を是認するか、行為に従うようにうながしているものだ。

「すみません。会社を辞めてください」とはいわない。「すみませんが…、会社を辞めていただけませんか?」と言うだろう。実際には、こんな直截な言い方もあり得ないが、問題はそこではない。「すみませんが…」には説明を省略して、服従を迫る態度を表すだけでなく、発語した者に正当性が付与されている言葉なのだ。

したがって、「すみませんが…」と対手が話しだしたら、「すみません。ちょっと待ってください」と腰を折り、「どういうお話なのか、最初からきちんとご説明を願います」と言わなければならない。黙って聞いていれば、同意したと受け取られかねない、かなり「ヤバイ」話なのだ。

いずれにしろ、「すみません」「すみませんが…」は謝罪の言葉というより、謝罪するのを避ける目的で使われているといえる。一方的に是認や服従を求め、しかも同意を前提としていると告知するための言葉といえる。そこでは、発語する「私」の責任主体はどこにもない。「私たち」や「我々」を背景にしているかといえば、それすらない場合も珍しくない。

「言葉の綾だよ」では済まないのは、この責任が霧散霧消しているからだ。

ゴーンの「無断出国」について、取り囲んだ記者から「弁護士としての責任を感じないか」という質問が出た。この場合の「責任」とは、弁護士としての職務範囲における「責務」ではなく、あきらかに「国民の皆様」へ謝罪したらどうかという誘導質問だった。

日本ではPC上の最上位に位置する「国民の皆様」へ、頭を下げなくては話が収まらないからだ。弘中弁護士は、「想定外の出来事なので、責任といわれても…」とそれまで明解に話してきたのに、さすがに口を濁した。

「国民」は明確に定義されている。「皆様」も可視できる人々と実感を持つことはできる。しかるに、「国民の皆様」が合わさったとき、たんなる丁寧な言葉遣いを越えて、「国民」や「皆様」を後景に退かす「呼びかけ」となる。

「ご迷惑・ご心配をおかけした」と「謝罪」し、「自らの任命責任」と「責任」を認め、「今後は真摯に対応していく」と「対策」を約束する。しかし、まず自らの進退は棚上げする、結局、何も対策しないか、改善するどころか、むしろ改悪してしまう。そんな安倍的な「責任の取り方」として、これまで7年間、通用してきたという現実がある。

通用させてきた「国民の皆様」という実体とは、そうした7年間に乏しくなった「国民」や「皆様」の内実に、反比例するかのように増大した、無責任意識の集合ではないか。国民生活が劣化・悪化すればするほど、内閣支持率は堅固に維持されるのは、「国民の皆様」がいわば疑似共同体のように、「国民」と「皆様」に共有されているからではないか。

疑似であれ共同体とすれば、その「地縁」とは「地政学」のようにもっともらしい「嫌韓」であり、その「血縁」とはいうまでもなく「桜を見る会」にみられる縁故主義であり、その「友情」とは劣情としての愛国心といえるだろう。

名付けるなら無責任共同体という語義矛盾を冒さざるを得ない。

「すみませんが…、責任は取れませんし、取るつもりもありません」「そうですか…、すみませんが…、私たちも同じなんです。意見が合いますね」

Ethel Ennis - My Foolish Heart


(止め)