コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

チョコレート 

2008-12-31 03:46:00 | レンタルDVD映画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

以前にDVDレンタルで観ていたが、CATVで放映されていたので見直した。人種偏見と男性優越主義を当然とするような刑務所看守ハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)と、ハンクがごく普通である南部ジョージア州でウエイトレスとして働きながら、息子を育てている黒人女性レティシア(ハル・ベリー)の恋愛映画だった。そう記憶していた。

観ているうちに、父子と母子の物語でもあったと思い出した。「いい父親ではなかった」と後悔するハンクは、ひ弱と思えた繊細な感受性を持つ「いい息子だった」ソニ-(ヒース・レジャーがちょい役だが、味わい深い)を死に追いやってしまう。レティシアも死刑囚の夫が残した息子を車にも乗れない貧しさゆえに、轢き逃げされて失う。

そんな深い哀しみを抱えた二人が、そのままなら出会うことがなかった男女が、自らの殻を破って結ばれる物語だったはずだ。

原題は「チョコレート」ではなく、「Monster's Ball」(怪物の舞踏会=死刑の執行前に看守たちが行う宴会)。そんな殺伐とした社会派映画の雰囲気もハンクたちがレティシアの夫を死刑執行する場面まで。

可憐なレティシア=ハル・ベリーが登場してからは、邦題の「チョコレート」にふさわしい、ちょっとビタースィートな映画になっていく。ただし、チョコレートとは、チョコレートアイスクリームのことである。

父親はウイスキーのボトルを手放さない大酒呑みなのに、ハンクはチョコレートアイスクリームが好物なのだ。幼児がよくするようにスプーンを縦にしてアイスクリームを舐め取るハンク。そこに艶やかなミルクチョコレート色の肌をした甘美な肢体のハル・ベリーが現れるわけだ。

コーヒーショップやコンビニでいつでも買えるチョコレートアイスクリームほどのリアリズムに裏づけられたロマンチックなお伽噺。それが最初に観たときの感想だった。

黒人の子どもが轢かれ、母親が助けを求めて絶叫していても、いきかう車は雨が降っているのを幸いに、見ない聴こえない振りをして通り過ぎていく。それがコーヒーショップやコンビニでいつでも買えるチョコレートアイスクリームほどのリアリズムであるならば、通りかかった父子代々刑務所看守を誇りとするような「レッドネック」が車を止め、母子を助けて病院に運ぶという発端がお伽噺なのである。

ハル・ベリーの魅力のおかげで社会派映画としては失敗し、甘くなっただけ恋愛映画として成功した。そういう映画だと思っていた。

だいたいだな、いかに差別され貧しいとはいえ、あんなに若くてきれいな女が、あんなに貧相で無骨で無教養でたいした金も持っていない中年男を本気で好きになるはずがないじゃないか。

いかに黒人とはいえ、若くてきれいな女なら、自らに階層を超える可能性があることをよく知っているはずだ。しかし、女は女神として降臨し男を癒し、男は守護天使として女の安寧を守る。お伽噺以外の何ものでもない。

ビリー・ボブ・ソーントンやハル・ベリー、ヒース・レジャー、そしてハンクの父役のピーター・ボイルなど、俳優陣はすばらしいリアリズム演技をしたが、はたして映画としてはどうか。少なくとも、社会派の衣を着た恋愛映画に不満や反発を覚える観客はいたのではないか。

前回は正直そんな中途半端な思いが残った。今回観直してみて、いったい、どこを何を観ていたのかと、我ながら呆れてしまった。

この映画の命題を一言でいえば、「罪と罰」である。人は罪を犯さなければ、けっして善にはたどりつけない、という「人間の条件」を示唆している。ハンクは息子を死に追いやるほど罪深い父親だったからこそ、自らの罪に気づくことができた。その罪を犯したがゆえに、悔いることで罰を知り、罪を犯す前ならけっしてしなかったであろう、黒人の母子を助けるという善行を施す。

逆にいえば、罪を犯し罰を受けなければ、けっして他人を助け思いやるという善行に向かうことはない。そこにこそ、この映画のリアリズムの底があり、比べればアメリカ南部における黒人への偏見や蔑視などは皮相に思えるほどだ。

子どもを失ったレティシアは、「私はいい母親だった」と繰り返して慚愧に泣くではないか。罰とは、大切な欠けがえのない人を失うことに外ならない。

失ってはじめて、人は犯した罪と受けた罰を知る。そうした罪と罰の連鎖は人の愚かさの証明ではあるが、それなくして人は人たり得ないのかもしれない。罪と罰を引き受けながら、しかしその後も人は生きていくし、生きていかねばならない。

その答えが、ポーチの階段に並んで座ったハンクとレティシアがチョコレートアイスクリームを舐めるシーンに象徴されている。ハンクはやはりスプーンを縦にしてアイスクリームを舐め取りながら、少年の頃のように星空を見上げる。

レティシアは、ハンクが夫の死刑執行をした看守だったことを直前に知りひどいショックを受けながらも、しかしそれを隠していたハンクを責めることなく、ただ呆然としている。

ハンクの父親が、黒人と女性であることに侮蔑的な言葉を吐いたときには、「あなたも同類なのね」とハンクに怒りをぶつけ、決然と別れようとしたくらいなのに、この場面ではハンクのスプーンを黙って唇に受けるのだ。このレティシアは謎である。

いたわりに満ちたセックスを終え、ハンクがチョコレートアイスクリームを買いに出かけ戻ってくる間に、ハンクが隠していた二人にとって重大な事実をレティシアは知り、はじめ激しく動揺しやがて深く泣く。

その間、レティシアが何を思い何を考えたかは明らかにされない謎であるが、ここに至って人種偏見や女性蔑視がすでに後景に引き、レティシアの内面が変化したことを観客にはっきりとわからせる仕組みである。

つまり、レティシアは戻ってきたハンクをまるで見知らぬ人のように見つめるのだ。

ハンクは、そんなレティシアの様子にはまるで気づかず、チョコレートアイスクリームの底をスプーンと眼で探りながら、呟くようにいう。「俺たち、うまくやっていけると思うよ」。

レティシアは答えず、ハンクを見つめている。たぶん、(罪と罰を背負っていても)(お互いを知らなくても)(秘密があっても)というレティシアの内心の声がこだましている。

わかり合えないかもしれないけれど、近しく親しい者を見い出した二人の誓いの言葉であり、それは誰も聴くことができない和声なのだ。そこに神はいない。人間を超えるものはいない。ただ、星空とハンクとレティシアとチョコレートアイスクリームが在る。

まったくお伽噺ではない。思っていたよりずっとよい映画だったじゃないか。

(敬称略)





阿佐ヶ谷のスナック「M」

2008-12-27 00:31:31 | ノンジャンル
たいていの忘年会にはパスしているのだが、昔世話になった先輩から、「たまには顔を出せ」と声をかけられた。それでも新宿の居酒屋に集まるという宴会には顔を出さず、2次会に借り切ったという阿佐ヶ谷の店に向かった。阿佐ヶ谷というのは、新宿から中央線に乗って高円寺の先荻窪の手前、学生時代から社会人になっても、俺たちは吉祥寺までのどこかの駅に降りて、居酒屋かバーを探しラーメンを食っては、「じゃ、またな」と別れていた。千葉の我孫子に住んでいようが、横浜の弘明寺にマンションを買おうが、茨城の取手に引っ越そうが、終電や終バスの時間やタクシー代の持ち合わせを気にしながら、ウーロンハイやゲソ天、ウォッカロックやピスタチオ、締めのラーメンと餃子を前に、18歳で出会って20代後半までの思い出話と仲間の消息、そのときどきの馬鹿話に興じて、俺たちは飽きなかった。そんな時期もあったが、いまは誰とも疎遠になってしまったなかで、先輩Kだけが時折電話をくれていた。(続く)



泣かすキング 2

2008-12-16 01:59:30 | ブックオフ本
『アトランティスのこころ-Hearts in Atlantis 上下』(S・キング 新潮文庫)

 上巻
1960年 黄色いコートの下衆男たち
 下巻
1966年 アトランティスのハーツ
1983年 盲のウィリー
1999年 なぜぼくらはヴェトナムにいるのか
1999年 天国のような夜が降ってくる

前回のボビーとテッドの物語は上巻だった。
下巻はボビーと直接間接に関わりのある少年少女たちのその後の物語である。1966年のメイン州立大学の学生たち、1983年と1999年のベトナム帰還兵、それぞれ語り手を違えて物語が進む連作短編に近い。ベトナム戦争とベトナム反戦運動の時代である。

60年代末の日本も、同様な学生反乱の時代として振り返られるが、日米の若者はまったく似て非なるものだったようだ。当たり前である。アメリカには当時徴兵制度があり、少なからぬ若者がベトナムのジャングルに赴いた。戦争に反対する者も、反戦運動に舌打ちする者も。従軍した者も、従軍しなかった者も、アメリカの若者は「ヴェトナム」にいて、「アメリカ」にはいなかった喪失感が胸をうつ。

前回、「アトランティスのこころ」の意味はすぐにわかると書いた。たしかに上巻でわかるのだが、下巻の「アトランティスのハーツ」を読むともうひとつの意味がある。複数形であることにも意味がある。「こころ」に還ってくるといえばいえるのだが、集合論でもあるようだ。

読みはじめると書く、読みつつ書く、読み終わったらすぐ書く、という読み書き同時進行スタイルをとっているので、ときにこれ以上の明らかな間違いを書いてしまうこともある。前と反対の感想を述べたり、書き換えたりすることもある。まとめない、まとまらないほうに重きをおいているといえば格好つけすぎで、すぐに揮発してしまうさまざまな思いや考えをなんとか捕まえておこうという試みなので、ご容赦のほどを。

書きたいことは山ほどある。上下巻合わせて1137頁。細密を極める一行一行を引用して、その意味や連関や効果について、不明や理解を確認したいことがある。小説の物語というより、それぞれの人物の物語だから、一人の人間に擬して語りたい気になるのだ。彼や彼女の感情や心理を構成する、おびただしい数の商品名やギャグ、歌、歌手、映画、TV、味、匂い、色、音。その誘惑には抗しがたいところがあるが、もちろんそれは無理な身の程知らずなことだ。

ただひとつだけ。もしキングにファンレターを書くとしたら、俺は以下のように書くだろう。

「拝啓 あなたの本をいつも愛読しています。今回も、とても心を打たれる物語でした。あらためてお礼を言わせてください。ただ、『天国のような夜が降ってくる』いう最終章は、不必要だったのではないかと思います。大団円にふさわしい、とても美しい言葉だし、とても美しい場面が書かれていますが、美しい模様の長大な蛇の尻尾に脚が2本描かれたような気が僕にはします。

あなたは、『なぜぼくらはヴェトナムにいるのか』において、あなたが愛し傷つけられたアメリカ文明と文化の膨大な物々を降らせました。ガラクタをさらにガラクタにして見せました。最初に降ってきたのが一台の携帯電話であり、それが女性の頭頂を直撃したのには、サリー以上に驚きました。そう、「カエル」なんて降らせるべきではない、そんな虚仮脅かしはうんざりだ、というあなたに僕は完全に同意します。

でも、サリーは最後に降ってきた野球グラブの油の匂いを胸一杯に吸い込み、左手にはめたではないですか。これ以上ない美しい場面だし、ちょっと恥ずかしい言い回しですが、それでじゅうぶんな救済も果たされていると思いました。どうしてこの上、「天国」を降らせる必要があるのか、僕にはわかりません。

もちろん、僕があなたの本をじゅうぶんに理解していないということは考えられます。最終章がないと正直寂しい気持ちもします。もしかすると、それが終わりの物語だから、僕は不満なのかもしれません。もっと物語が続いてほしい、とただ願っているだけなのかもしれません。『ミザリー』を書いたあなたですから、ファンのそんな勝手な気持ちを許して下さると信じています。この手紙があなたにとって不快なものではないことを願って。敬具」

キングにではないが、版元には苦言を呈したい。
カバーや折り返しまで、映画版のスチールを使う必要があっただろうか。映画との相乗効果を狙うにしても、帯に載せるくらいでじゅうぶんだったのではないか。アンソニー・ホプキンスは名優だが、小説中のテッドは、古いアメリカの怪奇俳優「ボリス・カーロフに似ている」とされている。「長身で貧相な尻の老人」であるから、短躯小太りのアンソニー・ホプキンスとは少しも似ていない。「ボリス・カーロフに似ている」とボビーが思う1960年代の時代性(TVが普及しはじめ、古い怪奇映画が放映されていた)までを考慮せよとまではいわない。小説と映画は別物でもある。映画や俳優をきっかけにしてでも、とりあえずこの文庫本を手にとってほしいという気持ちはわかる。ただし、読むのに邪魔になっては困る。テッドが出てくるたびに、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるのには困った。

もうひとつは、解説者の選定である。渡辺祥子さんは映画解説者である。もっとほかに人はいなかったものか。いたはずである。日本の作家だけでも、キングの影響を受けたと公言する作家は少なくない。あるいは、欧米の批評家にも喜んで書く人がたくさんいたはずだ。権威ある人にキングが褒めそやされるのが読みたいというのでは、この場合はない(ファンとしてそういう気持ちはもちろんあるが)。映画解説者の渡辺祥子さんが書いてもいいのだが、キング原作映画の解説ではあっても、この小説の解説ではないところが不満なのだ。渡辺祥子さんは分相応にと考えたのかもしれない。それで映画や文芸業界からの批難は免れるかもしれないが、そんな業界を意識した解説を読まされるキングファンはいい面の皮だろう。知らない人はノベライゼーションかと思うのではないかと危惧するくらい。とりあえず解説を読んでから、買うか買わないかを決める人も少なくないのだ。俺はむしろ解説を読まないままの方が多いが。その責は渡辺祥子さんより版元と編集が負うべきだ。担当編集者には Hearts in Atlantis がないといわざるを得ない。






泣かすキング

2008-12-13 00:37:01 | ブックオフ本
年季の入ったステキンファンなのに、どういうわけか積ん読にしていた『アトランティスのこころ-Hearts in Atlantis』(Stephen King 新潮文庫)を読み出す。超古代文明「アトランティス」から時空を超えた旅人が現代アメリカを密かに訪れ…というのではなく、時代は1960年、舞台はおなじみメイン州の小さな町。

※スティーブン・キングのファンはステキンと略すのが慣例

ボビー少年は11歳、父親を早くに亡くし、母親と二人暮らし、そこへ謎の老人が現れ……。父親の不在と代替、不安定な母親との葛藤、多感で繊細な読書好きの少年、数少ないが心許す友だち、キングが飽くことなく繰り返し書いてきた設定だ。

揺れ動く少年の心語り。その感情の起伏と心理の綾を細密を極めて追う。少年の喜怒哀楽のさざ波に西日が照り返し、次の瞬間には魚鱗のようにぬめ光り、蛇のごとくうねりながらどこかへ向かう心。夏休み、友だちと海へ遊びに行く約束をしたのに、母さんは1セントの金もくれない! そんな母親とのケンカを、愛の残酷と恐怖にまで深め、哀切をこめて書ける作家がほかにいるだろうか。

ボリス・カーロフに似た謎の老人テッドは、ボビーの最愛の「友人」になる。そのきっかけは、ボビーが感心して読んだシマックの『太陽の輪』について、「おもしろい物語だが、文章はたいしたものじゃない」といったことからだった。

「世の中には、筋立てはそれほどおもしろくなくとも、すばらしい文章で書かれている本がいくらでもある。筋立てを楽しむために本を読むのもわるくない。物語を楽しむことをしない読書家気取りの俗物になるんじゃないぞ。そして、ときには言葉づかいを…すなわち文体を楽しむためにも本を読みたまえ。そういう読み方をしない安全読書第一の連中になってもいけない。しかし、すばらしい物語と良質の文章の双方をかねそなえている本が見つかったなら、その本を大事にするといい」
「そういう本って、いっぱいあると思う?」
「ああ、読書家気取りの俗物や、安全読書第一の連中が思っている以上に、そういう本はたくさんある。そういう本を一冊、きみにあげるとしようか。遅ればせながらの誕生日プレゼントに」(49頁)

 テッドはボビーに、ゴールディングの『蝿の王』のペーパーバックをプレゼントする。しかし、ボビーはテッドを2度も裏切るのだ。哀しい理由によって。

テッドはほかに、『動物農場』(オーウェル)、『狩人の夜』(ディビス・グラップ)、『宝島』(スティブンソン)、「ハツカネズミと人間」(スタインベック)をボビーに残す。

ここまで上巻の236頁。ほとんど変わったことは起きない。ただ少年の日々が続く。下ろし金にかけられたボビーの心を描いていく。そして読者は、ボビーと一緒に胸が詰まり、嗚咽を懸命にこらえ、キャロルの唇に陽の匂いを感じ、サリーから背中をどやしつけられて笑ってしまう。もちろん、非日常の出来事やアクションシーンは起きる。

しかし、それらは重要ではないし、読み終えればさしたる印象は残さないだろう。俺たちが手に汗握るのは、少年の心がどのような曲折を経るのか、だ。「アトランティスのこころ」とは何かは、最後まで明示されないが、半ばまで読めば誰にもわかる。「すばらしい物語と良質の文章の双方をかねそなえている本」だということも。

(ステキン略は嘘です)



魔女の1ダース

2008-12-12 00:12:07 | ブックオフ本
亀山郁夫と佐藤優が米原万里の『オリガ・モリソヴナの反語法』を絶賛しているので、ヤの棚を探してみたら、『魔女の1ダース-正義と常識に冷や水を浴びせる13章』(新潮文庫)が見つかった。

日本共産党幹部を父に持ち、プラハに学び、ロシア語通訳として活躍した後、「エッセイスト」となりTVのニュースショーのコメンテーターをつとめ、最近亡くなったというのは知っていたが、この人の文章を読んだことはなかった。

華やかな笑顔の人だったが、コメンテーターとしては、佐藤優も指摘していたが「代々木的」なコメントが多く、いわゆる「女性エッセイスト」なんだろうと思っていたからだ。この本も通訳として豊富な海外経験を活かした軽い見聞記であり、とりたてて瞠目するような内容ではない。

と思ったのは早計で、あちらこちらに話が飛ぶが、脱線ではなく構築のためなので散漫にはならず、ぐいぐい読ませる。体力のある文章だなと感心した。息抜きをしてみせるが、息継ぎはしていない。思考の持続力が太く途切れないからだ。<第一章 文化の差異は価値を生む>の「バルナのイラン人」には大笑い。

文章で笑わせるには緻密な計算が要る。論理は計算に基づく。計算できる言葉を選び分ける論理が内になければならない。丸谷才一は『文章読本』で、外国語を真剣に学ばなければ、論理的な日本語を書くことはできない、といっているが、なるほどこういうことかと思った。

まだ、読みはじめたばかりなので、先が楽しみだ。やはりソ連の話が多いので、武田百合子の『犬が見たロシア』と読み比べてみようと、書棚を探している。やはり、『オリガ・モリソヴナの反語法』が読みたくなった。

本日(12月18日)読了。才能教養豊か。若くして亡くなったのは本当に惜しい知性。

(敬称略)