コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

文庫本福袋

2007-12-29 12:48:26 | 新刊本
坪内 祐三 文春文庫

週刊文春連載コラム「文庫本を狙え!」をまとめたもの。しかし、文芸を広汎に扱うコラムなのに、非文芸的なタイトルだ。連載が始まったときの坪内祐三(敬称略 不悪)への軽い扱いが知れる。

福袋を詰められるほど多種多様な文庫本が紹介されていて、書評を読んだだけで平気で読後感想を語る俺のような人間には、嬉しい本だ。

福袋に詰められた文庫本の多くは、「この本を読め」「この書き手は凄い」「知っていたか、こんな話」を書いた先人の本であり、それをさらに第一級の読み手である坪内祐三が紹介する事例が多い。

そこでの坪内祐三の「知識人」選別の物差しの一つに、俺も同意できる。「ゴシップ好き」の書き手を、人間性への飽くなき探求心の表れと高く評価している点だ。丸山真男が座談の名手といわれたのは、その学識だけでなく、さまざまなゴシップに興味を抱く深い懐があったからだろう。同時に、そうしたゴシップを著作のなかで書いてしまう、自らを含む軽躁な批評性が知識人の条件のようにさえ思えてしまうのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノッティングヒルの恋人

2007-12-23 00:15:10 | レンタルDVD映画
DVDレンタルが出たときに観ているのだが、CATVで放映したのも再見してしまった。実は、恋愛映画がきらいではない。

「名声なんて空しいものよ。愛する人の前に立ち、愛されたいと願っている、私はただの女なの」

世界的な人気女優・アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)がロンドン郊外の閑静な町ノッティングヒルの小さな書店の店先で、店主のウイリアム(ヒュー・グラント)に愛を告白するクライマックスの言葉だ。

このアナの言葉のなかで大事なのは、「前に立ち」である。この映画は「立ち」の映画といえる。

最初にウイリアムの書店に立ち寄ったときのアナは、黒革のジャケットに黒の大きなベレー帽にサングラスという、レトロ風の少し気取った恰好だ。トルコに関する旅行書を買い求め、カウンタの前に立ったときは、有名女優であることを隠すために、少し猫背で顔を俯けていた。

愛を告白する場面の彼女は、棒のように突っ立ている。

女優やモデルは、無防備にカメラの真正面には立たない。カメラアングルや照明に合わせて、美しく映えるよう顔の角度を変えるか、立体的に見せるために身体のほうを捻る。自らの顔や肢体が、どの角度からはどう見えるかを、職業的な訓練によって熟知しているからだ。ところが、アナは上官に報告する兵士のように、少し歩幅を広げてウィリアムの真正面に立つ。

この映画は、ジュリア・ロバーツの美しい立ち姿を愛でるのではなく、少し不格好な立ち姿を味わうためにある。同様に、役柄と重なる人気女優ジュリア・ロバーツの華麗なファッションを楽しむのではなく、その地味な装いに微笑む映画である。

はじめてのデート。ウィリアムの妹の誕生パーティに向かうとき、アナはフェミニンなシースルーのブラウス(たぶんシルク)にジーンズを合わせている。彼氏の親族に初めて会うとき、反発を買わないよう、無難だがちょっとしたお洒落を心がけたというファッションだ。

愛の告白をするときには、ブルーのニットアンサンブルに紺のスカート、ビーチサンダルに近いサンダル履きという普段着である。やはりここでも、無防備に立ったまま、アナは動かず、ただ正面からウイリアムをひたと見つめている。

そんな、ありのままの自分を見て欲しいというアナの願いを、観客には手にとるようにわかるのに、鈍感なウィリアムはなかなか気づかない。

アナのほうからキスをし、デートに誘い、ホテルの部屋にも来て、といっているのに、ウィリアムは自分の気持ちにばかりこだわって、素直で可愛いアナの真っ直ぐな気持ちを汲み取ろうとしない。小さい頃のあだ名は「弱虫」で、妻に駆け落ちされた冴えない書店主のウィリアムだが、アナにとっては「王子様」なのに。

一方、ウィリアムにとっては、アナこそが王子様である。

自分の趣味を生かした旅行書専門の小さな書店を営み、妹や気心の知れた友人たちと穏やかな暮らしに満足しているウィリアムは、姿は男であってもその生き方は少女である。小さくても自分のお店を持ちたい、女の子の変わらぬ夢である。少女向けの小説やマンガの定番は、ヘタレなウィリアムのような女の子が、絵のように美しいアナのような王子様から見初められ、押しまくられるストーリーである。

俺を知る人は気味悪がるだろうが、俺の内にもそんな少女趣味がある。男にも娶られたいという奇怪な欲望がある。恋愛を扱った小説や映画を好む男がいるのは、それだからだろう。

ホテルリッツのカフェ・レストランでお茶を飲む二人。それと知らず、近くの席では男たちがアナ・スコットの下卑た品定めをはじめる。「あれは、すぐやらせる女」だの、「表も裏も汚れた女」だの、「女優という言葉は地球上の50%の地域では娼婦という意味」などなどだ。堪えきれず立ち上がったウィリアムが、男たちのテーブルに行き注意するものの、尻すぼみになってしまう。去りかけた二人。思い直してツカツカと引き返し、ぴしゃりと言い返してやり込めたのは、アナだった。男女が逆転している。

このツカツカの場面でも、ジュリア・ロバーツは、1本の線上に脚を伸ばし、腰を捻るうなモデル歩きをしない。ハイヒールを履いていながら、2本の線上に両脚を平行させて移動するような、セクシーさに欠ける実際的な歩き方をする。

ちなみに、こういう下卑た話は、たいていの男ならした覚えがあるだろう。たいていの女に相手にされていないくせに、身の程知らずにも男はこうした女の品定めが大好きだ。もちろん、そんなことをしない、そんな場には最初から同席しない高潔な男も少なくないが、残念ながら多くの男たちは、この男たちと同様に下司である。

ただ、下司男にも慎みを知る者はいて、他人の耳目に入るホテルのカフェレストランなどでは、この手の話に興ずることはしない。するなら、他人の耳目を引かない誰かの部屋とか、ひと気のない夜の公園などだろう。ひと目もはばからず、スターや有名人の悪口に興ずるのは、これはおばさんたちではないだろうか。ここでも男女が逆転している。

もちろん、この映画は、かのオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの名作「ローマの休日」を下敷きにしている。かつて女性たちはこぞってオードリー・ヘップバーンに憧れたが、彼女らにとって成熟した大人の男であるグレゴリー・ペックは背景のように無関係だった。

「ノッティングヒルの恋人」では、アナはもちろん、ウィリアムにも女の子の夢が投影している。そのあたりが、「ローマの休日」との異同だろう。恋愛映画や恋愛小説とは、女性が女性に感情移入する物語である。ただ、「ノッティングヒルの恋人」では、男性であるウィリアムも「女性」なのである。男女が逆転しているのではなく、女しか出てこない映画なのかも知れない。

「ローマの休日」と同じく、大胆にも記者会見の場で愛が告げられる。

「ローマの休日」では、ローマに寄せて王女としては大胆だが、一人の女としては控えめな愛の告白に留めて悲恋に終わるが、「ノッティングヒルの恋人」では、アナは晴れ晴れと愛を受け入れ、ウィリアムがシンデレラになるハッピーエンドで幕が閉じられる。「ローマの休日」の王女は愛をあきらめたが、アナは自らの努力で、富と名声に加え愛を勝ち得た。現代女性にヒットしたのも当然であるが、その点でははるかに下司な「プリティ・ウーマン」もヒットしているから、やはり女はよくわからない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関口知宏の中国鉄道大紀行

2007-12-21 01:01:56 | ノンジャンル
たいていはBSで再放送を視聴している。

http://www.nhk.or.jp/tabi/

英語と中国語の日常会話ができて、絵心もあり音楽好きな関口宏と西田佐知子の息子の関口知宏の明るいキャラクターがいい。物見高く親切でよく笑う中国の人たちがいい。

列車に乗り合わせたおばあさんの言葉。「若い人たちは、周りの国に比べて、中国はまだまだ貧しいというが、私はいまのままで充分だよ」。農村で出会った山羊のような顎髭のおじいさんの言葉。「昔、この辺りには日本人がいて一緒に畑で働いていた。戦争が終わったらソ連兵が来て、夫婦や親子が引き離され、男はシベリアに送られた。見ていて辛かったよ」。

シルクロードはトルファンの農家では葡萄づくりが盛んだった。専用の小屋で葡萄を乾燥させて、干し葡萄として出荷するそうだ。関口が呼び入れられた農家の奥さんは、「うちの干し葡萄は農薬を使っていないんだ。美味しいよ」と勧める。傍らではにかむ美しい娘は、看護学校の入学試験に落ちて、来年再受験するそうだ。奥さんは、「うちは貧しいから無理なんだけど」とそれでも楽しそうに笑っていた。

台所にはカマドと一緒に電子レンジが鎮座していた。辺境のシルクロードの貧しい農家でも、奥さんは「無農薬」に胸を張り、専門職をめざす娘がいて、電子レンジがある。グローバリズムという言葉には辟易するが、たしかに私たちは同じ世界を生きている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーシャンズ13

2007-12-19 01:53:19 | レンタルDVD映画
スティーヴン・ソダーバーグ監督とジョージ・クルーニー一家は、こういう顔見世映画には向かないのではないか。

『オーシャンズ13』
http://wwws.warnerbros.co.jp/oceans13/

『次郎長三国志』のマキノ雅弘監督が撮ったら、もっと華やかでワクワクする「写真」になっただろうに。マキノ映画はいつもスター俳優を綺羅星のように揃えた話題作ではあったが、大作ではなかった。低予算の早撮りで正月興行に間に合わすプログラムピクチャーだった。マキノ雅弘なら、これだけの俳優のそれぞれに見せ場をつくって、1カ月でクランクアップさせてしまっただろう。

ひきかえ、「オーシャンズ」の面々はちっともおもしろくない。だいたい敵役のアル・パチーノが、ダスティン・ホフマンと見分けがつかない。それに悪人バンクといえども、あれだけ働き者だったら、遊んで暮らしているようなルーベン(おお、ご贔屓、エリオット・グールド!)や泥棒たちにしてやられるのが可哀相になってしまう。元祖「オーシャンと11人の仲間たち」のシナトラ一家に比べると、数段見劣りするのは、たとえばサミー・デイビス・ジュニアに対してドン・チードルの地味さでわかるだろう。ウィル・スミスとか、一時の人気は下降したがエディーマーフィーなど、いくらでも適役はいるだろうに。

同じ、新作レンタルの棚に並んでいる『ザ・スナイパー』の方がずっと楽しめた。

http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/cgi-bin/detail.cgi?goods_code=RDD-42586

といっても、映画としては森の中をうろうろするだけのTV並みの低予算映画だが、殺し屋モーガン・フリーマンの男らしくセクシーな魅力は圧倒的だった。これほど恰好よい殺し屋は、『コンドル』のマックス・フォン・シドー以来だ。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=8261

『オーシャンズ13』のイケ面々に対し、モーガン・フリーマンの顔といえば、半白髪に老人班が染み出て、ほとんどホームレス爺である。おまけに志村嵩並みのタラコ唇だ。だが、知的で強い眼光と合衆国大統領役まで可能にしている朗々たるテノールのおかげで、作品が映画スケールになっている。

黒人俳優版『オーシャンズ12』をつくるなら、やはりモーガン・フリーマンが首領役だろう。あとは、ウィル・スミスやエディーマーフィー、ローレンス・フィッシュバーン、フォレスト・ウィテカー、デンゼル・ワシントン ダニー・グローバー、クリス・ロック、サミュエル・L・ジャクソン、ウェズリー・スナイプス、スパイク・リー、キューバ・グッティング・Jr、クリス・タッカー、ジェイミー・フォックス、マリオ・バン・ピープルスなど、主演級だけでもすぐ数え上げられるし、脇役まで広げれば、12人×3チームはできるだろう。

とすると、敵役一味は白人がいい。米英仏で5チームは楽勝だ。ただし、二枚目のスター俳優を揃えると、黒人俳優版『オーシャンズ12』のアクの強さに負けてしまうので、チャズ・パルミンテリやジェームズ・ガンドルフィーニ、ヴィゴ・モーテンセン、エイドリアン・ブロディ、エドワード・ノートン、クリストファー・ウォーケン、 ゲイリー・オールドマン 、ジェイムズ・ウッズ、ジム・キャリー、ジュード・ロウ 、ジョン・マルコヴィッチ、 スティーブ・ブシェーミ、 ティム・ロス、ハリ・ディーン・スタントン、マイク・マイヤーズ、ロバート・カーライル 、イアン・マッケラン、ジャック・ニコルソン、ポール・ベタニー、リーアム・ニーソン、ロバート・ダウニーJr、ジェフリー・ラッシュ、ダニエル・クレイグ、トム・サイズモア、ダン・ヘダヤ、ジェームズ・クロムウェルなどの個性派に限りたい。ボスはやはりジャック・ニコルソンあたりか、ロビン・ウィリアムスも捨てがたい。

監督は、やはり野村克也だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セル

2007-12-10 00:35:23 | 新刊本
スティーブン・キングにしてはいまいち。
ただし、人間を人間であらしめている核心とは、「凶暴さ」であるというところに感心した。キングくらいになれば、取材の代行はもちろん、小説中に登場するさまざまな知見について、その裏づけはもちろん、最新の研究成果を整理して提供するリサーチャーを雇っているはず。当然、キングの私見ではないはずだが、キングの説得力にかかれば、性善説や性悪説を軽々越えてしまう。

「携帯人」は集合意識なのに、「ラゲディ・マン」一人(?)を殺すと、携帯人が壊滅してしまうのは納得できない。人民蜂起を直截に描いた「ゾンビ映画」に、携帯人の同時発狂が似て非なるのは、そこだろう。あるいは、「911」以降、アメリカンデモクラシーへの深い疑義が、キングにあるのかもしれない。それが失われてしまったという無念では、もちろんない。繰り返される「ノーフォ(携帯電話圏外)」である「カシュワク」というネイティブ・アメリカン由来の「希望の地」が、実はそうではなかったことに明らかだ。

キングらしくないという感想は、携帯電話とパルス、ラジカセと名曲に対する最低の編曲、テレパスと集合意識など、現代アメリカの文明と文化を大きな構図で捉えることに性急な割に、肉感的な恐怖を描くのに不熱心に思えるからだ。人が恐怖を感じるデティールを書くことより、もっと先に横たわる本質的な人間性(人類性)を書きたくなっている気がする。もちろん、これまでもキングはただの「怖がらせ屋」ではなかった。しかし、ここまで構図を前に押し出すことはなかったように思うのだ。

興味本位に訴える叙述を減らせば、小説はおもしろくなくなる。ハラハラドキドキの娯楽性を排しても、旺盛なサービス精神を身上とするキングにして、悩めるアメリカの全体像を示し、そこに人類の透視図を描いてみせたかった、そんな切迫した思いを感じる。いずれ、「911以降のアメリカ文化の変容」といった研究がなされるだろう。俺が読者である少数の作家たちも、「911」以降、明らかに作風が変わっている。

最近、アメリカ衰退論を散見するが、それはアメリカが変化しないことを前提として導き出した結論に思える。たしかに、近年のアメリカの外交政策は、変化を嫌い反動の傾向を強めているようにみえる。「セル(携帯人)」と「ノーマル(正常人)」の最終戦争を企図する「ラゲディ・マン」のように振る舞っている。だが、その一方で、「911」以降、キングのこの最新小説によっても伺い知れるように、アメリカとは何か、と本気で考え始めているような気がする。

つまり、「911」によって、カタストロフはすでに起きてしまった。「ダイハード」のジョン・マクレーン刑事もこの大惨事を防げなかった。運よく生き残った人々も、もはや以前と同じ人生を生き続けることはできない。キングのこの物語はそうした最終戦争後の世界と人間を、さらに未来から省みて、叙事詩風に書き残したかのようだ。

ただし、キングはけっして高尚ぶらない。再起動・インストール・バグ・システム保存とPCから比喩を用いながら、「携帯人」という新人類の超能力と愚昧さの共存を描き出して、痛烈な現代社会批判を加えている。そして、新人類の「携帯人」といえども、人間を人間としてあらしめている核心の「凶暴さ」を持ち、やがて共喰いをはじめて破綻することが示唆されている。

ではシステム保存とは何か。人間の核心である「凶暴さ」を抑え込む知性は、なぜ保存されるのか。かように、この小説にはいくつもの謎と鍵が伏せられ、対比の構図や登場人物、小道具には、いくつもの読み方ができる。そうした小説はきわめて稀だ。したがって、冒頭の感想を書き直さなければならない。

キングの恐怖小説としては、いまいち。キングの小説の中でも、傑作と。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする