クリント・イーストウッド監督の秀作と彼のファンや批評家はいうだろう。低予算ながら佳品であるといったという人や、もしかしたら、TVの二時間ドラマが頭をよぎった人もいるかもしれない。そのすべての感想に俺は頷く、その通りと太鼓判を押す、さらに加える。『陪審員 2番』について尋ねられたら、クリント・イーストウッド映画の傑作であると。
誰しも、陪審員映画の歴史的名作『12人の怒れる男』を想起するだろう。が、かの映画のように、12人の陪審員それぞれの人間ドラマにはしない。その背景をなぞるだけだ。議論を通じて民主主義が駆動する臨場感もない。イーストウッドは民主の人ではない。
彼が一貫して描くのは、西部劇のカウボーイだ。民主政が立ち上がる以前からそこにいて、立ち上がったときには消え去っている。家族や家庭を相手にしない。夫婦の愛情や家庭のぬくもりについて、むしろ、皮肉を越えて悪意すら感じるくらい、冷淡以上の冷酷と思えるほどの視線だ。
交流、交感、交情の場面が、法廷では敵対する検事と弁護士の間にだけ。ごくたまに短いものに限られ、意味のある会話はほとんどない。徹底的に情感を排している。近作『運び屋』でも、麻薬の運び屋となった老人イーストウッドが数少ない笑顔を見せるのは、受け取る側のマフイアのチンピラと二言三言を交感するときだけだった。
そんなイーストウッドが愛するのは仕事仲間と撮影現場だけだろう。だから、90歳を越えてなお、ハリウッド的にきわめて完成度の高い、驚くべき非ハリウッド的な作品を作り続ける情熱を保てる。
『12人の怒れる男』は法律を学ぶ学生なら必見の映画だろうが、『陪審員2番』はそういう役には立たない。何の役にも立たないかもしれない。ろくでもねえな、人間は、社会は、と98%くらいは思わせる。すべてに決着がついた後、女性検事長となったフェイス・キルブルー(素晴らしいトニ・コレット)が訪ねてきた玄関ドア前にひとり佇む姿と、その強靭な瞳に見据えられるまでは。
カウボーイが主人公の西部劇のヒーロー映画である。今回はヒロインだが。おわかりいただけるだろうか。イーストウッド映画はこれだけなのだ、それだけのシーンを撮りたいのだ。イキらない、静かな意志だけがある。意見や認識や、幻想や妄想や、肉体や暴力などではなく、形而上下左右の区別をつけない。ただ意志のみを。
『12人の怒れる男』のような劇的な展開はない。陪審員の評決不能がひっくりかえる、全員一致となる肝心の場面を描かない。合戦の模様を描かず、合戦の前後だけを映した黒澤映画『影武者』のように。
したがって、『12人の』へのオマージュではない。イーストウッドは『12人の』と同時代のハリウッド人士だから、参照と賞賛は区別する。ハリウッド黄金期を受け入れず、受け入れられなかったのだ。
昔のハリウッド映画のように、整然とした構成を保ちつつ、スムーズに映像は流れていくから違和感はまるでないが、人間ドラマを深めず、劇的な展開も避けるとは、じつに偏向を越えて偏屈にすら思える。そう、偏屈な映画といえるのだが、それはジジイがつくったからではなく、イーストウッドは最初から偏屈なのだ。
黒白をつけない灰色のグラデーション(濃淡)のラビリンス(迷路)に、屹立する西部劇のカウボーイひとり。強い陽ざしの下、帽子の庇に深い影となって、表情はわからず結ばれている口許だけが見える。腰のベルトに下がった銃の辺りに手をやっている。それは銃であって、誰からも正義とは呼ばれない。誰からも。
どうしてイーストウッド映画が俳優たちの尊敬を集めながら、長年ハリウッドで持て余されてきたか、ハリウッドやアメリカのリベラルたちがその処遇を扱いかねてきたか、その理由が想像できる映画でもある。
イーストウッド映画のなかでも、これほどハリウッドのコンテキスト(文脈)を無視し、芸術にも娯楽にも距離を置いて、なおかつ作家性(癖)の強い作品は他に見当たらない。
(止め)