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コタツ評論

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陪審員2番

2025-05-04 12:17:51 | レンタルDVD映画

クリント・イーストウッド監督の秀作と彼のファンや批評家はいうだろう。低予算ながら佳品であるといったという人や、もしかしたら、TVの二時間ドラマが頭をよぎった人もいるかもしれない。そのすべての感想に俺は頷く、その通りと太鼓判を押す、さらに加える。『陪審員 2番』について尋ねられたら、クリント・イーストウッド映画の傑作であると。

誰しも、陪審員映画の歴史的名作『12人の怒れる男』を想起するだろう。が、かの映画のように、12人の陪審員それぞれの人間ドラマにはしない。その背景をなぞるだけだ。議論を通じて民主主義が駆動する臨場感もない。イーストウッドは民主の人ではない。

彼が一貫して描くのは、西部劇のカウボーイだ。民主政が立ち上がる以前からそこにいて、立ち上がったときには消え去っている。家族や家庭を相手にしない。夫婦の愛情や家庭のぬくもりについて、むしろ、皮肉を越えて悪意すら感じるくらい、冷淡以上の冷酷と思えるほどの視線だ。

交流、交感、交情の場面が、法廷では敵対する検事と弁護士の間にだけ。ごくたまに短いものに限られ、意味のある会話はほとんどない。徹底的に情感を排している。近作『運び屋』でも、麻薬の運び屋となった老人イーストウッドが数少ない笑顔を見せるのは、受け取る側のマフイアのチンピラと二言三言を交感するときだけだった。

そんなイーストウッドが愛するのは仕事仲間と撮影現場だけだろう。だから、90歳を越えてなお、ハリウッド的にきわめて完成度の高い、驚くべき非ハリウッド的な作品を作り続ける情熱を保てる。

『12人の怒れる男』は法律を学ぶ学生なら必見の映画だろうが、『陪審員2番』はそういう役には立たない。何の役にも立たないかもしれない。ろくでもねえな、人間は、社会は、と98%くらいは思わせる。すべてに決着がついた後、女性検事長となったフェイス・キルブルー(素晴らしいトニ・コレット)が訪ねてきた玄関ドア前にひとり佇む姿と、その強靭な瞳に見据えられるまでは。 

カウボーイが主人公の西部劇のヒーロー映画である。今回はヒロインだが。おわかりいただけるだろうか。イーストウッド映画はこれだけなのだ、それだけのシーンを撮りたいのだ。イキらない、静かな意志だけがある。意見や認識や、幻想や妄想や、肉体や暴力などではなく、形而上下左右の区別をつけない。ただ意志のみを。       

『12人の怒れる男』のような劇的な展開はない。陪審員の評決不能がひっくりかえる、全員一致となる肝心の場面を描かない。合戦の模様を描かず、合戦の前後だけを映した黒澤映画『影武者』のように。

したがって、『12人の』へのオマージュではない。イーストウッドは『12人の』と同時代のハリウッド人士だから、参照と賞賛は区別する。ハリウッド黄金期を受け入れず、受け入れられなかったのだ。

昔のハリウッド映画のように、整然とした構成を保ちつつ、スムーズに映像は流れていくから違和感はまるでないが、人間ドラマを深めず、劇的な展開も避けるとは、じつに偏向を越えて偏屈にすら思える。そう、偏屈な映画といえるのだが、それはジジイがつくったからではなく、イーストウッドは最初から偏屈なのだ。

黒白をつけない灰色のグラデーション(濃淡)のラビリンス(迷路)に、屹立する西部劇のカウボーイひとり。強い陽ざしの下、帽子の庇に深い影となって、表情はわからず結ばれている口許だけが見える。腰のベルトに下がった銃の辺りに手をやっている。それは銃であって、誰からも正義とは呼ばれない。誰からも。

どうしてイーストウッド映画が俳優たちの尊敬を集めながら、長年ハリウッドで持て余されてきたか、ハリウッドやアメリカのリベラルたちがその処遇を扱いかねてきたか、その理由が想像できる映画でもある。

イーストウッド映画のなかでも、これほどハリウッドのコンテキスト(文脈)を無視し、芸術にも娯楽にも距離を置いて、なおかつ作家性(癖)の強い作品は他に見当たらない。

(止め)

 

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白いカラス

2024-04-04 23:38:51 | レンタルDVD映画

2003年公開のアメリカ映画だから、レンタルビデオ店の旧作の棚から見つけ出すのも難しいはずだ。Netflixには入っていなかったが、どこかのサブスク配信サービスから提供されているかもしれない。だとしても、黒人への人種差別を扱った地味ながら心に染み入る悲痛な文芸作品を観る人はごく少ないだろう。

なので、最初から最後まであらすじを辿りながら、この映画の「謎」と主人公が抱えてきた「秘密」を明かしてしまおうと思う。これから観ようかという人の邪魔をしてすまないが、なぜにこの映画は観る必要がないか、あるいはこのように批判的に観るべきだという今回の目的には必要だからしかたがない。

この『白いカラス』という映画が公開された2003年以後、トランプが大統領になり、「BLM( Black Lives Matter)運動」が起き、ロシアがウクライナを侵略し、イスラエルがガザで虐殺を続けている。そこで問い直されているのは、アメリカン・リベラリズムの正体といえるだろう。

この映画は、そんなアメリカのリベラリズムの欺瞞と偽善を余すことなく露呈した、逆説的な傑作だった。

監督は『明日に向かって撃て』の脚本家にして、『クレーマー、クレーマー』でアカデミー賞の監督賞を受けたロバート・ベントン、原作はアメリカ文学を代表するフィリップ・ロスという大物。

俳優陣も、アンソニー・ホプキンス(Coleman Silk)、ニコール・キッドマン(Faunia Farley)、エド・ハリス(Lester Farley)、ゲイリー・シニーズ(Nathan Zuckerman)という名優ぞろい。

映画好きなら素通りできない布陣だが、ハリウッドの良心的な俊秀が現代アメリカの苦悩を描き切る問題作に集結した、今年度アカデミー賞ノミネート作!という惹句が似合いそうな話題作だったろう。

Wikipediaのあらすじに、より詳細に書き加えてみた。

1998年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の名門大学で学部長を務めていたコールマン教授は、ある日の講義で、いつまでたっても出席しない二人の学生について、「スプーク(spooks)」と皮肉ったのが問題になった。「幽霊」という意味で使ったつもりが、俗語で「黒人」を表すため、人種差別発言だと教授会で問題になったのだ。

「幽霊のように姿を見ていないのに、黒人であるかどうかなどわかるものか!」と激怒したコールマン教授は、偽善的な「政治的公正 PC(political correctness )」に我慢がならなかったのだが、辞職のショックで妻が急死してしまう。

35年もつとめた大学を追われ、妻にも先立たれ、仕事と家庭のすべてを失ったコールマンは、森の家に逼塞することになるが、そこで同じように隠遁生活を送る作家ザッカーマンと親しくなり、ようやく前向きな生活を取り戻す気になっていく。

そんなとき、34歳のフォーニアという女性が彼の前に現れる。フォーニアは郵便局の窓口係、農場で馬の世話、大学の掃除婦をかけ持ちして働いていたが、タバコを唇から離さない、どこか投げやりな印象だった。

フォーニアは裕福な家に育つも、母親が再婚した継父に性的な虐待を受けて14歳で家出した。以来、自立して生きてきたが、結婚した夫レスターの暴力に苦しみ、火事で子供を死なせる不幸に見舞われ、辛い過去を負ってきた。

そんなまだ若いフォーニアと老人のコールマンは出会ったその日に身体の関係を持つが、心に傷を持つ者同士、次第に惹かれあっていく。しかし、追いかけてきたフォーニアの元夫レスターが二人に暗雲を投げかける。レスターもまた、ベトナム戦争の帰還兵であり、戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えて、フォーニアに執着していた。

そして、コールマンには、亡き妻にさえ隠し通し、これまで誰にも言わなかった秘密があった。

高校時代、ボクサーとして鳴らしたコールマンは、志願兵として入隊し、除隊後に軍人への優遇措置として大学の奨学金を得て、学者の道を歩んでいく。フォーニアと同じく、早くから自立したコールマンは、亡き妻にも秘密にした過去があった。

両親は亡くなり、兄弟はいない、天涯孤独の身の上といってきたが、コールマンには、母や兄、妹がいたのだ。なぜ、コールマンは家族を捨て、出生を隠したのか。

見かけ上は、白人そのものながら、黒人だったからだ。アメリカの黒人は、ほぼすべて白人との混血なため、遺伝の表れ方として、白人のような黒人が生まれることがある。

金髪碧眼色白であろうと、黒人の血が混じっていれば、アメリカでは、黒人、colored(カラード)とされる。若きコールマンは母に紹介して恋人に去られた苦い経験から、白人として生きる道を選んだのだった。

(続く)

 

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映画『怪物』

2024-03-31 08:05:36 | レンタルDVD映画

映画『怪物』には、いくつもの見どころ、聴きどころ、読みどころがある。観終わって、まず誰しもが印象に残るのは、アカデミー賞の脚本賞を受けた凝った脚本だろう。とっ散らかされた謎や疑問、違和感の数々が、推理小説に張り巡らされた伏線のように、次々とスリリングに回収されていく。ひとつひとつ投げ出されたエピソードが、(なんだ)(やっぱりな)という予定調和を感じさせないヒントや結末に導かれる。いくつもの錯綜したストーリー展開を観客は読まされることになる。

見所のひとつは、ジブリのアニメ映画を想起させる、少年期の輝くばかりの自然描写だろう。初夏の風や雲や空、樹木や草花の鮮やかな緑を、生命の光を浴びていたことをたいていの人は忘れている。また、スピルバーグ監督を羨ませがらせた、『誰も知らない』以来の少年を扱ったときの、ドキュメンタリと見紛うほどの自然な演技というこの監督の長所は、本作でも遺憾なく発揮されている。自然に溶け込み、人間として葛藤する少年たち。彼らを取り巻く大人たちの困惑と葛藤を表現した、安藤サクラ(母親)、永山瑛太(担任教師)、田中裕子(校長)も多面的な表情と感情を好演していた。

聴きどころは、もちろん、この映画のために書き下ろされた坂本龍一の遺作をはじめとするピアノ曲である。坂本龍一の音楽に親しく接したわけではないから、ありきたりの感想になってしまうが、どの曲も自然と生命を慈しむ佳曲と思えた。その他にも、この映画の音の扱いについては驚かされた。「ブオーッ」と管楽器が唐突に鳴り響く。よくある登場人物の内面の動揺やその後の展開の不吉さを予感させる、不協和音やノイズの音響効果かと思ったが、違っていた。この音は意外な展開に繋がる重要な場面で発せられるのである。記憶のかぎりでは、この映画には坂本龍一のピアノ演奏以外には、音響効果というものはなかった。

さて、ここまで、ここに至るも、ほとんど具体的なストーリーやキャラクターについて、書いていない。書いてしまえば、ネタバレ注意という次元ではなく、この映画の感興とテーマ性を著しく阻害しそうで、書けないのだ。それには、この映画の主題ーテーマが大きく関わっている。これについては、監督と映画批評家二人の議論が公開されているので、観終わった後に一読されることをお勧めする。

https://note.com/nyake/n/nb323cdd56d9b

しかしながら、私見では、この映画にテーマはない、とする。少なくとも、いくつかのテーマらしき事柄について、その軽重をつけるべきではないと思う。観客の恣意に委ねるべきというより、そうした観客寄りのエンタメ性と距離を置きながら、テーマに依る芸術性とも一線を画すという、中途半端さの堅持を看取するからだ。卑近にいってしまえば、いわゆる「ポリコレ」を拒否する姿勢と方法の序説ではないか、という気がする。

もし、この映画について、最大公約数的なテーマを見出すとすれば、「誤解(misunderstood)」だろう。私がこの映画のサウンドトラックのひとつとしてふさわしいと思うのは、この曲と歌唱である。

(止め)

 

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善き男の10日間

2023-03-26 16:09:51 | レンタルDVD映画

bing の chatGPT 機能を使って映画紹介をしてみる。

IMDb や Rotten Tomatoes などの英文記述を探し出し、翻訳して回答するまでほんの数分です。

ℚ 1973年に公開されたアメリカ映画『ロング・グッドバイ』をモチーフとした、最近のトルコ映画について教えてください。

'10 Days of a Good Man' Netflix Review: Stream It or Skip It? (decider.com)

それなら、2023年にNetflixで配信されたトルコ映画『善き男の10日間』が該当するかもしれません。この映画は、弁護士から私立探偵に転身した男が、ある行方不明事件の捜査を引き受けたことをきっかけに、人生を変えるような思いがけない道へと乗り出していくというストーリーです123。の映画の英語タイトルは、The Good Man of 10 Days です1。欧米の映画サイトでの解説や評価を見つけることができました。以下に、いくつか紹介します。

IMDbでは、この映画は7.2/10のスコアを獲得しています。ユーザーからは、「トルコのノワール映画の傑作」「スリリングで予測不可能な展開」「主演のネジャット・イシレルが素晴らしい演技を見せる」などのコメントが寄せられています。

Rotten Tomatoesでは、この映画は82%の批評家支持率と76%の観客支持率を得ています。批評家からは、「ウルチ・パイラクタル監督がチャンドラー的な雰囲気を巧みに再現した」「トルコ社会の闇や腐敗を鋭く描き出した」「サスペンスとユーモアのバランスが絶妙だった」などの評価がされています。

Metacriticでは、この映画は64/100のメタスコアと6.8/10のユーザースコアを獲得しています。メディアからは、「トルコ版『ロング・グッドバイ』と言えるほど忠実に原作に沿っている」「探偵役として魅力的なキャラクターを演じたネジャット・イシレルに注目すべきだ」「トルコ映画界に新しい息吹をもたらした」という声が聞かれています。

ℚ  ありがとう。この映画の原作となった小説についてはわかりますか?

この映画の原作となった小説は、トルコの作家アフメト・ミムタズ・タシュデミルが2007年に発表した『10日間の善き男』です1。この小説は、トルコのハードボイルド小説の傑作として高く評価されており、レイモンド・チャンドラーの影響を受けたと言われています2。映画では、原作に忠実に再現されているところも多いですが、一部設定や登場人物が変更されているところもあります3。

ℚ  原作小説には、1973年に制作されたロバート・アルトマン監督の映画「ロング・グッドバイ」への言及、もしくは映画の場面の挿入、引用などはありますか?

原作小説には、ロバート・アルトマン監督の映画「ロング・グッドバイ」への言及、もしくは映画の場面の挿入、引用などはありません。しかし、原作小説はレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(英題:The Long Goodbye)に強く影響を受けており1、主人公の名前や性格、事件の展開などに共通点が見られます2。

Q あなたはこの映画が観たいですか?

😊 この映画は私も興味があります。ロマンチックコメディが好きなので、面白そうだと思います。

原作小説は、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』をたぶんオマージュして書かれたものだろう。映画の方は、たぶんにロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ」に捧げられている。

TV受像機にDVD再生されたこの映画の探偵マーロウ(エリオット・グールド)に、探偵サディクが「あんたならすぐに気づいたはずだ、俺はなんてバカなんだ」と事件の糸口をつかんだことを語りかけたりする。

サディクの夢が南国の楽園で暮らすことだったり、ショートパンツにタンクトップという姿でまとわりつく娘くらいの娼婦にほだされたり、カリフォルニアイメージもたっぷりコピペされている。

トルコ映画というより、1973年の「ロング・グッドバイ」をリメイクしたアメリカ映画のように思えてくるほどだ。むさくるしくて間抜け顔の異色のマーロウ(エリオット・グールド)に忠実に、サディク(ネジャット・イスラー)は着たきりのよれよれのパーカー姿で、悪人にこづかれながら街を歩く。

エリオット・グールドのマーロウがそうだったように、サディクはけっして悪には染まらぬ善人であり、サディクに絡む幾人かの男女もまたそうだ。どれほど裏切られ、騙され、脅かされようとも、笑顔でしのごうとする。チャップリンのチャーリーがそうだったように。

Bing が「ロマンチック・コメディ」と評したのは、そうしたどんなときにも笑顔を手放さない人間への信頼をロマンチックに描き、残酷な現実に滑稽で無意味な突進を繰り返すドン・キホーテの高潔な笑みが来るところをコメディとするからだ。

「ロング・グッドバイ」はハードボイルド映画の骨格を保ちながら、エリオット・グールドの諧謔味のある個性と演技によって、この「ロマンチック・コメディ」映画を引き寄せた。「ロング・グッドバイ」のエリオット・グールド「マーロウ」へのオマージュともいえる。

この「善き男のー」を観て、もう一度、「ロング・グッドバイ」を無性に観直したくなった。

そうそう、あの映画には、猫飼いがクスリとするシーンがあった。エリオット・グールド「マーロウ」の部屋に猫が居ついている。暮夜、猫缶を切らして買いに出る。が、コンビニにはいつものやつがない。しかたなく別なのを買って戻ってくる。猫をキッチンから締め出して、いつもの空き缶に急いで詰め替える。呼び入れて皿によそう。「ほら、いつものだよ、好きだろ」。猫は男の顔を見上げ、フンと口もつけずに尾を上げ揺らして去る。眉が下がり、唇に煙草をぶら下げ、情けない笑顔を貼りつけたの男のアップ。

(止め)

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暮れなずむ街の光と影の中

2022-09-19 01:31:42 | レンタルDVD映画

映画『くれなずめ』
https://kurenazume.com/

Netflix で視聴してから検索してみて、舞台劇の映画化であることを知った。ヘラヘラした高校生6人組と、その後もダラダラとした5年の日常の時間の流れを、映画ならたえず6人をフレームに収めたり、ワンショットワンシーンを駆使して表現できるが、舞台ならどう表現したんだろう。

いや、俳優たちの唾と汗と体臭が伝わってくるような小劇場なら、俳優の緊張感がせめぎ合うヘラヘラダラダラは返って観客を飽きさせないのかもしれない。この映画化でも俳優に演じさせることにはじゅうぶん成功している。いかにもセリフ的な言葉を極力排した「日常会話劇」は俳優たちにとっても挑戦のし甲斐があるものだったろう。

静止的な画角と立ち止まらない意識のような動画を「映画的」とするなら、一人一人の回想シーンでは、妻や警官との会話以上にもっと一人芝居をさせるべきだったようにも思えるが、そうした映像としての独白を避けるのもこの映画のテーマの一つだったかもしれない。

つまり、どこまでも群像劇で押し通したわけだ。高良健吾が出ているせいか、『横道世之介』と似た趣がある「普通青年映画」に思えた。傑作や秀作とは呼ばれないが、観た人々の記憶に登場人物名が残る「名作」かもしれない。

高校の帰宅部映画として、『桐島、部活やめるってよ』の背景となったゾンビ映画製作が、小劇場演劇に代わっているとも思えた。回想の映画だから、あんな風にのめりこんで描かれてはいないが。

普通の人々の「やおい」的な日常を描くという日本しかみられない作品だ。

成田凌、高良健吾はもとより若葉竜也、浜野謙太、藤原季節、目次立樹の6人組はいずれも好演、ミキエの前田敦子の快演にびっくり。

客演の滝藤健一の外国人訛りにも感心した。滝藤健一と光石研は何に出ても無敵だな。

(止め)

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