STAP細胞をめぐる小保方論文問題を調査している石井俊輔理研調査委員長が、自身の論文の画像の切り貼りを指摘されて、辞任を表明しました。
小保方氏との違い強調…調査委員長辞任の石井氏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140426-00050034-yom-sci
理研調査委員長が辞任 STAP対応に影響も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140426-00000013-asahik-soci
ノーベル賞受賞者でもある京都大学のiPS細胞研究所の山中伸弥教授も、14年前に発表した論文の画像について切り貼りではないかと指摘されて、謝罪会見を開きました。
京大 山中教授が自身の論文巡り会見
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140428/k10014091181000.html
山中教授一問一答 「見本となる立場、おわび」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140429-00000086-san-soci
石井調査委員長は、「説明しやすくするために、画像の切り貼りをした」ことを認め、研究不正かどうか、理研では別の調査委員会がつくられて調査中とのことです。
山中教授の場合は、「共同研究者が画像を保管していた」ので、画像の切り貼りは「確認」できなかったが、自身の実験ノートなどで、研究不正ではないと「確認」されたとのことでした。
繰り返しますが、石井委員長も山中教授も、実験結果の画像の切り貼りが疑われ、石井委員長は切り貼りを認め、山中教授は未確認ということです。
山中教授が36歳のときに発表した問題のES細胞論文の元画像は、山中教授の手元にはなく、共同研究者だった中国人学生が保管していた。その学生とは連絡がつかないから、論文に掲載された画像と照合できず、切り貼りされたものかどうかは確認できないわけです。
にもかかわらず、山中教授が所属する京都大学のiPS細胞研究所は、山中教授から提出された、当時の実験ノートなどから、研究不正はなかったと「確認」したそうです。
画像の切り貼りを指摘されて、元画像と論文画像を照合して検証できないまま、研究不正はないと判断したのは理屈に合いません。京都大学が調査委員会をつくって、その共同研究者だった中国人学生を探し出し、元画像を入手する手間をかけないのはどうしてなのか、はなはだ疑問です。
切り貼りとは、IT時代になって生まれた言葉ではありません。障子の破れた部分に、○や□や桜の形に切り抜いた紙を張りふさいだことをいい、昔からあった言葉です。それが文章作成の作業にも当てはめられ、以前は、新聞や雑誌の記事、自分が書いた文章をハサミで切り抜き、台紙に貼りつけて文章構成を考え、整える「書く技術」のひとつになりました。
同じ作業がITとPCの発達によって、膨大な文献資料から探すことができるようになり、その切り貼り、コピー&ペースト(複写と貼り付け)も誰でも手軽にできるようになりました。画像の場合も、複数の写真を組み合わせるコラージュといわれる表現技術は以前からありましたが、グラフィックソフトの発達によって画像の加工処理技術も一般化しました。
ただし、同じ切り貼りとはいえ、文章と画像では大きく異なるところがあります。まず、文章にはオリジナルはありません。誰かが、その人だけが発明した言葉や文章は、デタラメ以外にはあり得ません。デタラメでは、他の人は理解できないので、言葉や文章とはなりません。
しかし、画像はオリジナル以外にはあり得ないとすらいえます。その瞬間のその事物を写した画像は、その1枚しかないからです。0.1秒ごとに連写された写真は、ほとんど同じに見えて見分けがつかないかもしれませんが、微細にはまったく違うはずです。
また、文章の切り貼りは、その巧拙を別にすれば、小学生ですら簡単にでき、少し頭のよい中学生なら、ネット上のいろいろな文献をコピペしてそれなりの意見を発表することができます。学位論文を書くような大学生や企画書などを書き慣れたビジネスマンなら、ほとんど苦もなく短時間でできるだけでなく、切り貼りとわからぬよう痕跡を消すこともそう難しくはありません。
一方、画像の切り貼りはそう簡単な作業ではありません。グラフィックソフトが発達した最近でさえ、誰でもができるわけではなく、機材とソフト、それなりの作業時間とスキルが求められます。14年前に、画像を切り貼りするには、さらに長時間の作業と高いスキルが必要だったでしょう。
山中教授も、14年前の自分には、「画像をコピーする技術はなかった」と述べています。画像を複写して切り抜き貼り付けして、その上、一見しただけではわからぬよう痕跡を消す。そんな複雑な作業をした場合、「うっかりミス」や「未熟だった」という理由は、あり得ないと断じてよいでしょう。
つまり、小保方 Nature 論文の調査報告の記者会見で知った、「悪意ない間違い」の「悪意」を「故意」とするなら、画像の切り貼りという加工処理は、「故意」以外には成り立たないことになります。
ところが、山中記者会見を報じた記事を一読して首を捻るのは、「故意」から眼をそらすかのように、実験結果や論文が正しかったことを強調してる点です。画像の切り貼りがあったとすれば、それが研究不正かどうかと、論文の正否は区別して扱われるべきことでしょう。結果オーライのはずがありません。
繰り返しますが、論文掲載の画像が、実験結果を正しく反映し、論文が正しいと証明されたなら、たとえその画像が切り貼りされていたとしてもかまわない、許されるというならば、石井委員長は辞任することもなく、山中教授は謝罪会見を開く必要もなかったのです。
次のツィッターは、厳しい小保方批難を続けている東大教授の発言です。
「世界基準は、悪意の有無と関係なく、捏造・改ざん・剽窃は研究不正です」と書いています。スポーツのドーピングを例に引いて、やはり、「悪意」とは「故意」と認定しているようです。
ドーピングの場合は、実行者がたとえ選手ではなく、コーチや医師など誰であれ、たとえば選手を騙して摂取させた場合でも、尿検査によって違法薬物が検出されれば、それで有罪になります。同様に、データの捏造・改ざんという行為それ自体が、ただちに研究不正になるということです。
行為だけを問題にするならば、石井委員長が認めた画像の切り貼りは、改ざんという研究不正であり、山中教授の論文の画像も、元画像を確認しない限りは、捏造・改ざんの疑いは残るわけです。
山中教授の実験ノートから、適正な元画像があることが客観的に裏づけられたとしても、論文掲載された画像に何らかの手が加えられていた場合は、ただちに研究不正だからです。
ロバート・ゲラーさんがいう世界基準に照らせば、次の山中発言はとても意味深に受け取れます。
「自分の論文に疑問を持たれるのは、死ねと言われるのに近い痛みを伴う」
(了)
小保方氏との違い強調…調査委員長辞任の石井氏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140426-00050034-yom-sci
理研調査委員長が辞任 STAP対応に影響も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140426-00000013-asahik-soci
ノーベル賞受賞者でもある京都大学のiPS細胞研究所の山中伸弥教授も、14年前に発表した論文の画像について切り貼りではないかと指摘されて、謝罪会見を開きました。
京大 山中教授が自身の論文巡り会見
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140428/k10014091181000.html
山中教授一問一答 「見本となる立場、おわび」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140429-00000086-san-soci
石井調査委員長は、「説明しやすくするために、画像の切り貼りをした」ことを認め、研究不正かどうか、理研では別の調査委員会がつくられて調査中とのことです。
山中教授の場合は、「共同研究者が画像を保管していた」ので、画像の切り貼りは「確認」できなかったが、自身の実験ノートなどで、研究不正ではないと「確認」されたとのことでした。
繰り返しますが、石井委員長も山中教授も、実験結果の画像の切り貼りが疑われ、石井委員長は切り貼りを認め、山中教授は未確認ということです。
山中教授が36歳のときに発表した問題のES細胞論文の元画像は、山中教授の手元にはなく、共同研究者だった中国人学生が保管していた。その学生とは連絡がつかないから、論文に掲載された画像と照合できず、切り貼りされたものかどうかは確認できないわけです。
にもかかわらず、山中教授が所属する京都大学のiPS細胞研究所は、山中教授から提出された、当時の実験ノートなどから、研究不正はなかったと「確認」したそうです。
画像の切り貼りを指摘されて、元画像と論文画像を照合して検証できないまま、研究不正はないと判断したのは理屈に合いません。京都大学が調査委員会をつくって、その共同研究者だった中国人学生を探し出し、元画像を入手する手間をかけないのはどうしてなのか、はなはだ疑問です。
切り貼りとは、IT時代になって生まれた言葉ではありません。障子の破れた部分に、○や□や桜の形に切り抜いた紙を張りふさいだことをいい、昔からあった言葉です。それが文章作成の作業にも当てはめられ、以前は、新聞や雑誌の記事、自分が書いた文章をハサミで切り抜き、台紙に貼りつけて文章構成を考え、整える「書く技術」のひとつになりました。
同じ作業がITとPCの発達によって、膨大な文献資料から探すことができるようになり、その切り貼り、コピー&ペースト(複写と貼り付け)も誰でも手軽にできるようになりました。画像の場合も、複数の写真を組み合わせるコラージュといわれる表現技術は以前からありましたが、グラフィックソフトの発達によって画像の加工処理技術も一般化しました。
ただし、同じ切り貼りとはいえ、文章と画像では大きく異なるところがあります。まず、文章にはオリジナルはありません。誰かが、その人だけが発明した言葉や文章は、デタラメ以外にはあり得ません。デタラメでは、他の人は理解できないので、言葉や文章とはなりません。
しかし、画像はオリジナル以外にはあり得ないとすらいえます。その瞬間のその事物を写した画像は、その1枚しかないからです。0.1秒ごとに連写された写真は、ほとんど同じに見えて見分けがつかないかもしれませんが、微細にはまったく違うはずです。
また、文章の切り貼りは、その巧拙を別にすれば、小学生ですら簡単にでき、少し頭のよい中学生なら、ネット上のいろいろな文献をコピペしてそれなりの意見を発表することができます。学位論文を書くような大学生や企画書などを書き慣れたビジネスマンなら、ほとんど苦もなく短時間でできるだけでなく、切り貼りとわからぬよう痕跡を消すこともそう難しくはありません。
一方、画像の切り貼りはそう簡単な作業ではありません。グラフィックソフトが発達した最近でさえ、誰でもができるわけではなく、機材とソフト、それなりの作業時間とスキルが求められます。14年前に、画像を切り貼りするには、さらに長時間の作業と高いスキルが必要だったでしょう。
山中教授も、14年前の自分には、「画像をコピーする技術はなかった」と述べています。画像を複写して切り抜き貼り付けして、その上、一見しただけではわからぬよう痕跡を消す。そんな複雑な作業をした場合、「うっかりミス」や「未熟だった」という理由は、あり得ないと断じてよいでしょう。
つまり、小保方 Nature 論文の調査報告の記者会見で知った、「悪意ない間違い」の「悪意」を「故意」とするなら、画像の切り貼りという加工処理は、「故意」以外には成り立たないことになります。
ところが、山中記者会見を報じた記事を一読して首を捻るのは、「故意」から眼をそらすかのように、実験結果や論文が正しかったことを強調してる点です。画像の切り貼りがあったとすれば、それが研究不正かどうかと、論文の正否は区別して扱われるべきことでしょう。結果オーライのはずがありません。
繰り返しますが、論文掲載の画像が、実験結果を正しく反映し、論文が正しいと証明されたなら、たとえその画像が切り貼りされていたとしてもかまわない、許されるというならば、石井委員長は辞任することもなく、山中教授は謝罪会見を開く必要もなかったのです。
次のツィッターは、厳しい小保方批難を続けている東大教授の発言です。
スポーツを取り上げる理由は、ドーピングを「悪意」の有無は有罪に関係ない例として。世界基準は、悪意の有無と関係なく、捏造・改ざん・剽窃は研究不正ですが、それ以外のhonest errorを不正と認定しない、という。スポーツと研究は、無論、異なります。 @challengejfx
— Robert Geller (@rjgeller) 2014, 4月 29
「世界基準は、悪意の有無と関係なく、捏造・改ざん・剽窃は研究不正です」と書いています。スポーツのドーピングを例に引いて、やはり、「悪意」とは「故意」と認定しているようです。
ドーピングの場合は、実行者がたとえ選手ではなく、コーチや医師など誰であれ、たとえば選手を騙して摂取させた場合でも、尿検査によって違法薬物が検出されれば、それで有罪になります。同様に、データの捏造・改ざんという行為それ自体が、ただちに研究不正になるということです。
行為だけを問題にするならば、石井委員長が認めた画像の切り貼りは、改ざんという研究不正であり、山中教授の論文の画像も、元画像を確認しない限りは、捏造・改ざんの疑いは残るわけです。
山中教授の実験ノートから、適正な元画像があることが客観的に裏づけられたとしても、論文掲載された画像に何らかの手が加えられていた場合は、ただちに研究不正だからです。
ロバート・ゲラーさんがいう世界基準に照らせば、次の山中発言はとても意味深に受け取れます。
「自分の論文に疑問を持たれるのは、死ねと言われるのに近い痛みを伴う」
(了)