コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

今日の明言 01

2018-04-26 01:00:00 | ノンジャンル
「うみの親は誰か」首相らの政治責任問う声 自民総務会
https://www.asahi.com/articles/ASL4S52KGL4SUTFK01B.html

>「首相は『うみを出し切る』と言っているが、地元では『うみの親は誰か』という意見がある」

ネットの名リアクションでいえば、「誰がうまいことを言えとw」。この「地元の声」は怪しい。村上氏自身じゃないのかw しかし、こういう場合は、漢字を使おうよ、朝日新聞。

「首相は『膿を出し切る』と言っているが、地元では『膿の親は誰か』という意見がある」

全然、インパクトが違うでしょ。そして、「産みの親」をもじったのだから、当然、「育ての親」たる国民の責任を問わなくちゃ、「親の顔が見たい」と。そこが朝日らしいが、もう一歩も二歩も踏み込まなくては論説らしくないねえ。

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由 知られざる「文化と教育の地域格差」
http://news.livedoor.com/article/detail/14627657/

これは虚を衝かれたというか、格差にびっくりして、明晰な展開に感心した。

>文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。

この一言に集約されているが、その深刻さにおいて貧困ほどではないという当然予想される指摘に配慮するあまり、

>しょせん私はひとつの経験しか持たない。

という究極のエキスキューズが繰り出される。ここが明言です。ど田舎の底辺校から東大生になった「私」から発せられている、痛切な自己認識の言葉です。そこからはじまって、そこへたどりついている。これをものを書く必然性といいます。つまり、本稿は「私ルポ」というジャーナリズムなのです。

(社説)福田次官辞任 「女性が輝く」の惨状
https://www.asahi.com/articles/DA3S13466528.html

>男性の行いよりも女性側の告発意図を無責任に勘繰り、あざ笑う。

俺一人でも冷笑するぜ、水ぶっかけてやる、嘘をつけ、ならまだしも、麻生をはじめ政権幹部に同調する有象無象に、さらに追随して憂さをはらしているに過ぎない。

いや、やり直し。麻生をはじめとする政権幹部>同調して拡散する有給サポーター>拡散されて尻馬に乗った野次馬>野次馬の多さを信じて俺くらいは埋没するだろうと踏んだ卑劣、というリスク自覚順だろう。この卑劣の割合が8割(人数比)を越えるのではないか。

女性記者の行いよりも一般男性側の告発意図を無責任に勘繰り、あざ笑う。

とたぶん彼らは憤慨するだろう。考えうるかぎりの最低最悪にあざ笑うこともできないのだが。

(止め)

私がバカでクズだったとき

2018-04-20 14:18:00 | 政治
一言で説明できるところが、情けない。

福田次官や米山知事のスキャンダルは、彼らの発達不良のためです。換言すれば、世間知らず。小学校や中学から出直せというに過ぎません。

ハーヴェイ・ワインスタインなど、欧米の me too 運動でやり玉に挙げられている男たちとは質実をまったく異にしています。彼らはハラスメントや差別主義者と非難されるだけの適格性を備えています。間違った大人になりましたが、彼らは大人です。

次官や知事はかつても今もこれからも、どうして自分が非難されるのか本当にはわからないでしょう。会社や役所のセクハラ研修程度のことはじゅうぶん以上に承知しているのですが、知識・情報にとどまり、自分とは無関係だと思い込んでいるのです。

いくら、「あなたの言動は云々」と詰っても、「今はそういう時代なのかなあ」という感想を引き出すくらいが関の山。宿題を忘れてしまった小学生のように、適応できなかった自分を反省するにとどまるのです。彼らは間違って大人とされている、子どもだからです。

日本のエリートに大なり小なり彼らのような発達不良が見受けられるのは、もちろん、初中等教育や家庭教育など環境の問題ですが、それ以上に「自己責任」でもあります。そこいらのあんちゃんやおっさんは同様なセクハラや差別をしたとしても、少なくとも内省にいたる契機を自らの内に持っています。

わるい友だちやいかれたねえちゃんたちとつきあい、街場や通りから知恵や振るまいを獲得するだけでなく、悪徳にも直面してきているからです。不良を持ち上げるつもりはありません。

社会や世間をルールやマナーから学ぶと同時に、その外にも世界や個人がいてモラルもある、また、あり得ることを映画や小説や漫画やアニメなどから学ぶ、大多数の非不良な子ども時代もあるわけです。

彼らは間違った大人になったとしても更生の可能性は残されています。すでに知っていることに気づくだけですから。

いうまでもなく、誰しも「間違った大人」と「間違って大人になった」部分を併せ持っています。問題は、「間違った大人」になった「間違った子ども」時代に立ち戻って考えられるかどうかです。

ようするに「子ども時代」があったかどうかです。「間違った大人」だと自覚しようにも、「間違った子ども」時代に思い当たらず、どこまでもフラットな煩悩なき正しい子どもモドキ、あるいは夢も希望もない合目的的な大人モドキ、そんな子ども時代しか思い浮かばないとすれば、どうでしょうか。

つまり、彼らは寄る辺ない人間なのです。どれほど社会階層を上がったとしても、子ども時代に思春期に、青年期に、自らの人間形成の場所(フィールド・原っぱ・遊び場)に立ち戻ることができません。

子どものまま成長や成熟していないだけでなく、子どもがそうであるように、そもそも成長や成熟とは何かがまったくわからないまま、全能感を抱いたまま年齢を重ねたのです。成長や成熟とは、知識や情報から得られるものではなく、失敗や挫折、敗北感などの経験によって確認され駆動するものです。

周囲を環境そのものを疑うことなく、ただ環境に適応することで得てきた全能感を成長や成熟と思ってきたのです。今回、それが誤解と気づかされてしまった、しかしあくまでも本人は気づいていないのは、気づくという言葉のほんとうに新鮮な驚きの経験もまたないからです。

ただし、心の奥底では自らのそうした欠落にじつは気づいています。だからこそ、ええ年こいてただの色ボケを恋愛と錯覚したりするのです。セクハラや女性差別といわれて心外なのは、口説き文句だと思っているのです。

恋愛を願望しながら、買春やセクハラという適応能力でしか対応できないのは不器用なエリートだからではなく、「~してあげるから、~して」という話法しか持たない子どもだからです。じつにこういう御仁こそ、恋愛にもっとも縁遠い、きわめて不幸にして不運な境遇なのです。

「僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」(ポール・ニザン「アデン、アラビア」)の感想を求めたら、「うん、たしかに。灰色の受験生活でした」と遠い目をするかもしれません。「でも、勉強ばかりではなく、友だちと遊んだり、けっこう楽しんでもいましたよ」と続けるかもしれません。そこから私たちがわかることは、誰でも遠い目くらいはするものだな、に過ぎないのです。

一言でいえたことを百言費やしました。すみません。

(止め)



今夜は、フラメンコ

2018-04-15 03:09:00 | ノンジャンル
今夜は、アストゥリアス(Asturias)です。ギター曲ですが、フラメンコダンスの動画を選びました。

なぜ、フラメンコ? なぜ、アストゥリアス? 

この映画のBGMにぴったりだと思ったからです。不安と焦燥のリズムを刻み、切迫と興奮を高める旋律から、断絶後、折り返す構成が、敏腕ロビイストであるミス・スローンの命ぎりぎり、タイトロープを歩くような手練手管、その成功と暗転の数々に見事に重なると思いませんか? 

フラメンコダンサーの優美にして力強い指先と腕、腰、脚はそれぞれ、ミス・スローンが他者を圧倒する、よく手入れされた直毛の赤毛であり、高級ブランドのタイトスカートであり、そのスーツより高価そうなピンヒールであり、なにより目を引くその冷徹な美貌だとは思えませんか? 

そして、カッカッカッと鳴り続けるカスタネットは…、もちろん、ミス・スローンが撃ちまくるマシンガンの音です。銃規制法案の推進を企図する女性ロビイストの活躍を描く映画の紹介に、マシンガンはないだろうって? いや、ミス・スローンの仕事は、全米ライフル協会をはじめとする強大な銃規制反対派に戦いを挑み勝つことなのです。

人民の武装を認めた合衆国憲法修正第2条を「星占い」と罵倒した、髪の先から足の爪までリアリストのミス・スローンです。「アメリカの民主主義を蝕む寄生虫」の彼ら相手に手段は選びません。同時に、控えめに鳴り続けるカスタネット音はミス・スローンだけが耳を澄まして聴いている彼女の心臓の鼓動であり、人々の血流の音なのかもしれません。

原題は、ミス・スローン(Miss Sloane)。「女神の見えざる手」という映画の話です。2016年公開のイギリス映画ですが、今年、これから日本でどんな映画が公開されようと、この映画はベストスリーから落ちることはないでしょう。私見では、と留保をつけず、賭けてもいい。それくらい、おもしろい傑作です。イギリス映画ですから、正義ぶった説教くさいところは微塵もありません。

ロビイストに左右される腐敗したアメリカ政治を描きながら、「ダイハード」のように、ミス・スローンがその智謀と弁舌でピンチを切り抜け、死地を脱する痛快滑舌劇ともいえます。ロボコック(ローチ)とか、小さな荒唐無稽を入れているのも憎い。

Asturias (Albeniz)
https://www.youtube.com/watch?v=L8EPgkwDk5U

Asturias de Albeniz por Los Gimenez




編集不在の「編集手帳」

2018-04-13 14:06:00 | ノンジャンル
モーニングサービスを食おうとガストに入ると、やっぱり読売新聞が各テーブルに配られていた。宣伝拡販のためだろうが、猫のトイレの下に敷くのにちょうどよいので、読み捨てずに喜んで持ち帰っている。

むかしは便所の落とし紙や弁当の包み紙として、新聞紙は各家庭になくてはならぬものだった。焼き芋や野菜も新聞紙にくるんで渡したものだ。あらかじめ濡らして千切った新聞紙を畳に撒いて埃を吸わしてから、ホウキで掃き寄せるという掃除法も一般的だった。大掃除などで畳を上げた際には、湿気とりのために新聞紙を下に敷いたりもした。

そんな風に新聞紙を使わなくなってから久しい。

むかしながらの使い方で、いまでも新聞紙が最適といえるのは揚げ物をするときの油受けくらいか。あとは陶器など割れ物を荷づくりするときの緩衝材として引っ越しには束であったほうがよい。

どの新聞も発行部数が激減しているそうだが、むかしは新聞紙の「使命」も多岐に渡っていたわけだ。

もっぱら新聞を読んでいたのはじつは一握りで、おとうさんやおじいちゃんくらいが読者ではなかったかと私は疑っている。ならば、発行部数が世界一の800万部や1000万部といったところで、じっさいの読者はそこから一桁は下るだろう。

とくに調べずとも、新聞の読物記事を読めば、たいていの人にそれはわかるはずで、着想や視点、理屈がとにかくふるいのだ。

というわけで無料の新聞紙はありがたいが、こんな記事ならまた読売を読んでみたいな、とは思えなかった4月12日(木)の読売新聞「編集手帳」である。

まず、筆者が竹内政明さんにしては粗雑な書きぶりだなと首をひねった。

怪奇小説『ドグラ・マグラ』で知られる夢野久作に、『白菊』という短編がある。脱獄囚「虎蔵」が必死に逃げる様子を描いている◆いがぐり頭、黒血だらけの引っかき傷、泥とほこりにまみれた足――こんな男が民家に忍び込み、少女の寝顔をのぞき込むシーンは読んでいて、一瞬息を止めた。美しい星空、鉢に咲く白い菊の花さえ男を落ち着かせることはなく、精神は混乱の極みに達していく…。◆どんな精神状態か、懸念は増すばかりだろう。愛媛県今治市の松山刑務所造船作業場から窃盗罪などで服役中の男(27)が逃げ出し、今日が5日目になる◆男が運転する盗難車両と警察車両が、今治市と広島県尾道市を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道」ですれ違ったという。捜査員が尾道市の出口で待ち伏せしたが現れず、車は海道途中の「向島で見つかった。そこは漁業と観光の島で人口も少なくない。万が一にも住民が傷つく事件が起こらぬよう祈るばかりである。瀬戸内のきれいな星空や花々が、男の改悛の情を誘うことを」◆朝刊が配られる前に捕まれば、当欄は非常にまぬけなことになる。それを一番に望む。

>一瞬息を止めた。

映画や小説のサスペンスフルな場面に、「息をのんだ」「固唾をのむ」、あるいは「釘づけになった」とはいうが、「一瞬息を止めた」という表現に違和感を覚えた。

夢野久作が小説中に描写した、怖ろし気な脱獄囚が忍び込んだ家で少女の無心の寝顔に見入るという長々とした引用が、筆者、あるいはがそこを読んでいる、短くない時間が、「一瞬」と矛盾するからだ。

>美しい星空、鉢に咲く白い菊の花さえ男を落ち着かせることはなく、精神は混乱の極みに達していく…。

ここまでは、夢野久作が小説中に描いた、脱獄囚「虎蔵」の精神状態なのだが、

>◆どんな精神状態か、懸念は増すばかりだろう。

と続けて、いきなり、現在向島に潜伏中とされる平尾龍磨容疑者に重ねている。何か根拠があるとはとても思えず、ただ不安を煽るだけの印象操作にしか読めないのは、平尾容疑者像とこれまた矛盾するからだ。

>捜査員が尾道市の出口で待ち伏せしたが現れず、

高速道路で犯人の車とすれ違ったことに捜査員は気づいた。平尾容疑者もまた気づいたからこそ、そのまま出口には向かわず、向島で高速を下りたわけだ。

「精神は混乱の極みに達して」とは反対に冷静でクレバーな犯人と考えるのが妥当ではないか。

>そこは漁業と観光の島で人口も少なくない。

と広島県尾道市向島(むかいしま)という離島を紹介しているが、向島に多少土地勘のある者としてはやはり違和感を抱く書き様だ。

向島の高見山展望台からのしまなみ海道を臨む眺む

人口は2万数千余だから、たしかに「少なくない」といえるが、潜伏先の可能性として1千軒を越える空き家があるという報道がされている。ちなみに世帯数は約9000世帯弱である(平成27年)。

筆者は読売新聞の広島支局に電話で問い合わせしなかったのだろうか。

問い合わせていれば、過疎が進んだ空き家だらけの島と知り、「菊の鉢植え」や「少女の寝顔」を避けたい犯人は空き家に潜む可能性が高いとわかるはずだ。

つまり、夢野久作小説の引用14行がまるで無駄というより、まったく余計なのだ。

「漁業と観光の島」というのも初耳だった。向島は尾道造船のドックがある島として知られているが、漁業というほどの規模の水揚げ量はない。

尾道水道を見下ろす高見山からの眺望は見事だが、それ以外には観光資源も乏しい。ホテルや旅館、土産物店など観光産業と呼べるものは、渡船で渡れる対岸の尾道の町に集中しているのだ。

ウィキペディアの「4.産業」でも、この程度の記述でしかない。

>造船業、ワケギ・ミカン・洋ランの栽培、漁業

ようするに、高見山以外はミカン山だけの造船ドックがある過疎の島なのだ。

取材にも筆致にも丁寧さを欠いた独り善がりに幾度となく首をひねったが、最近、コラム執筆者が竹内政明さんから清水純一という人に交代したそうだ。なるほど。

じつは、「一瞬息を止めた」で一瞬読むのをやめようかと思ったのだが、やめていればよかったかもしれない。朝食のこなれがわるい気がする。

しかし、ガストのスクランブルとソーセージはわるくない。家でつくっても、こんな風にトロトロにはならず、炒り卵になってしまう。ソーセージも香薫やシャウエッセンでは及ばない風味がある。

(止め)


じつは「貴方も」運動なのだ

2018-04-07 15:30:00 | ノンジャンル
今日現在の wiki に下のように紹介されている女性が書いています。

ダンサーのKaoRiとは2002年ごろから共同作業をおこない、生涯のモデルとして長期の撮影を続けている。

その知識、本当に正しいですか?
https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65

意味不明に思えたタイトルの意味がようやくわかりました。メディアはやはり無視するだろうが、«me too» に触発された日本女性として、いずれ、「荒木経惟」の日本語版、英語版の Wiki に掲載されるでしょう。

著名な芸術家たちを「彩る女性」たちが次々に声を上げ、 Wikipedia の記述を爆発的に書き換えていく修正運動が広がっていくのを夢想しました。

おまけ

浅田彰の荒木経惟展評
http://www.assemblylanguage.com/reviews/KusamaAraki.html

1999年、東京都現代美術館で同時開催された草間彌生回顧展を絶賛し、荒木経惟展を一蹴しているのですが、ほんとうに荒木経惟はどうでもよくなってきて、草間彌生に圧倒されている浅田彰の圧倒的な文章にめまいを覚えるほどです。

(敬称略)