コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

今夜は、ツィゴイネルワイゼン

2015-05-31 00:24:00 | 音楽
有名な出だしんところより、ここんとこが僕はいっちゃん好きだし、きれいななあと思いますね。TV番組なので、演奏は58秒からです。

Violinist virtuoso Miritza Lundberg: Zigeunerweisen (Sarasate) and Hora Martisolorui (Diricu)


1時間でわかる安保縫製

2015-05-29 06:09:00 | 政治
安倍首相をトイレに走らせた江田質問です。さすが橋本龍太郎首相秘書官時代には官邸を牛耳っていたといわれただけに、政府側の安保・防衛論議を知悉していて、安倍首相をはじめ、内閣法制局長官、外務省条約局長の答弁をボロボロにしてみせました。江田の論点は明快でわかりやすく、国会中継なのに少しも退屈しません。

といっても、一時間も視聴するのはどうもが人情というもの。そこで前半だけ、個別的自衛権と集団的自衛権の国際法上と日本政府との解釈の違いの部分、12分30秒までを書き起こししてみました。この基礎理解がすめば、集団的自衛権や周辺事態法の改定まで、政府側答弁の逃げ道をふさぎながら、安保縫製の破綻を指摘していく、江田法制論の醍醐味を味わうことができます。

後ろの席の辻本清美議員がほとんど感動の面持ちで聴き入っているのが印象的です。憲司という名前は伊達じゃなかったんですね。

江田憲司(維新) 【衆院・平和安全特別委員会】2015年5月28日


江田委員:維新の党・江田憲司でございます。
維新の党もですね。安全保障環境の変化、とくに核・ミサイル技術の進展、武器技術の発達等々によってですね、通常兵器しか持たなかった時代に比べて、軍事オペレーションは大きく変容してきたわけですから、それに応じてしっかり国民の生命財産を守る、領土領空領海を守ることは政治家のいちばんの責務だと思っております。

ただ、この安保法制につきましてはどの世論調査をしても、多くの国民の皆さんが不安や疑念をお持ちだという結果が出ています。この70年、平和国家として歩んできた、平和国家日本、さらには専守防衛という国是、それがこの法案によって、根底から揺らぐのではないか、こういう不安だと思います。

安保法制は膨大な法案ですから、維新の党はじゅうぶんな国会審議を通じて、徹底的に問題点を洗い出し、そして、反対だけの反対をしませんから、しっかり対案を、われわれの考えを国会審議を通じて示して、自衛隊の海外活動、海外派遣に関してはしっかり歯止めをかけて、平和憲法の趣旨、専守防衛という国是に照らしてしっかり歯止めをかけるということで、国民の皆さんの不安を払拭していきたいと思うんですね。

国会審議に際しては、これは憲法論争、法律論ですから、私は情緒的な議論は一切致しません。政府の皆さんがよくいわれるように、これまでの憲法解釈との論理的整合性、さらには最高法規たる憲法の法的安定性、こういった観点から、しっかり憲法論議、法律論議をしていかなくてはいけません。

法律論議とは、国際法を含めた法律論議をしていく。当然、集団的自衛権に関する有名な判決、国際司法裁判所のニカラグア判決、さらには国際法学会の通説、そういった考え方に則って、日本でしか通用しない議論は絶対しちゃいかんと思っております。集団的自衛権、個別的自衛権というのは国際的な概念ですからね。

そういう意味で、論理的整合性や法的安定性について、私なりに質問して参りますのでよろしくお願いします。

まずはパネルをご覧いただきたい。


パネル1 (集団的自衛権の)新3要件の政府解釈

1.「明白な危険」=(等しい)「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様の深刻、重大な被害(戦禍、犠牲)が及ぶことが明らか」
         ≒(ほぼ等しい)「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」(防衛出動の要件)

2.「我が国の存立を全うし、国民を守るために(他に適当な手段がない)」の文言は、  「他国防衛」ではなく「自国防衛」の趣旨を明確にしたもの

3.1+2=「個別的自衛権」

これは累次、政府の皆さんがご答弁をされている、1は、「国民の幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険とは」、「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻な重大な被害-戦禍、犠牲ともおっしゃってますが-に及ぶことが明らかである」というものです。

2では、「他に適当な手段がない」というところだけよく引かれますが、そうじゃなくて、2のポイントはあくまでも、「我が国の存立を全うし、国民を守るために」ということです。安倍総理も、これは他国防衛ではなく自国防衛なんだとよく云われますよね。であればですね、私が理解する国際法の常識ではこれは個別的自衛権だと云わざるを得ないんです。

それで、昨年の7月(集団的自衛権を)閣議決定をされたときの総理の会見では、こんなことをおっしゃってるんですね。8頁に及ぶ閣議決定文の中で、集団的自衛権という言葉はたった一か所しか出てこない。しかも主文のところじゃなくて、判決でいえば傍論的のところで、国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合があると書かれているだけですね。
くわえて安倍総理はこうおっしゃってるんですね。集団的自衛権が現行憲法の下で認められるのかという観念論ではなくと。それから新3要件はいままでの3要件とほとんど同じですと云われている。

ですから、安倍総理、どうしてこれが集団的自衛権の限定要因になるんでしょうか、私にわかりやすく説明いただけないでしょうか。

安倍総理:個別的自衛権とは、一般に自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止することが正当化される権利をいい、集団的自衛権とは一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利をいうと、このように解されてきております。

日本国憲法の下で、我が国による自衛の措置として武力の行使が許容されるのは、あくまでこの新3要件が満たされる場合に限られるわけでございます。そこで、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」と書いてあり、そして、「他にこれを排除する適当な手段がない」と書いてあるから、江田委員は、これは個別的自衛権ではないかという主旨のご質問だと思います。

しかし、現象として、現象としてですね、我が国に対する武力攻撃が発生していない、そして目的が事実上我が国の存立(を損なう)ために行う武力行使だとしても、密接な関係のある他国に対しても武力攻撃が発生している以上、国際法的には集団的自衛権として行使しなければ、個別的自衛権としては行使できない、このように我らは理解しているところであります。


江田委員:いま安倍総理がおっしゃったことはまさにこれまで日本政府が取ってきた立場でありまして、これがいかに国際法上でいくと、(個別的自衛権を)必要以上に狭く解釈した、日本特有の解釈であったということをこれからご説明したいと思います。

パネル2 集団的自衛権について国際法上の学説

①他国防衛説
=他国を防衛する権利
(刑法上の正当防衛のうち「他人の権利の防衛に相当」)
  ※ 通説=国際司法裁判所(ICJ)ニカラグア判決

②死活的利益防衛説
=他国への攻撃で自国の利益が死活的に害された場合に行使

国際法上の学説がありまして、集団的自衛権とはあくまでも他国を防衛する権利、これは国内法の刑法の正当防衛の項目を読んでいただければ、自己または他人を防衛する権利が正当防衛なんですね。したがいまして①が、集団的自衛権なんですよ。

で、いま総理がおっしゃったのは②なんですね。少数説です。死活的利益防衛説といって、これは他国への武力攻撃の結果、自国の死活的利益が害された場合に行使できる。これを集団的自衛権だと解するのが②なんですが、これは残念ながら少数説なんですね。通説じゃないんです。まさに、今回の存立危機事態に書いてある要件は、まさに②に対している。よく似てるんですね。ホルムズ(海峡)の問題でもそうでしょ。要は、この②の説を採用して集団的自衛権というのは間違っているというのを一点申し上げておきたいと思います。

次のパネルを。国際法の概念を簡単にいうと、自国を守るための権利が個別的自衛権、他国を守るための権利が集団的自衛権、これは国際司法裁判所の解です。国際司法裁判所というのはご承知の通り、いうまでもなく国際法の有権解釈をする唯一の機関ですからね。日本政府といえどもこれに異を唱えることはできないわけであります。

それでこういうことなんですね。自国が攻撃されたか、他国が攻撃されたか、という現象面をとらえて、自国が攻撃された場合は個別的自衛権、他国が攻撃された場合は集団的自衛権といったんです。ですが、国際司法裁判所の理解では、他国が攻撃されたといっても、結局それが自国を守るために発動されたならば、それは個別的自衛権だと、これは確固とした国際法上の解釈なんですよ。

パネル3

(日本政府の個別的自衛権)(国際法上の個別的自衛権)   
自国が攻撃される  → 自国を守る権利
               ↗
(日本政府の集団的的自衛権)(国際法上の集団的自衛権)
他国が攻撃される  → 他国を守る権利


以上のようになっています。安倍総理、私は湾岸戦争、PKO法案のときも三日三晩徹夜したときには、国会対応として官邸におりました。周辺事態法のときも私は携わらせていただきました。橋本総理は非常にご熱心で、執務室に外務官僚、防衛官僚呼び入れて、逐条でやりました。

なぜ、日本政府がこういう対応になってきたかというと、いちばん大きいのは憲法解釈ですよ。私は大学時代、芦部信喜先生、宮澤俊義という憲法の大家の一番弟子で、芦辺信好先生に憲法学を教えてもらいましたが、いまでも憲法学会の通説は自衛隊は違憲ですからね、文言解釈上違憲だというのは通説ですからね。安倍総理には釈迦に説法ですけども、(9条の)2項で戦力の不持や交戦権の否認がある。

ですから形式文言的には違憲ですが、自衛隊はこれだけ国民に定着して愛されてしかもリスクを負ってがんばっていただいている。自衛隊をちゃんと位置づけていくべきだとは思っているけれど、(憲法とのかねあいから)戦後の歴代内閣は知恵を絞って、必要最小限の自衛の措置だとやってきたわけですね。ですから国際的なスタンダードからすると、大変狭く(個別的自衛権を)解釈してきたと。それはやむを得ない面もあったと私は思ってるんですね。

ですから、私はいままでの憲法解釈との論理的整合性というのであれば、最高法規の憲法の法的安定性というのであれば、やはりいままでとってきた個別的自衛権は必要最小限度認めるけれど、集団的自衛権は認めないという法理、論理的整合性を逸脱しては絶対ダメだと思ってるんですよ、絶対、絶対。

その限りにおいて我々維新の党の考えは、個別的自衛権を必要以上に狭く解釈していたところをですね、さっき申しました、核・軍事オペレーションの発達とか、武器技術の進展とか、安全保障環境の変容によって、通常兵器敷かない時代とは格段に変わっているから、そのために万全の措置をとるために、個別的自衛権の範囲を国際標準に合わせて適正化をするということで、かろうじていままでの憲法解釈の整合性を図っていくということなんです。

※重複を避けたり、煩瑣な会話体を読みやすくするために多少の補正をくわえています

この質疑のハイライトは、周辺事態法改正の「立法事実を示せ」でしょうね。どこに法律を変える必要がある具体的事実があるのか。南シナ海なのか、ホルムズ海峡なのか。どこで、その「立法事実」は起きているのか?その質問のさなかに、安倍総理は消えます。「あれっ、安倍総理はどこへ行ったんですか?」と江田委員が尋ねると、自民党席から、「ちょっと、トイレへ」という誰かの声が。

(敬称略)

スポーツ報知につまびらか

2015-05-20 23:54:00 | 政治
20日、NHK9時のニュースでは国会中継を編集して、以下の部分は流れず。報道ステーションも「ポツダム宣言」には触れず。ネットのニュース検索でも、いまのところ、スポーツ報知のみが報じている。

安倍首相「ポツダム宣言存じ上げない」で志位氏と討論かみ合わず
http://news.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%85%9A%E9%A6%96%E8%A8%8E%E8%AB%96

志位和夫
「ポツダム宣言が規定する侵略、間違った戦争としてるが、認めるか」
安倍首相
「ポツダム宣言についてはつまびらかに読んでない」



いまは亡きチャンバラ兄弟の勇姿

もちろん、私は「ポツダム宣言」を読んでいない。あなたもそうだろう。国民のほとんどがそうだろう。でも、「戦後レジュームからの脱却」をいい、村山・河野談話に代わる「戦後70年談話」を出すという安倍首相が読んでいないのは、やはり問題だろう。安倍首相が読んでいないのを問題にもしないマスコミはもっと問題だろう。ポツダム宣言を受諾して、降伏、終戦、占領という戦後の起点なのだから。もちろん、マスコミもつまびらかには読んでないだろうから、いまごろあわてて読んでいるだろう。ちょっとそこのあなた、「世界征服を企み」に小鼻をふくらましているあなた、そこは制服じゃないですよ。たしかに、日本の少女アニメは世界征服したようなもんですが、セーラー服とは無関係です。ま、「つまびらか」に反応してニヤニヤしているあそこのおっさんより、はるかにましですがね。おい、そこで綾瀬はるかを思い浮かべるなって! いくらスポーツ報知だからって、そういう読み方はないだろう。

(敬称略)

大阪都構想の否決のオケツ

2015-05-18 23:40:00 | 政治
僅差で「大阪都構想」は否決された。不必要な行政改革と思うが、この7年間に費消された夥しい時間と金が無駄であったとは思わない。橋下徹市長は記者会見で、否決の結果を出した大阪市民について、以下のように述べた。



本当によくいろんなことを考えていただいて、かなり悩まれたと思うし、非常に重い重い判断をされたと思うが、日本の民主主義を相当レベルアップしたかと思う。

投票率が高い上に僅差という結果は、賛成派と反対派が拮抗したにとどまらず、賛成とも反対とも決めかねた人が少なくなかったという背景を物語っている。そうした市民レベルで広汎な議論が交わされたことを踏まえて、「日本の民主主義を相当レベルアップした」と橋下市長は溜飲を下げたわけだ。

民主主義の核心を市民間の活発な議論におくというというだけでも、「右翼タカ派」と目される彼が原理主義的な民主主義者であることがわかる。「任期中は市民から独裁を託された。嫌なら次の選挙で落とせばよい」というかねてからの主張も、投票民主主義の一面を正確にあらわすものだ。

昨日曜日は、辺野古基地新設に反対する沖縄県民大会が催され、3万5千人もの人々が那覇市の野球場を埋め尽くした。初めて参加した翁長雄志沖縄県知事は、「道理と正義は私たちにある」と演説して、日米両政府に米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去と辺野古基地建設取り止めを要求する大会決議を採択した。


会場となった沖縄セルラースタジアム那覇の定員は3万人である

橋下市長や翁長知事、安倍首相の支持率の高さは、直接民主主義への渇望という同じ根から生じているように思える。いずれも民主主義手続き論の立場からみれば、「横紙破り」と批判されてしかるべきだが、ほかの二人よりも、弁護士だけに橋下徹がいちばんその点に慎重な姿勢であるのは皮肉である。

橋下徹の幸と不幸は、彼の「大阪都構想」という「横紙」ではなかったか。翁県知事の「米軍基地県内移転反対」や安倍首相の「安保改定」や「憲法改正」という「横紙」に比べれば、「大阪都構想」はいかにも矮小で無意味にみえる。具体性に乏しくあいまいな改革イメージの先行にもかかわらず、いや、だからこそ、大阪府・市政において維新は第一党を占め、国政にも影響力をもつほど国会議員を擁する勢力に伸張した。

橋下徹をシングルイシューを掲げたポピュリズムの政治家と嘲笑するマスメディアや知識人、官僚・役人、労組幹部ら表立った政治占有者を蹴散らかし、国民の直接民主主義への渇望に独裁的手法をもって応え、現状打破イメージの火をつけること。そこに向かってすみやかに軌道を修正した安倍首相や翁長知事は、橋下徹の亜流と見なすことができる。


リンカーンセンター訪問のため、オバマ大統領の車に同乗した

戦前はいうまでもなく、それ以降も、「戦後」という留保付きのいびつな民主主義が続いてきた。とすれば、いま私たちはようやく、ファシズムを生むほどの民主主義に到達しつつあるといえよう。民主主義の成熟はその次の段階である。

(敬称略)



ゴシップ的追悼

2015-05-13 23:58:00 | 政治
松圭さんが亡くなった。85歳だから早すぎるということはない。長生きしすぎたといわれる場合、その生涯の仕事が限界をさらしてしまったか、もうろくして晩節を汚したという含意があるわけだが、松圭さんにはもちろんそんなことはない。「あの菅元首相の政治の原点」と「不肖の弟子」のとばっちりを食いこそすれ。

訃報には学会の会長や理事長などの肩書きや論壇の受賞歴が仰々しく並ぶが、西欧の政治学理論の紹介や翻訳ではなく、日本独自の市民自治の政治理論を打ち立てた諸著作と実践活動において、ある意味では師匠の丸山真男以上の影響を日本の政治に及ぼしている。


私がお目にかかった頃は、まだ半白髪でした

というようなことを訃報を契機に書き連ねるのは、とても私の任ではない。日本の政治を考える際には必読といわれる数多くの松圭さんの著作のうち、ほんの数冊しか読んだことはないし、まっとうな理解をしているとはとうてい思えないからだ。にもかかわらず、「松圭さん」となれなれしく呼ぶのは、なにより、ご本人がそう呼ばれるのにふさわしい、気さくで闊達な人柄だったからだ。

その謦咳に接した、全国の市民自治グループのメンバーや自治体職員、地方議会の議員たち、もちろん、政治学の弟子や後輩たちも、たぶん、「松圭さん」とか「松圭」と敬愛を込めて呼びながら、「市民社会」や「市民自治」について仲間と語り合った覚えがあるはずだ。

私も一度お目にかかったことがある。「その謦咳に接した」というにはほど遠い不真面目なインタビュアーとしてだったが。たぶん、「松圭さん」は誤解したのだろうと思う。紹介者がいまは亡き先輩のMさんだったからだ。私の「松圭さん」呼ばわりも彼の影響からきている。市民自治の唱道者の「松圭さん」と自治体の政策課題として市民自治を導入するために、市民派政党づくりとその選挙戦まで携わっていたM先輩は、日常的な交流があっただけでなくとても親しかった。

私は当時発足したばかりの文部省の生涯学習の提灯記事を書く予定だった。文部省の教育白書の生涯学習の項を読み、『社会教育の終焉』という批判書が出ていることを知り、Mさんに紹介を頼んだのだ。反対批判する学者の声も、「指摘のような課題は少なくないが」とアリバイ的に入れて、ちょちょんのぱと仕上げるつもりだった。

松圭さんにしてみれば、市民社会と市民文化について現状分析のコメントぐらいに予想していたのだろうし、なによりMさんが紹介する後輩だから、優秀な人物なんだろうと思ったのかもしれない。「できれば、今日か明日にでも」というアポイントメントを快諾してくれた。

Mさんを先輩呼ばわりしていたが、学校や会社が一緒だったことはなく、フリーライターと兼業していた、市場調査や大規模店舗の立地計画などの仕事を受注する際に、いろいろ教えてもらっていたその道の先輩という意味だった。

松圭さんと待ち合わせたのは、ご自宅の最寄り駅の西武新宿線小平の駅前だったと思う。時間は午後3時。大学が休みの土曜日だった記憶がある。松圭さんは厚手のセーターにマフラーを首に巻いて改札口の前に立っていた。背が高いなというのが第一印象だった。私は15分ほど遅刻していた。フリーライターは大学教授なんぞより、ずっと忙しいのだ。

「すいませんすいません」と口先だけで謝っていると、「うんうん、いいからいいから、ちょっとそこらへんの店に入ろう」と大股でずんずん歩いて行く。喫茶店を過ぎて、居酒屋の席に着くと、松圭さんはさっそくタバコをくわえ、矢継ぎ早に注文をはじめた。

(まいったな。いきなり吞むのか。居酒屋の勘定となると銀行に行かなくちゃな)という困惑が顔に出たようで、「僕が誘ったんだから、ここは持つから」と松圭さんは馬みたいな長い顔をにっこりさせた。(ははあ、この先生が吞みたいわけだな。家じゃ、奥さんの手前昼間から呑めなかったりして)とほっとして、ビールに口を湿らせた。

「フリーライターかあ。僕も昔はあちこちの雑誌に書きまくっていた時期があった。フリーライターみたいなもんだったな。その頃はね、若手の学者が殴り込みをかけるみたいに、朝日ジャーナルなどで書いていたもんだった。いまはそういうことはなくなったがねえ」と紫煙に遠い目をうつした。

(昔話をしてもらっちゃ困るな)と、とりあえずの世間話の口火を私は切った。「先生は市民市民といわれますが、昭和天皇の病気快癒の記帳に女子高校生までがおしかけたそうじゃないですか。日本人はあいかわらず臣民じゃありませんか?」

松圭さんの目がすっと光ったようにみえた。知らぬこととはいえ、「大衆天皇制」をまっさきに書いた御仁を愚かしくも挑発してしまったのだ。私は、『社会教育の終焉』だけを拾い読みしかしてこなかった。ウィキペディアもなく、松下圭一についてなにも知らなかった。

それから約6時間、夜の9時近くまで店を変えながら、私はバカな質問と反論をくり返した。さすがに、松圭さんの呆れ顔に気がついたが、「わからんちんの素人を啓蒙するのも、大学や大学人の社会的使命のひとつですから、ひとつかんべんしてやってください。わはは」とまでやった。私は酒に弱く、すぐに酔うのだった。


若き日の「松圭」さん。東大を都落ちして法大へ来た頃か

じつに赤面の思い出だが、この項続きます。松圭さんについてはその若き日の怜悧な風貌を断片的に聞き知っています。私がお目にかかったときの、唇に笑みをたたえ、要点にかかると髪をかき上げながら、熱心に語る印象とは別人のようです。学生だった面影を残しながら、懐の深いおじさんという感じでした。

ずっと後年に会った、まだ東大退官前の養老孟司さんの話を聴いていて、同様な感じを受けました。そういえば、養老さんも、「定年前に辞めて、フリーライターになるつもりです」と笑っていました。心中、(たぶん、養老さんの書き物だと売れないっすよ)と茶々を入れたことを覚えている。

おそらく、市民自治の研究にともなう実践活動や運動体に携わるなかで、松圭さん自身も得るところが多く、変わっていったのではないかと思います。