コタツ評論

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ゆれる

2007-02-28 19:28:06 | レンタルDVD映画
佳作だ。香川照之・オダギリジョー2人の好演をはじめ、田口トモロヲの裁判長は当然のことながら、木村佑一の検事が見事にリアル、とキャスティングは素晴らしかった。

http://www.yureru.com/splash.html


だが、殺人か事故かの謎に向かうリーガルサスペンスとしては、見逃せない疵がある。兄の腕の傷に最後まで誰も触れないのはおかしい。腕の傷は殺人と事故のいずれの傍証にもなり得るのに、まったく論議なく一方に決着させるのはご都合主義だろう。被害者の解剖所見を裁判の証拠に提出していながら、被害者の爪の間に皮膚片が残らなかったのはなぜか。川に流されるうちに失くなったとしても、それが観客に示されていなくてはおかしい。

人間心理の奥底を探った心理ドラマとしては、都会で自己実現と田舎に埋もれるという対比だけでは浅薄。都会と田舎を人の絆の有無で対比させるのも、絆の中心である兄が、「あの町が温かいなんて」と絶句しただけでは困る。また、29歳にもなって都会に憧れ、簡単に弟と寝てしまう女が愚かしすぎて、哀れさがない。売れっ子カメラマンとして、女遊びには慣れているはずの弟が兄に下手な言い訳しかできないのも不自然だ。

すべてを奪う弟と奪われる兄というなら、実は奪ったようで喪っている弟、奪われたようでいて何かをしっかり握っている兄という逆転があり、そうした奪い奪われる関係性を止揚(懐かしや、マルクス主義。しかし、これ以外の言葉を思いつかない)する高次の問題に続かなくては、関係性が変わるドラマツルギーの昇華は生まれないだろう。ガソリンスタンドの店員がいうように、「兄を取り戻したい」という言葉が最後まで浮いてしまった印象がある。

最後の兄の微笑み。演出も俳優もしてやったりかもしれない。ただ、劇映画としてはこうしたドキュメンタリータッチは邪道であり、テーマやモチーフによってかろうじて許されるだけで、やはり「野暮」な手法だと思う。人間ドラマとして最後まで不十分だったという印象を深めたと思う。女性監督らしく、仰々しさを避けた自然な編集には好感が持てるのだが、意味ありげにカメラを固定し、俳優に任せるというより、頼っているようにもみえる。どこか芯がない、希薄に思えるのだ。つくり手が何を撮りたいか。そこがゆれていないか。解釈を押しつけない、それが狙いとはいわせない。


セレブの種

2007-02-27 12:01:45 | レンタルDVD映画
酷いタイトルだ。
ロイク映画では定評あるスパイク・リー監督作品。ハーバードビジネススクールMBA卒のエリート黒人青年が、エイズ新薬開発にからめて株価を操作する会社の不正を内部告発したものの、逆に濡れ衣を着せられて失職。金のために子どもが欲しいレスビアンの種馬ビジネスをはじめるが・・・、というお話。

http://www.celeb-tane.com/


スパイク・リー映画の美点のひとつは、「俺たちの痛みがわかるもんか!」という素朴ではあるが低劣でもある地点から、遠い場所に黒人の人々がいることだ。ギャングでもなければ、ラッパーでもなく、スポーツエリートでもなく、民主党ではなく共和党を支持して、「街頭でやたらに踊るな!」と怒ったりする黒人が登場するのがスパイク・リー映画だ。この映画でも、雄として性能力に長けた黒人イメージを肯定も否定もせず、レスビアンの女性たちの「産ませる機械」というフェミニズム的な視線を加えて、現代に生きる等身大の黒人青年を描こうとしている。

種馬で稼ぐ一方、会社の不正と闘う正義を青年は手離さない。彼の脳裏を去来するのは、ウォーターゲート事件の端緒となった一人のビル警備員の報われぬ生涯である。ニクソン退陣にまで至ったウォーターゲートビルへの侵入を通報した黒人警備員は、事件に関わった政界の大物や切れ者たちが、その後も裕福で著名な人生を歩んだに比べ、英雄とも称えられず貧しいままに忘れられた。種馬黒人青年は、「自分も彼のようでありたい」と決心するのだ。

濃い顔にさらに濃い演技でときに辟易させるジョン・タトゥールが、マフィアの親分に扮し、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドのマフィア会議での演説を真似る。「麻薬を学校の近くや子どもには売らないでくれ」とNYの親分衆に釘を刺し、「黒人だけに売ることにしよう」と「良識」に訴えるあの名場面を種馬黒人青年に披露するのだ。実は親分の最愛の娘(モニカ・ベルッチ)が種馬青年の客になって妊娠したのを知り、首実検に連れてこさせたのだ。マーロン・ブランドの物まねをした後、親分は種馬青年に尋ねる。

「なぜ、黒人の犯罪率は異常に高いのか?」。種馬青年は、親分の真意を測りかねながらも、つまらなそうに、「貧困、教育の不在、家庭の崩壊、ブラーブラー」と答える。このブラーブラーと聞こえるのは、エトセトラエトセトラ、あれやこれやという意味らしい。「客のことは知っておかなくちゃな」という親分に、「わかりきったことを聞くな」とばかりに、ブラーブラー。公式論以上のことはいわないわけだ。親分もつまらなさそうに頷いて、首実検は終わる。くだらないインテリ野郎かどうか、親分は試したわけだ。

イタリア系とアフリカ系という被差別者同士が、ともに個人の力量を頼りに差別をはね返してきた男が、差別について語るとき、どんな態度でどんな言葉を選ぶか。噛み合わない世間話のように二人の差別論議は途切れて終わる。スパイク・リーらしく、差別をベタには語らず、被差別をどう語るかまでをメタに扱ってみせる。お気に入りの俳優を使った遊びの場面に見せているところが心憎い。          

金も女も仕事もほしい、しかしそのどれにも満足はできない。ただし、子どもと家族は別だという結末はお定まりだが、とりあえず俺たちには、それを否定するような根拠はないし、それ以外の生きかたも見えていない。種付けされた女たちの出産シーンには実写が使われ、膣から赤ん坊の濡れた頭が出てくる。母親の苦悶と安堵の瞬間、歓喜の表情には、産んだことのない俺にも感情移入できた。母親はその瞬間、何のために自分がこの世界に生まれてきたかを知る、のだろう。そして、いま産まれたばかりの赤ん坊に、「私を守って!」と祈り念じるのだろう。

俺たちは必ず女から産まれる。ならば、すべての女は俺たちの母親といえる。ときに俺たちは、「私を守って!」という女たちの心の声を聴く。だが、俺たちは聴こえないふりをする。俺たちはもう赤ん坊ではないし、といって女の父親になる気もない、その他ブラーブラーによって、俺たちは女たちを裏切り続けるのだ。


ドリームガールス

2007-02-23 23:44:25 | レンタルDVD映画
久しぶりの映画館。新潟で。

特筆はエディ・マーフィ。髪型はチャック・ベリー、バックコーラスにすぐ手をつけるところはレイ・チャールズ、歌い方はジェームズ・ブラウンがモデルか。歌うまいな。評判の高いジェニファー・ハドソンより、エディ・マーフィのステージパフォーマンスに感心した。ロイクミュージック全般に造詣が深い友人マルSの蘊蓄を聞いてみたくなった。が、映画として、音楽映画として、あまり上出来とは思えなかった。安手の造りという印象を拭えなかった。金はかかっているが、ビヨンセ以外に本物の歌手が出ていないせいかもしれない。「ブルースブラザース」を観たときのワクワク感は、冒頭のコンテストシーンで「ドリーメッツ」が「ムーブ」を歌う場面くらいだった。「チビ」というニックネームの巨漢のブルースもよかったが。


ジェニファー・ハドソンも、アメリカのスター誕生番組「アメリカン・アイドル」だなあ、と思っていたら、やはり応募していて、最終選考まで残ったそうだ。「アメリカン・アイドル」のアマチュアたちは、それぞれ仰天するほど歌えるのだが、山口百恵は出そうもない。少年少女たちの偶像(アイドル)という想像の帝国に仕えるというより、どれだけ巧く歌うかという技能コンテストに番組の目的は近いからだ。ジェニファー・ハドソンも圧倒的な歌唱力なのだろうが、ただでかい声だなあと思うだけで、すぐに飽きる。むしろ、エディ・マーフィがニュアンス豊かに歌っていたと思う。落ち目になってからの抑えた哀愁がいい。最後は、ドラッグで死ぬが、その動機は音楽的な行き詰まりではなく、妻と愛人の板挟みだったのではないかと身につまされた。

ディティニー・チャイルドのビヨンセ・ノウルズがジェニファー・ハドソンに食われたというが、競って歌った「ワンナイトオンリー」を比べたとき、俺はビヨンセのほうが好ましかった。小唄端唄をなぜ、ジェニファー・ハドソンはああも大げさに歌い上げるのか。ソウルフルを誤解しているように思える。それなら、間奏の合間にアーとか、ウーとしかいわないジェームズ・ブラウンはどうなるんだといいたくなる。

ところで過日、FMでピーター・バラカンがジェームズ・ブラウンの追悼番組をやっていて、3時間くらい聴いてしまった。ジェームズ・ブラウンは、あの猿人もどきの容貌と、アーとか、ウーとしかいわない「セックスマシーン」といった歌、臭いマントショーのイメージから、アメリカの三波春男くらいに思っていたが、非常に革新的な音づくりに熱心で、政治的なメッセージソングも歌っていて、ジョン・レノンみたいなアーティストだと遅まきながら知った。

そうそうビヨンセ・ノウルズの「ワンナイトオンリー」。映画ではジェニファー・ハドソンのソウルフルな歌いぶりに比べて、商業主義的な楽曲とされていたが、とても可愛くチャーミングに歌っていた。やはり、唯一のプロだけのことはあると思った。ソウルのなんたるかがわからないといわれても、俺ならビヨンセに金払う。比べるなら、ダイアナ・ロスとシュープリームスだろうが、その色艶は比べものにならない。「ラブ・チャイルド(私生児)」には痺れたな。この小唄端唄ではない歌詞を小唄端唄と同様に歌う洗練。やはり、昔の人は偉かったんだな。

学ばない人は学ばない

2007-02-12 14:44:50 | ノンジャンル
「女は産む機械」
「子ども2人を持ちたい若者は健全」
「産婦人科医の減少は少子化でニーズが減ったから」

問題視され、批判されても、子どものようにムキになっている柳沢大臣。
専門の金融政策分野では、突っ込まれることなど皆無だったので、面食らったまま動揺が続いているとしか思えない失言の積み重ねだ。






柳沢家では、大臣以外はぜんぶ女性だという。女性を相手に議論したときは、言葉遣いはきわめて大事なのだが、何十年も女たちと暮らしていながら、たいして学んでこなかったようだ。

男なら誰だって、女性と言い合いしたあげく、90%以上の勝利を確信した直後、「そういういいかたってないと思う」の一言で形勢が逆転して、唖然とした覚えがあるはずだ。この「いいかた」がPC(ポリティカル・コレクト=政治的な公正)だ。

一般的に議論の目的は、自分の主張に対して相手からなにがしかの譲歩を引き出すことにある。上記の男の場合、「今度の休日には釣りにいかせてくれ」という希望を実現させたいわけだ。

ところが、「たまには釣りぐらいさせてくれても・・・」の「たまには」と「ぐらい」が、夫婦間の分業体制への日頃からの不満を煽ってしまった。もちろん、これは「言葉尻」への「揚げ足取り」だ。

いいかたを改めようと承知しないし、ほかにいくらでも言上げの種を見つけるだろう。しかし、自分の希望を実現するため、「今度の休日には、ホームセンターで大きな植木鉢を買うのについてきてほしい」という相手の要望を先送りしなければならない。

男は、大きな植木鉢を持ち帰る助力を求められていると理解し、ホームセンターから配達させる、前日の夜に行く、などいくつかの提案をするものの、女から言下に却下されている。そこで、「たまには」と「ぐらい」と愚痴っぽい非難が口をついたわけだ。

つまり、非難の口火を切ったのは、男の方だった。相手を非難することで議論の足場を自ら壊してしまった。ほかの何を非難しても、相手を、ことにそれが女の場合、けっして非難してはならない。

女の「いいかた」への非難は、そうした男の首尾一貫しない姿勢と誠意なき態度に向けられている。男は実務や作業という側面しかみていないが、女はその背景をこそ、つねに観察しているのだ。

結果や成果だけでなく、2人の合意形成に至る過程を重視している以上、同意や説得の言葉そのものが彼女にとっての結果や成果のひとつといえるかもしれない。したがって、あなたのことを第一に考え思っている、それを言葉の端々に印象づけるよう話すべきなのだ。

PC政治的公正とは、そうした努力を相手に見せることによって、かろうじて議論の枠組みを維持し、具体的な結果や成果への合意形成を得ようとする日常的な営為である。したがって、事実の追及を目的とする議論のための議論とは、異なり相容れない。

結局、俺を釣りに行かせたくない、俺が楽しむのを邪魔したいだけ、ただの意地悪ではないか、と理解するのはたやすいが、家庭における合意形成にとって論外の考えかたである。それを言葉や表情に表したとたん、「男らしくない」とその資質を問われてしまう。

男というリソースの再分配の問題であり、時間であれ労力であれ、再分配は必ず不公平感をもたらすのは必然であり、リソースを利用する女に不平不満が生まれるのは当然でもある。それを前提とすれば、PC政治的公正に配慮した言葉遣いを嫌々ではなく、むしろ積極的に採用しなければならない。

さて、男は釣りに行けるだろうか。少し聡明な女なら、家族一緒の釣り旅行を提案するかもしれない。それで、リソースの再分配の点では合意形成といえるかもしれない。男のしょんぼりした顔が見えるようだ。

ひとつの政局としては、男の次の休日の釣行は取り止めになるかもしれないが、男が釣りを楽しむ自由そのものは否定されたわけではない。あくまで、男の釣行きへの合意形成である以上、その方向は定まったままであり、政治的な敗北とまではいえない。

しばしば男は、女が求める同意にあわてふためく。たとえば、「愛してる?」というやつだ。向けられた同意が合意形成の枠組みを突破する鋭い切っ先を持つことを、その危険を無意識に感知するからだ。

合意形成とは演繹的につくられた擬制であり、さまざまな同意を積み重ねたものではない。近代化を接ぎ木した日本では、逆に多くの同意を無視してきたあげくの合意形成といえる。実体を持たない理念である以上、つねに脆弱であることは避けがたい。

一見、無茶な、非論理的な、悪意に満ちたと思われる非難であっても、暮らし共同体から出た女からの非難には根も葉もある。それは合意形成を間違いなく鍛え上げる。少なくとも、一人で釣りに行く自由と楽しさを家族と過ごす時間の充実と比較対照する契機にはなる。

合意形成に向けた政治的に公正な言葉遣いは、民主主義が与件とする「不断の努力」のひとつに相当するものであり、擬制を維持するためのごまかしではない。「不断の努力」を強いる側に正当性はあり、だからこそ、「不断の努力」をするとする政権に正統性が付与される。

「不断の努力」が、実は「不断の譲歩」であっても正統性だけは手離したくない。正統性を失えば政治的な公正は成り立たず、政治権力も消える。「うるさい! 何をしようと俺の勝手だ」と釣りに行けば、そこで女との関係性は損なわれる。

釣りから帰ってきて、誰もいない部屋の電気を点けたとき、女というリソースだけでなく、自分という再配分可能なリソースも失われたことに気づく。資源は再配分され利用されて、はじめて資源として機能する。最大限に利用されなければ、ただのゴミでしかない。

男は釣りに行ってはいけない。代替として、女を釣りに誘ってもいけない。潔く、快く、まるで自分が思いついたように、ホームセンターへ大きな植木鉢を買いにいくべきだ。それを唯々諾々というは不見識な者である。

トリプルクロッシング

2007-02-09 22:34:48 | レンタルDVD映画
映画はやはり映画館で観るのが本筋だと思うが、こんな作品はDVDレンタルでしか観る機会はないだろう。

http://posren.livedoor.com/detail-79803.html?ln=17

一言でいえば、2流。脚本はつじつまが合わないし、展開はのろい。やくざな男たちは類型的だし、女たちもただのバカばかり。もう一言つけ加えれば、粗雑。だが、その反対の優等生ぶった、たとえばナイト・シャマラン作品などより、ずっと好きになれる不良品だ。ナスターシャ・キンスキーをはじめとする、3人のみじめな境遇の女たちが、右往左往しながらカジノ強盗計画に巻き込まれるなかで、同志的連帯を結んでいくところが泣ける。最後のナスターシャ・キンスキーはまるで、「女囚さそり」の松島ナミのようだ。アメリカ映画なのに、ロシア人ばかり出てきてロシア語がとびかうところが、いまのアメリカ映画らしくていい。けっして、お勧めの映画ではないが、映画を観るという無為な時間の過ごしかたに、ほどよくマッチしている。名作や傑作を求めて選り好みするのは卑しい。うん、このブログのタイトルを「何様かよ」に変えよう。「何が粋かよ、吹きさらし」に比べると腰が引けてるが、分相応だろう。