「
ある過去の行方」を観ました。
フランスでロケした仏伊合作映画ですが、イラン映画といえます。2012年12月に当ブログでも紹介したイラン映画「
別離」が米アカデミー外国語映画賞をとるなど高い評価を得たので、アスガー・ファルハディ監督に仏伊が資金と配給を引き受けて撮らせたのでしょう。フランスに移住したイラン人一家の離婚と結婚と不倫が織りなす男女の愛の文様を描いた作品です。
ただし、パリのカフェやクロワッサンは登場しません。パリ郊外の変哲もない小都市しか出てきません。甘い言葉は囁かれず、「愛してる」はもっと切実な訴えです。濃厚なラブシーンはありませんが、中年にさしかかった男女の暮らしのなかの肉感は描かれます。たがいの髪や肌や唇はたがいの手指や吐息がすぐに触れるほどなのに、もどかしくからまっている心は解けません。
薬剤師としてつとめるシングルマザーのマリーは、思春期の娘二人に再婚予定の男の連れ子とも同居する四人暮らし。毎日が目が回るように忙しく、心配事も多くて気の休まる暇もありません。結婚予定のクリーニング店を営む年下の男サミールの連れ子ファドはマリーに反発し、長女はなぜかサミールを嫌うように避けて結婚に反対しています。そこに、4年前に別れ故国イランに帰っていた前夫アフマドがやってきます。正式の離婚手続きをするために、マリーが呼び寄せたのです。
冒頭、空港でマリーがアフマドを迎えるところで、この映画で象徴的に多用されるガラス越し対面場面が出てきます。到着ロビーのマリーが先にアフマドを認め、手荷物受取りロビーのアフマドもマリーに気づきますが、二人は厚いガラスに隔てられています。たがいのジェスチャーを目で追い、口の動きで伝え合うしかありません。こうしたガラス越し場面は後のほうにも出てきますが、求め合い伝え合おうとするのに些細なことでうまくいかない関係です。
ホテルに泊まるつもりだったのに、マリーが予約していなかったために、アフマドは子供部屋に泊まるはめになります。マリーはバツ2で、娘二人はアフマドの前の夫との間にできた子どもですが、アフマドにはなついています。やがて、長女のリュシーがマリーとうまくいっていないことに気づき、リュシーの相談に乗ろうとしますが、そのリュシーからマリーが再婚予定であることをはじめて聞かされて驚きます。
翌朝、訪ねてきたサミールと対面し、アフマドはますます居心地が悪くなり、マリーの気持ちをはかりかねてとまどいます。そう、マリーとアフマドはかつて愛し合っていたし、夫婦関係を解消したいまもたがいを憎からず思っているのです。愛が冷めたというより、求め合い伝え合おうとするのにうまくいかず疲れたのです。だからこそ、久しぶりに会えた懐かしさは、すぐに皮肉へ口論へエスカレートします。一方、寡黙なサミールも、マリーと心の通い合いはすれ違いがちです。自殺未遂のあげく植物人間となった妻を抱えているのです。
サミールの妻が仕事場のクリーニング店で洗剤を飲んで自殺を図ったのは、母マリーとの不倫への当てつけではないか。長女リュシーはそう考えているようだとアフマドはつきとめます。そこから、真相は二転三転して驚かされますが、前夫アフマドを探偵役にした推理映画の趣きがあります。欧米の探偵ものでは、登場人物たちがさまざまな事実について言及し、あけすけに心象を語り、ときに対手を批難するという応酬のうちに真相が解き明かされていくものです。口角泡を飛ばす舌戦に、やはりイランは西欧だなと感想をまず抱きます。
しかし、求め合い伝え合おうとするのにうまくいかないことについては言い募りますが、求め合い伝え合おうとするその心については口を閉ざしたままです。いつまで待っても、けっして告白や告解はしません。汲みとるものなのです。そんなところが小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を思い起こさせ、イランの家族ドラマに惹かれる理由かもしれないと思いました。言っても詮ないことだ、すでに過ぎ去ったことなのだから、あるいはこれから待ち受けているのだから、そんな宿命的な予感のようなものが漂うところが共通しているのです。
いわば諦観めいたものなのにニヒリズムに陥らないのは、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画や「ある過去の行方」に登場する男女や肉親、周辺の人々の間に慈愛のまなざしが交わされているからです。あたかも空気のように、いつもそこにあります。それがこの映画の胆であり、最後の最後に、アフマドではなくサミールの手によって、「ある過去の行方」をめぐる謎が解き明かされる伏線でもあります。ほんの些細なことから。私たち観客は誰が誰をより愛していたかをはじめて知ります。これはわかりませんでした。予想もつかない結末でした。
(敬称略)