徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

言えなかった…。

2007-05-03 17:00:00 | 短篇

 そのひとを初めて見かけたのは…大学に通い始めてから三回目の春を迎えた頃だった…。
昼日中のバス停でぼんやりとひとり…所在無くバスを待っていた時…坂の上から不意に姿を現した。                                

坂の上から来るということは…同じ団地の住人に違いない。
団地に住んで一年になるけれど、それまで一度も見かけたことはなかった…。

少し年下か…と思われるその人は、少し距離をおいて立ち止まり、バスを待っていた…。

その年頃の女性には珍しく、化粧らしい化粧は何ひとつしていなかった。
それがかえって新鮮で…幼さの残る古風な横顔を…とても魅力的だと思った…。

何よりも目を惹いたのは…後ろで束ねられた長い髪…。
膝下までは届こうかという…長い長い黒髪だった…。

すごいなぁ…一度も切ったこと…ないんだろうかな…?

その髪の謂れに興味はあれども…いつまでも…じろじろ見ているのは失礼なので…バスが来たのを幸いに…それきり見ずにおいた…。


何日か経って、母親らしき女性と一緒に居るそのひとを、またバス停で見かけた…。

先の方まで真っ直ぐな長い髪…。
さぞかし…手入れが大変だろうなぁ…。

バレッタを外せば…全身が隠れてしまいそうな髪…。
豊かな…髪…。

綺麗な髪ですね…。

…そのひとこと…が言えず…ただ…見つめていた…。
それから何度も…バス停で一緒になったのに…。


木枯らしが吹く頃…坂の上から降りてきたそのひとの髪は…小さな旋風と一緒に舞い上がっていた…。

落ち葉をふいてくるくると回転する風…。
煽られた髪が…舞うように閃く…。

風と…髪と…落ち葉と…。

大変ですね…。

…そのひとことが…言えず…そっと…眼を伏せた…。


綺麗ですね…その髪…。
ずっと…切らずにいるのですか…?

手入れ…大変でしょうね…。
おひとりでなさるんですか…?

そのひとを見かけるたびに…心の中で話しかけた…。


卒業後…バスの時間が違うためか…そのひとに会うことはなくなった…。
時々…坂の上から降りてくる髪の長いそのひとを思い出した…。


休日…昼中のバス停は静かだった…。
何気なく…振り返ると…坂の上から女性がひとり下ってくるところだった…。

見慣れた顔の…相変わらず…楚々とした美しいひと…。

あっ…と思った…。

ばっさりと切られた髪…。
それも…顎の下辺りの長さで…。

胸がきゅん…と音を立てた…。
何故か…悲しかった…。

綺麗な…髪ですね…。

…二度と伝えることのできないひとことを…心が呟いた…。


そのひとを見たのは…それが最後だった…。
ひょっとしたらすぐ後ろに…並んでいたのかもしれないけれど…。