徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

現世太極伝(第五話 駆け引き)

2006-01-30 17:31:01 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 「だから脱ぎません! そんな写真…もっと若い子に頼んでくださいよ。
僕はもうモデルはやらないって言ったでしょう…。 」

 扉を開けると西沢の怒ったような声が聞こえた。
相庭が新しい仕事を持ってきたらしいが西沢は気に入らないようだ。

 鍵を渡された日から亮は時々この部屋で一緒に食事したりするようになった。
西沢が何を考えているのか相変わらず分からないから不安はあるが、あの家でひとり過ごす方が気持ち的にきつく思えてこうして通ってきている。
いま昨日西沢に頼まれた買い物を済ませてきたところ。

 「でもね…先生。 これはあの滝川先生のたっての頼みなんですよ。
どうしても西沢先生で撮りたいってね。
 なにも…すっぽんぽんになれって言うんじゃありません。
ヌード写真じゃないんですから。 ヌードなら女性モデルを選びますよ。
 ファンタジーなロープレゲームの世界を再現するような感覚で主役を演じて貰いたいと…。 」

 相庭はなんとか西沢の承諾を取り付けようとしていた。
滝川といえば今をときめく写真家。物語性のある不思議な世界を描くので有名だ。

 「滝川先生がなんでそんな写真を撮るんですか? 子供向けなんですか…?
それ…遊びと考えていいのかな…。遊びなら…付き合ってもいいけれど…。 」

間、髪を入れず相庭は携帯を手渡した。携帯の向うには滝川がいるはずだ。

 「滝川先生…ずるいですよ…相庭を通じての依頼なんて…。
僕を口説くなら直にしてくださいね…。 」

西沢が不満げに言った。

 『悪い悪い…きみ怖いから。 これはさ…あくまで僕の趣味で撮りたいわけ…。
仕事と考えないで協力してよ…。 西沢先生じゃなきゃだめなんだから…。 』

 ま…仕方ないか…滝川の趣味なら結構遊べて面白いかもしれないし…。
それに何か情報も手に入るだろうしね…。
携帯から流れ出る少々癇に障る猫なで声を聞き流しながら西沢はそう思った。

 西沢が承諾したので相庭は大喜びで帰っていった。
亮のために常に新しい情報を得ることが亮を救う道であると西沢は考えていた。
…亮のためになるのなら…。

 西沢の行動を訝しげに思いながらも少しずつ西沢の存在に慣れ始めてきた亮を見ながら、西沢は喉まで出掛かっている言葉を必死で飲み込んだ。



 滝川のスタジオにはスタッフが集まってセットを組んでいた。
大人の遊びと思ってくれと滝川は素肌にガウンを纏った西沢に言った。

 まるで何かのプロモーションビデオの一場面を見るようなセット…。
大量の花が持ち込まれセットのありとあらゆるところに撒かれた。

 入念に施されたメイク…その下で西沢は屈託ない笑みを浮かべてメイクさんや衣装さんたち相手に冗談など言っていたが、スタッフの前にその見事な肢体を晒すとその瞬間プロの顔になった。
モデルを見慣れているスタッフからも溜息が漏れる…。

 西洋式の木製の棺おけの中に敷かれたレースの上に仰向けに寝転がるとスタッフが色とりどりの艶やかな花で半身を埋めていく。

 「死体じゃないんだ…。 動きがいる。 西沢先生…悪いけど右の膝を立てて。
左は足先だけ残して埋めよう。 花入れて…。 」

滝川はじっと西沢を見つめていたが不意に思いついたように注文をつけた。 

 「眼は閉じたまま…少し斜めに首をあげて…唇少し開き気味…OK。
いい感じ…さすがだね。
少し眼を開けて…そう…『覚醒』だ…。 伝説の人が甦ったぞ…って具合。 」

 そんなこんなで撮影が続く。何枚も何種類も…。
写真家滝川の個人的な趣味の写真は何と表現すべきか…。
 少女趣味? アニメ的? ゲーマーの夢? ロマンチック? おとぎ話?
売れやしないさ…こんなおたく写真…と西沢は内心噴出しそうだった。

 最後の写真を撮るための森のセットが容易された。

 「西沢先生…。 『託宣』を撮りたいんだ。 全部脱いでくれる? 
それで森の方を向いて…左足を石にかけたその体勢で上半身振り返ってみて。 」

言われたとおり西沢はポーズをとった。どこが面白いんだ…この体勢の…?

 「違うな…突然何かに呼ばれた感じ…何か誘惑的なものに…或いは抗えない運命的なものに…。 神託を受けたんだから…。 」

 少し考えて西沢は太い樹木の幹に背をもたせ掛け仰け反るような体勢をとった。
眼を閉じ半ば唇を開き運命の稲妻に貫かれたような表情を浮かべた。
その後で眼を開き驚きと恐怖の表情に変えた。

 滝川は驚愕した。こいつ…たいした役者だぜ…と思いながらもその瞬間を逃さず捉えた。
モデルに勝手なことされちゃ僕もおしまいだね…。

 「悔しいけど…今のよかったよ…。 僕の発想でないのが残念だけど…。 
でも趣味の作品としては上出来…。 有難う…お疲れさん…。 」

西沢は大きく溜息をついた。滝川がガウンを掛けてくれた…。

 「相変わらず我儘な男だね。 こっちの注文を半分も聞きゃしない。 」

 滝川は参ったというように苦笑した。
西沢もニヤッと笑った。

 「だって滝川先生…遊びだって言ったでしょう? あ・そ・び…。
仕事なら注文どおりにやりますよ。 」

スタッフが片付けに追われて姿を消してしまうと滝川はそっと耳打ちした。

 「それで…ご褒美に何が聞きたいんだ…紫苑(シオン)? 」

滝川が馴れ馴れしい態度で名前を呼んだ。

 「例の…ふたつの新興勢力について…。 分かるだけでいいんだ…。
恭介の情報なら…信用できる…。 」

 できるだけ声を潜めながら西沢は答えた。
誰かが戻ってくる気配がした。

 「じゃ…上の部屋で待ってるから着替えてきて…西沢先生…。 
別にその色っぽい姿のままでも僕は構わないけどね…。 」

滝川はわざと声高に言うとひとり先にスタジオを出て行った。



 その部屋には特別な客しか通さない…とスタッフの間では有名だった。
西沢が特別な存在であることは撮影を始めたその瞬間から疑う余地はなかった。
 誇り高い滝川恭介がモデルに主導権を奪われるなど前代未聞のことである。
ただそれがどういった関係を意味するのかまでは想像の域を超えなかった。

 「結論から言えば…あのふたつの勢力が何かという正体までは分からない。
ただ…どちらも先を争うように若い能力者たちを集めている。
しかもそれはこの地域に止まらない…世界レベルで…だ。 」

 お疲れさん…と滝川は西沢にコーヒーの入ったカップを手渡した。
メイクを落としシャワーを浴びた西沢はすでにいつもの西沢に戻っていた。

 「世界レベル…そいつはまた…とんでもない規模だな…。 」

 西沢は予想外だというような顔で滝川を見た。
滝川は熱そうに淹れたてのコーヒーを啜りながら話を続けた。

 「少し前までは片方の勢力だけが活発に活動していたんだが…今やもう一方もそれをしのぐ…。
 不思議なのは我が子が何やら正体の分からないものにかぶれて家を飛び出したりあちらこちらをうろうろしているにも関わらず、親たちが何事もないかのように平然としているということだ。

 相当に強い力の持ち主が居て親や兄弟の思考をコントロールしているとしか思えないが、この地域だけならともかく全世界レベルともなると、それほどの力の持ち主がひとつふたつの組織の中にごろごろ存在しているとは考えにくい。 」

 そこまで話して滝川は大きく息をついた。
そして西沢の眼を真剣に見つめた。

 「紫苑…きみが護ろうとしている坊や…気をつけた方がいい。
やつらと少しでも関わったらすぐに洗脳される。
洗脳は容易に解けない。 

 僕の生家の一族だけでなく他の一族も若手の動きには神経を尖らせている。
狙われているのは多少なりとも力を持つ学生ばかり…洗脳しやすいからな…。
きみの一族だって例外じゃないぞ…。 」

 西沢は分かったというように頷いた。
滝川は少し表情を和らげた。

 「なあ…紫苑…。 時々撮らせてくれよ…。 今度は仕事…でさ。 
若くないからって…嘘ばっかり…十分いける…そのフェイスもボディも被写体として最高だよ。
まだ20代中じゃないか…。 僕なんかよりはるかに若いんだし…。 」
 
滝川がそうせがむと…だめだ…というように西沢は首を横に振った。
 
 「もうモデルはやらない…そう決めたんだ…。 
今回だってあくまで…お遊び…。 恭介の趣味に付き合ってやっただけさ…。 
遊びなら…また付き合ってやるよ…その気になればね…。 」

 お手上げだ…と肩を竦める滝川を見ながら西沢はいかにも可笑しそうに笑った。お互いに心隠して演じて見せた芝居ではあったけれど…。  





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現世太極伝(第四話 向けられた視線)

2006-01-29 16:48:22 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 相変わらず夕紀の携帯は切られたままで連絡が取れず、実家に問い合わせてもまだ帰ってこないのひと言だけで何処にいるとも教えて貰えず、直行は不安と心配で落ち込んでいた。

 「幼馴染ってきみに話したけど…僕ら親同士が決めた許婚なんだ。
どうでも無理にってわけじゃなくて…僕も夕紀もお互い承知した上でのこと…。
…もし…夕紀が心変わりしたのなら…はっきり言ってくれればいいのに…。」

 すでに直行の想像は悪い方へと向かっていて、そんなことあるはずないよ…なんて亮の慰めの言葉も耳に入らない様子だった。
 夕紀のような超美少女が…平凡な自分との結婚をすんなり認めるなんて所詮は有り得ないことなんだ…直行は悲観してそう嘆いた。
 
 そうかなぁ…結構お似合いだと思ってたんだけど…。
それに今から婚約だの結婚だの考えるの…ちょっと早過ぎないかなぁ…?
内心そう思いながらも、なんとも言いようがなくて亮はただ頭を掻いた。
 
 重々しい気分で学生会館を後にした亮は、正門の方でキャーキャーと甲高い声を発する妙な人だかりができているのを見た。
 夏季休暇とはいえ、正規の講義がないだけのことだから構内には大勢学生や職員が居たが、そこに集まっているのは女子学生がほとんどだった。  

 色めき立つ若い花々に取り囲まれて身動きが取れなくなっている長身の男の後姿が見えた。
 その横に興奮する彼女たちを宥め賺して何とか男をその場から逃れさせようとしている中年の男と学生会の会長や役員の姿も見えた。
 亮はなんだか分からないその集団と関わり合いになるのを避けてこそっと脇を通り抜けようとした。 

 「亮くん! 」

 背後から聞いたような声がした。
振り返ると西沢が嬉しそうに亮に向かって手を振っていた。
何者…?というような女学生たちの視線が一斉に亮に集中して亮は思わず退いた。

 「皆さん…ごめんなさいね。 今度は大学祭の時のお楽しみということで…。
西沢先生はこれからまだ仕事の予定が入っておられるので…。
きみ…そこのきみ…早く先生をお連れして…。 」

 中年の男から突然きみと声を掛けられて亮は驚き戸惑いながらも頷いた。
がっかりしている女学生たちに軽く手を振り、西沢は亮の後についてキャンパスを出た。
 西沢が無事に外へ出たのを確認しながら中年の男は学生会の会長と何やら言葉を交わした。



 門の外に出ても西沢が目立つことに変わりはなく、すぐ近くにある駐車場までの道のりが嫌に長く感じられた。

 「いやぁ…まいったね。 お嬢さん方のパワフルなこと…。 」

西沢はからからと笑いながら言った。

 「あんなところで何してたんですか? 」

亮は訝しげな眼をして西沢を見た。

 「なんだかね…この秋の大学祭に学生会から講演を頼まれたんだけど…。
ちょっと下見がしたくなって…仲介者の相庭さんに連れてきてもらったんだ。

 本当は学生会と相庭さんが電話とかで打ち合わせするだけでよかたんだけどね。
学生会の会長に構内を案内して貰ってたらとんでもなく人が集まっちゃってね。
どうしようかと思った…。 」

 そりゃ…集まるだろう…と亮は思った。
店長の話では西沢のイラストは海外でもすごく評価が高くていろんな国でいくつもの賞を受賞しているのだそうだ。
 たまにトーク番組に登場してエッセイの評判も良いとくれば、それだけでも人が集まるだろうに…何よりその並外れた容姿…女子学生にほっとかれるはずがない。
 
 「僕はこのまま地下鉄で帰りますけど…西沢さん…車でしょう? 」

 亮が訊くと、西沢は少し考えていたが亮と一緒に地下鉄で帰ると言い出した。 
今日は相庭が迎えに来たので相庭の車でここまで来たという。

 「待って…相庭さんにメール入れとくから…。 」

西沢はポケットから携帯を取り出した。

 西沢とこうして歩くのは初めてだが、亮は周りの人に西沢と自分の容姿の差をわざわざ晒して歩いているようで気恥ずかしかった。 
道行く人の視線が気になって仕方がなかった。

 視線…。

 ふいに誰かの視線を感じた。
それは確実に亮に向けられているもので西沢にたいして興味本位に向けられているものではなかった。
亮がその気配を感じ取ったのと同時に西沢が驚くべきことを口にした。

 「亮くん…僕から絶対に離れるな…。 僕の傍にいる限り誰にも手出しはさせない…。」

 そして周りに眼を向けることもなく、唖然としている亮を急ぎ促して地下鉄の構内へ入った。 
 
 「この間渡したストラップは…? 」

歩きながら西沢は訊ねた。 

 「ちゃんと携帯についてますけど…。 」

亮は携帯を出して見せた。

 「携帯…う~ん。 ミスったな…。 ミサンガかなんかにしとくべきだった。」

西沢はふと思いついたように自分の首から太めの金のチェーンをはずした。

 「しばらくの間…これを身につけていて…。 寝る時も風呂も絶対にはずさないようにね。 」

 亮に手渡すとすぐにつけるように指示した。
言われるままに亮はチェーンをつけた。

 「気付かれなければ狙われることもない。 そいつがうまいことカムフラージュしてくれるからね…。 」

 そう言って西沢は笑顔を見せた。
どういうこと…? 西沢さんが…なぜ僕の力を知ってるんだ…?
あいつらは何者…? なぜ僕が狙われなきゃいけない…? 

 亮の頭の中をいくつもの疑問がぐるぐると駆け巡った。
列車がプラットホームを離れるとあの視線と気配は消えていった。

 西沢は列車に飛び乗ったそのままの状態で、亮を身体で庇うようにしてじっと周囲を探っていたが、やがてほっとしたように座席に腰を下ろした。
 西沢さんが…特殊能力の持ち主だなんて…今まで気付きもしなかった…。
亮は胸がどきどきするのを容易に止められなかった。



 その夜ひとりっきりの部屋で亮は不安な夜を明かした。
あの後バイトにはちゃんと行ったけれど、いつまたあの視線を感じることになるのかも分からず、まったく落ち着かなかった。

 いったい何が起っているのだろうか…?
まさか…夕紀がいなくなったことと関わりがあるわけじゃないだろうな…?

 翌日も朝からバイトに入ったが、いつものなんでもない人の視線がやたら気になってどうしようもなかった。
ちょっとしたことでびくついて店長や仲間に笑われた。

 帰り道…不安で…不安で…気が付いたら西沢のマンションの前にいた。
なんとなく…顔を見たかった。
 けれども…取り立てて用もないのにバイト先の気のいい客というだけの西沢を訪ねるわけにもいかず…家の方へ引き返そうとした。

 「亮くん…? 」

 西沢の声がした。
スケッチブックと画材を抱えた西沢が通りの向うからこちらに近付いてきた。

 「どうしたの…? 遊びに来てくれたの…? 」

 人懐っこい笑みを浮かべて西沢は訊ねた。
亮は何と答えていいか分からず俯いた。おいで…と西沢は亮を招いた。

 閉め切った部屋の扉を開けると中からむっと熱気が流れ出てきた。
西沢はエアコンを作動させた。

 「暑かっただろう? ごめんね…待たせて…。 ちょっとそこの公園でスケッチしてたもんで…。 」

冷蔵庫の中からスポーツドリンクを取り出して亮に渡してくれた。

 「いえ…今来たばかりで…バイトの帰りだから…。 」

 何しに来たって…訊かないのかなぁ…この人は…。
訊かれても答えられないんだけれど…。

 「昨日の連中のことなら…はっきりしたことは僕にも分からないんだ。 」

 自分も喉を潤しながら西沢は言った。まるで亮が知りたがっていることを察したかのように…。 

 「ただね…この頃…きみたちくらいの年頃の能力者を集めている組織があるらしいってことを聞いていたんだ…。
 それも相対する組織がふたつ…競うように人を集めている…と…。
何のためかは知らないけれど…何かの新興宗教なのかもな…。 」

やっぱり…夕紀に関係があるような気がする…。
西沢の話を聞いて亮はそう思った。

 「僕のこと…知られているような気がします。 友だちがひとり行方不明で…。
多分…夕紀は僕の力に気付いていたと…。 」

 だから…このチェーンも無駄かも知れない。 既に存在自体を知られているような気がするから…。

 「そうか…。 でもそれは…はずさないで…御守りだから…ね。 
亮くん…ひとりでいるのが不安なら…ずっとここに居てもいいよ。
僕はひとり暮らしだから誰にも気兼ねは要らないし…。 」

 えっ…?亮は驚いて西沢の顔をまじまじと見つめた。
だって…僕は赤の他人なんだよ…ほとんど見ず知らずの…。
どうして…どうしてそんなに親切なの…? どうしてそんなに僕を信用するの…? 
 「知り合ったばかりの西沢さんに…そこまでは甘えられません…。
僕んちはすぐそこだし…。 」

 亮がそう言って断ると西沢はそうか…と頷いてキッチンの棚の引き出しから鍵をひとつ取り出した。
 
 「これ…この部屋の鍵…。 何かあったらいつでもここに…僕が留守でも…。」

 亮はますます困惑した。だから…どうして…? 
西沢の態度から察するに西沢は亮のことをかなり熟知しているようだ。
亮が家に帰ってもひとりきりだということを知っている。
しかも西沢の行動を振り返ると亮を何かから護ろうとしているようにさえ思える。

 謎の組織のことも不安だが…今の亮にとってはこの西沢という男の存在も十分不安の種だった。 


 


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現世太極伝(第三話 消えた美少女)

2006-01-27 23:51:11 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 今でもESPカードと呼ばれているのかどうか分からないが、四半世紀以上も前に超能力の中の透視能力を調べるために使われていたカードがある。
 表面に○とか×とか簡単な絵や文字なんかが描かれてあり、何も描かれていない裏面だけを見て表に書かれてある内容をあてるというものである。

 川田が持ってきたそのカードは…多分川田の手作りなのだろうが…清水のカード占いよりはみんなの注目を集めた。
 
 10枚のカードの内容を誰がどのくらい言いあてられるか…まるでゲームのような調査が始まった。

 勿論…サイキッカーがすべて透視能力を持っているとは限らない。
物を動かす力だけを持っている者もいれば、物や人に触れることで過去の出来事や考え方まで読み取ってしまうような力を持っている者もいる。
特殊能力者の持つ力は千差万別。

 だからこのカードを読みあてられなかったからといってその人に特殊能力が存在しないとはいえない。 
あくまで透視能力の目安である。

 カードの持ち主川田は仲間内では一番興味を持っていたにも拘らず、あたったのは一枚…まぐれとしか言いようがない。
木下も清水も二枚程度…大野が健闘して四枚あてた。

 亮がでたらめに答えて三枚…こんなの真面目にやってらんねぇっての…。
直行が五枚…これは意外だった…が…亮の勘が正しければ…本当はまだまだいけそうに思える…。

 夕紀が九枚当てた時には…みんなは健闘を称え拍手喝采したが、亮は胸の内にざわめくものを覚えた。

 まさか…夕紀が…サイキッカー…?

 夕紀は屈託なく偶然勘が働いたみたいな喜び方をしていたが、亮は不安を抑えることができなかった。

 偶然なんかじゃない…偶然で連続九枚は無理だ…。
あんな素振りをしているが…もし夕紀が自覚してやったことなら…僕の力にも気付く虞がある…。
 それにもうひとり…直行…長い付き合いだが今日初めて気付いた…明らかに力をセーブしている…。
 
 うそだろ…亮は内心…ひとり頭を抱えた。
あのふたりは幼馴染…恋人同士…お互いの能力を知っている可能性がある。
この機会にふたりしてその片鱗を亮に見せつけたとしか思えない…。

 なぜ…? 僕を誘導しているのか…? 何のために…?
もしそうなら…直行はなぜもっと早く僕にそれを示さなかったんだ…?
高校時代からの付き合いなのに…。

 思い過ごしかもしれない…。単に勘がいいだけの人だっている…。
冷静になれ…下手に動くのはやめよう…いつも通りに…変わらぬように…。
亮は努めて平静を保った。



 梅雨が明けると途端に蝉がうるさく騒ぎ出す。
急激に日差しが強まってきてじりじりと肌を焦がす。
重量感を増した大気が肩の上にどっと圧し掛かる。
それでも明るいだけまし…。

 じきに夏の休暇が始まる。
バイトの日程…店長と相談しておかなきゃ…。
パートさんが夏休みを取るって言ってたしな…。

 朝の気分の悪さは相変わらずだが身体の方が環境に慣れてきたこともあって少しはまともな食事が食べられるようになってきた。
それがまともと言えるなら…だが…。

 食卓の上には母親が作り置いた夕食がひとり分…。
いつものようにレンジでチンして…食べる。
 今夜が特別なわけではない…。
亮はいつもひとりで食事をしていた…。
作って置いて貰えただけでも有り難い…。

 母親が仕事で忙しいから…ではない。
ここに居ないからだ…。    
 両親が別居して何年にもなるが…ときどき帰ってきては亮のために夕飯を用意しておいてくれる。

 父親はここでは夕飯を食べない。
何処かの誰かのところ…帰ってこないこともしばしば…。
だから…ひとり分…。 

 母親が来ない時は…ほとんどの日がそうだが…コンビニで弁当を買ったり、早く帰宅できた時はすでに下ごしらえのしてあるお手軽野菜なんかを買ってきて炒めたり…煮たり…適当に食べる…。

 この家に亮はたったひとりで住んでいるようなものだ。
家へ帰れば誰とも顔を合わせず話をすることもない。
誰もいないのだから…。

 風呂へ入りながら洗濯する。乾燥まで全自動。
時折…休みの日に掃除機をかけたりもするけど気休め程度…。
たいていは母親が帰ってきた時に掃除も済ませておいてくれる。

 中学の時からずっとこんな具合だった。
今よりはずっと頻繁に母親が帰ってきてはいたけれど…。

 今のソファに寝転がってぼんやりテレビを見ながらうつらうつらしていると、突然電話が鳴って飛び起きた。
 携帯やメールならともかく…このところ電話なんてめったにかかってこなかったから…。

受話器を取ると直行の途方にくれたような声が聞こえてきた。

 『夕紀がいなくなった…。 』

 動揺している直行の話の要点を総合すると…昨日の帰り際にふたりで映画を見に行く約束をした。
 今日は朝から姿が見えなかったので風邪でも引いたのかと思い、携帯で呼び出したが携帯は切れたまま…。
 仕方なく家の方に電話を入れたら夕紀の母親がえらく慌てて夕べから帰ってこないという。
 夕紀の母親は直行のところじゃないかと思っていたのに、その直行から問い合わせの電話が入ったので余計に慌てたらしい。

 …ってことはこの野郎…親公認ですでに夕紀とできあがってんじゃないか…などと言っている場合じゃない。
その直行を袖にしてどっかへ行っちゃったって事になるわけで…。

 「夕紀のお母さんはどうするって…? 警察へは届けたのか…? 」

それが…と直行は口ごもった。

 『今夜一晩だけ待ってみることになったんだけど…心配だったから…その後でもう一度電話したら…問題ない…夕紀はしばらく知り合いのところに預かってもらうって…。 』 

 前の電話の様子と後の電話の様子があまりにも違っていて直行はどうにも納得できず、亮に相談を持ちかけてきたのだった。

 …ということは直行には…相手の心まで読む力はないんだ…或いはあっても何かに妨害されている可能性もあるわけだが…。

 「直行…取り敢えずは待ってみるしかないぜ…。 気にはなるだろうけどさ…。
親がそう言ってるなら…勝手に動くのはまずいよ…。 」

 亮は直行を宥めるように言った。
亮に話をしてやっと落ち着いた直行は素直に了解した。

 直行としちゃぁ恋人の行方を教えてもらえないのは不本意だろうけれど…。 
当分会えないわけだしな…じき…夏休みなのに…気の毒に…。

 だけど…もし…夕紀が何かの事件にでも巻き込まれているなら…。
容易に人の心を操作できる者が相手方に居るということだ…。
そうなると…やっかいだな…。
それほどの力の持ち主を相手にどう動けばいいのか…?

 亮はふとそんなことを思った。
まさか本当にそういう相手と関わることになろうとは夢にも思わずに…。



 ここしばらく姿を見せなかった西沢が店に現れたのは夏休みに入ってすぐのことだった。
 レジで店長と何か親しげに話をした後、いつものように専門書の書架の方へ向かった。
 こんにちは…と挨拶する亮のポケットにすれ違いざまに何か放り込んだ。
驚いてポケットを探ると…『亮』と書かれた携帯ストラップが入っていた。
洒落た銀細工でペンダントにしてもよさそうな感じだった。

 あ…お礼を言わなきゃ…でも…なんで僕の名前を…? 
亮は慌てて専門書の書架の向こう側を覗いた。

 「あの…西沢さん…ありがとうございました。 僕の名前…どうして…? 」

 しどろもどろになりながら亮はそう話しかけた。
西沢はにやっと笑った。

 「鞄…きみの鞄に名前のキーホルダーがついてるでしょ。
女の子に貰ったのかな…あれ。 『りょうくん』って書いてあった。 」

 亮はあっと思った。
この春…卒業する時に後輩から貰ったものだ。

 「漢字は…この前店長に訊いた。 銀は…魔除け厄除けになるってからさ…。
この前体調不良でばたっといったから分かるんだけど…きみも…調子崩してたろ?
だから…病除けのおまじない…さ。 」

西沢はまたにやっと笑った。

 亮は唖然とした。
この馴れ馴れしさはいったいなんなんだ…? すでにお友だち扱いじゃないか…。
西沢の理解し難い振る舞いに戸惑いを隠せなかった。





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現世太極伝(第二話 気になる声)

2006-01-26 23:31:58 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 午後の授業を終えると亮と直行は学生会館へ向かった。
会館の西の端っこにある小さな部屋…『超常現象研究会』なるいかがわしい名称のついた部室には数人の同好会メンバーが集まっていた。

 穏やかで人の良い直行は入学早々に高校時代の先輩に捕まり、つぶれかけた同好会の会長を無理矢理押し付けられた。
 否応なしの先輩の態度に断りきれず、このたいして活動もしていないような同好会を運営していく羽目に陥ってしまった。
 他のクラブの3・4年生を相手にひとりで立ち回るのは無理だと泣きつかれて、仕方なく亮も手伝うことになったのだった。

 先輩なんて存在がほとんどいなくなってしまった後だったから、入会したのは全員新入生で、誰にも気兼ねなく過ごせることだけが利点だった。

 集まったのは変わった連中ばかりだった。
会長の島田直行(なおき)は歴史おたくで超常現象についてはそれほど関心がなかった。
会の主旨に興味のない男が会長を務めている同好会ってのも妙なものだが…。

 川田は超能力に関するマニアックな文献を読みあさり、情報量だけはやけに多いが本人には特殊能力は全然備わっていない。

 木下は超能力ではなく幽霊とか霊現象とかに興味があり心霊写真マニアだ。
その手のスクラップブックが彼の手元に何冊あるのかは知らないが、集めることに情熱を燃やしている。

 大野はUMAに興味があり超常現象とは無関係。帰宅部は避けたいが他に入りたいクラブがなかったというのが本音らしい。

 清水は魔術や呪文など宗教や慣習に関係するものが好きな分野らしい。
道理で服装が魔女的…。

 そして誰もが不思議としか言いようのないことに、あの超美少女宮原夕紀がこの寄せ集め同好会に参加していた。
 実は直行の幼馴染で恋人だから…なんてことをばらしたら直行は全学年の男子学生からボコされることになるだろう…。

 それはそれとして最後のひとりは勿論…亮…会長の手伝いに来てるだけ…。
どうやら成り行きでそこにいる亮だけが本物のサイコ系人種…。
だけどそれは口が裂けても言えない…たとえ真実であっても…。
 
 まあ…そんないい加減な同好会だが、同好会というからには取り敢えず何かそれらしい活動しなくてはならない。
 ただ集まって適当なことをしゃべっているだけでは埒が明かないので、先輩の残していった資料の中から毎月テーマを決めて調べることにしていた。
 
 先月はじゃんけんで勝った清水の提案でカード占いの不思議について…とかいうテーマで、実際に占いをしてみたのだが盛り上がったのは清水と宮原ふたりだけで、他の者は別の話に興じていたような記憶がある。

 だいたい非能力者が他人の運勢を占おうなんて無理なんだよ…。
カードにしたって、そのカード自体に何か特別な力が備わっているのでなければ、占い師に相当の能力がないと本当のところは見極められないのさ…。

 今月は今月で…本当にあった怖い話を収集…木下だな…このテーマは…。 
これはさすがにみんなの興味を引くようで他事をしている者はいなかった。
 お盆の最中でもあるまいに異様にエキサイトして最終的にはまるで百物語みたいにそれぞれが語り部になっていた。

 そんなこんなで毎回毎回…日常生活にはまるっきり役に立ちそうもない…興味のない人間から見ればどうしようもなくくだらない話で時間を潰しているのだった。



 今日も来ている…。
入荷したばかりの本を並べながら亮はそっと向うの専門書の棚の方を窺った。
 家の近くの駅前の書店でバイトを始めてからふた月になるがその間ほとんど毎日のように店を訪れている若い男がいた。

 若いと言っても二十代半ばから後半くらいで、たまにスーツを着ている時もあるが普通のサラリーマンには思えないちょっと洒落た感じのする男だった。
 今日は少しばかりだらけた格好をしているからオフなのかもしれない。
少し長めの髪をふんわり手櫛でといたような頭が書架の向こうからでも見えるから相当に背が高い。

しばらくすると男は何も買わずにそのまま店を出て行った。

 「今のお客さん…前からの常連さんなんですか? よく見かけるけど…。 」

 通りかかった店長にそれとなく訊いてみた。 
店長は出入り口の方にチラッと眼を向けてガラス越しの男の背中を見た。

 「ああ…西沢さんのこと? そうだなぁ…結構長いな。
ここができてからずっとだから…。
 この先のレンガ張りみたいなマンションに仕事場があるんだ。  
ほら…これ描いてる人だよ…。 」

 店長は亮が並べている途中の新刊の中から美しく装丁されたイラスト集を取り出した。
素人の亮にはよく分からないが分からないなりに惹きつけられる…不思議な絵だ。

 「ええっ…あの人…こんな細かいの描いてるんですか…? 
あんまりでかいからバスケかバレーの選手かと思ってた。 」

 亮が驚いたように言うと店長は亮の少し広めの肩幅を見ながら…バスケ…そりゃきみのほうだね…と笑った。

 「ちょっと前まではモデルもやってたみたいだけど、今はイラストとかエッセイなんか…の方がよく知られてるね。
多彩な人だからね…僕もあの人の仕事内容について全部は知らないけど…。 」
  
 もとモデルかぁ…道理で絵に描いたような顔してら…あの人いったいどんな本探してんだろね。
美術関係かな…とそんなことを思いながら亮は再び作業を始めた。
 レジの方で電話が鳴った。
あ…いいよ…僕が出る…と店長は駆けて行った。

 「はい…サイバネティックス…はい…ノーバート・ウィーナー…ですね。 」

 店長がさっき西沢の見ていた棚の方へと駆けて行き、本を一冊手にしてまた電話の方へ戻っていった。 

 「お待たせしました…。 …はい…ありがとうございました…。」

電話が切れると店長は何やらにんまりと笑った。

 「ん…これだから好きだよ西沢さんは…。 これさ…実は前に取り寄せてキャンセルになった本なんだ…。 
 我儘なお客さんが突然別の本にしたいって言い出してさ…文句言えないし…。
こういう店では専門的なのはなかなか売れないからね…いい本なんだけど…。
書架でずっと眠ってたわけ…。 いい買い手ができてこの本も幸せだ…。 」

 サイバネティックス…信じらんねぇ…システム理論じゃないの…。
亮はもとモデルだったという西沢の顔を思い浮かべた。 

 「近所だからすぐに届けてあげたいけど…亮くん…もうあがりなんだよね? 
木戸くんが来るまでにはちょっとまだ間があるか…少し待ってもらおうかな…。」

店長は壁の時計を見ながら頭を掻いた。

 「よかったら届けましょうか? あのマンションでしょ…帰り道だから…。」

 亮は店のガラス戸から見えている少し先の茶色っぽいマンションを指差した。
そうだ…と店長は頷いた。

 「悪いね…。 三階の…確か1号室の方だったと思うよ。 
あのマンションは他の部屋の住人とあまり顔を合わさない様式になってるから階段とか間違えないように気をつけてな。 代金貰ったらこの領収書渡して…。 」

 説明しながら書いた手書きの領収書を亮に渡した。
分かりました…と返事をして亮は本の包みと領収書を受け取った。



 店長が注意したとおりマンションは思ったより複雑だった。
玄関先で中に入る了解を得たものの、それぞれの部屋の玄関の向きが異なるために
使う階段が二軒ごとくらいに異なり、危うく301号室を見落とすところだった。
いま火事にでもなったら絶対死ぬな…これは…。

 呼び鈴を鳴らすと鍵を開ける音がして扉の向こうから西沢が姿を現した。
谷川書店ですが…と亮は挨拶した。

 亮も人から大柄だと言われるが、それでも西沢を目の前にすると見上げる恰好になった。
 西沢は相手が店長ではなかったためか一瞬意外そうな表情を見せたが、すぐにどうぞ…と亮を部屋に招きいれた。

 「わざわざ届けてもらって悪かったね…。 
どうせ毎日のように通ってるんだから取りに行けば済むことだったのにね…。 」

 西沢はそう言うと亮に代金を手渡した。
ありがとうございます…亮は礼を言って本と領収書を渡した。

 「きみ…まだバイトの途中…? 」

亮の下げている鞄を見ながら西沢は訊いた。

 「いえ…帰るところです。 
家がこっちの方なんで…少しでも早くお届けできるかと…。 」

帰宅ついで…ね…正直なやつ…西沢は内心そう思いながら微笑んだ。

 「今…コーヒー淹れたとこ…。 急ぎじゃなかったら飲んでって…。 」

 はあ…? 唐突な申し出に亮は困惑した。いくら毎日書店で顔を合わせているとはいえ、名前も知らないはずの亮に部屋にあがって茶を飲めと言っている。
警戒心が薄いのか…逆に何か妙な魂胆があるのか…。

 「大丈夫…襲ったりしないって…。 」

 どうしていいか分からずに戸惑っている亮を見て西沢は声を上げて笑った。
仕事場というわりには小奇麗に整った部屋で掃除も行き届いているようだった。

 あちらこちらに写真や小さな絵が置かれてあるのが印象的だった。
西沢は大きめのカップにたっぷりとコーヒーを注いで亮に渡してくれた。

 「ここ…仕事場だって店長から聞きましたけど…住んでるんですか…? 
写真がいっぱい飾ってありますね…ご家族の…? 」

 不躾とは思ったけれど何となく訊いてみたくなった。
西沢は気にもしてないようでうんうんと頷いた。

 「そう…大学卒業してからはね。 家を出てひとり暮らし…。
写真は…亡くなった母と…僕の養父である伯父。 義理の兄貴と弟…伯母…。  
みんな僕に良くしてくれるけど…何時までも甘えてられないだろ…。 
血は繋がってるけど…他…」

 西沢がおそらく他人と言いかけた時すぐ傍の電話が鳴った。 
西沢は受話器を取り上げ返事をした。

 「ああ…うん…。 もう平気…。 薬…? きっちり飲んでる…。
大丈夫だってば…ちゃんと食べてる…。 」

 西沢の家族からのようだった。
話の端々から西沢が何かの病気で通院中だということが察せられた。
 時折…相手側の声が漏れ聞こえた。
中年の男性のようで…不思議なことに亮はその声にどこか聞き覚えがあるような気がしてならなかった。
それもごく身近に居る誰かに…。

 溜息をつきながら西沢は受話器を置いた。

 「ちょっと貧血で眼を回しただけなのに…。 今更これくらいのことでそんなに心配しないで欲しいね…。 」

 受話器に向かって独り言を呟いた。
そして亮にはどうしようもないな…というような笑顔を向けた。

 「少し前にさ…急な仕事が一度に入って…寝不足と栄養不足でひどく体調崩したんだ…仕事してると寝るのも食べるのも忘れちゃうんで…。
 仕事が終わった途端にいきなりばたっと倒れて救急車で運ばれた。
それで心配してくれてるんだけど…。 」

 亮も愛想笑いを浮かべたが…どうにもあの声が気になって仕方がなかった。
そうは言っても知らない人の部屋にいつまでも長居して根掘り葉掘り訊くのもおかしいので、コーヒーを飲み終えると早々に立ち上がり、丁寧に礼を言って西沢の部屋を後にした。

 帰り際に西沢はまたいつでも遊びに来てよ…などとまるで何年来かの友だちを見送るように親しげに玄関まで出てきてくれたが、それも何か不自然な感じがしてならなかった。

 後々気が付いてみれば西沢は一度も亮の名前を訊こうとはしなかった。
まるで訊かなくても分かっているというようなそんな雰囲気があった。
ふた月前までは顔も合わせたことがないはずなのに…。
 自分の知らない何かがある…絶対的な根拠があるわけではないが…なぜかそんな気がしてならなかった…。 





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現世太極伝(第一話 憂鬱な時間)

2006-01-24 23:59:24 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 目覚ましのベルがけたたましく鳴っても、ベッドの中から重い身体を引きずり出せない…。
そんな毎日がこのところずっと続いていた。

 時にはそのまま眠り続けてしまうこともあるが、今日は化学の講義があるのでそうもしていられない。
 あの教授ときたら毎時間毎時間きちんと出席を取り、出席日数を成績に換算するのでサボるわけにはいかないのだ。

 鉛のような身体に鞭打ってベッドから転がり出ると惚けたようにふらふらと洗面所に向かう。
顔を洗えば少しはしゃきっとするかもしれない…気休めかもしれないが…。

 食欲もない…頭も重い…梅雨時はこれだから嫌いだ…。
喉に引っ掛かるトーストをコーヒーで無理やり流し込むだけの朝食…。
食パンを焼く気力があっただけでもまだまし…。

 アルミサッシのガラス窓を透して眼に入ってくる陰鬱な空…。
亮(りょう)は大きな溜息をついた。



 混み合った地下鉄の車両の中はまるで牢獄…気が遠くなるほど気分が悪い…。
人熱れと独特の臭気と…降車駅まで…少しの我慢…あと少し…。

 やめて…。

 不意に誰かの意識が亮の中に入ってきた。 
亮はあたりを見回した。
 少し離れたところに怯えたような顔をして俯いている少女がいた。
すぐ後ろにぴったりと男がついている。
 
 痴漢か…鬱陶しいぜ…まったく…。

 亮は男を睨みつけた。
あっという声にならない声が男の口から漏れた。
少女に悪さをしていたその手の皮膚が剃刀で切られたように裂けていた。
男は傷口を押さえると慌ててその場を離れた。

 亮の気分が少しだけよくなった。
だが…それもほんの数秒…すぐに吐き気に襲われる…。

 頭ががんがんする…もうだめ…限界…。

 ようよう車両は降車駅に到着した。
押し出されるようにプラットホームに降りて、その流れのままに出口へと進む。
どんよりした空でも見えてくれば新鮮な吸気が吸える…ここよりはまし…。

 あの…すみません…?

 背後から女の人の声…さっきのあの子だ…。おお…これは…なかなか…。 
亮の気分が180度好転する。
少々ぽっちゃり系だが、文句なく可愛い…。

 「さっきはありがとう…。 」

 えっ…?と亮は思った。
少女はなんてことないような顔をして見つめているがどうして分かったのだろう。
助けたのが…僕だと…。 

 困惑している亮を尻目に少女は人混みの中に消えていった。
信じられない…僕を見抜いた…。
頭の中が空白のまま亮は講義室まで何とかたどり着いた。

 直行(なおき)が手を振っている。
いま僕は幽霊でも見たような顔をしているだろう…。

 「おはよう…亮くん…なんか元気ないね。 」

 直行は隣の椅子から荷物を降ろして亮のために席を空けた。
理由を話す気にはなれなかった…話せなかった。
いつものことさ…そう言って亮は直之の隣に座った。



 講義が終わる頃には亮の気持ちも少し落ち着いてきた。
考えてみれば亮はじっとあの男を睨んでいたわけだし、そのことにあの子が気付いていたとすれば、亮に助けられたと考えても別に不思議じゃない。

 そうさ…分かるわけないさ…。 

そう考えて自分を無理やり納得させた。
 
 亮のことは誰も知らない。知らない方がいいんだ。
亮の頭の中で共鳴する大勢の見知らぬ人々の意識が、ただそこに居合わせただけなのにどれほど亮を苦しめているかなんて…。

 亮はまだ…自分の力を上手く制御できないでいた。
だから周りの影響をもろに受けてしまう。気分が悪いのは半分はそのせい…。
けれども後の半分は亮の心の問題だった…。

 高校時代からの友人である直行にさえ、そのことは話していない。 
どんなにつらくても相談もできない。
力のことも心のことも…話せばきっと何もかも終わりだ…。

 ねえ…知ってる? 一年の木之内亮ってやつさ…あいつおかしいと思わねぇ…?
ゲームのやり過ぎでネジがゆるんだんじゃないか…危ねぇから近寄るなよ…。

 そんなふうに思われるのがおちさ…。
幼い頃からずっとこのことについては口を閉ざしてきたんだから…。

 馬鹿なこと言うもんじゃありません…ありえないわ…。
そんなことを言ってると病院へ送られるぞ…。

 何かあるたびに…あいつらはそう言って僕を叱ったんだ…。
今じゃ口もきかねぇけど…。
亮は日頃からほとんど顔を合わせることのない両親を思い浮かべた。
 
 「亮くん…何にする? 」

 直行が亮を振り返って言った。
気が付けば学食の券売機の前に立っていた。
そうか…もう…昼なんだ…。

 「カレーでいいや…なんか毎日カレー食ってるような気もするけど…。 」

 まるっきり食欲がわいてこないから辛さでごまかして食べてしまう。 
僕の食生活…専門家が見たら目を回すだろうな…。栄養価ゼロかもな…。

 別に好き嫌いがあるわけではない。ただ…食欲がない…。
何か食べなきゃ生きていけないだろうから…パン…ラーメン…カレー…うどん…なんかの繰り返し…。

 家に帰っても同じようなもの…。時々母親の作った晩飯をつつくけれど…全部食べられたためしがない…。
 
 「亮くんさ…この頃…体調悪いんじゃない? 医者行ったほうがよくない?
あんまり食べないしさ…。 全然笑わないし…。 」

直行が心配そうに言った。

 「何かさぁ…胃がむかつくから…。 
朝起きられないし…寝起きは結構いい方だったんだけど…さ。
五月病ってやつかもね…もう…六月だけど…。 」

 生欠伸をかみ殺しながら直行にはそんなふうに話しておいた。
根が素直な直行は気の毒な友人のために、たまねぎを枕元に置けばよく眠れるから効くんじゃないかとか…足湯が効くかも知れないとか…敬老会の物知り博士みたくいろいろ案を出してくれた。
亮は有り難く気持ちだけ受け取った。

 同級生の何人かがふたりのいるテーブルにやってきて食事を始めた。
クラブのことやバイトのこと…屈託のない話をしながら…。
彼らと話している間は少し気がまぎれるような気がした。

 ことに同じクラスの宮原夕紀…男子学生の憧れの的…。
夕紀の顔を見ていると別の意味で食事が進まない…ついつい見とれて…。
但しこのマドンナ…性格はきつい。
だけど…眺めている分にはそんなことどうだっていいし…。

 そんなことを思いながらふと向うのテーブルに目を向けると、もうひとりのクラスメートが目に入った。

 高木ノエル…宮原夕紀のように10人が10人振り返るってタイプじゃないが…こちらもまあまあいける。
 ただ…そう思っているのは亮だけなのかノエルのことが男子学生の口にのぼるようなことはあまりない。
おとなしくて目立たないから…印象が薄いんだろうな…。

 「…なのよ。 それってどう思う? ねえ…ちょっと木之内くん聞いてる? 」

 夕紀が怒ったように亮の目の前で手を振った。
亮ははっと我に返った。

 「あ…ごめん…。 ボーっとしてた…。 夕べ寝不足でさ…。 」

 無視されて憤慨する夕紀に、亮の体調が酷く悪そうで医者行きを勧めたことを直行が話した。
それが引き金となって同級生たちは自分たちが罹った五月病のことについて話し出した。

 同級生たちの五月病談義をぼんやり聞きながら亮はもう一度ノエルの方を見た。
超美少女夕紀を前にしてなんでノエルのことなんて考えたんだろう…。 
そう言っちゃ悪いが…比べものにはならないのに…。

 亮は何だか自分が寝ぼけているような気がした。
今夜は何が何でも早く寝てしまおう…。
そんなふうに思った…。






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最後の夢(第七十三話 最終回後編 永遠の未来へ)

2006-01-22 23:04:16 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 藤宮の輝郷が定時に理事長室を出た後は、理事長代理として悟が受験塾の終わる時間帯まで待機することになっていた。
 翔矢が講師を始めた当初は悟はまだ学生だったこともあって、それほど意識はしていなかったが実際自分が責任を負う立場になると、あの翔矢が問題も起こさず、いたって真面目に講師を務め業績を上げていることを喜ばずにはいられなかった。

 教壇に立っている晃の方にはさほどの感慨はないが、責任者の悟にとってはとにかく学園は平穏無事であることが何よりだ。
 翔矢がおとなしくしていてくれれば、それはもう約束されたも同然…。
それどころか生徒たちの数学の成績UPに大貢献というおまけが付いて万々歳。
但し…セクシーダイナマイトな奥さんが時々学園に姿を現すのだけは困りものだが…。
 別に悪いことするわけじゃないんだからそのくらい大目に見てやればいいじゃない…目の保養にもなるしさ…ま…ちょっと齢はいってるけど…と晃は笑った。



 透たちの溜まり場だった黒田のオフィスは今や和貴たちの世代の溜まり場になっていた。
 齢をとっても黒田は相変わらず元気で、時々子どもたちに混ざっていたりする。
黒ちゃんと呼ばれて上機嫌だ。

 黒田が最近少し気になっているのは彰久の長男修史(ひさふみ)…何か思い詰めたような顔で考え事をしている時がある。
今日もひとり…みんなより先にやってきてぼんやりと物思いに耽っている。

 「修史…どうしたよ? 悩み事か? 」

黒田が声を掛けると修史は黙って頷いた。

 「僕の舞…感情表現が中途半端なんだ…。 どうしたら史朗さんのように情念の世界を表現できるんだろう…?
 鬼面川の祭祀舞は御大親からのメッセージだから愛憎も善悪も清浄も不浄も男女も…すべてを表現できなければ意味がないんだ…。 」

 未熟な技量をじれったく思うのか唇を噛んで嘆息する。
それは仕方ないさ…おまえはまだ子どもなんだから…と黒田は苦笑した。

 「人生経験の違いは…今すぐには埋められない…。 
取り敢えずは…恋でもしてみな…。 成就しても失恋してもいい勉強になるぜ。」
 
修史の頬が赤く染まった。妙なところが史朗にそっくりだ…と黒田は思った。 

 「修さんでもいい…かな? 」

修…? 黒田は眼をぱちくりさせた。 

 「そりゃあ…また随分な年の差で…。 だけど…なんで修よ?
同級生にいくらでも可愛いお姉ちゃんがいるだろうによ。 」

修史はにっこり笑った。

 「女の子とは今までにも付き合ったことあるし…対象としては当然過ぎでしょ?
史朗さんの気持ちを知りたいんだ…。 もしくは…女性の…。 」

 ああ…そういうことね…今時の子は恋愛相手もちゃんと計算してるんだ…。
史朗の気持ちを探って張り合おうって算段か…末恐ろしいね。
 まあ…修なら…問題ないだろうが…彰久さんがなんと言うか…。
黒田は真面目一筋の学者の顔を思い浮かべた。

 「お父さまなら…了解済みだよ…ちゃんと相談したんだ…。 
それとなく…修さんに話しておいてくれるって….
お父さまの許可なしじゃ絶対相手にして貰えないから…。
 だけど…僕自身は修さんにどう近づいて行けばいいのか分からなくて…。
変なやつと思われても嫌だし…。 」

 変わった親子だ…。世間的には親が頭を抱えそうな状況なのに…許可…。
彰久さんは…やっぱり千年前の人なのかねぇ…。

 「何にしても…本気で惚れてなきゃ意味がないからやめとけ…。
そんな恋愛シミュレーションみたいなことじゃ史朗ちゃんの舞には近づけないよ。
 ロープレゲームやってるわけじゃないんだぜ。
男でも女でも命懸けで惚れたらきれいごとじゃ済まないんだからな…。 」

 表面だけ体験すりゃあいいってもんじゃないんだ…。
史朗がどれほど悩みぬいたか…修がどれほど苦しんだか…知りもしないで…さ。
黒田はゲーム感覚の現代っ子に特大の釘を差しておいた。



 「…というわけで修さん…ご迷惑でしょうが…あやつが言い寄ったら煮るなり焼くなりどうにでも…適当にあしらってください。
 何処まで本気だか分かりませんが…どうなろうと本人の責任において対処させますから…。
 親の僕が唖然とするくらいですから…さぞかし馬鹿げているとお思いになるでしょうが…あやつには口で言って聞かせたぐらいじゃ効果はありません…。 」

 彰久は何時になく突き放したような物言いをした。少し痛い目に遭ってこい…とでもいうように。
 いつもは冷静な彰久が相当頭にきていると見える。
やはり我が子のこととなるとさすがの賢人もただの人となるか…。

 「シミュレーションですか…。 僕はコンピュータじゃないんだけど…な。 」

 修は苦笑した。生身の人間相手にバーチャル的恋愛感は通用しないんだってことを教えて欲しいということらしい。
 仮に恋人と見立てた相手との恋愛を演出し心の動きを観察するなど…すでに現実の恋愛の域ではない。
 それは御大親への冒涜…人間への侮辱…そんなまがいものが祭祀舞の役に立つはずもない…。
 愛し愛される自分の内面を見つめるなら話は分かるが…。
彰久はそう修史に言いたいのだろう…。

 「僕の方が本気になってしまったら彰久さん…どうされます…? 」

修はちょっと意地悪く鎌掛けてみた。
 
 「そうなったらそうなった時のこと…他の方なら僕も許しはしませんが…相手が修さんだから何があっても安心できるわけで…。
 本当に申し訳ないのですが…うちの馬鹿息子としばらく遊んでやってください。
そのうち下のやつが同じことを言いだすかも知れませんが…。 」

 あくまで真面目に彰久は答えた。
何もこんな齢の離れたおじさんを選ばなくてもいいのに…と苦笑しながら修は彰久の依頼を引き受けた。



 古から鬼面川に伝わる三十六の古代祭祀舞は学術的にも価値があるというので、そういう方面からの研究者も時々出入りするようになった。
 責任者のひとり彰久が、専門分野は異なるにせよ、名の知れた学者であるということが祭祀舞の歴史的信憑性を高めて、そうした研究者たちを惹きつける要因となっているのかもしれない。

 彰久と史朗が祭祀による御大親のメッセージからこの十何年間に新しく生み出した二十四ほどの今様祭祀舞もわりと評判がよく、この頃では後援会や愛好者から古今取り混ぜてのリクエストも来るようになった。

 他の流派に比べれば極めてささやかな存在ではあるが、定期的に公演も催し、教室も増え、それなりに安定した収入も得られるようになっていた。
 仕事と舞とに日々追い回されて、ただ我武者羅に生きてきた史朗もようよう落ち着いてあたりを見渡せるようになった。

 やっとここまで…と感慨深げに振り返って見れば、そこに居るのは高級なものに囲まれながらどこか輝きを失いくたびれた自分…。
 
 見るたびに芽を…枝を伸ばしていく若い世代…。
ことに修史の舞は…。
 舞の実力では絶対に負けない自信があるとはいえ、若い命の輝きはそれだけで美しく、それに対抗するだけの光を放つ術を史朗は未だ知らない。
 修練を怠ってはいけない…やがて更に老けゆく自分をこれ以上惨めなものにしたくはない…今できることは…持てる力をより向上させることだけ…。

  

 洋館の居間の文机でいつものようにパソコンに向かっている修の耳に、史朗の舞う謡の調べが響いてきた。
 史朗が洋館で舞の稽古をするのは久しぶりのことだ。
新しい家が建ってからは史朗の部屋もそちらに移り、洋館で過ごすことはめったになくなった。

 修が部屋を覗くと史朗は床の上にへたり込んでぼんやり何かを考えていた。
修の姿を見ると笑顔を見せて立ち上がった。

 「何か…お見せしましょうか…? 」

 そう…以前はこうして時々修のために舞ってくれた…修だけのために…。
それは史朗から修への無言の意思表示…告白…。

 「そうだね…。 『雪嵐』を…。 」

修が言うと史朗は微笑んだ。

 「相変わらず…『雪嵐』…お好きですね…。 よかったら『夜桜』も…。 」

 舞に込められた史朗の想い…無言の叫び…剥き出しの魂…血を流す心…。
誰にもまねなどできない…できようはずがない…だって…これは…史朗自身…他の誰でもない…。
 修はうっとりと史朗の舞に見とれている。この一瞬だけは何があろうとこの人の心を誰にも渡さない…。
 史朗は一礼するといつものように少し注釈を加えた。

 「今様祭祀舞の方では…『雪嵐』には『波の花』、『夜桜』には『弓張月』が内容として近いと思われます…多少意図するところに違いはありますが…。
 どちらも御大親からの授かりものではありますし…現代の方には単純な今様の方が受けますが…僕は古代の方が好きですね…。」

 そう言った後で史朗はほんの少し沈黙した。
訝しげに史朗を見つめる修に向かって史朗は突然深々と頭を下げた。  

 「桜花を…跡継ぎに選ぶことができなくて申し訳ありませんでした…。
あなたが…御大親に願を懸けてまで僕に授けてくださった娘なのに…。 」

 何だ…そんなことか…。雅人のおしゃべりめ…要らざることを…。

 「当たり前のことだ。 修史の方が優れている以上は修史を選ぶのが宗家としてのおまえの務め…。 何も謝る必要はない。 」

 桜花は可愛い…だがそれとこれとは別の話。
それとも修史を選んだことを後悔しているのか…修は探るように史朗を見た。
 
 「彰久さんが…話してくださいました。 
修史が本気であなたに惚れこんだらしく…人の心はゲームのようなわけにはいかないのだということにやっと気がついたようだと…。

 あの子は師匠の僕を負かすためにあなたを利用しようとしていたのですね…?
ミイラ取りがミイラになったと…彰久さんは笑いますが…僕は笑えません…。 
大事な桜花をはずしてまで後継者に推した僕を…それを認めてくださったあなたをあまりに馬鹿にしている…。 」

 史朗はじっと修を見返した。
修はふっと笑みを漏らした。

 「そう…腹を立てるな…。若気の至りだと思って許しておやり…。
人の心の機微に気付いたのなら…それでいいじゃないか…。 
 それに…桜花のことは…僕がおまえのために願を懸けたのは…僕がおまえを苦しめたことに対するの精一杯の償いでもあるんだ…。 」

 突然の修の言葉に史朗は驚愕した。
とんでもない…こんなに大切にしてもらったのに…あなたのお蔭で夢だって叶えられたのに…苦しめただなんて…。

 「僕の中の憎しみなんて…嫉妬なんて…とうに消えてなくなっていたんだ。
だけど…言えなかった…。 
 言えば…おまえが…僕の大切な宝物が…この手から何処かへ逃げて行ってしまうような気がして…。
 僕の我儘でおまえを閉じ込めてしまった…。 
もっと違う生き方が出来たのだろうに…今よりずっと幸せになれたかも知れないのに…。 」

修は申し訳なさそうに史朗を見つめた。

 「僕は…他にどんな素晴らしい道が開けていたとしても…やはりあなたと生きてきたこの道を選びます。
 後悔なんかしていないし…これ以上の幸せなんて何処にありましょうか…?
僕は十分好きなように生きてきたし…世間的なモラルさえもかなぐり捨ててあなたを愛し…笙子さんを愛し…桜花まで得た。
大勢の温かい家族や友人に囲まれて…この上何を不平を申すことがありましょう?

 苦しめただなんて…僕が苦しんだと言うのならあなたは僕以上につらい思いをなさってきたのに…。  」

 史朗の手が修の手を包み込んだ。
この手に支えられてここまで来た…。この手が僕を愛し労り慈しんでくれた。
 僕だけじゃない…あなたは幾人もの人を救い…育て…この紫峰だけではなく、藤宮も、鬼面川も、城崎も、樋野も…その他にもそれこそどれくらいの人々があなたから恩恵を受けていることか…。 

 「後悔なんてしないでください…今でも僕を思ってくださるなら…。 
こんなすすぼけた中年親父になってしまったけれど…。 」

 史朗は自嘲した。
修はくすっと笑った。

 「綺麗だよ…おまえは…。 若い修史がライバル意識を燃やすくらいだもの…。
おまえとのことを後悔しているわけじゃないんだ…おまえに僕の中の鬼を見せてしまったことを…さ…。
 僕は事あるごとにおまえを手酷い目に遭わせてしまったから…。
ずいぶんつらかったろうと…思うよ…。 」

 あなたのせいじゃない…それは…あなたが悪いんじゃない…。

 「何もかも承知で…あなたを愛したのは誰の意思でもない…僕の意思です。
御大親の御意思でもなく…僕が決めたこと…。 」

 酷いことなんて何もしていない…あなたはいつも真剣に僕に向き合ってくれた。

 「僕は年をとりました…。 もう…修史のような初々しい輝きを取り戻すことはできないけれど…磨き上げればそれなりに褪せずに輝くことができるでしょう…。
 もうしばらく…史朗を磨くべき原石としてお傍に置いて頂けますか…? あなたの宝箱の中に…。
史朗の舞を愛してくださいますか…? 」

 真剣な眼差しで史朗は修の眼を見つめた。
修は一瞬…意外だというような表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

 「生涯…傍に置いておこう…。 時々磨きをかけられるように僕の手の届くところへ…僕の大切な宝箱へ…。
いつか神々しいまでの輝きを帯びたその舞姿が見られるように…。 」

 穏やかな笑みを浮かべ…史朗は頷いた。
若手のことなど気にしている暇はないぞ史朗…昔…雅人くんが言ってたろ…一生物の宝の石になれって…自分を磨けって…。
僕はこの人のために輝く…この人のために舞う…それだけでいいじゃないか…。

 修の手が史朗の頬に触れた。
この世で史朗と巡り合った不思議…愛し合った不思議…。
千年も前に消えたはずの閑平の儚く切ない想い…。
その想いが史朗となって修の前に現れ…修の中の樹へと伝わる…。

 そんなメルヘンが…現実にあったなんて…誰も信じないだろうけど…ね…。
千年の時を越えて…史朗や彰久さんと再会できたこと…本当に嬉しかった…。
あとどのくらい…一緒に居られるのかは分からないけれども…。
僕は…そう長くは生きられまい…。 樹は若くして亡くなっている…。

どうか…この奇跡が来世にまで続きますように…。
そう…祈らずにはいられない…。


 千年神と讃えられた不思議な力を持つ男は…いま常人の心で祈っている。
千年の時を越え巡り合ったいくつもの魂が次の千年の時までも越えてまた巡り合えるように…と。




最終回後編 完







最後の夢(第七十三話 最終回前編 嫉妬)

2006-01-19 23:43:05 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 雅人はいまや修の代理としても十分に周りの信頼を得るまでに成長していた。
既に真貴との間には子どもがふたりいて、まあまあご機嫌な家庭を築いている。
 相変わらず遊びも盛んだが不思議なことに雅人の遊びには必ず利がついて回る。
時には鈴の時のように失敗もやらかすが転んでもただでは起きない。

 真貴はそういう雅人の天性の力を認めていて好きなように泳がせてくれる。
但し手綱はしっかりと握っていて許容範囲内を超えると痛い鞭が飛んでくる。
うちはかかあ天下だからね…と透たちにはそうこぼしながらも幸せそうである。

 雅人は本家の当主後継のひとりとして母屋で生活しているが、透と隆平の一家は林の中に新築された屋敷に住んでいる。

 透は黒田の仕事を引き継ぐため黒田の許で働いている。
暇そうに見えても黒田は実際にはいくつもの会社を経営している実業家で、その規模は結構大きい。

 修は我が子のように育ててきた透を敢えて手元には置こうとせず、一旦は実の父親である黒田の許に返そうとした。
 しかし、黒田は今さら修から透を奪うようなことをする気はなく、このまま修の息子でいる方が透にとっても幸せだろうと考えた。
 
 ふたりの父親がお互い我が子のためを思って遠慮しあっている…そんな状況を見るにつけて、自分は間違いなく修や黒田に愛されて育ったんだということを改めて実感した。
 どの道、透が宗主である以上は黒田とは暮らせないから、黒田の仕事を引き継ぐことで黒田の息子として…紫峰本家に身を置き、修の傍で暮らすことで修の息子として生きようと透は自らの将来を決めたのだった。

 

 隆平もその向かいに家を建てたが、こちらは学究生活が長かったためにまだまだ新婚さん状態である。
透一家は毎日あてられっ放しというわけだ。

 隆平は藤宮の大学で教鞭をとっているが、時には鬼面川流の総務を務め、瀾と組んで事務方の要のひとりとなっている。
 鬼面川本家の祭祀伝授者としてはまあまあそれなりの能力を発揮するが、舞の才能がいまいちなので舞の伝授者にはむかない。
 むしろ鬼面川とは赤の他人…城崎家の瀾の方が優れた資質を持ち、鬼面川流立ち上げ早々に伝授者になっている。
 ただ惜しむらくは鬼面川一族以外の者の舞には御大親の霊験がなく、そのことだけは瀾がいかに修行をつもうともどうしようもなかった。
 


 稽古を終えた若手が帰ってしまった後の稽古場に史朗は力が抜けたようにへたり込んでいた。
 いまさっきまできびきびと舞の指導をしていた自分が嘘のようだ。
情けない…と史朗は思った。

 修史を後継者に決めたのは自分自身ではないか…。
それなのに…。
 稽古場の姿見に映る今の自分…稽古で鍛え上げたその姿はいまでも決して老けてはいない…老けてはいないが若くはない…。
修史のあの初々しい舞い姿は…もはや自分の中にはない…。

 修史の舞いが修の眼に留まりその力を認められたのは嬉しい…修史を選んだ者として…嬉しいが…哀しい…その眼はもはや修史に向けられている…。

 愚かだ…若手に嫉妬するなんて…おまえは師匠ではないか…。
鬼面川の祭主たる者がなんというぶざまな姿をさらすのだ…。

 いい年をして…みっともない…醜い…。
胸の中に渦巻くものを誰にも打ち明けられず、ただひとりもがき苦しみ、浅ましい心を捨てきれない自らを責め苛む。

 『叔父さま! 雅人叔父さま! 早く来て! お父さまが…! 』 

 母屋の方で和貴と久史の叫ぶような声がして…史朗は我に返った。
階段を駆け下りるけたたましい音…雅人が慌ててとんでいくのが眼に見えるようだった。


 居間のテーブルに無造作に置かれた雑誌の脇で修が腹を押さえて蹲っていた。
このところほとんど発作がなくて出番がなかった雅人は少しばかり安心していたのだが、治っていたわけではなかったようだ。
青い顔をした修の背中をそっと擦り始めた。

 「修さん…気持ち悪いだけ…? 呼吸は大丈夫…? 」

修は無言で頷いた。

 「誰だ? こんな雑誌居間に持ち込んだのは…? 
表紙だけでもお父さまのご気分を害するとあれほど言ったはずだよ。
 そうでなくても小さい子も居るんだから気をつけないと…。
部屋に片付けておきなさい。 」

雅人は和貴と久史を睨みながら片方の手で雑誌を渡した。
 
 「ごめんなさい…。 大丈夫…お父さま?
さっき友だちから借りて…メールしてるうちに置き忘れちゃったんだ。 」

 久史が頭を掻き掻き謝った。
おまえかよ…と修と雅人は同時に思った。

 「まあ…親にも隠れず堂々と…ってのも悪くはないが…。
その手の本はできれば自分の部屋で見てくれ…。 」

修はできるだけ子どもたちに心配をかけまいと努めて穏やかに笑って見せた。

子どもたちが雑誌を片付けに部屋へ行ってしまうと雅人が怒ったように言った。

 「発作…本当は何度も起きてたんだね。 僕に隠してたんでしょう…? 」

背中を擦る雅人の手に力がこもった。

 「いいんだよ…もう…。 生涯このままでいようと決めたんだ…。 」

 修は力なく笑った。
雅人は訝しげに修を見た。

 「昔…史朗がね…修に実の子が授かるなら自分は子を持てなくていい…と願を懸けてくれて…さ。
 そんなの不公平だろ…? 僕だけ幸せになるなんてさ…。
史朗には両親も兄弟もいないんだぜ…僕もそうだけど…ずっと血の繋がった家族を…子どもを欲しがっていたんだから…。
 だから…彰久さんに願を懸けて貰ったんだ…。
僕はこのまま…この病に苦しんでも構わないから…史朗に子どもを…と…。 」

 雅人は言葉を失った。
鬼面川の願掛けのご利益が本当にあるものかどうかは知らないが…ふたりとも自己犠牲が過ぎる…。

 「馬鹿だと思うかい…? 僕は…それでも幸せだから…。
だって桜花(はな)はいい娘だろ…桜花を授かった幸運に比べれば…こんな病気なんでもないじゃないか…? 」

可愛い桜花…史朗の娘…僕の娘…。

雅人はそっと背後から修の肩を抱きしめた。 

 「父さん…僕らの大切な父さん…。 お願いだから…ひとりで我慢しないで…。
症状を和らげるくらい…許してもらえるでしょう? 
もう…治らないなら…少しでも楽にさせてあげたいよ…。 」

そうだな…修は頷きながら笑みを浮かべた。

 「有難う…雅人…次からはまた…おまえを呼ぶよ…。 」



 おばさん…嫌な呼称だわ…。
昼間、通りすがりに落し物を拾ってあげた学生から丁寧に礼を言われたにも関わらず、それを思い出すたびに笙子は胸にちくりときていた。

 会社では社長としか呼ばれないけれど…社員たちだって陰ではあのおばさんなんて呼んでいるのね…きっと…。
 
 「ねえ…史朗ちゃん…齢はとりたくないわねぇ。 」

 …って最中に何考えてんだか…と史朗は溜息をついた。
言われてみれば…そう…笙子さんも少しきてるかなぁ…。
 齢の割には体形もいいし…見た目も綺麗だし…若いし…。
でもやっぱり昔ほどじゃないなぁ…。 

 「男はいいわよね…。多少崩れたって目立たないんだから…。 」

 …んなこと考えてる体勢じゃないと思うけど…。
いいんだけどね…いつものことだから…。
でも…僕だって気にしてますよ…崩れちゃいませんけど…。
どう頑張ったって…絶対…若くはなれないんだから…。 

 そう…もう二度とあの頃の僕には戻れない…修さんに初めて受け入れて貰えたことを無邪気に喜んでいた自分には…。

 「黙ってないで…自分から聞いたら…いいじゃない…? 
もう愛してないの…あの子の方がいいの…って…うふふ。
 史朗ちゃんは元来気骨のある男っぽい人なのに…修の前では私よりもずっと女性的だわね…。
そのギャップが可愛いんだけど…。 」

 また人の心を勝手に読んで…そんな恥ずかしいこと…言えるか…。
雅人くんじゃあるまいし…僕がそんなことを口にしたら冗談では済まなくなる…。

 それに…そんな単純な問題じゃない…。
修さんと僕の間にはとんでもなく複雑な感情が…そもそもあなたがその原因なんだから…。
少しは真面目に…。

 史朗の心を読んだのか笙子はやっと対戦モードに戻る…。
初めての夜以来変わらない…笙子との冗談みたいな夜の営み…。 




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最後の夢(第七十二話 その後…)

2006-01-16 23:40:53 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 稽古場に射しこむまだ浅き春の陽だまりにひとり座して、ほころび始めた庭の梅の古木を愛でながら、史朗ははるか過去に思いを馳せていた。

 母屋に寄り添うように新築されたこの稽古場のある屋敷は、修が史朗のために建ててくれたものだ。
 いまや鬼面川流祭祀舞の宗家として世間に知られるようになった史朗だが、少し前まで相変わらず紫峰の修練場で教室を開いていた。

 それほどの規模ではないが彰久や小峰衆も稽古場を持ち教室を開いているのに、
宗家たるものがヤドカリでは格好がつかないだろうと言う者があって、仕方なくあちらこちらの物件をあたってはみた。
 しかし紫峰の家から離れて他所へ移る気にはどうしてもなれなかった。
鬼母川流はここで産声をあげたんだから…宗家だけは…ここに根を張り続けていきたいのだけれど…いけないことなのだろうか…?とひとり悩んだ。

 史朗の気持ちを察した修がまたまた先走って専門家を呼び、母屋のすぐ近くに稽古場つきの屋敷を建てさせた。
 新しい家くらいは自分でどうにかするつもりだった史朗は、いつもながらの修の度を超えたお節介に困惑し天を仰いだ。
 それでもマンションの時のことを思い出して溜息半分苦笑いしながら修の厚意を有り難く受け取ることにした。
そんな経緯があってこうして紫峰の敷地内に木田の表札を出させてもらっている。
 


 あれから何年になるのだろう…。
楽な道ではなかったが紫峰の家族やその一族、彰久を始めとする鬼面川の一族に藤宮家…そして城崎家にも助けられてようようここまできた。
 鬼母川流の立ち上げに修とともに心から協力してくださったお祖父さま…一左は今は御大親の御許におられる…。 

 「お父さま…宗主が戻られました。 」

 出入り口の扉の向こうから桜花(はな)の声がした。
美しい娘に成長した桜花はいま14才…史朗のひとり娘…授かるはずのなかった実の娘だ。
 笙子は三人立て続けに子どもを産んだが、長男の和貴(かずき)、次男の久史(ひさし)は修の子で、たったひとり生まれた女の子が史朗の娘だった。
 修のために諦めたはずの我が子だったが鬼母川の御大親は慈悲深く史朗にこの上ない贈り物を下されたのだった。
 
 但し御大親は桜花を宗家の後継者にすることを望まれなかったようで、そのことが今、史朗にとって頭の痛い問題となっていた。

 周りに大勢男の子が居る中の初めての女の子だったこともあって修は桜花を我が子以上に可愛がっており、いつか史朗の後を継いでくれるようにと願っていた。

 確かに桜花には才能があり最高レベルの伝授者ではあるけれど、史朗は桜花よりも彰久の長男修史(ひさふみ)の天性の才能を高く買っていた。
 また、次男の彰史(てるふみ)も相当な力を持っており、このふたりを差し置いて桜花に後を継がせることなど到底考えられなかったし納得できなかった。
 
 鬼母川流は史朗と彰久が主になって立ち上げたには違いないが、後ろ楯になってくれた修と史朗が生み出した子どものような存在でもあり、修が居なければ影も形もなかったものであるだけに修の意思に逆らうようで心苦しかった。

 扉が開かれると、修と彰久、彰久の息子たちが連れ立って稽古場へ入ってきた。
その後から桜花が姿を現した。

 「史朗…鬼母川の子どもたちの舞を見せてくれるそうだね。 」

 何も知らされていない修が楽しげに言った。
史朗は微笑んで頷いてから、修史、彰史、桜花に舞を披露する用意をさせた。

 先ずはひとりずつ『実り』など比較的短いものを舞い、それぞれの成長した姿を修に見せた。
それぞれにいい出来だ…と修は思った。

 史朗が無言で指示を出すと、修の前に三人が並び同じものを同時に舞い始めた。
修の好きな『夜桜』を始め、『夕立』、『雪嵐』と難しいものが次々に舞われた。
 修は気軽な気持ちで可愛い桜花の舞を中心に見ていたのだが、次第に三人の中のひとりの舞に釘付けになった。

 修史の舞…まだ未熟ではあるが…それは確かに史朗の舞を受け継ぐもの。
こうして舞い比べると格段に差が見えてくる。
修は鋭い視線を向けて修史の一挙一動を観察した。

 すべての舞が終わると史朗は三人を労いながら稽古場の外に出した。
稽古場には修と史朗、彰久だけが残った。

 「史朗…いい後継者が出来たな…。 」

 史朗の思惑を見透かしているかのように修はそう言いながら笑みを浮かべた。
史朗は無言で嬉しそうに頷いた。

 「今はまだ荒削りだが…近い将来きっと輝く。 僕は新しい宝石を見つけた。」

 修は磨き甲斐のある宝物の出現に心底わくわくしているようだった。
それを聞いて史朗はほっとしたように彰久の方に顔を向けた。

 「彰久さんはどう思われます? 」

史朗に問われて彰久はいつものように落ち着いた表情でふたりを交互に見た。

 「桜花の舞は…どうやら僕に似たようですね。
伝授した者としては…それはそれで誇らしくもあるが…。
 宗家の舞を引き継ぐべき者としては…公平に見まして修史の舞が史朗くんに最も近いかと…。 」

 彰久は何の衒いもなく我が子を推挙した。
史朗は従兄彰久を祭主の鑑として尊敬し実の兄のように慕ってきたが、彰久もまた史朗の舞をこの上ないものと評価し畏敬の念を抱いていた。
 それゆえ史朗の舞自体を受け継げる者でなければ、たとえ史朗の実子桜花であっても宗家の後継者として認めるわけにはいかなかった。

 「では…宗家の後継は現段階では修史ということで…。 」

 史朗が晴れやかな顔をして宣言した。修も彰久も異存はないと答えた。
お祖父さま…お蔭さまで鬼母川流にもとうとう二代目が誕生しますよ…史朗は一左の御霊にそう報告して手を合わせた。



 後継者と言えば問題ありの城崎翔矢は…いま受験塾でトップクラスのカリスマ数学講師として活躍していた。
 翔矢は紫峰家に預けられている間に、修の家族や屋敷に出入りする様々なタイプの人たちから刺激を受け、おおいに鍛えられて学んだ後、悪さをする危険性がなくなってから城崎の家に戻ってきた。

 しばらくは城崎や久遠の手伝いなどをしていたが、もともと頭脳の方はすこぶる優秀であるにも拘らず、城崎家の人々からどうしても幼い子ども扱いされてしまうことに閉口した。
 いい加減うんざりした翔矢は齢相応に扱ってもらえるように何か自分に出来ることはないかとあれこれ思案した。

 そんな折、瀾が一般教養の科目である数学に手を焼いているのを傍で見ていた翔矢が事も無げに問題を解いて、数学の苦手な瀾にも分かりやすく解説した。
 驚いた瀾が修に報告したのがきっかけで藤宮学園高等部受験塾の講師採用試験を受けることになったのだった。

 監視付きでの通学とはいえ、もともと理数に秀でた大学を優秀な成績で卒業したわけだから数学に強いのは当たり前で、その特異な性格や行動も学者肌や変わり者の多い藤宮学園の職員気風にもぴったりとはまったらしく、採用されたその時点で定年退職したベテラン講師のクラスをすんなり引き継いだ。

 塾生たちからは翔矢ちゃんと呼ばれながらも同年代のような気安さで分かりやすく解説してくれる先生として受け入れられた。

 ただ…講師同士の付き合いとなると子どもっぽい翔矢にはどうしてもついていけないところが出てくるため、修は唐島に白羽の矢を立てて翔矢の面倒を見させることにした。
 唐島は高等部の方の教師だが週に何度か受験塾でも国語を担当しており、翔矢と講師仲間との顔繋ぎや補佐には持って来いだった。

 勿論…雅人は激怒した。
後遺症の原因となった唐島を修が知人として受け入れているのを見ると、歯がゆさと情けなさで泣き出したいくらいだった。
修は…あいつには貸しがあるから…となんでもないことのように笑った。

 あの翔矢がまともな仕事に就いて、しかも立派に成績を残しているという情報は樋野家を驚愕させた。
 翔矢が社会に適応できるようになるとは樋野の誰も考えていなかったからだ。
後継者問題が再燃するかと思われたが事態は意外なところで決着を見た。

 久遠が樋野の忠正の娘を嫁に貰ったのだ。
あの事件の後、忠正の長女咲が婚家先から出戻ってきたのだが、久遠とは高校の時の同級生でお互いに結構気が合っていた。

 樋野からは時々縁談話が来ていたので、どうせなら気が置けない咲を嫁に貰いたいと久遠が忠正に掛け合った。

 忠正はこれを好機と見て取った。
本家の血を引く久遠が夫で後ろ盾なら咲を長に推してもいい。
 そうすればわざわざ城崎家の子久遠や翔矢を連れてくる必要は無く、久遠と咲の間に生まれるであろう子どもの誰かを樋野の長の後継にすればいいことだ。
樋野としても万々歳…。

 言わば樋野と城崎の利害が一致したわけで、久遠は目出度く咲と一緒になった。
咲は樋野の長だから取り敢えずは別居結婚ということになるが…修と笙子の場合もそうだし…独り身が長かった久遠は慣れもあってお互いに行ったり来たりの生活にそれほど不自由を感じなかった。
 
  

 修の内妻にも雅人の子の母親にもなれなかったが、鈴はいま紫峰家にとって欠くべからざる地位を獲得していた。
本家取締り役のはるの後を引き継いだのである。

 笙子と修の長男和貴のベビーシッターになった鈴は、笙子の都合で時々和貴を本家に連れてきて世話をすることがあったが、その姿に西野が惚れた。

 心優しい西野の誠意ある申し出を鈴は嬉しく思った。
紫峰の人々も西野の伯母はるも心から賛成してくれたので、少し迷いながらも再び嫁ぐ決心をしたのだった。
 鈴の家格は西野よりずっと上ではあるが、二度目の結婚ということでもあり、雅人の手が付いていることは周知の事実で、鈴の家族は何ら文句を言わなかったし、かえって鈴の落ち着く先が決まったことを喜んでさえいた。

 
 
 翔矢の面倒を看るようになってからも頼子は相変わらず修には熱を上げていた。
雅人の記憶ではとうとう根負けした修と1~2度そんなことがあったような気がするが、お互いに執着するような関係にはならなかった。
 翔矢のこれからを心配する城崎の願いを聞き入れて頼子は翔矢と所帯を持ち、頼りない翔矢をしっかりと支えている。

 何もかもが夢のように過ぎていったが、この10何年かの間には本当にいろいろなことがあった。
 あの事件以降も修さんときたら性懲りもなくいろいろなことに首を突っ込むものだから…命の縮む思いを何度したことか…。
その度に史朗さんも大変な思いをしてきたんだから…。

 だけど…史朗さんにとって一番つらいのは今かも知れないな…。
大きく溜息をついて雅人は、修たちと一緒に稽古場から出てきた史朗を見つめながらそう思った…。

 




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最後の夢(第七十一話 ベビーシッター)

2006-01-14 00:01:18 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 紫峰家が樋野家と城崎家の諍いの仲裁者として介入したことは紫峰自身は無論のこと他家の者も誰ひとり他言しなかった。
 しかし、その筋の眼は何処にでも光っているものらしく、世の中には樋野と同じように紫峰のことを伝え聞いている者もあるようで、大戦前にすでに途絶えていた裁定者としての地位が再び復活したかのように伝わっているらしかった。

 そのような問い合わせがあるたびに今更在りえぬ話だと否定した。
いまやほとんどの家がその能力を隠し、普通人として自由気ままに生活しているというのに、裁定者として再び立つなど御免被りたいというのが宗主の本音だった。

 紫峰宗主は最悪の奥義の伝授者…その荷を背負うだけでも十分に重い。
個人的な繋がりがあるのでなければ他の一族と関わるつもりなど毛頭ないし、縁も所縁も無い者に要らざるお節介など焼きたくもない。

 紫峰に関する言い伝えや古書が残っているような古い家系は、現在ではそれほどの数が残存しているわけではないとみえて、しばらくするとまた静かで平穏な生活が戻ってきた。

静かで…平穏…?



 新生児室のベビーベッドの上に居並ぶ赤ん坊の中で、一際大きな声を張り上げて泣いているのは修の長男和貴(かずき)、その隣で大人しく指を銜えながら和貴の方を見ているのは彰久の長男修史(ひさふみ)…残念なことには鈴と雅人の子どもは度重なる不調のためにこの世に生きて産まれてくることができなかった。

 雅人は鈴がぎりぎりまで必死で頑張ってくれたことに感謝したが、生まれてくるのを心待ちにしていただけに、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
 長いことずっと頑張ってきた鈴さんはもっとつらいんだろうな…と思い、鈴の前では努めて明るく振舞った。

目の前で鈴が溜息をついた。

 「おっぱいがこんなに…溢れるくらい出てくるのに…飲んでくれる赤ちゃんがいないんですねえ…。」

 寝巻きの胸のところが沁みになっていた。
その姿が痛々しくて雅人には何も言えなかった。

 呼び鈴が鳴って史朗が顔を出した。
こんな時どう言っていいのかは分からないが世話役としてはどうしても来ないわけには行かなかった。

 「具合はどう…? 」

 恐る恐る史朗が訊いた。
鈴はにっこり笑って大丈夫です…と答えた。

 「笙子さんや玲子さんは…? 」

 鈴が子どもを失ったのと同じ頃に男の子が生まれたことを鈴は伝え聞いていた。史朗の表情が少し曇った。

 「玲子さんは問題ないんだけどね。 笙子さんはちょっと具合が良くないんだ。
おっぱいが全然出なくてね…ひどく落ち込んでるよ。 」

鈴はちょっと小首を傾げて考えると、急に思いたったようにベッドから降りた。

 「雅人さん…笙子さんのところへ行くわ…。 」

 長いことあまり動かない生活を強いられていた鈴は覚束ない足取りで笙子の部屋へ向かった。

 笙子の部屋にはちょうど修が来ていた。
鈴が姿を現すとふたりは驚いたように鈴の顔を見た。笙子は自分の経験から鈴は当分ショックから立ち直れないだろうと思っていたのだが意外に元気そうに見えた。

 「おめでとう…男の子だったのね。 」

 笙子のベッドの横に設置されたベビーベッドの中には授乳のために連れてこられた和貴がいた。
鈴はいとおしげに赤ん坊を見つめた。

 「いい子が生まれてよかったわねぇ…。 」

鈴がそう言うと笙子が溜息をついた。

 「前のことがあるから…無事生まれてくれたのは本当に有り難いんだけど…。
おっぱいが出ないのよ…。 粉ミルクに頼るしかなさそう…。

 それに…私はすぐにでも復帰しなきゃならないんだけど…時間が不規則だからなかなかすぐには良いベビーシッターが見つからなくてね…。

 問題山積なのよ…。 」

 笙子は敢えて普通の会話を心掛けた。鈴を慰めるような言葉は避けた。
慰めの言葉なんか耳に入らないだろうから…。

 「笙子さん…それ…私にやらせてくれない?  」

ええっ…とその場のみんなから思わず声が漏れた。

 「私の身体が回復するのは少し先だろうけど…おっぱいはすぐにあげられるわ。
そのうちに全面的に世話をしてあげられるようになると思うの。

 私がベビーシッターなら笙子さん…時間を気にしないで仕事できるでしょう?
月曜から金曜までマンションに居て土日は本家に帰る…そんな感じでどうかしら?

 勿論…ちゃんとお給料は頂くわ…。
長老はとてもお元気だからお世話といっても何もすることがなくて…。 」

 笙子は思わず修を見た。いいよ…と修は頷いた。
笙子は和貴を抱き上げると鈴の傍に連れてきた。

 「お願いできる? 」

 笙子の腕から和貴を受け取った鈴はみんなの見ている前で堂々と胸をはだけ、そのふくよかな乳房を和貴に吸わせた。
 満足げに空腹を満たす和貴の表情に鈴は思わず微笑んだ。
和貴が満腹になって眠ってしまうまでの間…時は穏やかに流れた…。
 


 紫峰の修練場でひとり祭祀を行っている史朗を彰久は不思議そうに見ていた。
何かのお礼の報告と感謝の言葉を御大親に奏上しているようなのだが、良いことがあった割には何処と無く寂しそうでもある。  

やがて祭祀を終えると彰久の方を振り返った。

 「無事…修さんに長男が生まれたので…御大親に御礼を申し上げていました。」

史朗は微笑んでそう話した。

 「御大親に…史朗くん…あなた…まさか願懸けの祭祀を…? 」

 彰久は心配そうに訊ねた。
御大親に願を懸ける時には願を懸ける者は何かを犠牲にしなければならない。

 「ええ…もし…修さんにひとりでも子が授かるなら…僕には子を与えてくださらずともよいと…。 」

 なんという…彰久は心を痛めた。史朗には親も兄弟もいない。
それゆえに史朗がどれほど自分の子どもを欲しているか…彰久は知っていた。
その気持ちを犠牲にしてでも…修のために…。

 「御大親がお聞き届けくださった以上…僕に子が授かることはないでしょう…。
鬼面川の祭祀舞を引き継ぐのは彰久さんのお子たちということになりましょうか。
この史朗の舞は一代限り…。 」

 史朗は立ち上がると『夕立』を舞い始めた。
時々刻々移り往く自然現象の微妙な変化をも舞い分けるその神業とも言うべき史朗の…閑平の表現力…。
見事という他なく彰久はただ感嘆するばかりだった。



 倉吉の報告では翔矢がかけた敏の暗示はすっかり解けて今は素直に取り調べに応じているらしかった。
 ただ…城崎と久遠のために翔矢のことはすべて内緒にしていて、昭二を殺した理由は裏切られたと誤解したからだと説明しているようだった。

 解決しても後味の悪い思いが残る…嫌な事件だった。
誰をどう非難したところでどうにもならない。
やり切れない気持ちと折り合いをつけるのが唯一救われる道だった。

 妻を亡くしたとはいえ瀾と久遠が戻ったことで城崎家は昔の活気を取り戻した。瀾は大学と祭祀舞の稽古とで忙しくしていたが、以前とは打って変わって家業の手伝いもするようになり城崎を喜ばせた。
 久遠は城崎の家業の他に自分の店もそのまま続けていたが、樋野の圭介と佳恵に代理を任せ、日常の業務にあたらせることにした。

 翔矢の再教育以外はまるですべてがもともとそうであったかのように何事も滞りなく過ぎていった。 
 




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最後の夢(第七十話 能力者の裁定人)

2006-01-12 23:53:45 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 久遠より少しだけ小柄で同じように細身の翔矢は修よりずっと年下に見える。
どちらかと言えば瀾に近く、似てはいるが久遠と並んでも双子には到底思えない。
 年下の修にこれだけべったりと甘えていてもそれほど違和感がないのはその見た目の幼さと陽菜によく似ているという女顔のせいなのだろう。

 「ねえ…気付いていたなら…どうして幼児だとか赤ちゃんだとか嘘言って…僕に合わせてくれたの…? 」

翔矢は甘ったるい声で訊いた。

 「嘘じゃないだろ…怒りが支配した時のおまえはまるっきり赤ん坊…甘える時は幼児そのもの…。
 だけどおまえの本当の感情年齢は…まあ…14~5ってところだな…。
その演技力で8歳くらいに見せてはいるけど…。 
 みんな誤解しているが…おまえは頭脳に問題があるわけじゃない…。
ただ行動や感情面が幼稚なだけさ…。 」

 当面の課題はその精神的未熟さからの脱却だな…と修は胸のうちで思った。
鼻先でふふんと笑いながらも翔矢の肩が少し震えているのが修の手に伝わった。

 「伯父さまには…優しい顔もあったんだ…。 僕が赤ん坊で居る限り…それほど酷いことはされなかった…。 
 ただ甘えていれば…勉強以外何もできない振りをしていれば…優しかった。
僕が自分で判断したり…行動したりすると怒り狂って…久遠を殺すぞって…。
久遠のこと言われると僕抵抗できないから…どんな暴力を受けても黙ってた。
 おかしなことに城崎家を不幸にすることなら何をしても子供の悪戯だと笑って見ていたけど…ね。」

 邦正には内緒で伯母の珠江ができる限りの手を尽くしてくれたお蔭で、完全な幼児化は免れたし、ある程度は大人の考えも持てるようにはなったが、そのことを表面上は隠しておかなければならなかった。

 「樋野の為でもあるんだよ…。 伯父さまは自分以外の誰かが長になる力を持っていると疑っただけで、無情にもその人を叩き潰そうとする。
長老衆のひとりが目をつけられて嘆いているのを耳にしたことがあるよ。
 本家に僕という存在がある限り他に後継者は出てこないから伯父さまの天下は続くだろうし、僕なら伯父さまの言うなりだと信じているから安心しているんだ。
安心していれば誰にも攻撃しないだろうからね…。 」

 翔矢は未熟なりに長として一族を護る方法を考えていたようだ。
もし翔矢が居なければ長と長老衆の間で同族同士の壮絶なバトルが繰り広げられていたかもしれない。
 我慢に我慢を重ねてきた翔矢だが…爛のマスコミへの登場をきっかけに耐えられなくなった。
 久遠が思い出してしまう…城崎に帰ってしまう…。
僕を置いていかないで…ひとりにしないで…もうひとりでは堪えきれない…。

 「…許してくれないね…きっと…久遠も…瀾も…。 」
 
犯した過ちの大きさを思い黙り込んでしまった翔矢の頬を涙が伝った。

 「時が経てば…久遠や瀾とも仲良く暮らせるようになるさ…。 」

宥め諭すような修の言葉を聞きながら翔矢はただ…無言で何度も頷いた。



 城崎衆のひとりに連れられて先に紫峰の屋敷まで逃れてきていた頼子と佳恵は心配と不安で一睡もできずにいた。
 西野の知らせで無事帰ってきたと聞くや、隊列を組むように何台も連なって戻ってきた車を出迎えるため表門のところまで大急ぎで駆けて行った。

 翔矢の姿を見るとさすがに引いたが時間の経過と共に慣れてしまった。
子どもっぽい翔矢の姿や仕草が彼女たちには何となく可愛く見えたらしい。
 頼子なんぞ相当痛い目に遭わされたはずなのにそんなこと微塵も感じられないほどの世話焼き振りだった。

 修の方を伺いながら…あっさり乗り換えられたかもね…と透が雅人に囁いた。
ま…翔矢の方が母性本能を刺激するんじゃない…と雅人が相槌を打った。
 これで修さんはプリンちゃんから解放されるわけ…?と隆平が訊いた。
プリンちゃんはいいけどさ…子猫が一匹増えちゃったわけよ…しかも♂のわけあり…雅人が肩を竦めた。

 なんか修さんの周りって男ばっかりだよね…晃が言った。
そうそう…あのお姉さまは結構修さんの好みのタイプだったんだぜ…でも結局残ったのは♂の子猫。
 宗主…女好きのわりには女運が悪いようですな…と悟が気の毒そうに言った。
良いんじゃないの…男には十分もててるからさぁ…瀾が冗談ぽく笑った。

 子どもたちがそんなこんな取るに足らない話をしている間に、修と一左、城崎、久遠の間で翔矢の今後のことが話し合われた。

 修が特に注意を促したのは、翔矢が他人を利用して人を殺めたのは事実で、これは絶対に許されない行為…弁解の余地は無いのだということを本人にしっかりと自覚させ、周りもその点については感情に流されないようにするということだった。

 細々とした取り決めの後、城崎は頼子と佳恵を連れて一先ず引き上げていった。
長期滞在をしていた爛は帰宅の準備のため、久遠は慣れない生活の始まる翔矢のために帰宅を一日延ばした。

 父親を見送って戻ってきた久遠は縁側のところでぼんやり東屋の方を眺めている史朗を見かけた。
 
 「腹の怪我は大丈夫か…? 」

久遠はそう声をかけた。

 「ああ…もう平気だ…。 」

史朗は腹を撫でて微笑んで見せた。

 「なあ…史朗…宗主はおまえだと分かっていてなぜ攻撃したんだ? 」

訊くか訊くまいか迷った挙句、久遠は理解できない修のあの攻撃について訊ねた。 
 「樹の御霊だからだよ…。 紫峰では樹に背くような行為は許されない。
透くんたちは樹に刃向ったあんたを庇ったから同罪と見なされたんだ。
 あのまま子どもたちを攻撃して怪我負わせたら修さん自身が苦しむだろう…?
それで僕が身代わりになっただけ…。 」

それでも十分苦しむと思うが…と久遠は思った。

 「修と樹は同じ人物なのに…攻撃を止めるわけにはいかなかったのか? 」

史朗は溜息をつきながら頷いた。

 「千年以上も前からの決まりごとなんだ。 
樹の御霊に背いたとみなされた者は身をもって潔白を証明しなさい…ってね。
代々宗主が樹の代理を務めているわけだけれど…修さんは本物だから厳しいよ。
 大丈夫…逃げようとしたり反撃したりしなければ、少し痛い思いはするけれど見殺しにはされないから…。 」

 史朗はまた久遠に向かって微笑んだ。
千年…そんな決まり取っ払っちゃえばいいだろうが…と久遠は呆れ顔で言った。

 「紫峰の立場がそうさせるんだよ。
信じないかも知れないけど…彰久さんと僕は修さんと同じで千年前の鬼母川の祭主の生まれ変わりだ…。
 当時の紫峰家のことも少しは覚えている…。
紫峰と藤宮は他の一族とはいつも距離を置いていた。

 それはその能力の特殊性からいって存在の独立性を保つためと言われているけど『生』の藤宮『滅』の紫峰は本当は能力者たちを裁定するために中立を図る必要があったんだ。
 おそらく朝廷が決めたことではなくて、能力者たちの間で自然発生的に『滅』の紫峰が裁定者になっていったということなのだろうけれど…。 」

 樋野が紫峰家を畏れた訳がそれで納得できた。
久遠たち300年程度の家柄では知り得ぬことだが、さらに古い家系では未だに樋野のように紫峰を裁定者と見做している一族が存在するに違いない。

 「それで…厳しすぎるほど厳しい決まりごとに縛られて生きているって訳か…。
何だかなぁ…って感じだよ。 」

 修ほどの男が旧態依然とした決まりごとに甘んじているとは…ね。
久遠は少し興醒めた。

 「理由はそれだけじゃない…。 何と言われようとそうせざるを得ないのさ。
紫峰の最悪の処刑奥義『滅』を封印しておくためにね…。
宗主は封印の鍵だから鍵を壊そうとする者に対しては容赦ないんだ。
『滅』は相伝とともに宗主の身体に受け継がれていく。
宗主の精神力だけが鍵となる。 それ自体が超原始的なんだから…。 」

 処刑って…久遠は慄然とした。
その気になれば修は…本当に人を殺せるってことか…?
史朗の時のように後から助けるなんてこともせずに…か?

 紫峰の名を聞いて樋野の長老衆が可笑しいほどうろたえていたその姿が、いまの久遠には笑えないものとなっていた…。





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