徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

現世太極伝(第三十七話 とんでもないやつ)

2006-03-30 23:15:50 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 それから後はどこと言って変わりなくノエルはいつものノエルだった。
書店の年上の女性客に人気のいかにも護ってあげたいタイプの男の子…。
てめぇらぁ…なんて火吹いて啖呵切るような人種だったとは俄かには信じ難い。

 けれど…以前にも感じたことだが、ある程度力のある亮にさえチェーンを渡して護ってくれた西沢も、極めて慎重な滝川も、ノエルには敢えてそうした備えをしてやったりしないところを見ると、そういうものを必要としないノエルの強さに気付いているのかもしれない。

 今日は亮の方が早番なので先に店を出た。
買い物を済ませると一旦自宅に戻り…冷凍庫に入れておいた昨日の残り…紫苑のためのホットケーキを取り出した。
それを西沢の分の買い物と一緒に袋へ入れると西沢のところへ急いだ。

 西沢は仕事部屋に居るようだった。
レンジでケーキを温め、輝の買い置きの紅茶と一緒に仕事部屋へ運んだ。

 「ただいま…西沢さん。 」
 
亮が部屋に入っていくと西沢はそれまで描いていた手を休めて振り返った。

 「お帰り…いい匂いだと思ったらホットケーキか…久しぶりだな…。 」

亮は作品から離れたところにある小さなテーブルの上にお盆を置いた。

 「昨夜…父さんが初めて焼いてくれたんだ…ふたりしか居ないのに三人分…。
冷凍しておいたから少し味は落ちてるかもしれない…。 」

 西沢は少し表情を強張らせて…そう…と頷いた。
テーブルの傍まで来るとそっとフォークを手にしてホットケーキを切り取った。
ひと口食べた…。

 亮が何も言わなくてもこれを焼いた時の有の気持ちが伝わってきた…。
悔しいなぁ…という有の声までが生で聞こえてくるようだった。

 「美味しいよ…。 父さんに有難うと伝えておいて…。 」

 西沢は亮の顔を見ることなく黙って食べ続けた。
時折…少し洟を啜っているのが亮にも分かった。

 「内緒で持ってきたんだ…父さんは兄さんが食べてくれてるとは思ってない。
西沢家の手前…そんなことしちゃいけないと思っているから…。 
僕の独断…どうしても食べてもらいたかったんだ…父さんの気持ち…。 」

 兄…さん…か…。
西沢は聞かなかった振りをした。 聞き間違いだと悲しいから…。



 西沢にそのまま仕事を続けさせておいて亮は夕飯の仕度にキッチンへと戻った。
あまり使われた形跡のない流し台…また仕事に夢中で昼飯抜いたな…と思った。

 簡単な惣菜が大方出来上がって盛り付けを始めた頃、時間でもないのにふらっとノエルが帰ってきた。

 「何…どうしたの…えらく早いじゃないか…? 」

どっか調子でも悪いのか…? 亮は心配そうに訊いた。

 「店長とこのお祖父ちゃんが転んで怪我したんだって…今夜は早めに店閉めるからって帰されたんだ。
 お祖父ちゃん元気だけどもう九十近いらしいから心配なんだって。
亮…明日何かお見舞いのもの買おうか? 」
 
 そうだな…と亮は相槌を打った。
挨拶ついでに西沢さんを呼んできてよ…とノエルに頼んだ。  

 ノエルは仕事部屋のドアを開けてただいま…ご飯だよ…と連続で声を掛けた。
西沢が早かったね…などと言いながら出てくると、亮に話したことを繰り返した。

 三人が席に着くや否や亮の携帯がけたたましく鳴った。
直行からだった。

 『亮! 高木ノエル…あいつとんでもないやつだぞ…。
城前中学の高木と言えばちょっと突っ張りが入ってる連中の間じゃ有名人。 
四年前までこのあたりの中学校のワル連中を総なめにしていたやつで、卒業と同時に親の転勤で他の土地へ引っ越して行ったらしいんだ。
 最近になって戻ってきてるという噂はあったんだが、まさかあのノエルがそうだとは思わなかった。
城前出身の同期生も居るのに…有名なわりには誰も顔を覚えてないもんで…。 』

 亮が返事をする前にノエルがひょいと携帯を奪った。
何すんだよ…と亮が怒った。
ノエルは平然と携帯に話しかけた。

 「直行…その話は俺がする。 おまえは黙ってろ。
うわさで物を言うんじゃねえ! 」

 勝手に携帯を切って亮に渡した。
おいおい…切んなよ…。
クスクスッと西沢が笑った。

 「亮くん…飯にしよう…。 冷めてしまうよ…。 」

西沢に促されてノエルと亮は席に着いた。

 「ノエルがめちゃ喧嘩強いの…西沢さん気付いてた? 」

 亮が西沢に訊ねた。西沢は愉快そうに笑みを浮かべたまま軽く頷いた。
まあね…僕も滝川も結構暴れてたから…ピンときたんで…。

 「ノエルの手…ちょっと見…女の子みたいで綺麗だけどさ…。 
人差し指と中指の付け根の関節…結構太いんだよね。
格闘技やってるやつか…そうじゃなければ拳に物言わせてるやつの手なんだよ。」

 な…っと西沢はノエルに声を掛けた。
ノエルはいつもの顔でにこっと笑った。

 「でも高校からはわりとおとなしくしてたよ。 問題なしに良い子さ…。
事故にあって身体のことが分かって…もう暴れる気も失せちまったから…。 」

 少なからず口惜しげにノエルは言った。
身体のことがなければもっと暴れてやったのに…とでも言いたげに…。

 まあ…本人の気持ちはどうあれ…そのことがノエルをワル系からフツー系に軌道修正させたわけだから…世間にとってはその方が幸いだったんじゃないかなぁ…などと亮は秘かに思った。



 いつもより少し早めの帰り道…ノエルはいつも通り亮についてきた。
滝川先生がいないのに今夜はマンションに泊まらないの…?と亮は訊いた。
 紫苑さんひとりでも大丈夫そうだし…仕事の邪魔しちゃ悪いもん…。
屈託ない笑顔でそう言った。

 嫌いな一般科目の予習にうんざりしてテキストを放り出し、亮の部屋のクッションの海で子どもみたいにぷかぷか遊んでいる姿からは、ワル五人をやっつけたあのノエルの強さを思い浮かべることはできなかった。
 
 「亮…これ触るとなんか背中ゾクゾクってこない? わ~きた…気色わる~。
でも…なんか癖になりそ~。 」

 サンドビーズのクッションを三つも抱えてひとりで騒いでいる。
本を読んでいる亮が生返事をしても気にならないようだ。
それにも飽きるとようよう亮のベッドに潜り込んだ。

 しばらく亮の隣でじっと天井を見つめていたが、誰に言うともなしにぽつりぽつり話し始めた。

 「喧嘩はよくしたけど…自分から売ったことはない…。 
みんな向こうから仕掛けてくるんだ。
 弱いやつを苛めたこともないし…ちゃんと学校の行事とかはマジメに手伝った。
掃除とか授業とかは…まあ時々サボったけど…。

 物心ついた時には親父と格闘してた。
男は強く逞しくあれ…ってのが親父の考え方なんで、僕が歩き始めると同時に鍛え出したらしい…。
 僕に負けたもんで親に泣きついたやつがいて家に怒鳴り込まれたこともあるけど、親父は僕には何にも言わなかった。
そいつはそれ以降みんなに総すかん食らってたけど…。

 期待してたんだ親父…その分…こんな身体だと分かって…心底失望したんだろ。
僕にだってどうしようもないことなんだけどね…。 」

亮は本を閉じるとノエルの方に向き直った。 

 「臓器をとってしまえば…いいのかもしれない。 
紫苑さんや滝川先生は…僕がどうしても手術を受けたいと思うなら別だけど…そうじゃなきゃその必要は無いって言うんだ。
 ひと口に手術でとるって言っても…そんな簡単なものじゃないって…。
身体全体にどう影響するかも分からないんだから慎重に考えなさいってね…。 」

 西沢さんや滝川先生の言うとおりだ…と亮も思った。
ノエルの場合は未成熟なだけで子宮も卵巣もちゃんと備わっている。
 生きているこれらの臓器をとってしまって身体に何の影響もないと誰が断言できるだろう。  
 
 「ほんとにあかちゃんなんかできちゃったら…親父…眼ぇ剥いて腰抜かすだろうな…。 」

 ちょっと見てみたい気がする…ノエルは愉快そうに声を上げて笑った。
亮がそっとノエルのお腹に手を触れた。

 「できちゃってるかも知れないじゃない…西沢さんのあかちゃん…。 」

少しばかり意地悪く言った。 

 「それは…ない。 紫苑さん…あれで意外と堅物…。
僕を遊ばせてくれたけれど…紫苑さんはほとんど遊んでない…楽しんでない…。
 優しい人だけど…残酷…愛してないって言われたのと同じ…。
女だったら絶対恨むよ。
まあ…僕は文句はないけど…そんな程度でも結構面白かったから…。 」

 どんな程度か知らないけど…まあまあよかったんだろうその様子じゃ…。
亮はもう笑うしかなかった。

 ノエルには二股かけてるなんて意識はまるっきりないし、どうやら好き嫌いの感情より遊び心と好奇心の方が勝っているようだ。

 西沢さんも僕も後腐れない相手だから適当に行ったり来たりで十分楽しめるってわけで…こいつの場合…意図してやってるんじゃないところが怖い…。
 勿論…好きだって気持ちは嘘じゃなかろうけど…。
やっぱ…とんでもないやつかも知れん…別の意味で…。

 昼間久しぶりに暴れたせいか…それとも亮の温もりのせいか…ノエルはいつの間にかうつらうつら寝の世界に入っていた。 
その邪気のない横顔を見つめながら亮もゆっくりと眠りに落ちた。

遠くで雷鳴が響いていた…。


 



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現世太極伝(第三十六話 ノエル火を吹く!)

2006-03-29 14:07:16 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 そんなに心配してもらわなくても…僕は立ち直りは早い方で…何てことを言ってる場合じゃないな…。
さすがの西沢も少々焦った。
 子どもの頃から男女を問わず言い寄られるのには慣れてはいるが、ノエルはまだ亮と幼い関係を結んだばかり…。
良いも悪いもまだこれからだってのに…?

 「それは…つまり…そういうこと…? 」

 何を馬鹿なことを言ってるんだ。通じるわきゃねえだろ…。   
ノエルがにこっと笑ってうんと頷く。
通じちゃったよ…。

西沢はふうっと溜息をついて再びベッドの端に腰を下ろした。

 「あのさ…なんで今? 亮くんに何か問題があるわけ…? 」

そんなんじゃないけど…とノエルは俯く。

 「亮はさ…最初に僕を女の子だと思い込んでたから…そういう感覚から離れられないわけ…。 
 僕にとって…それはちょっとしんどい…。 
でも亮のこと大好きだから…亮とは…それでも良いかなって…。 」

どこかで聞いたような話だ…西沢の顔がちょっと引きつる。

 「けど…やっぱり違和感あるんだ…。 」

で…なんで僕なのか…って話だけど…。

 「紫苑さんは…滝川先生と…ある? 」

はぁ? あ…そういうこと…か。
 
 「恭介ね…。 そうだね…あったと言えばあったんだけど…。
はるか昔…八年ほど前…若気の至りで二度ほど…ね。
 愛だの恋だのそんな感情的なもんじゃなくてまさに遊びだったから…バニラ程度の他愛のないものだったんだけど…。
あいつちゃっかり写真に撮ってやがった…油断も隙もないったら…。 」

西沢はすでに滝川の手で処分されたあの写真を思い浮かべた。

 「遊びでも…ちゃんと相手を同性だって認識していたわけでしょ…。
紫苑さんならきっと僕のこと女の子だとは考えないと思ったんだ…。 」

 ノエルは子どものような笑顔を浮かべる。
こいつの笑顔は曲者だ…と紫苑は思う。

 「そりゃまあね…けど…僕と…なんて発想は自分から女だって言ってるようなもんじゃないのか…。
 悩殺ボディのお姉さんと…ってなこと考えるなら別だけど…さ。 
あ…これは僕の趣味ね…輝はちょっと細っこいけどな…。 」

訊いてねえし…ちょっと不満気にノエルは唇を尖らせる。

 「だって滝川先生はどう見たってしっかり男だよ。 
そっちの気があるかどうかは知らないけど…僕にはあるようには思えない。 
 なのに…紫苑さん命の人じゃないさ…。 
なら僕だってそれでもいいでしょ。 紫苑さん好きでも…。 」

 ノエルはまた上目遣いに西沢を見た。
まさに正論…なんだけどね…。 きみのそういう仕草は男とは思えないよ…。
 多分…きみの中には両方の特質が複雑に入り混じってあるんだろうね…。
男の子として育ったからか…その方が勝ってるわけだけど…。

 西沢の両膝に乗せられた男性離れした優しい手が白く浮いて見える。
西沢はもう一度ノエルを抱き上げた。

 「紫苑命は…まあ…頷けるとして…十何年も付き合ってると…気持ちも何も物理的なもの超えちゃった状態になる…らしい。
 輝は恋人として僕にとっちゃ大切な存在ではあるけれど…身体で繋がってる輝よりも…ある意味恭介と僕は濃密な関係にある。
輝はそれが気に食わないようだ…。 」

ま…それはどうでも良いか…。

 「僕は道徳家でも倫理崇拝主義でもないから…火遊びもないわけじゃないけど…今んとこ本気になれるのは輝だけなんだ。
ノエルのご期待に副えるとは思えないんだけどね…? 」

西沢は真面目な顔でノエルに言った。

 「僕は別に…紫苑さんの一番のお気に入りになろうなんて思ってないもの。
時々ちょっとかまって貰えればいいんだ…。
僕の気持ちは紫苑さんの心の隅っこにでも置いといて…。 」

 ノエルはそう言って両腕で紫苑の首を抱いた。
小悪魔…と紫苑は呟いた。 
 決して意図して行動しているわけではないが、ノエルはその子どものような屈託なさ…あどけなさで人を惹き付け魅了する力を持っている。
女の子と違うのはそういう自分を演出しているわけではないということ…。

 いいのかよ…知らないぜ…泣かせちゃっても…。
やれやれ…紫苑…おまえもほんと節操のない…呆れた奴だ。
 そんな声が西沢の中で木霊する。
輝の怒った顔がチラッと西沢の脳裏を過ぎった…。



 
 部屋のクッションの海に溺れながら亮はぼんやりと天井を見ていた。
意外なことには…帰るなり部屋に籠もってしまった有のことを少なからず心配している。
 中学の時から年中ほっとかれているから、親なんて金だけの存在だとずっと思っていたのに…。

 有のことよりももっとノエルのことが気になるかと思っていた。
気にならないわけじゃない…気になってしょうがないから気にしないようにするしかない。
 とにかく…ノエルはもともと西沢さんのことが好きだったんだから…焼いたって仕方がないんだ。

 それより親父…祥さんにまんまと騙された上に、今更、西沢さんを取り戻すこともできなくってショックだったろうな…。

 亮…と下から呼ぶ声がした。

 いつもなら寝た振りして無視を決め込むところだが、今日はさすがにそれはできそうにない。
亮は呼ばれるままに居間の方へと降りていった。

 自分の部屋の扉を開けた途端甘い匂いが漂ってきた。
階段を下りるとさらにその匂いは強くなった。

 キッチンのテーブルの上にほかほかのホットケーキが数枚…焼かれてあった。
唖然として有とホットケーキを見比べた。

 「俺さ…子どもの頃こいつが好きで…お袋によく焼いて貰ったんだ。
将来…俺が親父になったらこいつを子どもに作ってやろうだなんて考えてた…。
 いつの間にやら忘れちまってて…紫苑はおろかおまえにさえ食わしてやったことなかったよな…。 」

 よかったら食ってくれ…と有は言った。
亮は黙ってホットケーキの前に座った。 
 
 生まれて初めて有の作ったものを口にした。
少し甘みの薄い生地二枚にメープルシロップがたっぷりとかけられてバターの塊が溶け出している…。

 俺の小さい頃は糖蜜か蜂蜜しか手に入らなかったが…。

 用意された皿は三枚…ケーキは六枚で…有と…亮と…それは多分…母のではなく西沢の…。
二度と取り返せない紫苑の分なのだろう…と亮は思った。

 わけもなく亮の眼から涙がこぼれ落ちた。
有が誤魔化し誤魔化し洟を啜っていた。

 「悔しい…なぁ…。 亮…。 」

 有が初めて亮に見せた生の姿だった。 
悔しいなぁ…悔しいけど仕方がないなぁ…。

 親子ふたりで黙々とホットケーキを食べた。
甘いはずのメープルシロップが塩味に変わった。
 


 今朝も遅刻することなく地下鉄のプラットホームにノエルは姿を現した。
別段変わった様子もなくて拍子抜けといえば拍子抜け…。

 「おはよう…亮…。 」

おはよう…と答えた。

 「西沢さんの様子は…どう? 」

なんでもない振りをして亮はノエルに訊ねた。

 「いつもと変わりない…。 思ったよりショック…軽かったみたい。 
亮のお父さんは…どう? 」

ごく普通に返事が返ってきた。

 「こっちは結構ショックだったみたい…すぐ立ち直ったけどね。 」

 そうなんだぁ…可哀想に…とノエルは言った。
可哀想なのは僕の方かも…亮は胸のうちで呟いた。

 「あ~眠てぇ…夕べはよく眠れんかった。 」

亮は欠伸をしながら言った。

 「僕はまあまあ眠れたけど…朝早かったんでやっぱ眠いや。
家へテキスト取りに帰ってたんで…。 」

 電車が到着した。雨はあがっているもののどんよりした空気はそのままだ。
電車の中はやっばりむっとする。

 だんだんに人が増えて押し競饅頭になってくる。
亮は小柄な…と言っても亮に比べればだが…ノエルの傍らに立って庇うように壁になってやる。

 その優しさは嬉しいんだけど…完全に女の子扱いだもんな…。
ノエルはちょっと苛々した。


 構内の木々が青々と葉を繁らしているのに空の色は冴えない。
居眠りしたくなるような講義を聞いてノートを取り、安い学食で昼飯をつつきながら同期生たちと馬鹿話に花を咲かす…。
 こうして変化のない毎日を過ごしている間にも…意思を持つエナジーたちの決断の時は迫っているのかもしれない。
相変わらず争いは絶えないし…汚染も減らない。

 次々と新しい争いの種が蒔かれていくせいで、数少ない能力者たちの小競り合いでさえ…西沢が寝込むほど頑張ってもすべてを収めることはできない。
 西沢のような御使者が全国にどれほど存在するのかは分からないが…おそらくみんな一様に四苦八苦していることだろう。
午後の講義に倦んでぼんやり窓の外を見ていた亮はそんなことを思った。


 亮より一時限先に今日の講義を受け終えた直行はひとりで地下鉄の駅に向かっていた。
 西沢に言われたとおり克彦たちに夕紀の動きを知らせて相談したが、他家の能力者が…それも世間的に名の通った紅村旭が係わってくるとあって、長老衆はその件についてよくよく話し合って決めるので勝手には動くなと直行に言い渡した。

 直行としては不満だったが引き下がるしかなかった。
そんなこんなを考えながらぼうっと歩いていると、こちらへ向かってくる一団のひとりと肩がぶつかってしまった…というかぶつけられてしまった。

 直行と同じくらいか少し下の男が五人…いかにも暇そうな連中で…ぼうっとしていた直行はいい暇つぶしに使われることになってしまった。
脇道に追われ因縁をつけられて金をせびられた。
 直行があまり金を持っていないと分かると彼等は暴力を振るい始めた。
能力者でない彼等を相手に力は使えない…。
保護能力だけは使っているものの喧嘩に弱い直行は切羽詰った。

 「こらてめぇら! 俺のダチに手ぇ出すんじゃねぇ! 」

 背後からど迫力なでかい声が響いた。暇男たちは一斉にその方を振り返った。
振り返って唖然とした。
 女の子かと思うような華奢な坊やが立っていた。
ノエルだと気付いた直行は大変なことになったと思った。

馬鹿にした笑い声があたりに響いた。

 「なんだか細っちいやつが出てきたぜ。
怪我しねえうちに帰りな。 ママのおっぱいしゃぶってろ! 」

相手にもならねぇ…と暇男どもは笑い転げた。

 「怪我しねえうちに帰るのはてめぇらの方だよ。 」

 ノエルは斜めに構えて挑発的な態度を見せた。
暇男たちもカチンと来た。

 「ノエルやめろ! 逃げろ! 」

 直行は蹴りを入れられながら叫んだ。
ところがノエルは直行の言葉を聞き入れるどころか逆に飛び込んできた。

 「直行に手ぇ出すなって言ってんだよ! 」

 直行の腹を蹴った男が翻筋斗打って倒れた。 
直行を含めて回りの連中の眼が一瞬点になった…が…すぐ気を取り直した。

 「こいつからたたんじまえ! 」

 暇男たちは一斉にノエルに向かった。
いつものだらだらな態度が一変しノエルは素早かった。
そして強かった。
 あって間に五人が転がった。
直行の眼が点になりっぱなしだった。

 「あほめらぁ! 前中の高木の名を忘れたんかぁ! 」

 前…中の…高木…。 暇男たちが一斉に引いた。
その名前は四年経った今も語り継がれている。
こいつだけは見た目で判断するな…と。

 「いいかぁ。 この周辺にゃ俺のダチがうじゃっと居る。
手ぇ出したらただじゃおかねぇからなぁ。 」

 ノエルが吼えた。
暇男たちはあわくって逃げ出した。

 逃げ出した先に亮が眼を丸くして棒立ちになっていた。
あ~すっきりしたぁ…ノエルはにこっと笑った。

 「直行…大丈夫? 」

 いつもの甘ったるい声でノエルが訊いた。
直行は無言のままうんうんと頷いた。

 「亮…講義はぁ? 」

休講…と亮は答えた。

んじゃ…帰ろうかぁ~。 
ノエルは楽しげに笑いながら歩き出した。





 

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現世太極伝(第三十五話 笑っちゃうだろ…。)

2006-03-27 17:14:58 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 怜雄と紫苑が部屋を出て行った後、怖くて動けずにいた英武は絵里がさらに錠剤を飲み込むのをぼんやりと見つめていた。
レオ…シオン…早く戻って来て…と願いながら…。

 「紫苑…薬が嫌いなのね…。 仕方がないわ…。 
少し痛いかもしれないけれど…ほんの一瞬よ…。 」

 絵里は何だかぶつぶつと呟きながら細いナイフを取り出した。
間食にと少し前に家政婦が運んできた果物籠に備え付けられたナイフだった。

 絵里は英武を振り返ると…紫苑…と呼んだ。
おいで…紫苑…一緒に行こう。
ここに居たって美郷の玩具になるだけだよ…。

 ひらひらのドレス着せられてさ。
素敵よ…紫苑…ママの可愛いお姫さま…だって。
笑っちゃうわよ。

 絵里はナイフを手に英武に近付いてきた。
英武はナイフが怖くて後退りした。

 「絵里ちゃん…僕…シオンじゃないよ! エイブだよ! 」

私と一緒に行こう…紫苑。

 「違う…違うよ…。 僕…シオンじゃない…。 絵里ちゃん…来ないで! 」

 英武は叫んだ。
ママ…ママ…助けて…怖いよ…。
絵里の手が英武の肩を掴んだ。
英武の全身に鳥肌が立った。

 今まさに絵里が英武にナイフを突き立てようとした時、美郷があわくって部屋に飛び込んできた。
 美郷は絵里の手を掴み、刃物を取り上げようとして揉み合いになり、弾みで手を切られながらも一旦は絵里を退けた。


 「何てことを! 子供に刃物を向けるなんて! 」

美郷は傷を負った手を押さえながら怒りの声をあげた。

 「返して…紫苑を返して…。 」

 ふらふらと立ち上がった絵里は再びふたりに迫った。
薬が効き始めたのか焦点が定まらないようで滅多やたらにナイフを振り回す。
僕…シオンじゃない…と英武が泣き叫ぶ。

 「違うわ…この子は紫苑じゃない…英武よ。 」
 
 美郷は叫ぶと同時に絵里に体当たりしてすぐに英武の身体に覆い被さった。
絵里は突き飛ばされた勢いでそのまま仰向けに倒れた。
ガンッと鈍い音がして絵里の身体が絨毯の上に転がった。 

 「お母さん…! 絵里ちゃんが…! 死んじゃう!」

 怜雄と紫苑の声がして、美郷が恐る恐る顔をあげると、テーブルの脇にピクリとも動かない絵里の姿が見えた。

 その傍で急に紫苑が倒れた…。
紫苑が絵里に刺されたと勘違いした英武はひどい衝撃を受け…紫苑が死んじゃう…と何度も叫んだ。

 あまりの出来事に頭の中が真っ白になった美郷はその場に茫然と座り込んだまま動けなかった。

 廊下の方で足音がして飯島と祥の父親…厳が駆けつけてきた。
厳はひと目見てすべてを察し、飯島は急いで絵里の容態を調べた。
暗黙のうちに厳と飯島は自分たちのなすべきことを行った。

 怜雄と紫苑から刃物と美郷の怪我…そして絵里の最後の姿の記憶を消す。
絵里は薬を飲んで死んだ。

 美郷と英武からは絵里の行動に関する記憶も消す。
美郷はただ薬を飲んで倒れた絵里を発見しただけ…。

  祥の母…カタリナにはすべてが伏せられ…愛娘絵里は薬物の事故で亡くなったと知らされた。



 それまで悠然と構えていた祥が大きく溜息をついて肩を落とした。
記憶の封印が解けてしまえば英武は事件のすべてを読み取ることができる。
幼い自分の記憶の他にも祖父や主治医が何をしたかも…。

 有は言葉もなく力が抜けたようにソファに身を沈めた。
なぜ真実に気付かなかったのだろう…。
気付いてさえいたなら…。

 「母さんを責めないでね…紫苑…。 あれは僕を助けるためにしたこと…。
本当に事故だったんだから…。 」

 英武は涙を浮かべて紫苑に頼んだ。
紫苑は硬い表情ながら僅かに微笑んで見せ深く頷いた。

 西沢の膝にノエルがそっと手をおいて心配そうに見つめた。
ノエルを安心させるようにその手を優しくとんとんと叩いて西沢は笑顔を向けた。
亮は思わずふたりから目を逸らした。

 「美郷さんは英武の命を護ろうとしただけですよね。
絵里さんは薬でおかしくなっていたわけだし…刃物を振り回してもいた。
 どう考えても正当防衛なのに…外部の人たちにはともかく有さんにまで隠そうとしたのはなぜなんですか? 
 有さんに真実を話していれば…少なくとももっと早い段階で英武の治療をしてやることができたでしょうに…。 」

 滝川は真相を知られてがっくりしている祥に訊ねた。
祥はチラッと有の方に目を遣ると、もうこれ以上黙っていても仕方がないと思ったのかようやく重い口を開いた。

 「すべては…紫苑を失いたくないための工作だ。
真相が分かってしまえば…有が紫苑を取り返そうとするに決まっている。
 それまでの四年間…私も美郷も実の子同様に紫苑を愛しんで育ててきた。
それは祖父母である私の両親も同じこと…。
今更…まだ生活力もない有に奪われてたまるか…と思ったんだ。

 それに…大学生だった有が紫苑を引き取って育てるより、西沢家で何不自由なく豊かに暮らしていけば紫苑も幸せだろうし、有も好きなように人生を歩める…。
ふたりにとってもそれが最もいい選択だとも考えた…。
何も西沢家の利だけを図っていたわけではない。

 いまひとつは美郷の心に義理の妹を死なせてしまったという負い目を負わせるのが可哀想だった。
 悪いのは絵里の方だ。勝手に子どもを産んで育てられずに手放しておきながら、男にふられて紫苑を道連れに無理心中を図ろうとしたのだから…。
 実の妹が可愛くないわけではないし、不幸なやつだとも思うが…だからといって罪のない美郷を苦しめるわけにはいかない。

 父と私は飯島の手を借りてすべてを丸く収めようとした。
すべては上手くいっていた。
 事故死ではなく自殺と告げられた有はショックで他の可能性など探る余裕をなくしていたし、紫苑が実際に薬を飲まされていたことで自殺を疑う者も居なかった。

 美郷と紫苑の関係が以前にも増して良好なのを見るにつけ…やはり真実は闇に葬るべきだと確信した。 」

 自分たちが間違っていたとは祥は決して認めたくはなかった。
少なくとも美郷は事件を思い出すこともなく紫苑のことを気遣いながら母親として幸せに暮らしている。
 紫苑にとっても祥や美郷は実の両親と何ら変わらない存在なのだ。
もし紫苑が真相を知っていたならこんな良好な親子関係が成り立ったかどうか…。

 失敗だったのは英武に恐怖の記憶が残ってしまったこと…。
飯島や厳が考えていたよりもずっと奥の深いところで幼い英武の心はずたずたに傷付けられていた。
 しかもその理由となる部分が消されてしまったことから、説明のつかない恐怖だけが残された。

 絵里と紫苑がオーバーラップし自分が襲われ殺されるという恐怖から身を護るために紫苑を突き放し攻撃する。
 かと思えば、大好きで大事な紫苑が死んでしまうかも知れないという恐怖が急速に湧きあがって紫苑に触れていないと我慢できない。
辻褄の合わない感情が入り乱れて表面化する。

 「英武は…どうにかしたいと何度も言ってきた。
紫苑を苦しめる自分に耐えられないと…。
怜雄も治療を勧めた…。
 しかし…治療を受けさせればすべてが明らかになる
叱りつけてその場その場で感情を抑えさせる以外に方法がなかった。 」

 祥がそこまで話し終えると西沢は急に立ち上がった。
みんな驚いて西沢を見つめた。
病人のように顔色がさえず、ひどく気分が悪そうで唇の色まで薄く見えた。

 「少し…休んでいいかな…? 」

 西沢は抑揚のない声でそれだけ言うと返事も待たず、誰を振り返ることもなく寝室の方へと引き上げていった。

 ノエルの目が不安げにそれを追い、つられるように立ち上がると亮に声を掛けることもなく西沢の後に従った。
追うべきかどうか…亮は迷った…が…追わないことにした。

 「英武…記憶が解放されて恐怖の原因が分かったのだから…今までよりはずっと対処しやすくなるはずだ…。
焦らずに少しずつ治療を進めよう。 

 恭介…今日はこの程度にしておこう…。
過去を思い出したことで怜雄も英武も少なからずショックを受けただろうし、精神的にも疲れただろう。
日を置いて気持ちが落ち着いたら再び治療を始めることにして…。 」

 有はそう提案した。恭介もそれに同調した。
正直なところ…有は自分の気持ちに決着をつけたかった。
 今更過去のことをどうこう言うつもりも何をするつもりもない。
が…不本意にせよ…紫苑を祥に渡してしまったことで有が失ってしまったものを、それが必然だったのだと納得するための時間が欲しかった。
 

 
 ノエルが部屋に入ると西沢は俯き、膝に肘をついて両手で顔を覆い、ベッドの端に腰を下ろしていた。
泣いているのかと思ったがそうではないようだった。

 ノエルは黙って西沢の前に座り、そっと上目遣いに西沢を見上げた。
まるで可愛がられて育った犬が悩んでいるご主人の様子を伺うような仕草だった。西沢は顔を覆っていた手を離して、悲しい笑みを浮かべノエルの頭を撫でた。 

 「心配しなくていいよ。 どうってことないから…。
この期に及んでも人間ってのは嘘を吐き通す生き物だということに呆れただけさ。
 養父が僕を手放したくないのは…僕が覇権を示す王の金印のようなものだからだ…。
 僕はそのためにここに閉じ込められている…両の翼を捥がれて…。
英武の病気は僕のせいだと教え込まれて…身動きできないように鎖に繋がれて…。
僕のこれまでの人生は何だったんだろうね…? 」

西沢は子どもを抱き上げるようにノエルを軽々と膝へ抱き上げた。

 「別に後悔しているわけじゃないんだ。
それはそれで家族の役には立っていたんだから。

 僕はね…ノエル。 
要らない子だと言われて…実の母に捨てられたとずっと思っていた。
 だから…西沢の養母には要る子だと言って貰えるように、女の服も黙って着て…着せ替え人形にもなったし、英武の発作の度に身体中傷つけられても文句も言わなかった。
 決して良い子じゃなかったよ。 喧嘩もすれば家出もするし…で心配もかけた。
そんなこんな除けば…みんなに必要だと思って貰うために勉強もスポーツも仕事もそれなりに頑張ってきた。

 養母に喜んでもらえるように…さ。
それが…どう?
僕が一生懸命に喜ばせてきたその人が実の母を死なせた人だったなんて…。
笑っちゃうだろ…可笑しくて涙も出やしない…。 」

ノエルは西沢にかける言葉も見つからなくて項垂れた。

扉の向こうから滝川が声をかけた。

 「紫苑…一応今日はこれでおひらきにした。 
祥さんたちももう帰ったし…亮くんも今日は有さんのことが心配だから一緒に帰るってさ。
 僕も明日から泊りがけで遠出しなきゃならないんでこれで帰るけど…三日くらいで戻ってくるよ。

ノエル…紫苑を頼むぜ…。 」

 滝川に言われてノエルはただ…うん…とだけ答えた。
どうしてあげたら良いのか分からなかったけれど…。
じゃあな…と言って滝川も帰って行った。

マンションの部屋にふたりだけが残された。

 「ノエル…きみも…帰りなさい…。 今日は仕事もなし…。 」

 西沢はそう言って笑うとノエルを膝から降ろした。
立ち上がって出て行こうとする西沢にノエルはやっと言葉をかけた。

 「僕じゃだめ? 」

怪訝そうな顔をして西沢が振り返った。

 「僕…ずっと応援してた…。 紫苑さんが元気で頑張れるようにって…。
初めて会った日に紫苑さんがそう頼んだんだよ…だからずっと…。

 今日は滝川先生も…輝さんも居ない…。
だから…傍に居てあげたいんだけど…僕じゃだめ? 
いつもみたいに泊めて欲しいっていう意味じゃないよ…。 」

 ノエルは真剣な眼で西沢を見た。
僕じゃだめ…って言われてもなぁ…西沢は困惑したように頭を掻いた。






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現世太極伝(第三十四話 要らない子)

2006-03-25 22:41:34 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 部屋の片隅からじっと成り行きを見守っていた亮は、父親が単に治療師というだけではなくて、その他にも信じられないような力を持っているということを知り、わけもなく身震いした。
初めて眼にするノエルの力にもどきどきしていた。

 転げ落ちるようにソファから床に下りたノエルは何かに追われるようにじりじりと後退りし始めた。

 「違う…違うよ…。 僕…紫苑じゃない…。 絵里ちゃん…来ないで! 」

 壁際まで追い詰められるように逃げた後、その先がないことに絶望し、ママ助けて…とひたすら母を呼ぶ。

 英武の眼にはノエルが見ているものと同じ映像が見えているのか…次第に恐怖の色を帯びていく。
 それだけではない…英武とノエルの行動が次第にシンクロナイズし始め、まるで同一人物であるかのように同じ動作をするようになってきた。

 「ママ…怖いよ…。 ママ…。 」

 まるで何かを防ごうとするかのように手が空を切る。
何度も何度も…。 ママ…助けて…。

 その時…英武の目の前で何かが起きた。ノエルも英武も一瞬頭を抱えて蹲った。
しばらくして顔を上げると目の前に…。

驚いたことに怜雄と紫苑が同時に叫んだ。

 「お母さん…! 絵里ちゃんが…! 死んじゃう!」

 有が力を止めた。
ノエルが再び気を失ったように床に倒れこんだ。
滝川がそっと抱き上げて心配そうな顔をしている亮の傍へと運んだ。
 亮くん…ノエルはすぐに目が覚めるから少しの間看ててやって…ね。
亮は静かに頷いてノエルを受け取った。

 英武は今、頭の中の整理に追われていた。
断片化された記憶のデフラグ…空白の部分が少しずつ埋まっていき、英武を苦しめてきた恐怖の原因が形となって現われてくる。 

 それは紫苑も怜雄も同じ…。
三人の頭の中で同時に記憶のパズルが組み立てられていく。
迅速に…。

 事件の時はすでに小学生だった怜雄が、最も早く記憶のパズルの最後の一枚を嵌め終えた。

機とみた有が透かさず怜雄に話しかけた。

 「怜雄…きみは三人の中で最も年上だから当時の記憶も確かだと思う…。
最初にきみからその時のことを話してくれないか…? 
力はできるだけ使わないようにして…きみが覚えているだけでいい…。 」

 いま夢から覚めたところというような顔で怜雄はそこに居るみんなを見回した。
修正された記憶の中で思いもよらない場面に出くわしたらしく、なかなか言葉が出てこない。

 その時…ノエルが亮の腕の中で眼を覚まし…反射的に亮から飛びのいた。
まるで襲いくる何かから逃れようとするかのように頭を抱え悲痛な声を上げた。

 「ノエル…ノエル…大丈夫だよ。 何でもないよ…。 」

 亮がそう話しかけながらノエルの背中を撫で擦った。
ノエルはそれが亮だということにやっと気付いた様子で、泣きそうなくらい怯えた声を上げた。

 「亮…あれは誰? 紫苑さんに似た女の子…まだ…僕等くらいの…。
倒れたんだ…頭打って…ひどい音がした。
紫苑さんが…紫苑さんが死んじゃうって思ったくらい…よく似てて…怖かった。」

紫苑さんが死んじゃう…怜雄と英武がその言葉に明らかに動揺を見せた。

 「あれは…紫苑を産んだ僕等の叔母だ…。 僕等は絵里ちゃんと呼んでいた。」

怜雄はようよう落ち着いた様子でゆっくりと語り始めた。



 あの日…紫苑と英武が幼稚園から帰ってきて…紫苑だけ離れに居る実の母親にただいまの挨拶を言いに行ったんだ。
 生まれてすぐに僕等の両親に引き取られた紫苑は実の母親のことを僕等と同じように絵里ちゃんと呼んでいた。

 おやつを目の前に僕等がずっと待っているのになかなか戻ってこないんで…僕と英武は紫苑を迎えに行った。

 叔母の部屋のドアが開いていて僕等はそこから中の様子を覗き込んだ。
その瞬間に叔母が紫苑に馬乗りになって首絞めてるところを見てしまったんだ。
僕等が声を上げたので叔母は紫苑を離した。

 まだ絞められたばかりだったらしく、紫苑は咳き込みながらも動きだした。
叔母は驚いて動けない僕等を放っておいて瓶を取り出した。
水差しの水をコップに注ぐと瓶の中の錠剤をを出して幾つか飲み込んだ。
 
 紫苑の胴を捕まえると、叔母は飴だから食べなさいと無理やり紫苑の口の中にも錠剤をいっぱい突っ込んだ。
 幼い紫苑にだって薬だということは分かる。
錠剤の嫌いな紫苑は飲み込めず、次々突っ込まれて口いっぱいになったところで泣き出した。

 僕は紫苑が可哀想になって叔母の手から紫苑を引き離し、僕等の母のところへ連れて行った。
 紫苑が苦しそうで慌てていたので英武が動けないまま部屋に残っていることに気付かなかったんだ。

 母は紫苑を見てひどく驚いた。
紫苑がお菓子と間違えて薬を口に入れたと勘違いした母は、取り合えず紫苑の口に指を入れて中の錠剤を吐き出させた。

 傍でおろおろする家政婦さんに…紫苑が誤って薬を飲み込んだかもしれないからすぐに飯島先生に来て貰って…と頼んだ。
 飯島先生というのは近くで病院を経営している西沢家の主治医で祖父の友人だ。
叔母に睡眠薬を処方したのもこの先生だった。
家政婦さんは急いで病院に連絡し、ついでに父と祖父のところにも連絡した。 

 その時点で僕はやっと母に何があったのかを話すことができた。
真っ青になった母は物凄い勢いで離れの部屋へ飛んで行った。

 僕と紫苑が後を追って部屋に入った時、母と英武は部屋の隅で蹲っていて母の手から血が滴っていた。

 ふと見るとテーブルの脇で叔母が倒れていて身動きひとつしなかった。
叔母の手に果物ナイフがあって…。
 状況が分からない僕と紫苑はてっきりナイフで怪我をしたものと思い込み…絵里ちゃんが…死んじゃう…と思わず叫んだ。

 母が叔母の方に顔を向けた時、紫苑がふらふらしだして薬の効果が出たのかその場で倒れて眠ってしまった。
  倒れている叔母と紫苑を見つめながら母は茫然と座ったまま動かず、怯えながら英武はじっと紫苑の方を見ていた。

 「その後すぐ飯島先生が駆けつけてきた。祖父や父も…。
叔母と紫苑はすぐに病院へ搬送され、母も手当てを受けた。
大人たちの間でその後どんな話し合いがあったのかは分からない…。 」

 怜雄は自分が目撃しただけのことを全部話した。
絵里の死因は薬物の過剰摂取による自殺…表向きには事故死のはずだった。
少なくとも有も紫苑もそう聞かされていたし、そう信じていた。

 怜雄の話を聞いて有は絵里の死因に疑いを持ち始めた。
祥の顔をチラッと窺ったが動じる様子はなかった。

英武の記憶の修復が次第に加速し始めた。怜雄の話でさらに空白が埋められた。

 「紫苑…つらいだろうが…思い出せることを話してくれ…。 」

 母親の死についての自分の記憶がどこかおかしいと感じて戸惑っている紫苑に、有はそう促した。
 紫苑はしばらくじっと考えてから、深呼吸をし眼を閉じて…ひとつひとつを確かめるようにゆっくりと思い出していった。

 「怜雄の話したとおり…幼稚園から帰ってきて僕は母の部屋へ向かった…。
怜雄が話した以上の記憶はあまりない…けれど…。 」



 絵里ちゃんただいま…と声を掛けた。
母は誰かと電話で話をしていて…まるで喧嘩をしているような剣幕だった。
 ヒステリックに泣き喚いて…多分相手にして貰えなかったんだろう。
投げ捨てるように受話器を置くとうろうろと部屋を歩き回った。

 「死のう…紫苑。 こんな惨めな想いにおさらばするの…。
あんた一緒においで…。 」

 嫌だ…と僕は言った。
だめよ…あんたは要らない子なんだもの…。この世に居ちゃいけないのよ…。
 あんたの父親だってあんたを持て余したし…私もあんたのおかげで幸せにはなれないんだから…。
責任とって一緒に死ぬの…。生きてたらみんなの迷惑よ…。

 「要らない子なの…? 迷惑なの…? 」

 母にそう言われては仕方ないと思った。
悲しかったけれど…どうして…とも聞けなかった…。

 母の手が自分の首にあてられた時…ひどく苦しくて…やっぱり怖いと思った…。
その時怜雄と英武が声を上げてくれて…僕はその手から解放された。

 でも…すぐ捕まって口の中に大嫌いな薬を詰め込まれた。
飴よ…紫苑。 食べなさい…。

 その後は怜雄の話したとおり…。
養母が助けてくれて僕は死なずに済んだ。

 紫苑…馬鹿ね…お薬こんなに飲んだら死んじゃうのよ。
紫苑はママの大事な子でしょ…。
 死んだらママ…悲しくて泣いちゃうわよ…。
養母がそう言ってくれたので…生きててもいいのかな…と思い直した。

 養母を追って離れに向かう途中で養母が何かを叫んでいる声が聞こえた。
危ない…とか…やめなさい…とか…違う…とか。
 英武の声も…紫苑じゃない…と言ってたような気がする。
その後で何か物が倒れるような音がした。
 
 母が倒れているのを見た時…僕は母に捨てられたんだと何となく感じた。
要らない子だから置いていかれたんだと…。 
そのすぐ後に眠ってしまったから…それ以上は覚えていない…。 

 「今思えば…母が倒れている様子がどこか尋常ではなかったような気はするが…何しろまだ四歳だったので…すべての記憶が曖昧なんだ。 」

申し訳ないが…と紫苑は付け足した。

 有はますます疑いを深めた。
絵里は…薬で死んだんじゃない…な。 薬も死を招いた原因のひとつではあるんだろうけれど…それほど単純な死に方じゃなかったんだ…。

 さっきノエルが頭を打ったとか倒れたとか…言っていたが…薬を飲んでいたからふらついてどこかで頭を打ったんだろうか…。

 「あれは…事故だったんだ…。 どうしようもなかったんだよ…。」

 不意に英武が口を開いた。
英武の中の記憶のパズルがようよう完成したようだった。
みんなの眼が英武に集まった。

事故だったんだ…と英武は繰り返した。








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現世太極伝(第三十三話 ずっと一緒に…。)

2006-03-24 18:25:33 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 熱めの湯にどっぷりと肩まで浸かりながら亮は大きく息を吐いた。
馬鹿なことを言った…と今更ながら後悔していた。
 バイトとはいえノエルは西沢に雇われているのだから、西沢が描きたいと思えば本人が嫌と言わない限り、身体を晒したって問題があろうはずがない。

 西沢は約束どおり、ノエルだと判らないように挿絵の人物の顔を変えて描いていたし、別段ノエルに疚しいことをするわけでもなかった。
文句を言えた義理じゃないのに…。

 それに今夜は…いつものように亮の後について来ようとするノエルを…冷たく帰してしまった。

 女の子だなんて言われて…ショックだっただろうな…。
帰りたくない家へひとりしょんぼりと帰っていくノエルの、傘に隠れた華奢な背中が眼に浮かんだ。
 今日はお父さんが早く帰って来る日だから、帰ればまたお父さんになんだかんだ言われて哀しい想いをするんだろう…。
それなのに僕ときたら一番傷付く言葉を言ってしまった…。
 
 ほんと馬鹿だ…。思い切り湯の中に顔を突っ込んでから勢いよく立ち上がった。

 帰って来た時よりも勢いを増して雨は降り続いていた。
不意に玄関の方でガタンと音がした。風で傘立てが倒れたのかと思った。
 風呂あがりにいささか面倒だとは思ったが何処かへ転がっていってしまっても始末が悪い。

 玄関に行くと傘立てどころか誰かが扉のところに屈んでいるのが分厚いガラス越しに見えてドキッとした。
慌てて扉を開けると、ノエルがびしょ濡れになって傘を立て直していた。

 「何してんだよ…。 」

亮は急いでノエルを玄関の中へ引っ張り込んだ。

 「ずぶ濡れじゃないか…。 ずっと居たのかよ…。 あほたれ…。
何でベル鳴らさないんだよ。 」

ノエルは項垂れた。

 「だって…亮…怒ってるもん…。 何だか知らないけど…機嫌悪いし…。 」

 身体中から滴が垂れていた。
父さんが居たんで…家…入れなかったんだ…おまえみたいなやつ…帰ってくるなってさ…母さんが内緒で少しお金くれたけど…他に行くとこないし…。

 何度か泊めてもらってるから紫苑さんのところへ戻ろうかなとも思ったけど…病み上がりの紫苑さんには迷惑かけたくないし…。
 ノエルがちょっと鼻を啜った。
また…喧嘩か…。

 「早くあがれ…。 風呂まだ落としてないから…すぐに入れ…。
西沢さんみたいにひどい風邪引いたらどうすんだよ。 」

 ノエルの手を引っ張って風呂場へ連れて行った。
ノエルを浴槽に沈めておいて、亮は雨でびちゃびちゃになった服や何やらを洗濯機へ放り込んだ。

 「ノエル…ここにパジャマ置いとくぞ! 」

 うん…ありがと…。 
汚れた廊下にモップをかけながら…亮は悲しくなった。
 ちゃんとした家族と家がありながら…帰る場所のないノエル…。
亮と知り合う前はどうしていたんだろう…。
口答えもできずに部屋に閉じ籠っているしかなかったんだろうか…。

風呂から上がってきたノエルはぶかぶかのパジャマの中で余計に華奢に見えた。

 「ご免ね…。 また面倒かけちゃってさ…。 」

 恐る恐るノエルは言った。
亮がまた機嫌を悪くしないように気を使っているようだった。

 「腹減ってないか? 」

 居眠りする前に紫苑さんとこで夕飯食べたんだ。
だから大丈夫…。

 「客間に布団敷いといたから…。 」

 えっ…? ノエルは怪訝そうに亮を見た。
なんで…? いつも亮の部屋で一緒に寝るのに…。

 「やっぱり…怒ってんだ…? 僕…何か悪いこと言った? 」

 違うよ…と亮は首を横に振った。
じゃあ…なんでさ? 急に別の部屋だなんて…。
ノエルは口を尖らせた。

 「ノエル…今夜は…ほんとは西沢さんとこへ泊まった方が良かったんだ…。
抑えられないから…。 」

亮はそう言って項垂れた。

 「嫉妬なんだ…あれ…ノエルと西沢さんの間に何もないことは分かってるんだけど…。
 西沢さん綺麗で格好よくておまけにめちゃいい人だから…ノエルはきっとあの人のこと好きなんだろうなって…いつも思ってた。
 僕なんか…どう見たって兄貴には敵わないからね…。
ノエルの中に女の子の気持ちが少しでもあれば…兄貴を選ぶに決まってるってね。

 だから…今日…おまえがあんな格好で…ずっと兄貴の前に居たんだと思うと…悔しくてさ…。 」

 亮は顔を強張らせた。
襲っちゃいそうだから…帰れって言ったんだ。

 ノエルは驚いたように亮の顔を見つめた。
何だか顔が熱くなってきた。

 「亮…僕のことずっと…女の子だって思ってたの? 
男同士…友だちとして付き合ってくれてるんじゃなかったの…? 」

不安げな声でノエルは訊いた。

 「複雑…そのつもりだったんだけど…。 出会った時はずっと女の子だと思ってたし…千春から男の子だと聞いてそれも信じた。
両方だって分かって…ノエルが男だと言うんだから男なんだって思ってた。

 だけど…好きになっちゃったから…さ。
おまえが男でも女でも…諦めようもなくて…黙ってるのがつらかった。
いつもは平気なんだけど…今夜はだめ…別々に寝よう…。 」

 亮はちょっと悲しそうに笑った。
ノエルは少し戸惑い気味にあちらこちらに視線を動かして考えていたが、やがて屈託なくにっこり笑って見せた。

 「やっぱり…一緒がいい。 ずっと亮と一緒がいい…。
僕…胸ないけど…それに…ついてるけど…できる…かな…? 」

 ノエルは本気で心配しているようだった。
馬鹿…だね…何言ってんだか…。 亮の眼が少し潤んだ。

 物語は西沢さんの苦手な恋愛もの…だけど…今夜は仕事抜き…。
キャラクターはお馴染みのふたりだけれどこれは演技じゃない…。
夜の帳の中でいま…新しいチャプターが始まる…。



 英武の治療に西沢のマンションを使うことになったのは、祥がこのところ体調の優れない美郷のことを気遣ってのことだった。
 事件の目撃者でもある美郷がそこに居ないのは少し残念だが、美郷の健康に影響を及ぼすようなことはできない。
その代わり祥が出向いて立ち会ってくれることになっていた。

 先ほどから滝川と有は治療についての相談をしている。
何時になくふたりとも厳しい顔をしていて、滝川先生も親父もまるで別人のようだと亮は思った。

 西沢は亮とノエルをモデルに…今度は依頼された恋愛ものじゃなくて西沢個人の作品用のデッサンをしていた。
 これまでとは程遠いイデアの世界にモデルも何をやらされているのか理解不能。
こうなると亮も焼もちの焼きようがない。

 「そろそろ…西沢の面々が来る頃だ…。 このくらいにしとこう。 」

 モデルを務めながら頭の痛くなるような難解な話を聞かされてさすがのふたりも肩が凝った。

 「紫苑さんの脳はどこか別世界に浮いてるに違いないよ…。 」

 伸びをしながらノエルは言った。
いきなり紫苑がノエルのお腹を触った。 くすぐったいよぉ~紫苑さん。

 「うん…大丈夫ね。 できてない…。 」

 何…何のこと…? あかちゃん…。
あかちゃん…? ノエルと亮が同時に赤面した。

 「ノエルの身体は可能性0%とは言えないんだよ。
女性の器官はすべてが未成熟でほとんど機能してないように見えるけれど…死んでるわけじゃない。
 人間の身体は時に思ってもみないような奇跡を起こすことがある。
大事なことだから心に留めておいて…。」
 
 西沢は亮に向かってそう話した。亮は素直に頷いた。
お説教する柄じゃないんだけど…と西沢が笑った。
 
いきなり仕事部屋の扉が開いて怜雄が騒がしく飛び込んできた。

 「お姫さま…元気になったかい? 見舞いに来れなくてご免よ…。 」

 見舞いに来たがる英武を抑えるので手一杯でさ…。
いつものように紫苑の手を握ってにこにこと話しかける。
 
 「気にしないで…怜雄。 もう心配ないから。 お養父さんはもう来てるの?」

 もうすぐ来るよ…英武と一緒に…僕は出先から戻ってきたとこ…。
怜雄は無造作に置かれた紫苑のスケッチブックを取り上げて、さっき描いたばかりのデッサンを見た。
 おお…これは二極の世界図だな…? 
とてもいいが…欲を言えば人間の姿などは既存の気(エナジー)の中に融合させてしまって…影も形もない中に新しい生命(エナジー)の息吹を感じさせ…云々。

 それを聞いてノエルは頭を抱えた。
怜雄にはあれがちゃんと理解できるんだ…言ってる意味は全然分かんないけど…。
あのふたりは紛れもなく同じ人種だね。
亮はうんうん…コロイドとヤジロベーなんだ…と頷いた。 

 「紫苑…怜雄…祥さんたちが到着したぜ…。 」

 滝川が扉から顔を覗かせてふたりを呼んだ。
西沢の指示で亮とノエルはキッチン側の隅の方で見学させてもらうことになった。

 西沢が血の繋がった亮だけではなく、まったく無関係と言っていいノエルを同席させたのはノエルの中にある特殊な能力に気付いたからだった。

 他の大人たちにもある程度そのことが分かるらしく、ノエルがその場に居ることを咎める者は居なかった。
 
  ソファだけを残して居間のテーブルを片付け、みんなの正面に英武を座らせ、
両側に有と滝川が腰を下ろした。
 不安げな面持ちの英武に…大丈夫だよ…頑張って…と軽くキスして、西沢も席についた。
 西沢の向かいの席には祥が悠然と構えており、その隣で怜雄が何かことがあればすぐに動けるようにやや緊張した表情で控えていた。

 有は先ず英武の額に手を触れて、念入りに英武の状態を調べた。
少し怪訝な顔をして何かを滝川に囁いた。
有がしたように滝川も英武の状態を調べ、有に向かって…確かに…と答えた。

 「のっけから申し訳ないが…英武の記憶に操作の後があるので…怜雄と紫苑にも協力してもらいたい。
きみたちの記憶も調べさせてくれ…。 」

 有がそう頼むとふたりはいいですよ…と頷いた。
有は先ず怜雄に近付き怜雄の状態を調べた。滝川も後に続いた。
次に紫苑の記憶にも触れた。

 「有難う…きみたちにも同じ痕跡がある…が英武のほどは強力ではないようだ。
これより先ず…その操作された部分を開放しなければならない。
ノエル…ここへおいで…。 」

有はノエルを呼んだ。ノエルは急いで有の近くへ行った。

 「ノエル…いいかい…今から英武の記憶の中の空白の部分をきみに見せる。
もし何かを感じたら感じたまま話して欲しい。
誰かが何かを話していたら…そのままの言葉でかまわないから…伝えて…。 」

 ノエルは分かりました…と答えた。
有がノエルに触れるとノエルはふらふらし始め、やがてトランス状態に陥った。
有は自分の席にノエルを掛けさせておいて、英武の脳から伝わる空白の情報を有の身体を通じてノエルに送り込んだ。

 ノエルは微動だにしなかった。
まるで眠ってしまったかのようにぐったりとソファに身を沈めていた。
みな息を呑んでノエルの動静を見守った。

 やがて痙攣するように身体が動き出した。
恐怖に慄くように眼を見開いたノエルの口から、鋭い叫び声が上がり、狂ったようにその場を逃げ出そうともがきだした。

 滝川が怪我をさせないようにそっと抑えつけた。
激しい息遣いとともにノエルは四歳の英武の記憶を再現し始めた。
それは…想像を絶する西沢家の隠された真実だった。





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現世太極伝(第三十二話 見えない気持ち)

2006-03-22 23:36:35 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 亮がバイトに行ってしまった後、ようやく直行は西沢の容態を訊ねた。
最も…これだけ元気な姿を見れば訊くまでもないことだったかもしれないが…。

 「おかげさまで…だいぶ良くなったんだ…。 多少微熱が出ることもあるけど仕事があるからいつまでも悠長に寝てられないしね…。 」

 西沢はそう言って笑った。
西沢のために買ってきた見舞いの花をノエルが花瓶に生けて寝室のサイドテーブルの上に飾った。

 「ノエル…今日はバイトじゃないの? 」

 同じ書店で働いているはずなのに、亮がひとりで出かけたので直行は不思議そうに訊いた。

 「本屋さんは今日非番だから…ここでバイト…。 時々モデルやってんだ。 
紫苑さんが人物を描く時のポーズ確認とか…滝川先生の写真の被写体とか…。
この前スタジオで亮と仕事してきた…。 結構…亮と組んでの仕事が多いよ…。」

 ふうん…最近いつもふたりで行動してると思ったらそういう仕事してたんだ。
あのチョコだけじゃなかったわけね…。

 「きみの方は何か少しは進展したのかい…? 」

 西沢が直行に訊ねた。来訪の本当の目的を言いあぐねている直行に代わって話の取っ掛かりを作ってやった。
ただの見舞いではないことぐらい端からお見通しだ。

 「ええ…少しばかりですが…。 週に二度ほど夕紀が生け花の紅村旭のところへ通っていることが分かったんです。
 その場で抑えれば、暗示を解くことができるのではないかと…。 
西沢さんのお力添えがあれば…のことですが…。 」

 力添え…ね。 夕紀が紅村の配下にあることは、すでに西沢も予想していた。
夕紀が崇拝するイケメンの導師がいるという話を亮やノエルから聞いていたから。

 「そのことは族長や克彦さんには相談したのかい? 」

 西沢が探るような眼で直行を見た。
さっきとは打って変わって厳しい表情を浮かべていた。

 「いいえ…まだ…。 」

直行は西沢の視線から目を逸らした。

 「もう少し族人としての修練を積む必要があるな…。」

 西沢は直行を直視したまま言った。
直行は訝しげに西沢を見た。

 「街で偶然出くわしたのなら…僕もそのまま彼女の暗示を解くだろう。
だが…依頼となれば話は別だ。

 僕にとって島田や宮原は今のところ身内ではない。
だから…権限のないきみからいくら頼まれても、勝手に他の一族のことに首を突っ込むわけにはいかないんだよ。 

 島田の族長か長老衆に相談してきちんと許可を得なさい。
紅村旭とトラブルになる可能性もあるんだから…。
誰にも相談せずに先走ってはいけない…一族を危険に晒すことにも繋がる。 」

 若手の教育を怠っている…とあの時克彦は嘆いていた。
直行はここしばらく克彦の家に居候をしているらしいから、克彦があれこれ厳しく教え込んではいるのだろうけれど、族人の心構えなどは幼い頃から叩き込まれてこないと一朝一夕には身につかない。
克彦ひとりでは大変かもな…と西沢は思った。

 直行は項垂れていたが、やがて気を取り直して権限のない自分が依頼に来た非礼を詫びると、克彦たちに相談してみます…と言って帰って行った。

 ふたりの様子を不安げに見ていたノエルは直行を玄関まで送って帰ってくると、ふいに西沢の顔を覗きこんだ。

 「怖い顔してるよ…紫苑さん。 そんな顔似合わない…。 」

ふっと西沢の顔に笑みが戻った。 



 家の鍵を開けて暗い玄関に灯かりをつけ、誰も居ないのに奥に向かってただいまと声をかけた。
返事なんか返ってくるわけはないけれど和がここで待っている気がして…。

 本当は一度もこの家で暮らしたことなんかなかったんだ。
ここを買った時にはもうとっくに天国に旅立っていた。

 あんな気持ちは懲り懲りだ。 二度とご免だ…。
滝川は居間に荷物を置くと、キッチンの水屋の上で微笑みかけている和の写真に手を合わせた。

 和…僕はもう一度…昔のように紫苑と並んで歩くことにしたよ。
きみがいなくなった後…何となく距離をおいてしまっていたけれど…。

 きみがよく言ってた…紫苑と僕はふたつの身体を持ったひとつの生き物だって。
僕等は齢も違うし考え方も違う…馬鹿なことを…と…その時は思ったけれど…少しは言えてるのかもな。
 理由なんてよく分からないけど…紫苑がいなくなったら僕もこの世に存在する意味がなくなるような気がするんだ。

 ほとんど人けのなかった家の中は全体に少し湿気た感じがした。
気休めにエアコンのドライをかけた。

 週に二度ほど家政婦さんを頼んで掃除をして貰っているから、部屋自体は綺麗になっているはずだが、湿気た空気は何となく淀んでいて独特の臭気を発していた。

 まあ…取り敢えず茶でも飲んで落ち着こう…ポットに水を入れて湯を沸かしながら滝川は何気なくあたりを見回した。
 数日前に帰ってきた時は、紫苑のことが気になっていたせいかそれほど苦にならなかったが、改めてひとりになってみるとこの家は広過ぎた。

 和の遺影とふたりで暮らすには少しばかり寂しいよな…引っ越そうかなぁ…。

 そんなことを考えていると突然玄関の呼び鈴が鳴った。
誰だよ…今頃訪ねてくるのは…。
 滝川はインターホンを取った。モニターに英武の緊張した顔が映った。
あらら…珍しい…。  

急いで玄関のドアを開けた。

 「英武…どうしたんだよ…? 急病か? 」

そう言いながら何だかそわそわしている英武を部屋に招きいれた。

 英武は突然の来訪を詫びた。
ちょっと頼みがあって…。

居間に案内して席を勧めた。

 「悪いな…僕も今帰ってきたばかりなんで湯を沸かしてるところ…。
こんなもんしかないけど…。 」

滝川は買ってきたばかりの缶コーヒーを英武の前に置いた。

 「お構いなく…すぐ帰るから…。 あのな…恭介…。 」

言いかけて英武は少し躊躇った…が意を決したように話し出した。

 「シオンがひどい風邪だってのに…見舞いにも行かせて貰えなかったんだ。
僕が暴れるといけないからって…。

 分かってるよ…発作が起きたら病気の紫苑に何をするか分からないような僕だもの…みんなが止めるの当たり前なんだ。

 だけど…情けない…心配なのに…シオンの看病くらいしてやりたいのに…。
必要な時に傍に居てあげられなくて…本当に情けない…。 」

 英武は涙ぐんだ。英武がどれほど紫苑のことを大切に想っているか…滝川にも分からないわけではない。
 けれども英武の中には紫苑を心から愛する気持ちと紫苑への虐待に及ぶ情動とが混在していて、とても手放しては同情できない。

 「治したいんだ…本気で…。 いま治さないと…大変なことになるんだ…。
恭介…僕に力を貸してくれない…?
このままだと…シオンだけじゃなくて…千春ちゃんにも怪我をさせてしまう。 」

 千春…? あ…ああ…なるほど…。 遅蒔きながら…英武にも春が来たのね。
随分遅いけど…。 

 「僕にできることは…してやるよ。
千春ちゃんのことがなければその気にならなかったってのは腹立つけど…。 」

 それじゃあんまり紫苑が可哀想だ…と滝川は思った。
何年もひどい目に遭わされて…痛み苦しみに耐えてきたのに…。

 「誤解…誤解だよ…。 僕はずっと治したかったんだ…。
だけど西沢家の体面があって…外部の専門医には掛かれないし、親父の許可が出なくて治療師に相談することさえ許されなかったんだ。

 だけど…今度ばかりは僕も我慢できない…。
シオンの見舞いにもいけないなんて…兄弟なのに…大好きなのに…。 」

 英武の頬を涙が伝った。
これまでまったく気付かなかったけれど英武もずっと苦しんできたんだ…。
紫苑に怪我を負わせるたびに英武の心にも見えない傷が増えていったのだろう。

 滝川の胸が痛んだ。
息子ふたりに…こんな想いをさせてまで護らなければならない体面とは何なんだ?
 いや…体面を護るためだけとは限らない…ひょっとしたら何か英武たちにも隠しておかなければならないような秘密があるとか…?

 「英武…祥さんが許可を出さないわけ…を知っているか?
いや…知るわけないか…。
どうもそのあたりにおまえの病気の原因が隠れているような気がするんだけど…。

 過去に遡って記憶を辿ってみる必要がありそうだな…。 
そうなると僕だけじゃだめだ…まだ未熟だからな。 複合的な治療の腕が要る。

 英武…有さんに頼もう…。
祥さんにはこのままいくと外部に知れる虞があるとか何とか言って許可を貰え。」

 この際…嘘も方便だ。 相手が親父さんでも絶対おどおどすんなよ…。
おまえがこのままの状態じゃ…どの道何れそうなるんだから…と滝川は言った。

 「分かった。 親父に話す。 有さんにも連絡する…。 」

 決意を固めたように英武は言った。
気の弱い英武にとってあの父親に立ち向かうことは命懸けの大決心と言わざるを得なかったけれど…。


 
 バイトの帰りに再び西沢の部屋に寄ってみると、あの籐のソファの上に丸まってノエルが居眠りしていた。
 身体に掛けられた綿毛布の端からノエルのむき出しの肩が見えた。
西沢は仕事部屋に居るようで寝室は非常灯の明かりだけ、薄暗い中でその肩が白く浮き出ていた。

 ノエル…時間…帰るよ…。亮はノエルを揺り起こした。
綿毛布が落ちてノエルの全身が浮き上がって見えた時、亮の心の中に西沢に対する謂れのない怒りに似た感情が湧き上がった。

 「あ…亮…帰ってきたの? あらら…ご免ね…こんな格好で…。
紫苑さん…身体のラインを描いてたんだけど僕…途中で眠っちゃったみたい。
悪いことしちゃった…。 」

 ノエルは慌てて服を着た。亮のひどく不機嫌そうな態度に、何か悪いこと言ったかなぁ…と思った。 

西沢が気配に気付いて寝室にやってきた。

 「おや…亮くんお帰り…。 」

部屋の灯りをつけながら西沢が言った。

 「紫苑さん…ご免ね…。 途中で寝ちゃって…。 」

ノエルが申し訳なさそうに謝った。

 「いいよ。 描けたから…。 あんな格好で…寒くなかった? 
毛布は掛けといたけど…。 」

 西沢が訊くとノエルは大丈夫と答えた。
今日はこれで帰るね…とノエルは鞄を手に取った。

 「ああ…またお願いね…。 」

いつものように変わりなく西沢が微笑んだ。

 「西沢さん…ノエルの…ノエルの裸はやめてくれる…? 」

 突然…亮が怒ったように言った。
裸…って…ただのデッサンなんだけど…西沢は驚いたように亮を見た。
ノエルもびっくりして亮を見つめた。

 「ノエルは…男の子だけど…でも…どこか女の子なんだ…。
まだ誰も触れていない…まっさらな身体…描くのやめてくれないか? 」

 唇を震わせ怒りに満ちた眼で西沢を見つめた。
西沢はあっと思った。

 「分かった…もう描かないよ…亮くん。 ちゃんとノエルには服着てて貰う。
無神経な注文つけて済まなかったね…ノエル…ご免なさい。 」

 怯えたような顔で立ち尽くしているノエルに西沢は謝った。
いいえ…僕…全然気にしてないから…とノエルは答えた。

 ノエルには亮の考えていることが分からなかった。
どうして…どうして突然そんなことを言い出すのさ…僕は何とも思ってないのに。
ただ絵を描いてるだけの紫苑さんを怒ったりして…。

 ノエルは無言で前を行く亮の背中を恨めしげに見つめた。
仕事なんだよ…これは…ちゃんとバイト料貰ってるんだから…。
女の子と言われたことも、なんとなく腹立たしかった。
 
 信頼していた亮の気持ちが急に見えなくなってしまったようで、保護者のような西沢を除けば、亮の他に心の拠り所のないノエルは、この突然の出来事に堪らなく不安を感じていた。





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現世太極伝(第三十一話 崩れたイメージ)

2006-03-21 18:19:01 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 紫苑が寝込んだと滝川から連絡が入ったのは病状が少し落ち着いてからだった。
どうしてもキャンセルできない仕事で滝川が出かけるため、もし都合がつけば紫苑の傍に居てやって欲しいという内容だった。
 多分…紫苑ひとりでも問題はないだろうけれど、まだ身体がつらいだろうから…と滝川は言っていた。

 何ですぐ呼んでくれないのよ…と内心滝川の気の利かなさに腹を立てながらも、取り敢えず…何だかんだ買い込んで輝はマンションへやってきた。
恭介は用意のいい男だから別段必要な物もないだろうけれど…でも…ね。
 静まり返った部屋の中に時々紫苑の咳く声が響いた。
キッチンの棚や冷蔵庫に品物を納めた後で、そっと寝室を覗いた。

 「紫苑…具合はどう? 」

輝が声をかけると紫苑は顔をそちらに向けた。

 「まあまあ…かな。 まだちょっとボーっとしてるけど…。 」

 ひどくかすれた声で紫苑は答えた。 あらあら…喉をやられたのね…。
輝は紫苑の額に自分の額をくっつけてみた。少し熱く感じられた。

 「まだ熱があるわね。 時季外れの風邪はしぶといらしいから…。 
ちゃんとパジャマ換えた? 身体拭いてあげようか…? 」

輝がそう訊くと紫苑は首を横に振った。

 「いい…今朝…恭介がやってくれた…。 」

 ああ…そうなの…面倒見のいいこと…。
ふとサイドテーブルの上を見ると水やスポーツドリンクなどが用意されていて、紫苑がすぐに飲めるようにしてあった。

 まるで奥さんが居るみたいね…至れり尽くせりだわ…。
そう言えば洗濯物はどうしたのかしら…パジャマ換えたんならあるはずよね…。 

 輝はベッドを離れて風呂場へ行った。
完全自動の洗濯機の中で乾燥の済んだ洗濯物がそのままになっていた。
洗濯までして行ったんだ…ほんとまめな男だわ…。

 輝は洗濯物を取り出すと居間へ運んでたたみはじめた。
わけもなくイライラしていた。
 輝が居なくても恭介が居れば紫苑には何の不自由もない…しかも恭介はこの部屋に平気で居据われる。

 私はここが嫌い…寝泊りなんかできないもの…。
紫苑がこの部屋を出てくれればずっと一緒に暮らせるのに…こういう時だって私が看てあげられるのに…。
輝は大きく溜息をついた。

 再び紫苑の傍に戻ると紫苑はベッドの上で起き上がっていた。
ノートパソコンのキーが淀みなくリズミカルな音を立てている…と思ったらすぐに咳き込んで中断した。

 「紫苑…熱があるのに…。 」

 輝が咎めても、仕事…と言い訳しながら再びキーを打つ。 
さすがに長続きはしない。
 入力しては休み…また入力しては休み…途中でひどく咳き込んで吐きそうになったりしている。

 二時間ほどそんなことを繰り返して、ようよう原稿を仕上げたらしい。
パソコンを閉じるとほっとしたように枕に突っ伏した。

 「馬鹿ねぇ…ひどくなったらどうするのよ…。 」

輝は呆れたように言った。

 「あと少しってところで具合悪くなって中断したままだったんだ…。 
送ったからもう…安心…。 挿絵の方はまだ余裕があるし…。 」

 肩で息をしているから熱が上がってきたには違いない。
恭介だったら強引に止めたかしら…仕事なら仕方がないと黙っていたかしら…?

 「輝…バニラアイスある…? 」

 ぼんやり天井を見つめながら紫苑が訊いた。
あるわよ…ちょっと待ってて…。
 ここへ来る時に買ってきたアイスクリームを取りに輝はキッチンへ向かった。 
さすがの滝川も紫苑が熱を出した時に食べたくなる物までは知らなかったようだ。
少しいい気分だった。

 紫苑は枕を背もたれにして億劫そうに起き上がった。
輝がスプーンですくって口に入れてくれようとするのを断って、自分で食べられると言った。

 「アイス…輝が買ってきてくれると思ってたんだ…。 
輝は僕の好きなものを良く覚えててくれるから…。 」

 熱の時のバニラアイス…まるで子供ね…。 こういう時だけは紫苑も甘えん坊さんになるわね。

 「だめ…食べられない…。 」

 ほんの少し手をつけただけで紫苑はアイスクリームのカップを輝に渡した。
つらそうにそのままベッドに身体を沈めた。

 「無理するから…熱が上がっちゃったのよ。 」

 掛け布団を掛けなおしてやりながら輝は紫苑を窘めた。
紫苑は何も答えずとろとろと眠り始めた。

 よほどひどい風邪を引いたんだわ…。
輝はそっと紫苑の額に触れた。さっきよりもずっと熱くなっていた。

 熱と眠けのせいでさすがの紫苑も気持ちが緩んでいたのか、ふと輝の眼に紫苑の過去の情景が浮かんだ。
 それは直行を助けた時点よりも後にあったことのようで、眼に浮かぶのはおとなの能力者ばかりだった。
 彼等は一様に暗示にかけられており能力者同士で激しく争っている。
紫苑はあちらこちらに出向いて争いを止めに入り、暗示を解いて回っていた。
 時には雨の中をうろうろと捜し回り、ようよう目的の能力者に辿りつき、どうにか暗示から解放するようなしんどいこともあった。 

 なぜ…紫苑がひとりでこんな活動を…?
他家の能力者の争いなど紫苑には関係ないことなのに、わざわざ出向いてまで止めに入っているのはどうしてなのかしら…?

 輝は克彦の言葉を思い出していた。周りに面倒なことが在り過ぎる…と。
もう少し紫苑のことを読んでみようと紫苑の手に触れてみたが、それ以上のことは少しも読み取れなかった。

 もしかしたら…あの時…直行を助けたのも偶然ではなかったのかもしれない…。
あの日…食事がてらドライブをしようと言い出したのは紫苑だった。
 勿論…事件が起こるなどとは予想してはいなかっただろうが、ドライブしながらその実は島田や宮原の多く住む町をパトロールしていたのではないだろうか…。

 紫苑のように目立つ男がひとりで夜の町をうろうろしていたら、島田や宮原だけではなく、まったく無関係な人にまで何事かと怪しまれる虞がある。
輝が一緒にいれば恋人とのデートという言い訳ができる。

 それじゃあ他の一族の時はどうしていたのかしら…?
あ…スケッチブックと画材…ね。 本職だもの…スケッチしてれば誤魔化せる。
でも…昼間よね…スケッチするなら…。 

 さっきのは絶対夜だった。
…ってことは事前に何処からか情報が入って目的地へ直行しているんだ。
時間的ロスが少なければ誰かに怪しまれることもぐっと減るわ。
 時々情報が間違ってて大変なこともあるようだけれど…。
でもいったい何処から情報が入るのかしら…?

 紫苑の寝顔を眺めながら輝はあれこれ考えた。
紫苑の周りで何かが起こっていることは克彦の様子から予想はしていた。

 けれども紫苑はいままで他の一族はおろか、自分の属する西沢の内情にさえ関わることのなかった人だ。
 それがいきなりあちらこちらで能力者の仲裁人として動いているなんて…到底信じられない。

 いったいどうなっているんだろう…?
考えても考えても何も思い当たるものはなかった。
輝には裁きの一族に関する知識がほとんどなかったのだから…。



 講義室や学生食堂で顔を合わせても直行は夕紀の裏切りを問い質すこともなく、その件に触れることさえしなかった。
 地道に探索し続けたおかげで直行は夕紀が導師と呼んでいる男の居場所をやっと見つけ出した。
 夕紀はいつも決まった場所に居るわけではないけれど、週に1~2度必ずそこに訪ねていくことが分かった。
 そうした取っ掛かりが掴めれば今更どうのこうの文句をつけるよりも、とにかく夕紀を何とか西沢に会わせて未だ解けていない強力な自己暗示を解いてもらう方が先決だと考えた。
 
 ただ、西沢が裁定人の御使者だということは、たとえ亮が知っていたとしても直行の口からは話せず…かと言って亮を介してでなければ西沢と話をするきっかけも掴めず、どうしたらいいのか途方にくれていた。
 
 溜息混じりに学生会館の方へ歩いていくと、部室の窓から亮が顔を出して、下にいる雨傘に半分隠された状態のノエルとなにやら話しているのが聞こえた。

 描けるかどうか分かんないけど…一応今日仕事の日だから先に紫苑さんのところへ行ってるからね…とノエルが言った。

 昨日まで微熱があったみたいだから無理かもよ…僕もバイトの前に寄ってはみるけど…亮はそんなふうに答えていた。

 ノエルは直行に気付くと小さく傘を持ち上げて、じゃあね…と軽く声をかけて帰って行った。

 「西沢さん…病気なの? 」

 部室に入った直行は開口一番にそれを訊いた。
そうなんだ…と亮が頷いた。

 「これで五日目…ひどい風邪ひいちゃってさ…。 なかなか熱が下がってくんなくって…昨日やっと微熱状態まで回復したんだ。
こんなにしぶとい風邪は生まれて初めてだ…なんて嘆いてたよ。 」

近づけるチャンスだ…と直行は思った。

 「お見舞いに行ってもいいかなぁ…。 この前助けてもらったし…。 」

 いいんじゃない…と直行の思惑に気付かない亮は素直にそう答えた。
同好会の集会が終わった後で、亮について西沢のマンションへ行くことになった。
 夕紀以外の会員がみんな集まった集会は相変わらず騒がしく、馬鹿話が飛んでいたが、それなりにみんな楽しんでいた。
 表面上は直行も愉快そうに笑っていたが、これから西沢に会うことを考えると胸の内には不安がつのっていくばかりだった。


 亮が鍵を開けると玄関にノエルの靴があった。
ノエルがまだ居るということは西沢に仕事をする気力が出てきたということだ。
亮はちょっと安心した。

 直行を案内して寝室の方へ向かった亮は一瞬扉を開けることを躊躇った。
話し声が聞こえるのだが、その話し方は西沢のものでもノエルのものでもない。
滝川が帰ってきているのかとも思ったが、さっき確かに玄関に靴はなかった。

 そっと扉を開けてみるとノエルがベッドの前の籐のソファで女性モデルのように悩ましいポーズをとっており、西沢はベッドの上からそれをスケッチしていた。
 時折ノエルが思い出したように西沢に何かを語りかける声が、その気配からあの太極と名乗る不思議なエナジーのものであることに亮はようやく気付いた。
 西沢さんは…ときどきこうしてあのエナジーと話をしているんだろうか…。
太極はあの二階の端の講義室から…この部屋に対話の場所を移したのだろうか…?

 ノエルは指示通りポーズをとっているわけだから、完全に乗り移られているわけではないようだ。
 再びノエルの口が何かを語ろうとした時、亮の後から直行が部屋に入った。
気配はかき消すように消えた。
直行はその気配には何も気付いていないようだった。 

 「お帰り…亮くん…。 おや…直行くんも…一緒か…。 」

 西沢が亮と直行に声をかけた。
今度は何の挿絵だよ…ノエルが嫌に色っぽいし…。

 「成人女性向け恋愛小説…。 前にも言ったけど僕はこの分野は嫌い…何でこんな仕事ばかり来るかねぇ…相庭の陰謀かぁ…。

 ノエルがいなかったら到底一枚も描けねぇな…。 
あ…亮くん…寝てるノエルの上に屈み込んでキスのポーズをとって…。 」

 またかよ…。 亮は仕方なくノエルの傍へ移動した。

えぇ~何が始まるの…状況が飲み込めず直行はどきどきした。

 「どっち向けばいいの? 」

 そうだな…設定は…きみは僕ぐらいの齢でノエルは少し年上…なんだそうだ。
憧れの年上のお姉さまが誘惑的なお姿で横たわっていらっしゃる…きみならどうするって話…。

 どうするって言われてもなぁ…。 亮はノエルの両の手首をそっと掴んだ。
そのままノエルの顔が西沢から見えるようにキスのポーズをとった。

ナンなんだ~?…直行が硬直した。

 「そのまま動かないでね…。 よっしゃ…亮くん…その位置からノエルの耳の下辺りに顔を移動させて…。 ノエル…それらしい顔してね…適当でいいから。 」

 それらしい顔って…無理! 僕したことないもん…わかんない。
ノエル…エロ本でいいってば…あれに載ってるような顔しとけ…。
う~ん…やっぱり無理! 
 亮が悪戯っけを起こしてノエルの首に唇を這わせた。
きゃぁ~何すんだよ…背中にぞぞげ来たぁ…。

滅茶苦茶だ…直行は西沢の顔を見た。
 
 「それ…そのゾクゾクって感じ…で行ってみよう! 」

 そんなこんなでスケッチが済むまで直行は三人のふざけているとしか思えない様子を呆然と見ていた。
 ナンなんだ…この人は…御使者というからにはもっと真面目な男かと思ってた。
こんなハチャメチャな性格だったなんて…。

 直行の西沢に抱いていた神聖な固いイメージが脆くも崩れ去った。
この人…本当に裁きの一族の血を引いているんだろうか…?
こんな人に夕紀のことを託していいんだろうか…?

一抹の不安が直行の胸をよぎった。






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現世太極伝(第三十話 貰ってやるよ…。)

2006-03-19 18:12:54 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 亮が連絡を取ってから有が玄関に姿を現すまで、それほど時間がかかったわけではないが、亮にはじりじりするほど長いこと待たされたように感じられた。

 「済まんな…。 西沢のお養父さんに了解を得ていたので…。 」

 有は申しわけなさそうな顔をした。
こんな時に…なんでわざわざそんな面倒なことしなきゃいけないんだ…?
亮は納得できかねた。

 有は急いで寝室に向かうと、高熱でぐったりしている西沢の身体のあちこちに手を触れた。
亮は有の後ろから心配そうに覗き込んだ。

 「亮…大丈夫だ…。 それほど深刻な状態ではない。 すぐ良くなるよ。 」

 亮の不安げな顔を見て有は安心させるように言った。
有の手が西沢の気管や肺のある場所に当てられた。

 「俺たち治療師は病気そのものを取り去ったり治したりしているわけではない。
病気に侵されている部分の細胞を中心に全身の機能の働きをより活発化させて治癒能力を高める手助けをしているんだ。
だから…治すのはあくまで自分自身なんだよ。 」

 有が亮に対して自分たちの持つ力について説明をしたのはこれが初めてだった。
西沢のことが知れるまで、亮の存在を半ば無視していた有が少しずつ亮に歩み寄ってきているような気がした。

 「…父さん…? 来てくれたの…面倒かけてごめん…。 」

少しは身体が楽になったらしく西沢が眼を覚まして有に声をかけた。

 「紫苑…そんなことはいいんだよ。 だが…随分と疲れているようだ。
お役目がつらいのではないか…?  」

有は優しく問いかけた。いいえ…と西沢は微笑んで見せた。

 玄関の鍵を開ける音が響いた。
今頃誰だろう…亮は急いで玄関に向かった。
滝川と初老の紳士が立っていた。

 「滝川先生…どうして…? 」

亮が驚いたように訊くと滝川は笑みを浮かべた。

 「なんだか心配になって戻ってきたら…そこでばったり紫苑のお養父さんに会ったんだ。 西沢祥さんといって西沢家の御当主だ。 」

 西沢の養父が亮に微笑みかけた。始めまして…と亮は頭を下げた。
穏やかで優しい眼をした上品な紳士だった。

祥が部屋に入った時、寝室では有がようよう紫苑の手当てを終えたところだった。

 「有…夜遅くに済まんな。 心配をかけた…。 」

 祥は有にそう声をかけた。
明らかに自分の方が上に立っているような言い方だったが、それはもともと祥の方がずっと年上で兄貴分だったからで、わざとそうしたわけではなかった。
 
 「なに…俺の務めだ。 今日は家に帰っていたので早く来られて良かった…。
祥さんこそ…雨の中悪かったな…。 」

そう答えながら有は紫苑の傍から離れて祥に場所を譲った。

 「紫苑…御使者のお役目…大変だったからなぁ…。 疲れが出たのだろう…。」

 祥はいかにも愛しそうに眼を細め紫苑の頭を撫でてやりながら話しかけた。
有に対する紫苑の顔と祥に対する顔がまったく違うことに亮は気付いた。

 「お養父さん…ご心配をおかけしました。 
有さんが診てくださったおかげで…もう随分と楽になりましたから…。 」

 有さん…紫苑はいま確かに実父を名前で呼んだ。
有は表情ひとつ変えなかったが亮はなぜか胸がどきどきした。 

 言葉は祥に対しての方が丁寧だが紫苑は確かに祥の方を父親として見ている。
有のことは父さんとは呼んでも親戚の小父さんくらいにしか考えていない。
育んできた長い年月の違いが有の父親としての居場所を失わせてしまっていた。

 祥が紫苑の傍にいる間、有はそっと居間の方へ出た。
滝川がキッチンで紫苑のために重湯をたいていた。
 この状態では多分…紫苑は朝からほとんど何も食べていないに違いない。
使われた形跡のないキッチンを見て滝川はそう思った。
食べられるかどうかは分からないが…。

 「ずっとここに居候してたんですが…今夜から家へ戻ったんですよ。
紫苑の調子が悪いことには気付いていたんだから…日延べすればよかったのに…。
短慮でした…。 」

滝川がそう話しかけた。

 「恭介…頼みがあるんだが…。 」

 有がそっと手招いた。滝川は火を止めると居間の方へ出てきた。
滝川だけに聞こえるように声を潜め有は紫苑の置かれた状況を打ち明けた。

 「きみだから話すが…紫苑はまた新しい指令を受け取っているんだよ。
今度はおとなが相手だから…おそらく相当しんどかったに違いない。
 何日も身体のだるさを我慢して出かけて行ってたんだろう。
亮には黙っていたが…肺炎を起こしかけていた。

 この先も何があるか分からない…ひとりでは…身体がもたんかもしれん。
できれば…治療師のきみに付いていて貰いたいんだ…。 」

 新しい…指令…じゃあ…ここのところ…朝帰りが多かったのは…輝に会いに行ってただけじゃないんだ…。
紫苑…僕にも黙って…と言うよりは話せなくて…我慢してたってわけか…。

 「あいつ…痛いも苦しいも何にも言わないやつだから…。
分かりました…ちょくちょく戻ってきて診てやります…。 」

滝川はがそう約束すると有は安心したように頷いた。

 祥が息子の見舞いを十分に堪能して、その場に居る者たちに労いの言葉をかけ、本宅に帰って行った後で、滝川はやっと紫苑の前に姿を見せた。

 「何だ…おまえ…さっき出てったばかりなのに…もう戻って…きたのか? 」

 熱に浮かされて半分うつらうつらしながらも、恭介に気付いた紫苑は呆れたように言った。
ふふんと鼻先で笑いながら滝川は紫苑に近付いてベッドの端に腰を降ろした。

 「誰かさんが赤信号出してたんでな…。
紫苑…水分を取った方がいい。 脱水も起こしている。 スポーツドリンクの方が飲みやすいかな…。 」

 サイドテーブルの上に置かれたコップを見ながら滝川は言った。
それで…いいよ…と言いながら、意識のはっきりしない半寝の状態で紫苑は起き上がろうとした…が身体に力が入らなかった。
 すぐにまた眼を閉じてうとうとしてしまって、とても自分で水を飲むどころではなかった。

 その様子を痛々しげに見つめていた滝川は自分が水を口に含み紫苑の唇に流し込んでやった。

 「馬鹿だなぁ…恭介…風邪がうつるぜ…。 」

眠たげな笑みを浮かべる紫苑に滝川は躊躇うこともなく再度水を飲ませた。

 「貰ってやるよ…その風邪…。 人に移したら治るっていうじゃないか…。 」

 滝川はそう言って笑った。
治療師の…言う…台詞か…よ…と紫苑は呟きながら、とうとう堪えきれず本格的に寝入ってしまった。

 僕が貰っておまえが楽になれるものなら…喜んで貰ってやるよ…。
安心しきった子供のような寝顔を見つめながら滝川は胸のうちでそう語りかけた。

 風邪だけじゃない…ぜ。
おまえの重荷の半分…半分は無理かもしれないけれど…おまえが僕に任せられるだけのものは…一緒に背負っていってやる…ずっとな…。
だから…早く元気になれ…。

 扉の影からそっとふたりの様子を見ていた亮は、有に肩を叩かれて扉を閉じた。後は滝川に任せて引き上げようと有は言った。
亮は素直にその言葉に従った。

 アスファルトに映った雨で滲む街灯の灯かりを踏みつけながら、亮は有の後について行った。   

 「あのふたり…恋人同士なんだろうか…? 」

 有の背中に向かって亮はふとそんなことを訊いた。 
有がちょっと立ち止まって亮の顔を見た。

 「どうかな…。 俺には…そんな段階はとっくに越えてしまった仲のように思えるがな…。」

どういうこと…? 亮は首を傾げた。

 「紫苑にとって恭介は唯一何の打算もなく自分に真心を捧げてくれる人だ。
言い換えれば、紫苑は恭介にとってすべてを犠牲にしても惜しくない相手だということだ。
 そんな純粋な想いは恋愛にはないと俺は思っている。
恋なんてものはもっと打算に満ちている。 完全な信頼なんて在り得ないし…。
 感情のすべてが未熟で…お互いの気持ちを奪い合うことだけを拠り所にしているからな。 」

 夢のねぇ話…亮は肩を竦めた。
有は笑った。そういうもんさ…現実は…。

 「男と男の間には…時には…男と女の関係以上に純粋な感情が生まれることがあると考えているんだ…俺は…。
 尤も…ふたりともストイックなタイプじゃないから…身体の関係が絶対無いとは言いきれんけどな…。 
ま…したいと思ったらするんじゃないかぁ…。」

 そういうことはっきり言うか…親が…こういう性格だとは思わなかった…亮は赤面した。
これまでまったく知らなかった有の一風変わった一面を見たような気がした。

 「西沢さん…有さん…て言ってたね。 西沢のお養父さんの前では…。 」

 亮がポツリと言った。
瞬時…有が寂しげな笑みを見せてまた歩き出した。

 「仕方ないのさ…。 普通の家庭とは違って俺たちは家名を背負っている。
紫苑はあくまで西沢の子でなければならないんだから…。 
 おまえが俺の後を継ぐ事になれば…おまえも自由な考え方や行動を規制されることになる…。
木之内家が歴史を終えようってこの時に…今更つまらんだろう…そんなこと。」

 有は声を上げて笑った。 
有の本心が少しだけ垣間見えたような気がした。
それじゃあ…僕に自由な生き方をさせるために…?

 有はそれ以上何も話さなかった。
父も息子も黙って家までの道を歩いた。
何だか知らないけど…今夜だけで十年分は親父と話しちゃったな…と亮は思った。





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現世太極伝(第二十九話 またな…。)

2006-03-18 08:44:58 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 駅前の喫茶店の窓際の席で西沢はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
今朝は早くから滝川が仕事に出かけたので、ひとりでのんびりとこの店ご自慢のモーニングセットを楽しんでいる。
 ここには西沢を見ても取り立てて騒ぐ者もいないし、店長も店員の悦子も同族の顔見知りという気安さもあって、常連客の集中する時間帯でなければわりとゆったり過ごせた。
 学校へ向かう亮やノエル、千春が通りすがりに手を振っていった。
今日もみんな元気で何より…と西沢は微笑んだ。

 カランカランと音をたてて入り口の扉が開いた。
店の中に一瞬の緊張が走った。
 艶やかな長い黒髪を束ね、紅い唇の印象的な美女が扉から真っ直ぐに西沢の席に近付いてきた。
他に席がないわけではないのに美女は無遠慮に西沢のテーブルに相席した。

 「お早う…桂(かつら)…そろそろ現れる頃だと思ったよ…。 」

 西沢が新聞をたたみながら言った。
店の女の子が水とお絞りを運んできた。

 「紫苑と同じでいいわ…。 」

 桂と呼ばれた女性は控えている悦子にそう注文した。
桂はイラスト展のチケットの半券をテーブルの上に置いた。

 「せっかく見に行ってあげたのに…いないんだもの。
つまらなかったわ…。 」

 紅く光る唇を尖らせながら桂は甘ったるい声で言った。 
西沢は嬉しそうに微笑んだ。

 「そう…行ってくれたんだ…。 」

 悦子がコーヒーとハニートースト・ベーコンエッグのセットを運んできた。
有難う…と桂は微笑んだ。

 「あなた…旭にも会ったのね。 どう…わりといい男でしょう?
あれでもう少し融通が利けば言うことないのだけれど…。 」

 トーストを小さくちぎって口に入れた。
あら…美味しい…。紅い唇がそう呟いた。

 「お互い融通を利かせあって仲良くやってくれたら嬉しいんだけどね…。」

 西沢は桂の意図を探るように見つめた。
そうね…できればね…。 まあ…これもなかなかいけるわ…。 ベーコンエッグが瞬く間に消えた。
細い身体に似合わず桂は食欲が旺盛なようだ。

 「争いごとが嫌いなのね…紫苑。 私も好きではなくてよ…。 」

美しい唇をそっとティッシュで拭きながら桂は言った。
 
 「ラブ&ピース…古いかしら? 私にとってそれは地球のための活動なの…。」

細く長い指がコーヒーカップを口元に運んだ。

 「争いごとは…地球のためにはならないよ…。 決してね…。
破壊と喪失をもたらすだけだ…。
 お互いの価値を認め合いなさい…それこそがきみの言うラブ&ピースだよ…桂。
それが大いなる太極の望む世界だ…。 」

 紅い唇がぴくっと震えた。
太極の望む世界…太極の…あなたがなぜそのことを…? いったい何者…?

 「よく…考えておくわ…紫苑…。 
さて…そろそろ…。 お姉さん…お幾らかしら…? 」

 桂が店を見回して店員の女の子を手招いた。
慌てて悦子が飛んできた。

 「いいよ…桂…。 悦ちゃん…チケット切っておいて…。 」

 西沢がそう言うと悦子は頷いてレジの方へ向かった。
悪いわね…ご馳走さま…と桂は手を合わせて立ち上がった。

 「ああ…そうだ…もうひとつ…素敵な挿絵のお礼を言わなくてはね…。 
おかげで再版されたそうだから…。 」

 それじゃあまた…と言い残して桂は店を出て行った。
姿が見えなくなると悦子が器を下げにやってきた。 

 「西沢さん…今の方とお知り合いなんですか? あの方始めて見たけど…。 」

悦子が何気なく訊いた。

 「いいや…僕も初対面…この前あの人の書いた本の挿絵を担当しただけ。
花木桂…って悦ちゃん知ってる? 」

いいえ…とバイト短大生悦子は答えた。

 「やっぱりね…小学生くらいの子が読むらしいんだ…恋愛物…。 」

 へぇ~そうなんだ…悦子はテーブルを拭きながら言った。
すっごい眠そうですよ西沢さん…コーヒーお代わりしますか…?

 商売上手だね…悦ちゃん…じゃ…お願いしようかな…濃い目で。
頭の後ろで手を組んで伸びをしながら西沢は言った。
悦子はにっこり笑って頷いた。


 
 鬱陶しい季節の到来を告げるかのように昨日から降り出した雨は、まる一日経っても止む気配を見せなかった。
 このところおとなの能力者が暗示にかけられるケースも増えてきたので、被害者発見次第暗示を解けと裁きの一族から再び指令が下り、夕べも雨の中を事前情報に従って捜し歩き、ふたりほど解放して明け方ようやく戻ってきた。
 天候が悪いことも手伝ってか、ここ数日ひどく疲れるような気がする。
仮眠を取ってもなかなか楽にはならなかった。

 何となく目が覚めず、食事もそこそこにぼんやりと時を過ごしていた
夕方仕事先から帰って来た滝川が何時になく神妙な顔をして話し出した。

 「紫苑…今まで撮ったものの中からピックアップしたものだ。
これはだめってものがあったら×してくれる? 」

 滝川が膨れ上がったファイルを渡した。
そうか…撮り終えたってわけか…そう言いながら西沢はファイルをめくった。
素のままの紫苑…がそこに居た。

 「別にないよ…好きに使えばいい…。
これで…もう…ここに居据わる理由もなくなったな…。 」

 ここはまた…静かな空間に戻る…。
ひとりきりの…穏やかで…何事もない暮らしに…。

 「長いこと居候で面倒かけた…。 今夜…家へ戻る…。 」

 滝川が礼を言うと西沢はこちらこそ…と微笑んで見せた。
半年近くの間に持ち込んだものを滝川は徐々に片付け始めた。

 西沢は黙って立ち上がると仕事部屋に向かった。
何をするでもなくスケッチブックを睨みつけていると、帰宅準備を整えた滝川が顔を出した。

 じゃあな…紫苑…有難う…またな…。

滝川はそう西沢に声をかけた。

 ああ…またな…恭介…。

 とくに顔を見ることもなく西沢はそう返事をした。
仕事部屋の扉は閉じられ、やがて玄関の扉の閉まる音と鍵をかける音が響いた。

 ひとりの空間は思ったより広くて寒々していた。
どの部屋に居ても自分の他に生きているものの影はなくて、話しかけても答えは返って来ない。
半年前にはなんでもなかったひとりきりの世界が今は痛いほど冷たく感じられた。

 妙にふらふらするので測ってみれば少しばかり熱があったようで、西沢は予定の仕事を中断して寝ることにした。
 時計を見ればまだ9時をまわったばかりで、寝るには惜しい時間だったがどうにも身体が言うことをきかない…早々にベッドに潜り込んだ。



 シャッターを閉める音の後にお疲れさま…と声が続く。
亮は急いで西沢の部屋に向かった。
 閉店間際に滝川から突然連絡が入った。
写真を大方撮り終えたので今夜から家へ戻ることになったが、どうも今日は紫苑の顔色が悪いので気になるから見に行って欲しいという内容だった。

 こんな時間に…と思うほど早く灯かりが消えていた。
留守かと思うほどしんと静まり返っている中に、時折咳くような声が聞こえる。

 「西沢さん…? 西沢さん…入るよ…? 」

 寝室からは何の返事もない。亮は急いで扉を開けると灯かりをつけた。
西沢はベッドで寝ていたが、咳くだけでなく呼吸音が普通ではない。
 ぜいぜいと喘ぐ声とともにヒューヒューと妙な音が聞こえるような気がする。
触れてみるとひどく熱い。

 「西沢さん…すぐに滝川先生に来てもらうからね。 」

亮は驚き慌てて滝川に連絡を取ろうとしたが西沢が止めた。

 「いいよ…大丈夫…だよ…。 亮…くん…滝川も…忙しい…から…ね。
寝てれば…治る…。 ずっと…ひとりで…そうやって…きたんだから…。 」

 亮に心配をかけまいと無理に笑ってみせる。
どうしよう…きっと西沢さんは滝川先生に心配かけたくないんだ…でも…。
ただの風邪じゃない…と亮は感じた。

 「熱があるんだから何か飲んだ方がいいな。 」

 亮はキッチンへ急いだ。
コップに冷えた水を入れたところで、突然、ある人を思い出した。
慌てて携帯を取り出した。

 「父さん…今何処? 家? 家に居るの? お願い…すぐ来て!
西沢さんが…兄さんがひどい熱で…呼吸が…なんか妙な音がきこえる。 」

 落ち着きなさい…と有の声がした。
亮…すぐに行くから…大丈夫…心配ない…。

有の声が切れると亮は水の入ったコップを持って寝室へ戻った。

 「西沢さん…少しでも飲める? 脱水起こさないようにしないと…。 」

 亮の声には反応するが起き上がる様子はなかった。
西沢は亮に不安を与えないようにいつも元気な姿ばかり見せてきた。
だから亮もこんなつらそうな西沢を見るのは初めてだった。

 父さん…急いで…。
亮の家からここまではほんの短い距離なのに、有が来るのを待つことさえ、亮にはひどくもどかしく思えた。





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現世太極伝(第二十八話 太極からの伝言)

2006-03-16 11:41:17 | 夢の中のお話 『現世太極伝』
 長蛇の列がMデパート催事場の前から続いている。
イラスト展の初日に当のイラストレーターがやって来るというので、どうせならその顔もひと目見てやろうと考えた人たちが大勢集まっていた。

 今回はデパート側の意向もあって、新たに受賞したメインの作品の他、いままで受賞したいくつもの作品と他の作品を合わせて展示し、イベントとして初日と中日だけ本人を会場に招致するということになっている。
 企画自体はありきたりだが、そのイラストレーター自身に宣伝価値及び商品的付加価値があるという点では、さらに集客率UP間違いなしとの太鼓判が押されていた。

 僕が見て欲しいのはあくまでイラストの方なんだけど…と控え室を出たイラストレーターは思った。
 その姿を人々の前に現した時、あちらこちらから喚声があがったのは、時たまテレビにも顔を出す結構名の知られたエッセイストであり、もとモデルのその端麗な容姿がお客に受けているからだ。

 彼は作品を鑑賞しに来てくれたお客に対して上品に頭を下げ、両手を合わせるようにして小さくお礼を述べながら催事場へと向かった。


 係員に案内されて今まさに催事場へ入ろうとしている男たち…その中のひと際目立つ若い男に眼を向けながら旭(あさひ)は考えていた。

 西沢…というその男は少し前まで亮という学生を護るため以外には決して力を使おうとはしなかった。
ところがなぜか今は積極的に旭の導く仲間たちの動きを止めようとしている。  

 桂(かつら)の配下の者たちのように敵意があるわけではなく、ただ、仲間たちにかかっている自己暗示を解いて、もとの生活に戻るように諭しているだけなのだが、その力は強力で一旦暗示が解けると仲間であったことさえ忘れてしまう。
幾人もの仲間が離れていった。それは桂の配下の者たちも同じだ。

 何の目的で邪魔をするのだろう…何があの男を動かしているのだろう…。
我々はこの地球を救うために働いているに過ぎないのに…。

 旭は鑑賞者の列に紛れ込んでいた。
入り口係員に特別招待のチケットを渡すと何食わぬ顔で催事場へと入っていった。

 イラストを見るつもりで来たのではなかった。
真っ直ぐに西沢に近付くつもりだった。
面識のない旭にチケットを送りつけてきた真の理由を質すために…。

 だが…そのイラストは初っ端から旭の眼を捕らえて放さなかった。
西沢が生み出したその世界はまるでそれ自体が意思を持つかのように旭の心に語りかけてきた。
 
 西沢が実際にどんな生き方をしてきたのかは知らない…。
けれども旭にはそれらのイラスト一枚一枚に込められた西沢の魂の叫びが聞こえるようで…感動と共に底知れない恐怖すら覚えた。

 最近賞を受けたばかりだというイラストを前にした時、旭は確かにその時刻…夜半過ぎのその場所にいて、雪明りの静寂の中に息づくほのかな命の温かみを感じたような気持ちになった。

 そのイラストの展示してあるコーナーのもっとも目に付きやすいところに、旭がわざわざアレンジして送り届けさせた花が、それを生けた本人である贈り主の名前付きで飾られてあった。
 現代生け花の新鋭、紅村旭(こうむらあさひ)…デパート側としてはその名前も十分に付加価値のあるものだった。

 その現代風にアレンジされた生け花の傍で西沢は無遠慮に話しかけてくるファンたちの相手をしていた。
どうでもいい話に気を悪くすることもなく穏やかに受け答えをしている。

 近付いてきた旭の表情があまりに尋常ではなかったせいか、その場に居たファンたちは早々に暇を告げて逃げるように先へと進んでいった。

 穏やかに微笑んで迎えてくれた西沢の前で…なぜか旭の頬を涙が伝った。
西沢がさらに相好を崩した。

 「素晴らしい贈り物を…本当に有難うございました。
紅村先生にも会場までわざわざお運び頂いて…恐縮です。 」

 西沢は丁寧に頭を下げた。
どう致しまして…本来ならこの場で生けて差し上げた方がいいのですがそうもいきませんで…と旭も軽く頭を下げた。
旭が顔を上げると西沢の眼がじっと旭の眼を見つめた。

 「先生…今なすべきことは…争うことではありません。 どうか早急に…両極和解と共存の道をお考えになってください。

 争うことは失うこと…そこから生み出せるものは何もない。
あるとすれば不信と憎悪…。

 両極が相争えば…確実に滅びの時は早まるでしょう。 これは太極と名乗るおおいなるエナジーからの伝言です…。 」

 西沢は旭だけに聞こえるようにそう伝えた。 
太極…旭は驚いて眼を見張った。
 それは自分たちを動かしているものたちよりもさらに上をいく存在…。
この男はいったい何者…?

 その時またファンの集団が西沢に近付いてきた。
旭は軽く一礼すると何れまた…と言い残してその場を立ち去った。 

 最終コーナーを出ようとするところで、カメラを持った男とすれ違った。
滝川恭介だ…と旭は気付いた。

 西沢の周りには西沢家だけでなく、いくつもの系統の影がある…と見た。
万が一敵対することにでもなれば…それらのすべてをも敵にまわすことになる。
 旭の仲間のほとんどはその系統に属する族人だ。
仲間とはいえ、いざとなったらどう動くか分かったものではない…。
慎重に動かねばならぬ…と改めて思った。



 初日・中日と展示場での二日間の仕事を終えた西沢は、人酔いと疲れで居間の絨毯の上でのびていた。
 イラスト展は連日盛況だし売上も絶好調…まったく言うことなしだが、普段静かに暮らしている西沢にとって人の多い場所での仕事はとにかく疲れる。

 初日には写真を撮りながら西沢と一緒に会場に詰めていた滝川も今日は別の仕事が入っていて、さっき帰ってきたばかり…。

 「紫苑…ほら…紫苑…コーヒー…。 」

 滝川は居間のテーブルの上にコーヒーカップを置くと、ふにゃふにゃになっている西沢を引っ張り起こした。
 西沢はソファを背もたれにぐったりしていたが、香りに誘われてようよう身を起こしコーヒーを口にした。
ふうっと大きな溜息が漏れた。
 
 「あれ…いい絵だな…紫苑…。 
夜中の雪景色なのに寒々しくなくて…ほのかに温かい…。 」

 滝川がぼそっと呟いた。西沢の唇が微かに緩んだ。
夜中だからさ…と西沢は言った。
 真夜中には雪の白さが緩和されて微妙に穏やかな色合いになるんだ。
雪明りで辺りの景色がはっきり見えて…それでいてすべての輪郭が柔らかい。
尤もこの地方は雪が少ないからそんなふうに優しく感じられるんだろうけど…ね。
西沢はそっとカップを置いた。
 
 再びふにゃっとソファにもたれかかった。
西沢の喉の流れるようなラインが滝川の悪戯心を堪らなく刺激する。

 「紫苑…ちょっと遊んでいい…? 」

 えらくご丁寧な前置きだな…いつも黙ってやるくせに…。
だって…お疲れのようだから…さ。
そう言いながらもすでに紫苑に身を寄せている。

おまえの喉のラインが堪んないんだよ。
ドラキュラかおまえは…。 
ん~…何とでも…言ってくれ…。
 
 「あのぉ…お取り込み中…悪いんですけどぉ…。 」

 買い物袋を提げたノエルが突然出現した。
その後ろに呆れたような顔をして亮が立っている。

 「おやおや…見られちゃった。 」

 滝川は悪戯っぽい目をして笑った。西沢もその場を取り繕うなんて気はさらさらないらしい。
このくらいのお遊び…どうってことないっしょ…くらいに思っているんだろう。

 輝さんとの時も平気だったもんね…おかげで艶かしい輝さんのお姿もろ見ちゃったし…と亮は妙に納得していた。

 「ソース焼きそばと五目焼きそばとどっちがいいですかぁ?  」

 えっ…? 滝川と西沢の表情が固まった。
この場面でそれを訊くか…ノエル。亮は天を仰いだ。
 
ソース…かな…戸惑ったように西沢が答えた。ソース…だな…滝川も同意した。

 「亮…ソースだって…。 作れる? 」

 ノエルが不安そうに亮を見た。亮はうん…と頷いた。
あ…晩飯の話なのね…と滝川はようやく理解した。
遊んでる場合じゃねえな…西沢がクスクス笑いながら立ち上がった。

 「あ…いいよ。 西沢さん…今夜は僕たちで作るから…ここで待ってて。 」

 キッチンへ行こうとする西沢を亮が慌てて止めた。
そう…じゃ…お言葉に甘えて…。

 亮とノエルはキッチンへ向かった。

再びもとの場所に腰を降ろすと、西沢は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。

 「まだ…西沢さん…と呼んでいるんだな…。 」

滝川が呟くように言った。

 「亮の中に…僕に対する何か吹っ切れないものがあるんだろう…。
ま…こんなハチャメチャな兄貴だから…そう簡単に受け入れて貰えなくても仕方ないんだけどな…。 」

西沢は少し寂しそうに笑った。

キッチンからは楽しげな声が聞こえてくる。

 ノエル…油引かなきゃ…。
えっ…だってこのそば油付いてるよ。
 付いててもだめなの…焦げちゃうでしょ。それに具を先に炒めなきゃ。
あ…そうなんだぁ…ああ…くっついちゃった。

 じっと見てちゃだめ…炒って…炒るの…菜箸動かして…。
菜箸って何?
 手に持ってるでかい箸のこと…。
あ…これ…あ…キャベツが飛んだ。

居間のふたりは堪えきれぬとばかりげらげらと笑い転げた。

 やがてジュージューと音をたてて香ばしいソースの匂いが漂ってきた。
揚げそばかと見まごうほどいっぱいおこげの入った焼きそばがその夜のメインとして食卓を飾った。





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