徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

続・現世太極伝(第四十七話 わけありの女性)

2006-07-31 16:15:30 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 夢見心地の三宅の気持ちは分からなくもない…。
当時…まだ二十歳そこそこだった西沢が年上の麗香にてきと~に遊ばれた夜の記憶は、その後のどの火遊びよりも鮮烈…。

 …て言うか…他のをあんまり覚えてないんだよね…ほとんど成り行きだから…。
どうも…迫られると断りづらくってさ…特にタイプだったりすると…。
 勿論…やばい相手は回避しますよ…人間的に嫌な奴ともやらない…後々面倒なのはご免だし…。
まあ…ばばさまは別格だったけどな…。

 渡された原稿を持って会社に帰ってきたまでは良かったが、その後溜息の吐きっ放しで周りからばばさまの毒気に当てられたと冷やかされた。
 三宅としては先輩社員の代わりにたまたま原稿取りに行っただけだから、ばばさまが奇妙な勧誘をしたとは言っても、暇つぶしの冗談だったのだろうくらいに考えていた。

 ところが…西沢と午後に会う約束をしていた今朝になって、突然、ばばさまから呼び出しがかかった。
ご丁寧にも今日が指定休だということまで調べてあったようで…。
約束の時間までに送らせるわ…というばばさまの申し出を断り切れず、再び悩ましい勧誘を受けたのだった。

 三宅は玄関を抜けて居間に着くまで心ここに在らずの状態だったが…そこで待っていた人々の声にようやく我に返った。 

 遅くなって申し訳ありません…。 お待たせしました…。 
型通りの挨拶をしたあと、いつもの生真面目な顔に戻って、その場の話の輪の中へ入っていった。

 「ばばさまから誘いがかかったということは…きみも一人前の業使いに認められたってことさ…。
きみがそうしたければ…ばばさまの手助けをするのも悪くはない。
少なくともHISTORIANのようにきみを使い捨てにするようなことはしないだろう。 」

 迷う三宅に西沢はそう言った。
三宅の周りには何代も前に枝分かれした親類の須藤の他に同族の業使いがいないから、特殊能力者の世界のことはまったく分からない。
須藤自身も呪文に関すること以外には詳しい教育を受けていないから教えようがないのだ。

 「この世界のことは…相庭や木之内の実父が教えてくれたこと以外は僕もあまり知らないよ。
それも最近になってやっと覚えたんだ。
天爵ばばさまについては…そうだね…付き合っている間に…弟…妹のスミレちゃんに教えて貰ったかな…。

 ばばさまと出逢ったのは…僕の初期の作品を買ってくれた時だったから…何にも分からないまま付き合い始めたというか…強引に引っ張り込まれたというか…。
 最初から遊びのつもりだから…自然発生・自然消滅だったけどね。
まあ…悪く言えば…ばばさまに摘み食いされたってことなんだけど…さ。 
僕は楽しかったよ…。 」

 西沢や滝川のような能力者の家系とも、倉橋や三宅のような呪文使いの家系とも異なり、庭田は御託宣を受けることができるという神官や巫女的な力を持つ家系である。
非常に古い家柄で代々同じ魂を引き継いでいると言われ、その魂はおよそ一万年以上も前の初代ばばさまのものと言われている。
天爵ばばさまの位は男女どちらが継いでも良いが、必ず、初代ばばさまの記憶を持つ子どもに限るとされている。 

 庭田麗香は西沢と出逢う少し前にばばさまの位についたばかり。
先代が早世だったので若くして重責を担うことになったが、さすがに魂を引き継いでいると言われるだけあってどっしりと落ち着いた風格のある女性だった。
 スミレちゃんこと智明はその頃からずっと姉の麗香のために働いている。
心優しいこの男…女は…まだ若い姉だけに苦労を負わせるなんてことはできなかったのだ。

 「ふたりとも厳しい人ではあるけれど…理由もなく簡単に仲間を見捨てるような人たちではない。
けれど…彼等の目的や考え方ときみ自身の目指すところが一致しなければ…感情だけで付き合っていけるような相手でもないんだ。
そこのところをよく考えて答えを出さないと…後悔することになるよ。 」

 麗香への思いだけで決心しそうな三宅に西沢は少しだけ釘を差しておいた。
恋は盲目というから…釘なんぞ何の役に立たないかも知れないけれど…。

 西沢が三宅に話をしている間に智哉は三宅をじっくりと観察した。
完全体のサンプルは三宅しかいないから対比するものがないのだけれど、取り敢えず今の段階では西沢たちと三宅の差異を捉えられるかどうかを調べてみた。

 気配の個体差はそれぞれにあるものだから気配だけでは判別できない。
ふと…智哉はついこの間まで三宅やノエルたちに襲いかかっていた不完全体のことを思い浮かべた。

 彼等は潜在記憶によって操られる状態にあった。
不完全体でさえはっきりした記憶を持っているのなら…完全体にも隠された記憶があるのでは…と考えた。
三宅がワクチン・プログラムの完全体なら…おそらくオリジナルを追跡し倒せというような記憶を持っているのではないか…と。

 智哉は西沢に三宅の額に触れていいかと訊ねた。
西沢が三宅の方を窺うと三宅はいいですよ…と頷いた。

 智哉のごつい手が三宅の額にそっと触れた。
何かを探るように智哉の眼が忙しなく動いた。

 「玲人さん…あなたとはそんなに面識がないから先入観が入りにくい。
ここへ来てください。 」

 智哉に言われて玲人は急いで三宅の近くへ来て腰を下ろした。
玲人の額にも智哉の手が当てられた。
智哉は三宅と玲人の額に同時に触れながら眉間にしわ寄せてしばらくじっと考えていた。

 「不完全体の…特に発症しないスイッチの壊れた者の記憶は実に出鱈目で…命令としてはまったく意味を成さない…。
或いは…本人が潜在記憶自体をキャッチできない…勿論…我々にもね。
キャッチできて…これを夢で繰り返し見たとしても…洗脳されて暴れたり人を襲ったりすることはまず考えられない…。

 完全体の記憶は理論的で筋が通っている。
この夢を繰り返し見ることによって洗脳されることは十分有り得る。
不完全体でもスイッチが壊れていない場合には、ある程度正確な夢を見ている可能性があるから刷り込みが起きる畏れは否めない。 」

 ふたりから手を放すと智哉は西沢に向かってそう話した。
なるほど…潜在記憶がどういう状態になっているか、その在り方を探ればいいんですね…? 

 「大まかにはそうだよ。 多少…私自身の把握の仕方とは異なるがね。
他の人にも探りやすい方法となるとそれが一番だね。
ただ…潜在記憶を確認するには今現在の記憶よりも深いところを探らなければいけないから…少しコツが要る。
 同じ能力者でも得手不得手があるから普通の記憶が読めても潜在記憶は読めなかったりする場合もある。
前以て確認能力の有無を調べておいた方がいいね…。 」

夢を見始めた頃ならわりと確認しやすいだろう…と智哉は付け加えた。

 ああ…潜在記憶が表面化し始めているからですね…? 遅れると症状が出てしまうけれど…その前に手が打てるかも知れないな。
西沢はそう言って頷いた。

 「でも…僕はすでに呪文を解いてしまったんですから…この先は誰も発症しないのでは…? 」

三宅が不思議そうに訊いた。

 「何がきっかけで発症するかは分からない。 きっかけは呪文だけ…とは限らないんだ。
用心にこしたことはないってことさ…。 」

滝川が答えた。

 「具体的には…夢の中でどんな命令が繰り返されているんですか…? 」

智哉に向かって玲人が訊ねた。

 「きみの場合はスイッチが壊れているのでよくは分からない支離滅裂なものだ。
だから…三宅くんの…つまりワクチンの完全体だけを例にあげると…殲滅せよ…造反者たちを殲滅せよ…国家の安寧のために…みたいなことを言っている。 」

 おや…っと西沢は思った。
添田の話にそっくりだ…。

 「邪魔者たちを殲滅せよ…我等の主の新しき国家を建設せよ…。
添田が聞いたという文言はこうです。
 邪魔者…造反者…安寧…建設…そんな単語でどちら側かを区別できますね…。
これまででも発症者は二通り居たってことだな…。 」

 三宅以外のワクチンを見ていないから…あんまり拘ってなかったけど…。
そう考えると…ノエルもワクチンなんだ…多分な…。
 亮が未だ襲われてないのは…スイッチ切れで判別不能だからか…。
西沢はぶつぶつとそんなことを呟いた。

 「西沢さん…実はこの前…天爵ばばさまがオリジナルの完全体かも知れないという話を聞きました。
本人には確認できないらしいのですが…HISTORIANが眼をつけているとか言ってました…。 
でも…なぜか…ばばさまは僕を攻撃するようなことはしなかったけれど…。 」

三宅が思い出したように言った。

 「さっきの話じゃ…ばばさまは自分と跡取りのふたつの魂を持っているようだ。
初代ばばさまの魂が今のばばさまの潜在記憶を遮断しているか…或いは消したのだろう。 」

智哉がそう答えると…西沢はそうでしょうね…と同意した。

 「ま…とにかく…恭介…玲人…三宅くんの潜在記憶だけでも読み取れるようにしとこうぜ…。
僕等三人が何とか判別できたら…仲間うちに方法を伝えよう。
三宅くん…お疲れのとこ…悪いけどしばらく実験台になってくれ…。 」
 
 西沢がそう頼むと三宅は快く承知した。
お義父さん…申し訳ないですけどご指導お願いします…。
西沢のひと言で智哉を中心に潜在記憶を判別する修練が始まった。



 すごい…とノエルは眼を見張った。
亮のところの大型クッションの倍はあろうかと思われるサンドビーズのデカクッション…恐る恐る乗ってみる。

う~ん…この感じが最高…気持ち悪~い…けど気持ちい~。

 「どうしたの…これ? 」

 ノエルが嬉しそうに訊いた。
元カノたちからの結婚祝いです…と西沢は笑った。

 え~針入ってんじゃない? カミソリとか~?

大丈夫…あの人たちはそんなに無粋じゃないよ…。
懐かしげな眼をして西沢が言った。

 楽しそうに遊ぶノエルの様子を見ながら西沢は遠い過去に思いを馳せた。
また…関わることになろうとは思わなかったよ…ばばさま…。
もう…会うこともないだろう…と…覚悟して別れたはずだったのにね…。








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続・現世太極伝(第四十六話 妖しげなメッセージ)

2006-07-29 23:15:06 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 女性の身体からくらくらするほどの濃厚な薔薇の香りが漂って息苦しいほど。
口紅の色と同じ紅いネイル…鋭く磨き上げられたそれが三宅の頬を撫でた。

 「何故なの…可愛い呪文使いさん…? 」

突如…着メロが流れた。

 「おや…西沢紫苑からだわ…。 早く出ておあげなさいな…。 」

携帯に触れたわけでもないのに、女性はいとも簡単に相手の名前を口にした。
三宅は慌てて携帯電話を取り出した。
紅いネイルが横から携帯を取り上げて三宅の耳に運んだ。

 西沢は…合わせたい人が居る…と言っただけで詳しいことは何も言わなかった。
二日ほど後の午後を指定して切った。
携帯を三宅のポケットにしまうと愉快そうに笑った。

 いい男だけど…間抜けだわ…。
HISTORIANなんぞの手助けをするなんて…ね。
あら…ごめんなさい…あなたもだったわね…。

 「あいつ等は…勇者気取りの外来エリート集団だから…辺境日本の能力者たちなど使い捨ての駒に過ぎないのよ…。
そうね…利用価値の高い政府の高官クラスとか…財界の要人とかならちゃんとお仲間と見做すでしょうけど…。
もう少し呪文をかけたままで…うんと混乱させてやればよかったのに。 」

薔薇の君は随分と過激なことを言う…。

 「何でもかんでもプログラムのせいだと考えること自体誤りなのよ。
もっと人間という生き物を見つめるべきだわ…。 」

三宅は眼を見張った。

ひょっとして…オリジナルの完全体…?

うふふ…と紅い唇が笑った。
完全体かどうかは…自分では分からないわね…。
HISTORIANが眼をつけていることは確かよ…。

 完全体同士が出会ったら…戦って勝つしかない…西沢はそう言っていた。
しかし…それらしい女性が目の前に居るのにそんな気配は感じられない。

 「不思議かしら…? でも…紫苑の言っていることは正しいわ。
私でなければ…あなたはとうに死んでるかもよ…。 」

紅い爪が三宅の頬から顎を滑り降り首を伝ってネクタイの上で止まった。
   
 「HISTORIANなどとはきっぱり手を切って…私の許へおいでなさい…。
三宅の末裔なら…悪いようにはしないわ…。 」

薔薇の君の妖しい瞳が眼の前にある。艶かしいその肢体が今にも触れんばかり…。
三宅はごくっと唾を飲み込んだ。

 あのちょい抜け坊やもすぐに気付くわ…。
世の中を混乱させているのが本当は誰かってことを…。

あら…悪口じゃないわよ…あの子は…そこが可愛いのよ…。



 ただでさえ他国から非難を浴びてるってのに…国連関係の施設ぶっ飛ばすとはどういうことぉ…?
それでも…尚且つ…その立場を擁護し続けるってのも…微妙な国内事情があるにせよ…ちょっと考えた方がいいんじゃねぇ…?

新聞と睨めっこ…滝川の朝のぼやきが始まった。

 先生…コーヒーは…?
西沢のコーヒーを淹れるついでに滝川にも声をかける。

 今朝はノエル絶好調…久々に卵焼きが美味しい。
西沢が笑いながら自分の皿からノエルの皿へと補充してやる。

 「貰うよ…。 何…ノエル…気分良さそうじゃない…? 」

滝川がノエルの方に眼を向けた。

 「なんかねぇ…少し楽になったんだ。 飯島院長の話よりちょっと早め…。 」

ふたりにコーヒーを渡して…ノエルはまた卵焼きを頬張った。
青菜のおひたしと卵焼き…焼きシシャモ…若布や豆腐のお味噌汁…どれもノエルのために西沢と滝川が用意した朝食メニューだ。

 悪阻で食の進まないノエルのために、西沢も滝川も朝晩できるだけノエルの食べられそうなものを考えた。
 毎日これくらいがっついてくれると嬉しいんだけどなぁ…。
そう言って西沢が笑った。

 「ごめんね…。 」

俯いたノエルの頭を西沢がそっと撫でた。 

 「これからはきっとたくさん食べられるようになるよ。
ふたり分必要なんだから…。 」

滝川も笑顔で言った。

 ノエルが学校へ出かけて行った後、定休の滝川が自宅の305号の空気を入れ替えに行ったので、西沢はひとり仕事部屋で新しい画材を広げていた。

 久々に花木桂からイラストの依頼が来ていて…花木には珍しく成人女性向けの恋愛小説だった。
成人ものはあんまり好きじゃないのよね…夢が無いんですもの…桂は電話でそう漏らしていた。

 僕も全然好きじゃない…なんてことは言えなかった。 
仕事ですから…ねぇ。
 この手のものを描こうとするとやたらむかついてくる。
違うだろ…そうじゃねぇだろ…なんて内容に文句をつけたくなってくる。

 ぶつぶつ言いながら仕事をする。
ノエルの体調を考えるとモデルはさせられないから…余計にいらいらする。
亮にモデル頼もうかなぁ…と西沢は思った。

 軽く仕事部屋の扉をノックする音がして…毎度…と玲人が部屋に入ってきた。
幾つか入っている仕事の予定を伝えに来たのだ。

 「玲人…ちょっと…ちょっとここへ転がって…。 」

ええ…なに? 怪訝そうな顔をしながら玲人は床に転がった。

 首筋から背中にキス…の状況を再現してくれない…?
おまえの感性で構わないから…。

馬鹿言うな…そんなもん分かるか!

 そこを何とか…さぁ…仕事なんだから…。
いま…ノエルには頼めないんだから…。

 「なにやってんだぁ…? 」

戻ってきた滝川が玲人の大声を聞いて顔を覗かせた。

 「お…丁度いいや…恭介…おまえ…玲人の首筋から背中にかけてキスしちゃって…。 」

首…って…おまえ…内容はよ…?

 「え~っと…豪邸のプール…甲羅干し中の美女…水着つきの…な…。
プールから上がってきた恋人がちょっかいかけるシーン…。 」

あ…そう…ちゃんと説明しないと別のことしちゃうぜ…。

どっちにしてもやだ~!

 おまえが持ってきた仕事だろ…少しぐらい協力せいや…。
そう言うと滝川は言われたとおりに演じてみせた。

 「そこでストップ…。 OK! 描けた…ありがとさん…。
玲人…いい顔してたよ~。 続きはベッドでねぇ~。 」

ふざけんな!
背中に乗っかっている滝川を押しのけて、玲人はむっくり起き上がった。 

 「いや…思ったよりいい反応だったね。 玲人…薔薇の素質あり…だな。 」

薔薇だよ…悪いかよ…。

あ…気にすんな…悪口じゃねぇから…。
やだな…そんなむくれるなよ…玲人…キスしちゃうよ…。

やってみろよ…できるもんなら…どうせ…馬鹿にしてんだろ。

じゃ…頂きぃ…。

やかましい外野を他所に西沢は別のことを思い出していた。
 薔薇…薔薇ねぇ…不意に西沢の嗅覚にあの香りが甦った。
どこかで嗅いだ香りなんだよな…。

 「思い出した! 天爵ばばさまだ! 」

天爵ばばさま…? 滝川と玲人は同時に西沢の方を見た。

 「あの各界のお偉いさん専用の…お告げ師のことか…? 」

滝川が訊いた。

 「そう…いまのばばさまは…庭田麗香…。 
裁きの一族と同様かなりの旧家で…実力派のお告げ師…。
超美人で超グラマー…感度抜群…。 」

何で分かるんだよ…そこが…?

 「ちょっとわけありで…。 」

あ…お試し済みか…。

…ってか…喰われたんだよ…。
かなわねぇよ…ばばさまには…。

 それを聞いて床のふたりが大声を上げて笑い転げた。
おまえでも喰われることがあるんだぁ~紫苑!
すげぇ女だなぁ…!

 「何しろいつの時代から生きているか分からないくらい古い魂を受け継いでいるってことだから…。
僕なんか赤ん坊同然で…ばばさまに好きなように遊ばれたってか…な。
まだ…駆け出しの頃の話だが…。 」

 けど…なんでばばさまの薔薇の香水が…?
ひょっとして…三宅に近付いたことを知らせてきたのか…?
まあ…午後に三宅が来ることになっているから…すぐに分かることなんだけど…。



 人に見えないものが見え…感じられないものを感じることができる智哉の不思議な能力…。
ワクチン・プログラムの完全体三宅の身体から智哉がどんな情報を引き出せるのかは謎だが、今後の参考に滝川だけでなく玲人も立ち会うことにした。

 約束の時間が近付くと智哉の方が先に現れた。
滝川たちと軽い話を楽しみながら三宅が来るのを待った。

 それほど間を置かず、玄関のチャイムが鳴った。
西沢が扉を開けると、いきなりスーツ姿のオネエが飛び込んできた。

 「紫苑ちゃぁん。 お久しぶりぃ…。 」

誰よ…? 西沢は相手の顔を見直した。

 「スミレちゃん…? ばばさまんとこの…? 」

そうよ~。 何年ぶりかしらぁ…?
スミレは天爵ばばさまの弟…妹って言った方がいいのか…本名庭田智明…ばばさまの代わりに対外的な仕事を引き受けている。

 「紫苑ちゃんがちゃんとメッセージを正しく受け取ったかどうか、確認して来いって…お姉ちゃまがさぁ…。 
それとぉ…おそくなったけどぉ…結婚祝いね…。 」

 紫苑ちゃん…ちょい抜けだからぁ…心配してんのよぉ…。
スミレはにっこり笑って、付き人に持たせてあるどでかいサンドビーズクッションを西沢に渡した。
ノエルちゃんが好きなもの…探したのよぉ…。

 「さすがにばばさま…名前までご存知なわけね…。
三宅を手許に置きたいって話でしょ…? それは三宅次第だけど…。 」

何か魂胆があるんじゃないの…? 西沢は小声で囁いた。

うふふ…とスミレは笑いながら西沢の耳元に顔を寄せた。

 「決まってるじゃねぇか…。 
この件に危惧を抱いているのはおまえたちだけじゃないんだぜ…。
ま…そのうちばばさまから直々に…な。 」

今日は…一也ちゃんを置いてくからぁ…お世話してあげてねぇ…。

 ころころと変わり身の早いこと…。
いつもながらスミレちゃんは…面白い…。 西沢は楽しげに笑った。

 お騒がせのスミレちゃんが姿を消すと三宅が呆然と姿を現した。
おやおや…ばばさまにすっかり骨抜かれたな…。

苦笑しながら西沢は三宅を部屋へと招きいれた。
 







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続・現世太極伝(第四十五話 艶かしい薔薇の香り)

2006-07-27 17:15:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 腹部に触れる指の感触がくすぐったくてノエルは笑いながら眼を覚ました。
さっきまで見えていた月も星も消えて見慣れた天井がぼんやりと見える…。

 「御腹…痛くないか…? 腰とかも…? 内股の辺に突っ張った感じとか…。」

 有の優しく問いかける声が聞こえた。
ノエルはうん…と頷いた。 何ともない…。

 「大丈夫だ…紫苑…。 大事ない…。 」

すぐ傍で心配そうに見つめる西沢に向かって有は言った。
西沢はほっとしたようにノエルの顔を覗きこんで軽くキスした。

 「暴れなかったよ…僕…。 」

 小さな声でノエルが言った。
そうだね…と西沢の手がノエルの頭を撫でた。

 「有難う…父さん…。 悪かったね…こんな時間に…。 
恭介…仕事で居ないもんで…。 」

 なあに…構わんよ…。 可愛いノエルと初孫ちゃんのためだ…。
そう言って有はノエルに微笑みかけた。
有難う…お父さん…とノエルもにっこりと微笑み返した。

 西沢に対して二言三言何か注意事項のようなことを伝えてから、それじゃ…お大事に…と有は引き上げていった。

 怒ってるかなぁ…? 玄関で有を見送って寝室へと戻ってきた西沢の顔色を探りながらノエルはちょっとどきどきしていた。

 「ごめんね…。 眠れなかったもんで…散歩したら眠れるかなぁって…。 」

ふうっと溜息をついて西沢はベッドに倒れこんだ。
 心配したよ…ノエル…。 寿命が縮まった…。
そっとノエルの御腹に手を当てて…愛しげに微笑んだ。 
おちびさんにも何事もなくてよかった…。
 
 何事もなくて…と西沢は言った。 
胸の内は複雑だった。 
 完全体かもしれない我が子…。
もし…そうだったら…どうすれば運命を回避できる…?
組み込まれたプログラムに対抗する手立ては…ないのか…?

 まだ…ほとんど形もできていない胎児の心が善か悪かなんてどうして分かる?
誰に判断できる…?
何が人違いだ…ふざけるなよ…HISTORIAN…大切な女房をおまえたちにいいように扱われて堪るか…。

 「怒ってるの…? 」

不安げな眼をしてノエルが訊いた。

 ちょっと考えごと…と西沢は答えた。
安心させるようにノエルをそっと抱き寄せた。 

 西沢の体温を感じ、西沢の鼓動を聞くとノエルはすごく落ち着いた気分になる。
西沢が生きてここに居るということがノエルにとっては最高の安定剤…。
ノエルにはまだ…だんだん弱まっていく西沢の鼓動と触れるたびに冷たくなっていく身体の記憶が生々しく残っている。

 何を毎日我儘ばかり言ってるのさ…ノエル。
あの時…胸が張り裂けるかと思うほどの苦しさを味わったことを思えば…いま身体が思うようにならないくらいなんだというんだ…。
ちょっと眠れないくらいがなんなんだよ…なんにもできない僕がやっと…紫苑さんの役に立てるというのに…。

 紫苑のため…というだけではだめなんだよ…きみが心から望むのでなければ…という有の忠告がノエルの脳裏に木霊した。
ああ…でもね…お父さん…紫苑さんのためだから産むんだよ…。
そうじゃなきゃ…こんなしんどいことなんか望まないよ…僕…男なんだから…。



 朝から支店回りに出かけていた智哉は急に思い立って西沢を訪ねた。
昨日電話で…相談事があるので近いうちに伺う…と言っていたのを思い出したからだった。
相談事なら…ノエルが店に出ていて留守の時の方が都合が良かろうと考え、自分から出向いてきたのだった。

 「申し訳ありません…。 僕の方から伺うつもりでしたのに…。 」

 西沢は驚きながらも嬉しそうな顔を見せた。
なにね…ちょっと出るついでがあったもんだから…と智哉は答えた。

 西沢は智哉のためにコーヒーを淹れながら、ノエルが散歩中に襲われた経緯をざっと説明した。

そして最も重要なこと…胎児が完全体であった場合に将来起こりうる問題についても。

 「人を…人を襲う可能性があるというのかね…? 」

 智哉は愕然とした。
本人の意思や意識とはまったく無関係に、ワクチン・プログラムの完全体を襲うかも知れない…。

 「覇者のプログラムが良い方に働けば…優れた統率者になる資質を持っていますが、度が過ぎると狂気の独裁者に変貌します。
何れにせよ…ワクチンの完全体とは相容れない…出会ってしまえばどうなるか分かりません。

 この世界にふたつのプログラムの完全体がどのくらい存在するものかは知りませんが…少なくともワクチンの方には元のプログラムを捜し出して除去するという使命があるわけですから…見つけ出す可能性は高いでしょう。

 HISTORIANには完全体だけはどうにか判別ができるようですが…僕等には…判別方法が分からないんです。
分かったとしても…プログラムをどう抑制したらいいのか…見当もつきません。

 ですが…ふと思いついたんです。
人に見えないものが判別できるお義父さんなら…何かよい方法を見つけられるのではないかと…。 」

 智哉は思わず唸り声を上げた。
確かに智哉はエナジーを物として捉えることができる。
 しかし…DNAとなると問題は別。 
扱う世界が小さ過ぎてとてもじゃないが…見えない。

 だが…オリジナルとワクチンの差異なら感覚として捉えられるかもしれない。
自信はないが…どちらか一方の完全体を把握しておけば…。

 「できれば…どちらかの完全体に会ってみたいのだが…。 」

 智哉の申し出に…分かりました…と西沢は頷いた。
三宅に会って貰えば…ワクチン系を把握できるかもしれない…。

 西沢はすぐに三宅に連絡を取り、後日の約束を取り付けた。
三宅の携帯が切れた時…ほんの一瞬どこかで薔薇の香りがしたような気がした。
輝のものではなく…もっと濃厚な…。
気の迷いか…。

 「あのなぁ…西沢さん…? 」

何か言いたげにしていた智哉が意を決したように口を開いた。
智哉の気遣わしい様子に気を取られて香りのことなどすぐに忘れてしまった。
 
 「孫ができたのは…私も嬉しいんだが…もし無事に産まれたとして…あいつに母親が務まるだろうか…? 」

 智哉の問いかけるような眼が西沢には痛かった。 
智哉の心配していることは…西沢が胸に秘めた決意そのものだから…。

 「子どもを置いて…ここを出るようなことには…ならんだろうか…? 
誤解せんで欲しいんだが…きみが追い出すという意味ではなく…あの馬鹿息子に女ができた場合の話しだよ…。 」

ふうっと息をついて西沢は悲しげに微笑んだ。
ないとは…言えません…と西沢は言った。

 「それも…覚悟の上で…僕のために子どもが欲しいというノエルの意思に従いました。
内緒で避妊していたのがばれちゃって…ノエルの気持ちをそれ以上傷つけたくなかったものですから…。
 以前…ノエルに好きな女性ができた時には…僕が身を引くとお話ししました。
それは今も変わりません。 その時が来たら…子どもは僕が育てます。 」

僕が…って智哉は一瞬言葉に詰まった。

 「きみ…ほんとに…それでいいのかね? 
あいつは脳天気だから他人事みたいに軽く考えているが…少なくとも親になった以上はノエルにもきみと同じだけ責任があるんだよ。 
子どものために…無理にでもここに留まれと言うべきではないのかね…? 」

 智哉は実の息子のことよりも西沢の気持ちが思い遣られて胸の痛くなるような気がした。

 「お義父さん…まだ…そうなると決まったわけじゃないですよ。
もしかしたら…ずっと僕を愛し続けてくれるかも知れないじゃないですか…? 
運がよければ生涯を共にできるかも知れない…。

 それに…ご存知でしょう…? 僕には浮気相手がたくさん居るんですよ。
ノエルが愛想尽かしても文句は言えません…。
自業自得ってもので…。 

もし…男として普通の家庭を持ちたいと思うのなら…そうすることがノエルの幸せです。
それはノエルが完全に16歳の自分から脱出した証拠で…決して…止めるべきじゃない…。 」

そう言って西沢はまた智哉に笑顔を見せた。

 僕の痛みなど問題じゃない…ノエルが本物の幸せを掴んでくれるなら…。
少なくともその時点で僕という存在は決して無意味ではなかったことになる…。

 それにノエルはとても素敵な贈り物を置いていってくれるんだし…。
それだけでも僕は幸運でしょう…?



 その女は目の前で三宅の携帯を切り…にっこり笑って三宅のポケットに返した。
濡れたような紅い唇が印象的で、全身から艶かしい気配を漂わせながらも、その目は鋭く有無を言わせぬ強さがあった。

 座らされたソファから身動きすら許されぬままに三宅の眼と心臓だけが忙しなく動いていた。

 何かがおかしくなるきっかけというのは…本当に些細なものかもしれない。
誰もが予想だにしないようなことがほんの小さなことから始まったりするものだ。
三宅にだってまさかこんな事態に陥るとは思っても居なかった。

 すべての呪文を解いて三宅はすっかり安心していた。
HISTORIAN自体は活動を続けてはいるものの…単なる協力者に過ぎない三宅は呪文を解いたその時点で半ばお払い箱状態…。

 ふいに襲われることもなくなって、須藤と田辺の下での修練は欠かさないが、気分的には随分と楽になっていた。 
あれから原稿取りに何のトラブルもなく、あの岩島でさえ特にどうというそぶりも見せなかった。
 
 先輩社員が急に腹痛を起こしたために、急遽、代理で原稿を取りに行った先は、その道では結構有名だという美貌の占い師の屋敷だった。
何でも時々大物の政治家や財界人なども利用するという噂で見料も半端じゃないという話だった。

 通された応接間のソファに座って待つこと20分…その女性は薔薇の香りと共に現れた。
年齢は不詳だが噂どおりの超美女だ。
お待たせしました…艶然と微笑んでみせるその姿に三宅はしばし見とれた。

 三宅に原稿の入ったカルトンを渡すと…使用人の運んできたお茶を勧めた。
勧められるままに飲んだ紅茶は主同様…甘い香りがした。

 「何故…呪文を解いたの…? 」

 突然…女性は鋭い目を向けた。
それを聞いて…三宅は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
見ず知らずの女性が何故…そのことを知っているのか…?

女性は無言で微笑み…ゆっくりと三宅に近付いてきた…。








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続・現世太極伝(第四十四話 完全体の胎児)

2006-07-25 23:35:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 三宅が遺跡にかけた呪文を解いたのは須藤の許へ修行に通うようになってしばらくしてからだった。
何年もの間HISTORIANに協力している手前、急にすべての呪文を解除してしまうことには躊躇いがあったのだが、磯見のような過激なタイプが現れたことでHISTORIANにもこの計画に戸惑いが生じていた。

 当初はわざと自分たちを襲わせて、前以て邪魔者の動きを封じておくのが目的だったが、自分たちが思っていた以上に煩わしいことになって辟易していた。
 その土地の能力者に協力を求めたのだが、誰が書いたものか、上から渡された文書の内容に宗教色が濃過ぎたためにかえって信用されなかった。

 ただでさえ手が足りないところに能力者タイプの発症者がわんさか現れでもしたら…それらと戦うだけで手一杯になって本来の目的である完全体の検出とその行動の抑制ができなくなってしまう…。
それでは困るというので、三宅が呪文を解除することに、あえて反対する声も聞かれなかった。

 西沢が発症者の潜在記憶の除去や発症前の潜在記憶保持者がみる夢の誘導の否定・拒絶などの対処方法を伝えたことによって、御使者や添田のようなエージェントたちが動き…これで妙な事件は表向きは治まると思われた。

 ノエルも亮もエスカレーターの上から突き落とされる心配はなくなり…三宅も敵の完全体が現れない限りは安心して過ごせる筈だった。

 「それで…磯見はその後どう…? 」

 久しぶりに電話をくれた金井としばらく何気ない会話を楽しんだ後、西沢は銃で撃たれたと聞いている磯見のことを訊ねた。
添田に聞けば分かることだったが…自分が御使者でない時間に会いたいとは思わなかった。

 『お~それそれ…そのことなんだけど…添田から聞いたかも知れんがあいつ惚けた状態でその筋のお方にえらく絡んじゃったのよ…。
それで一発喰らったらしいんだけど…幸い命に関わるような怪我じゃなくてな。
 いま…リハビリ中だ。
何だか知らんが…意識もはっきりしてきて…もとに戻ったぜ…。 』

 何が幸いするかわからんもんだ…と金井はしみじみ語った。
良好良好…と内心西沢は思った。添田が磯見の潜在記憶を消したに違いない。
少なくともこれまでに発症した者たちについてはほとんど応急処置が終わったと言って良いだろう。

みんな…お疲れさん…。 西沢は陰の功労者たちに向けてそっと手を合わせて呟いた。

 電話が切れた後…西沢は買い物に出かけるつもりで戸締りを始めた。
クリスマスの食卓を飾る料理の材料を調達するために…。
 クリスマスはノエルの誕生日でもある。
外食することも考えたが…このところ少しばかりノエルの体調がよくないので西沢が腕を振るうことにした。

 何処がどうというわけでもないのだが…暇さえあればうつらうつら眠っている。
学校とバイトふたつを掛け持ちしているから疲れが溜まっているのかもしれない。

 玄関の鍵をかけようとした時に…実家の店に居るはずのノエルがふらふらと戻ってきた。

 「どうしたの…? 」

西沢は心配そうな顔でノエルを見つめた。

 「何か…めちゃ気分悪い…。 昼飯…全然だめで…。 
親父が帰って休んどけって言うから…。 」

 西沢はそっとノエルの額に手を当てた。熱は無いようだった。
急いで部屋に連れ帰り、胃腸の具合も確かめたが特にどうということはない。
流感のひき始めかなぁ…とも思った。

 「恭介が帰ってきたら詳しく診てもらうから…ゆっくり寝てなさい。
何か食べられそうなら…作ってあげるから…言ってごらん…。 」

 何も欲しくない…とノエルは首を振った。
やれやれ…ご馳走はおあずけだね…。 可哀想に…誕生日なのにね…。
西沢はそう言ってノエルの頭を撫でた。

 「ごめんね…。 」

 そう言ってノエルはうとうとと眠り始めた。
もう一度そっと頭を撫でて西沢は部屋を後にした。

 

 結局…治療師滝川にも理由が分からないまま…ノエルは元気だったり、突如、気分が悪くなったりの繰り返しで新しい年を迎えた。
精神的なものかも知れないが、何処か本当に身体の具合が悪いといけないので、再び巡ってきた流星の見える夜にも大事をとってマンションの星空観測会には参加しなかった。

 観測会の翌日…写真家仲間との撮影会を終えて鼻歌交じりに部屋へ戻ってきた滝川は、居間でつらそうに蹲っているノエルを見つけた。 

 「ノエル…気持ち悪いのか…? 紫苑は…? 」

 紫苑さん…仕事中だから黙ってた…。 僕…今…早引けしてきたとこだし…。
滝川は急いで胃や腸の具合を調べたが、何処がどうということもなかった。
いつもより念入りに腹部を探って…あっ…と思わず声をあげた。

 「ノエル…ノエル…これ…悪阻かもしれないぜ…。 」

 悪阻…? 悪阻って…あの?
どうして…ノエルは怪訝そうな顔をした。
滝川はにっこり笑ってノエルの御腹の一部分を指差した。

 「どうしてって…ほら…ここに小さい紫苑くんがいるからさ…。 」

 小さい紫苑くん…? ええぇぇ~! うそぉ! これ…赤ちゃんなのぉ~?
ノエルは素っ頓狂な声をあげた。 

仕事部屋の扉が開いて何事かと西沢が飛び出してきた。

 「何…どうしたの? ノエル…また気持ち悪いのか? 」

赤ちゃんだって…。 どうしよう…紫苑さん…産んでもいい?
どうしていいか分からない…そんな頼りなさそうな眼で西沢を見上げた。
はぁ…? 何のこっちゃ…という顔で西沢は滝川を見た。

 「おめでとう…パパ…。 まさに奇跡だぜ…これは…。 信じられん…。 」

 ゴクッと唾を飲み込んで西沢は驚いたような…それでいて温かい笑顔をノエルに向けて頷いた。

 奇跡としか言いようのないノエルの懐妊はあちらこちらで驚きと喜びの声を以って迎えられたが…西沢は手放しに喜んでばかりはいられなかった。

 ノエルの身体で果たして出産まで無事過ごせるかどうか…。
西沢家の主治医飯島院長の診立てはどちらかと言えば悲観的だった。
ノエルの未熟な身体では懐妊したのが不思議なくらいで…到底…胎児は育たないだろうとの説明を受けた。
無邪気に喜んでいるノエルには聞かせられない話だ…。

 それだけでも十分頭が痛いのだが…三宅の事件は表向き治まっているように見えてもまだ解決を見たわけではない。
 再び事が起こって…御腹に子どもの居る無防備な状態で襲われたら、ノエルが如何に喧嘩強かろうと無事では済まない…。

 「いい…? 絶対暴れちゃだめだよ…。 喧嘩は禁止。
赤ちゃんとノエルと両方の命がかかってるんだ。
名折れだなんて言ってる場合じゃないんだからね…。 」

 もともと女性であるという自覚のないノエルに妊娠中の心得を理解させるのも、逆に自覚できないまま妊婦になってしまったノエルの気持ちを察するのも、男である西沢には至難の業…。

 御腹に子どもが居てもまるっきり他人事のように受け止めているノエルは、西沢を始め、滝川や有ら治療師の指示する…あれはだめこれはだめ…にうんざりして爆発寸前。
これで胎児が育って思うように身動きが取れなくなれば大噴火間違いなし…。

 苛々をつのらせるノエルの精神状態を気遣ううちに…西沢自身の慢性的な疲労感もどんどん強さを増していった。



 眠れない…。 隣で泥のように眠る西沢の顔を悲しそうに見つめながら呟く。
少しでも西沢に触れて貰えれば落ち着くかもしれないが、西沢がひどく疲れていることを知っているから起こすような我儘はできない。
 何度も寝返りを打つが眠れない…。
まだ安定期に入らないノエルの体調は思わしくなく、やたら神経の立っているノエルはこのところ寝つきが悪い。

 ノエルはベッドを抜け出ると着替えてふらふらと外へ出た。
少し歩いたら眠れるかもしれない。
そんなふうに思った。

 こんな日に限って…先生も居ないんだから…。
月明かりで外は結構明るかった。
さすがに外気は冷えたけれど…それもかえって気持ちよかった。

 公園のベンチでぼんやり月を眺めた。
亮んちのクッションの海なら眠れるかなぁ…。 
明日…でかいの1個借りてこようかな。

 そんなことを考えた時、不意に、誰かが背後から近付いてくる気配を感じた。
ノエルが立ち上がろうとすると気配は急いでノエルを押さえ込んだ。

 「なにすんだよ! 放せよ! 」

 喧嘩はだめ…という言葉がノエルの脳裏に浮かんだ。
どうしよう…暴れちゃいけないんだ…どうしよう…。

ノエルを押さえ込んでいる者の傍で、もうひとり男が何やらぶつぶつ言っている。
 完全体か…? 
分からん…さっきまでそんな気配だったが…。

ノエルは逃れようと腕に力を込めた。
 こいつ小さいくせに馬鹿力だ…。 調べる間…眠らせていいか…?
仕方あるまい…。

いきなりズンッと脳天を突き抜けるような衝撃を受けてノエルは気を失った。

ぐったりしたノエルの顔を傍に居た男が改めてまじまじと見た。
 完全体ではないようだ…だが…不味いな…人違いだったかも知れん…。
この子は…確か…ショーンのところの媒介能力者だ…。
以前…首座とショーンの対話に利用させて貰ったことがある。 

そうか…それは申し訳ないことをしたな…。
二度と間違えないように印をしておいた方がいい…。
男は何かノエルの身体に細工をした。

 「おまえたち何をしている! 」

 鋭い声が背後に響いた。
振り向くといつの間にか西沢がすぐ傍まで来ていた。
ショーンだ! ひとりが叫んだ。

 「ショーン…済まない…。 人違いだった。 悪気はないんだ。 」

HISTORIAN…か。

 「ノエルを放せ。 ノエルに何をした? 」

西沢は慌ててノエルの傍へ駆け寄った。勢いに押されて男たちは思わず退いた。
ぐったりしたノエルを西沢は抱きかかえた。

 「軽い衝撃を与えただけだ…。 怪我はない…。 完全体の気配がしたのだ…。
この子が…知らぬうちに他人の気配を媒介してしまったのかも知れん…。 」

 怪我はないようだったが…衝撃が胎児にどんな影響を与えたかは分からない。
怒りが込み上げて来るのをぐっと堪えた。

 「僕の周りの者に二度と手を出すな…。 今度はただじゃ済まさん…。
たとえHISTORIANでも手加減はしない…。 」

 去れ! 西沢は怒りに満ちた眼でふたりを見据えた。
西沢の怒気のボルテージがぐんぐん上がってくるのが感じられて、恐怖を覚えたふたりは急いでその場を立ち去った。

 西沢はそっとノエルを抱き上げた。
ふと…男たちの言葉を思い出した。 完全体の気配…? ノエルが…。
 いや…ノエルじゃない…。
西沢はノエルの御腹に眼を向けた。

この子か…。

西沢は思わず息をんだ。








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続・現世太極伝(第四十三話 ばれた…。)

2006-07-24 21:16:18 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 そのプログラムはすでにどこかに存在するのかも知れず…或いは今…母の胎内に宿りつつあるのかも知れず…逆に死の床を迎えようとしているのかも分からず…把握できないことに焦りは感じるものの…これと言って取っ掛かるものがない。

 特使西沢にしてみれば解決策のない状態は自分が無能であることを曝け出しているようなもの。
愉快なことではないが…それもまた致し方のないことだ。
御使者仲間には発症者への対処の仕方を知らせておいたから…少しは犠牲者も減るかも知れない。

 午後一番で…相庭に渡すはずの原稿をカルトンの中にしまいながら…西沢はふと玲人のことを思った。
ひと言の文句も言わず…西沢のためにもくもくと働いてくれている。
赤ん坊の時から兄弟のように親しく過ごしてきたのに…使用人だなんて…どうしてそんなことを…。

 カルトンをテーブルに置くと西沢は寝室の方へ向かった。
寝室の作り付けの棚の扉を開けると小さな箱を取り出した。
それはチョコレートか何かの箱で相当に古いものだった。

紫苑…ほら…内緒だよ…。

 養母から厳しく栄養管理をされ、無断での飲食を禁止されていた西沢にそっと差し入れてくれた物のひとつだった。
自分が父親から買って貰った菓子を秘かに西沢のポケットとかに入れてくれる。

 一度に食べちゃだめだよ…紫苑。
少しずつならばれない…食べたらすぐに歯を磨いちゃうんだ。

 父親の相庭は気付いていたんだろうが見て見ぬ振りをしていた。
怜雄や英武も養母に隠れてよく菓子などを分けてくれたが…彼等の場合には監視がついているのですぐにばれて取り上げられた。

相庭が知らん顔していてくれたから…玲人の菓子だけはいつも無事だったよな…。
箱を手にとって眺めながら西沢は思い出し笑いをした。

 僕の自己管理がなってないのは…あの頃の反動かもな…。
不摂生にそんな都合のよい理由付けをしておいて、西沢は箱を元の棚へ置こうとした。

 「何すか…それ? えらい古い箱じゃありませんか…。 」

 出し抜けに玲人の声がした。
おまえはぁ…鍵はいいからノックぐらいしろよな…。 心臓に悪い…。

 「おまえがくれた菓子の箱だよ…。 20年くらい前のさ…。
おまけが気に入ってたんで…とってあったんだ。 」

 へぇ~先生も物持ちがいいや…。 ま…差し上げた本人としちゃそこまで気に入って頂いて光栄と言えば光栄ですな…。

玲人は薄ら笑いを浮かべた。

 「感謝してるんだぜ…これでも…。 
おまえが傍に居てくれたから…嫌なこともやり過ごせたんだ。
 そうじゃなきゃ…あんなドレスだのリボンだの…絶対我慢できなかった…。
俺は女じゃねぇって…何度…爆発しかかったか…。 」

 紫苑…きみが男の子だって僕…分かってる…。
ちゃんと分かってるからね…。
 でも…お仕事だから…玲人のお人形でいてくれる…?
お人形になったつもりなら平気だろ…。

 玲人のお人形かぁ…。
いいよ…玲人のお人形に化けちゃう…。
それなら面白いかも…。

 「またまた…懐かしい話ですな…。 
よく…何とかごっごみたいにして…不機嫌な先生を慰めてましたっけ…。
我ながら知恵が回ったもんだ…。 」

 先生は…よせ…。 なんで…だよ…。 なんで普通に話さないんだ…。
玲人は使用人なんかじゃないよ…。 ずっと一緒に生きてきたんじゃないか…。
西沢が責めるような眼を向けた。

 「僕が何か…玲人を見下すようなことでもしたのかよ…? 
いつも偉そうな口きくから…気に障って怒ってんのか…? 
だったら謝るよ…。 そんな気はなかったけど…土下座でも何でもするよ…。 」

悲しげな眼で西沢が玲人を見つめた。

 「そうじゃない…そうじゃないよ…。 そんなことして欲しくなんかない! 」

玲人は思わず叫んだ。

分かってよ…少しは…。
喉まででかかった言葉を飲み込む…。 
紫苑には…ノエルが居る…恭介も…輝も…僕なんかもう…必要ないんだよ…。

 幼い時とは違う…。
傍に居たら…我慢できない…。
僕という人間の存在を拒絶されるのが…怖いんだ…。
何も言えずに俯いたまま…飲み込んだ言葉を腹に収めた。

 玲人…どうしたって…思えないよ…。
大好きな玲人のこと…使用人だなんて…考えられないよ…。

大好き…って…おまえは…よくそういうこと恥かしげもなく言うよ…。

 ふいに西沢の大きな身体が玲人を抱きしめた。
西沢に他意はなかったが…玲人にとっては起爆剤…。

ちょっと待て…それはまずいだろ…。

玲人は身をよじって何とか紫苑に背中を向けた。
西沢は思わず手を離した。

えっ…ええっ…?

いい加減気付けよ…鈍感。

 「玲人…おまえ…? 」

 下唇を噛み締めた玲人の頬が染まった。
そっかぁ…そういうことかぁ…。 西沢はほっとしたような笑みを浮かべた。
あはは…そうかぁ…。

 「笑いごっちゃねぇよ…。 」

玲人はへの字口で西沢を睨んだ。

 「迷惑だって言えよ…。 担当外れてやるから…。 
そうすりゃ…これまでみたいに親父がここへ来るよ…。 
その方がいいだろ…? 」

 それ…本気かぁ…玲人? つまんねぇこと言うなよな…。
せっかく遊び相手が増えようって時に…さ。
やたら楽しそうに西沢は言った。

遊びじゃねぇよ! 馬鹿にすんな!
玲人が怒鳴った。

 「じゃ…逃げんなよ。 ずっと傍に居ろよ…。
紫苑なんか飽き飽きした…もういらねぇって思うまで…ずっと…だ…。
もっとも…超浮気性の紫苑の傍でよけりゃ…の話だけど…。 」

おまえってばさ…。 言ってることが分かってんのか…?
呆れたような眼で玲人が西沢を見つめた。
勿論…と西沢は答えた。

ほんと…底抜けのお人好しだよな…。

西沢はにやっと笑った。
なあに…多趣味なだけで…ございまっさ…。



 人間には四つの性があると思っている…それは西沢がノエルに語って聞かせた持論だったが…今は…四つとは断定しきれないとも考えている。
 男女の他に両性と無性を加えて四つと考えていたのだが…人間の性というのはなかなか複雑で…それだけに止まらないような気もする。

 食と性とは人間が存在する上で避けては通れない本能的な欲望だが、本能ならば他の動物と同様…自然の物をそのまま食して…雄と雌で愛し合えば良いものを…人間だけはそうもいかないようで…実に多様。

 それでもそのすべてに…意味があるのだと西沢は思う。
気が多いだけじゃないかと言われりゃそれまでなんだが…。

 ま…いいじゃないか…楽しけりゃ…。
難しい理論はさておいて…お互いが満足ならそれでよし…さ。

 シャワーを浴びて…キッチンで水を飲んでいると玄関でノエルの声がした。
お帰り…と西沢は声を掛けた。
にやにや笑いながらノエルは西沢の腕を取った。

 「浮気したね…紫苑さん…。 この気配は玲人さん…だ。 」

 まあね…と西沢は笑った。
ねえ…玲人さん…どっちタイプ? 小さな声でノエルは訊いた。

 どっち…って僕を捕まえてそういうこと訊く…?
あ…ネコね…。

 てか…玲人初めてだから…さ。
えぇ~意外…紫苑さん今まで何してたの?

 何って言われても…そういう関係じゃなかったもんで…。
えぇ~それも意外…。
   
…どういう意味かな?

 不意に消え入りそうに身を縮めながら玲人が寝室から飛び出してきた。
そのままものも言わずに真っ直ぐ浴室へ飛び込んだ。

 やがてきっちりいつもの顔をして戻ってきた。
仕事部屋からカルトンを抱えて…。

 「何…今頃…カチカチになってんだよ…? 」

冷えた天然水の入ったコップを差し出しながら西沢が言った。

 何って…分かんないけど…。 玲人は一気に水を飲み干した。
思いっきりやばい夢見てたような気がしてさ…ぶるってるわけ…。

 「グラビア・アイドル系の奥さんに浮気ばれないといいね。 」

ノエルが冗談っぽくそう言って笑った。

 そいつはいいんだけど…何か…はまりそうで…。
クスッと西沢が笑った。
 はまってもいいけど…輝には気をつけろ…意地悪されるぞ…。 なっ…ノエル?
そうそう…怖いよ…輝さんの苛めは…。

脅かさないでくれる…。
いいよなぁ…ノエル坊やはやきもちを焼かないのか…。
 
 えへへ…日頃の行いが悪過ぎて…焼くに焼けません…。
それに…紫苑さんは優しいし…すごく大切にしてくれるもん…。

 「はいはい…御馳走さんでした…。 のろけ聞かされてんのもあほらしいから仕事に戻るわ…。 」

 そう言いながら玲人はふたりに背を向けた…。
紫苑…有難うな…。 玲人は昔のままの声で西沢に声を掛けた。
使用人やめて…同僚くらいには…なろうかな…。

そんなことを言いながら…いつものように飄々と去って行った。 

玄関の鍵を開けたままで…。







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続・現世太極伝(第四十二話 歯痒い…。)

2006-07-23 17:05:42 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 家族の命…それを聞いてから三宅が妙に落ち着かなくなった。
三宅はこの件で実際に恋人美咲を失っているから、その言葉はまさに現実のものとして生々しい痛みを思い起こさせる。

 「僕等能力者を誤魔化せても…敵のセンサーは誤魔化せない。
相手はわざわざ力を使っているわけじゃない。 
本能で分かるんだ…敵か味方か…それとも無視していい存在か…が。

 何故ならその業使いは完全なワクチン・プログラムの集合体で、潜在記憶保持者にとっては最大の敵…何としても排除すべき相手だから…。

 今…僕等の周りをうろうろしている連中は不完全体だから…何とか回避しようと思えばできるだろうが…もし…完全体ならばおそらくは逃げられないだろう。
 お互いがあまりにも完全すぎて…磁石の両極のように引き合ってしまうんだ。
もし…運悪く出会ってしまったら戦って勝つしか生き残る道はない…。 」

 厄介な話だわ…と田辺が呟いた。
戦いを運命付けられてしまった業使い…ってことよね?

 再び西沢が頷いた。
そう言えるかも知れないが種を蒔いたのは彼自身だ。

 「しかも…その業使いにあるのは自分の持っている力だけで、他に自分を護る手立ては何もない…が相手は違う。
完全体なら国を動かせるほどの組織力や政治力を持っている可能性が高い。
国家的な要人と考えても差し支えない…この国の…とは限らないが…。

 そんな人物を相手にして勝てると思うか…?

 僕等には元のプログラムの完全体の存在はまだ確認できていない…。
今現在この世に居る者なのか…過去に居た者なのか…これから生まれてくる者なのか…それすらも分からない。
多分…その業使いにしても同じことだろう。 」

 敵と出会ってしまう前に急いでその人を捜し出さなければなりませんねぇ…。
何とかしなければ命に関わる…。
そこまで言って須藤は、はて…と首を傾げた。

 「先程から伺っていると…西沢先生…先生は三宅くんに向かって話しておられるように思われますが…まさか…。 」

戸惑ったような視線が三宅に向けられた。
三宅の顔は真っ青だった。

 「紫苑さん…それは違うよ…。 
だって…もし…遺跡に細工したのが三宅だったら…美咲を死なせたのも三宅だということになっちゃうよ。 」

 有り得ない…とノエルは思った。
三宅はあんなに美咲の死を悲しんでいたのに…。
美咲の撮った写真のファイルを手にとぼとぼと帰っていく寂しげな三宅の背中を…ノエルは思い出していた。

 「若気の至りというやつか…自分のしようとしていることが、後々どんな結果を招くかなんて…まったく考えてもみなかったんだろう。
自分自身で思いついたのか…誰かに誘導されたのかは知らないが…大それたことをしたものだ…。 」

溜息混じりに滝川が言った。

 「でも…三宅の業使いは須藤さんで最後のはずだわ。 呪文使いの血が滅びたと言われたのは先々代の亡くなった頃よ…。
呪文自体がすでに三宅には伝わっていないんだから…この子が呪文を使えるとは思えないんだけれど…。 」

 田辺が怪訝そうに三宅を見た。
三宅は俯いたまま…黙り込んでいた。
言葉のかけようもなくて誰も声を出さない。

 三宅が自発的に話し出すのを待っているのか…西沢も何も言わない。
重苦しい空気が部屋中を包んだ。

 「三宅くん…僕の母の命を無駄にしないでくれる? 」

突然…それまで黙っていた亮が強い口調で言った。
三宅がはっとしたように亮を見た。

 「きみが命を落とすようなことになったら…僕の母は何のために死んだんだ?」

 縁も所縁もない三宅を庇って逝った母…。 
無駄死にさせてたまるか…と亮は思った。

 

 「僕は…ほとんど独学で呪文を学びました。 」

三宅はぼそぼそとそう語り始めた。
再びみんなの視線が三宅に集まった。
 
 「小学生の時に曽祖父が書いたと思われる覚書のようなものを見つけたのです。
多分…曽祖父が呪文を習った頃に書いたものでしょう。
最初は興味本位に覚えました。

 古代史に興味を覚え、古文書が読めるようになった頃にようやく三宅の家が使命を帯びた家系であることを知りました。
自分が呪文使いであることを意識し始めたのはそれからです。
それでもHISTORIANに声をかけられるまでは…ただの夢物語のように捉えていたのです。

 HISTORIANが僕に近付いたのは実際には15くらいの時でした。
呪文の力で世界平和に貢献しないか…と誘われたのです。 」

 まだ世間を知らない真面目な中学生だった三宅は世界の平和と秩序を護るというHISTORIANの使命感に夢中になった。
秘密めいたその組織はとても魅力的に思えて…それほど詳しいことを知らされないままに訓練を受け…奉仕活動のようなことをした。

 HISTORIANとしては三宅を組織員にするつもりはなく、おそらくは三宅の持つ呪文使いとしての力を利用するだけのつもりだったのだろう。
声をかけられてから数年経っても相変わらず協力者の立場のままで…決して要員とは見做されなかった。

 去年の夏頃に幹部からある計画を打ち明けられた。
それまで部外者扱いだった三宅は重要な計画に参加を要請されたことでHISTORIANに自分の存在価値を認められたと感じた。

 それは三宅の呪文能力で何処か人の集まる場所に細工をし、潜在記憶保持者を炙り出してその不要な記憶を消去するというものだった。

 どこに居るかもわからない、いつ発症するかも分からない連中をこちらから誘き寄せて一網打尽にすれば…HISTORIANとしては何か重要なことが起きた場合に、背後から襲われる危険性を前以て排除できる。 
 
 遺跡に決めたのは巨石お宅の三宅が地理的に把握している場所が多いし、そこで何か不思議な現象が起きても誰も懐疑の目を向けないだろうと考えたからだった。
人数的に限られたそうした場所で成功したら…今度はさらに人の多い場所をターゲットにするつもりでいた。
例えば…観光地の神社・仏閣などを中心に…。

 まず最初に上手く呪文が効くかどうか…をサラリーマンなどがよく昼休みに集まる公園で試した。
数人が反応を示したが…実際に発症したのはひとりだけだった。

 いけそうだ…というのでその後にいくつかの遺跡に細工をした。
使われた呪文使いは三宅だけではなかったのだろう…海外についてはまったく覚えがないという。
HISITORIANは各国チームごとに三宅のように細工できる者を擁しているのかもしれない。

 「美咲が…あんなことになるとは思っても見ませんでした。
僕等はいつものようにデート代わりに遺跡探訪に出かけただけで…美咲も面白がって写真を撮っていたんです…。
 呪文をかけたのは潜在記憶を消すのが目的で…殺すためじゃない…。
それなのに…僕の呪文は…恋人の命を奪ってしまった…。 」

 美咲の葬儀で高校時代の友人たちが葬儀に参列していたノエルを見かけた。
元カレのノエルが美咲の死に疑問を持ってるから…美咲を突き落としたと思われないように気をつけろ…と三宅に忠告した。
友だちは冗談で言ったのだろうが、後ろめたいところのある三宅は真に受けた。

 「高木に近付いて…僕は恋人を亡くした被害者を装いました。
美咲を失ってどうしようもなく悲しくつらい気持ちは本物だけど…僕が美咲の死の原因を作ったのも事実です。
もう…どうしていいかも分からず…でも…美咲の元カレだった高木の眼だけは逸らさなければならないと思いました…。 」

 三宅はそう言ってノエルの居る方に眼を向けた。
物凄く複雑そうなノエルの顔が見えた。

 上手くノエルの意識を美咲の撮った写真の方へ向けさせた三宅は…これで少なくとも三宅自身に眼を向けるものは居なくなったと思っていた。
 ところが如何なる運命の悪戯か…少しでも元カレのノエルから離れようとする三宅の思惑に反して、三宅の周りで立て続けに起こった事件はすべてノエルに身近な人物が関係していた。

 お蔭でいつまで経ってもノエルの眼からは逃れられない。
そればかりか…三宅の知らないところでHISTORIANまでがノエルの媒介能力を利用していた。

 「戦闘系の能力者が発症して暴れだした段階で…ことはそんなに甘くはないんだと気付かされました。
僕は呪文を使うことはできるけど…戦い方を知りません。
何度か襲われて…そのたびに亮くんのお母さんやノエルや…居合わせた人たちに運よく助けられてきました。 」

えっ…と驚いたような声が上がった。

 「きみにそんなことをさせておいて…HISTORIANはきみを護ってはくれないのかい…? 」

滝川が不思議そうに訊いた。
三宅は無言で頷いた。

そんな…馬鹿なこと…とみんなは顔を見合わせた。

 「そんなことだろうと思っていた…。 
ワクチン・プログラムとしては完全体でも三宅くんは言わば別の組織に生まれた子どもだ…。
HISTORIANにとっては協力者であっても仲間ではないし…使い捨てにしてどうという存在ではない。

 彼等が真剣に考えなければならないのは…国の上層部の人たちのことで…下々は自分たちで何とかしてくれって話…。
いざとなったら長々ご協力有難うございました…手が足りないんでほかっといてご免ね…くらいのことさ…。 」

西沢が淡々と言った。

 ひでぇ…とノエルが叫んだ。
恋人まで死なせちまったってのにその扱いかよ…。
 
 「僕は…正式な組織員ではないんだ…。 それに…今は本当に手が足りないんだよ…。 
世界中のあっちこっちで紛争の火の手が上がるたびに巻き込まれて、HISTORIANの組織員はどんどん命を落としているんだ。 
そんな中で護ってくれなんて言えやしない…。 」

三宅は項垂れながら呟くように言った。
 
 「問題はね…。 利用されるだけされてほかされた場合…HISTORIANからはうちの者じゃありません…って知らん顔されるのはいいとしても…敵はそうは思わないってことなんだよ。

 敵はあくまできみを組織の一員と考える。
たとえHISTORIANとの付き合いがまったくなくなっていたとしても…きみが攻撃対象になることは避けられないんだ。
ただでさえ…攻撃目標の完全体なのにね…。

それは敵と見做されてしまった者たち全員に言えることで…僕はいまその解決策に四苦八苦しているところ…。 」

西沢は溜息をつきながら肩を竦めた。

 「須藤先生…田辺先生…。 ご面倒をお掛けして誠に申し訳ないのですが…この子に呪文使いの戦い方を伝授して頂けないでしょうか…?
この子には相当な力があると思われますが…自己流のいい加減な業は自分だけでなく他人をも危険に晒すことになりますから…。

 少なくとも自分の身を護れるようにならなければ…普通の能力者からさえ逃げ延びることもかなわないでしょう…。 」

 西沢がふたりに依頼すると業使いたちは快く引き受けた。
以前には三宅の幸せを思って伝授を躊躇っていた須藤も…こうなっては同族としてすべてを伝授することが義務だと考えるに至った。

 これで…ひとつだけは区切りが付いた…。 玲人の地道な調査の賜物だな…と西沢は思った。
後は…どんどん増える犠牲者の救済と…オリジナル・プログラムの完全体の存在確認…これが厄介…。

 まだ…雲の上の人になっていなければいいけれど…そうなっていたら…もはや僕の手には届かない…。
あのHISTORIANに任せっぱなしというのも…歯痒い話だけど…。

 全体として動きが鈍くじれったい上に…ほとんど先の見えない問題を解決していくことに…さすがの西沢も慢性的な疲れを感じ始めていた。







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続・現世太極伝(第四十一話 謎の業使い)

2006-07-21 21:35:55 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 案の定…玲人が西沢の熱を下げたことについて滝川はいい顔をしなかった。
夕刻になって再び熱の上がり始めた西沢の治療をしながらぶつぶつと文句を並べていた。
 簡単に下げたりしたら逆に長引くんだよ…。
頃合いってものがあるんだから…。

 「そう言うなよ…。 悪気はないんだ…。
玲人は…僕がつらそうにしてたんで…楽にさせたかっただけさ…。 」

病人に文句を言っても仕方がないので、滝川もそれ以上は何も言わなかった。

 ノエルがガラスの水差しに氷水を満たしてきた。
心配そうに覗き込むノエルの頭をくしゃくしゃっと撫でて、大丈夫だよ…と西沢は笑った。
 
 「ごめんね…紫苑さん…。 僕が何もできないから…紫苑さんに負担かけてばかりで…。 疲れちゃったんだね…。 
何もかんも亭主にやらせる馬鹿が何処に居るんだって…親父に怒鳴られた…。 」

 何言ってんの…慌てて脇から滝川が口を出した。 
ノエルのせいなんかじゃないんだから…。

 「親父さんに何言われたんだか知らないけれど気にしなくたっていいよ。
紫苑は昔から自己管理がなってないんだ。
不摂生で年に何度かはぶっ倒れる…年中行事みたいなもんだ。
 ここんとこちゃんと食事摂れてるから貧血で病院行きはなくなったけどな。
それだって…ノエルのお蔭だぜ…。 」

 事故以来…ノエルは父親の言葉に過敏に反応する。
全然気にしていないように見えて、実際にはひどく傷ついていたりするので要注意…。
下手するとせっかく治りかけている自虐行為が復活してしまう…。

 「ノエル…僕の生活は今までと全然変わってないんだから…ノエルのせいなんかじゃないってことくらい分かるだろう…?
風邪だよ…。 心配ないよ…。 」

 どうということもないただの発熱なのに、なぜかやたら不安がるノエルを見て、西沢はノエルの症状が悪化するのではないかと気が気ではなかった。
見た目は変わりないようだったけれど…。



 世界中で燻っている火種は少しずつその勢いを増し始めている。
和平を口にしたそばから銃弾が飛び交い…日に何十何百の人が命を落とす。
彼等は何のために殺されなければならなかったのか…?
指導者でもない兵士でもない…ただ毎日を懸命に生きているだけの人々…。

 価値観の相違とは超えられない壁なのか…?
受け入れるとか認めるとかが不可能だとしても許容できないものなのか…?
 いくら問題解決に奔走しても相手にこちら側の価値観を押し付けているだけでは解決にはならない。反感を買うだけだ。
  
 「女性のスカーフ一枚のことでも生きる死ぬの問題に発展する国だってあるんだからな…。
爆弾落としてテロリスト叩けば済むって問題じゃないんだよ…。
その後こそにデリケートな課題山積ってわけで…。 

 どちらも相手の価値観を尊重しようとは思ってないから…何処まで行っても平行線…交わる時にはまたドンパチが始まるってことだ…。 
調停する側も調停される側も自国の利益を最優先したいのが本音だしな…。」

 まあ…親しい仲でも相容れないことはいくらでもあるから…。
まして…国と国なら背負ってるものも複雑だから…なかなか上手くはいかんだろうな…。

 焦げすぎのトーストを軽くスプーンで削って…西沢も滝川もたっぷりとマーガリンを塗り…ひと口ごとにコーヒーで飲み下した。

 ノエルはふたりの様子を伺いながら…自分もバキバキのトーストを齧った。
目の前にはトマトと胡瓜のサラダ…胡瓜のトマト和えと言った方が当たっているかも知れないが…と目玉のなくなった扇形の目玉焼きが並んでいた。

 智哉に怒られたせいか…ノエルは何とか早起きして朝食の用意をしてみた。
お世辞にもおいしそうには見えないけれど…西沢も滝川も文句ひとつ言わないで食べている。
 
 「目玉焼き…醤油と…ソースと…塩…マヨネーズ…どれが一番かな…。 」

何気なく滝川が言った。
 醤油が好きだけど…ソースも悪くないなぁ…と西沢が答えた。
僕も醤油だな…滝川は言った。

あ…僕…カレーが好き…。

カレー…? 
学食でさ…インデアン・スパに目玉付いてくるんだ…。
  
お~それ今度やってみよう…。 

 他愛のない会話でも楽しけりゃどんな食事も美味しく頂ける。
パンが焦げ過ぎていようがトマトが潰れていようがそんなことは問題じゃない。

 西沢家の離れの部屋でひとりだけ…家族と離れて食べる食事の味気なさ…。
どれほど手の込んだ豪華な料理でも西沢家のペット紫苑にとって…それは餌みたいなものだった。
 何年も何年も…。
どんな腕っこきの料理人がこさえても餌は餌…ノエルの崩れた目玉焼きの方がずっと美味しい。

 西沢の養母は西沢を娘だと思っているようなところがあって、中学まで女装を強要していただけでなく料理などの家事をも教え込んだ。
 西沢自身も高級な餌を食べたくない一心で料理を覚えた。
少なくとも自分で作ったものだけは餌じゃない…そう思えたから…。

 滝川はまだ駆け出しの頃…経済的に支えてくれた妻のために…せめて食事ぐらいは…と作り始めた。
滅茶苦茶下手くそな料理でも…和は喜んで食ってくれたからな…。
 恭介…これめちゃ美味しいわ…おかわりしたいなぁ…なんて言われると、おっしゃぁ…また作ったるわ…なんて…その気になっちゃったりしてな…。
 滝川がすっかり腕を上げた時には…もはやどんな料理も食べられなくなっていた。
ごめんな…和…いい思いさせてやれなかった…。
何年経っても和を思うたびに胸は疼く。

 だから…いいんだよ…ノエル…美味くったって不味くったって…きみが一生懸命作ってくれたものに誰も文句なんか言わないよ…。
だって…僕等にとって一番のご馳走は…そこにきみが居ることなんだから…。
 


 霙雑じりの雨がアスファルトを濡らしている。
雪になるか…と…重たそうな空を見上げながら須藤は思った。
来客用の外の駐車場から西沢のマンションへは細い道路一本渡るだけだが、シャーベット状にぬかるんだ道が実に気持ち悪い。
正面玄関に置かれた靴拭いで丹念に靴を拭った。

 エレベーターを降りてすぐ301号室への案内を間違えないように確認する。
部屋同士が番号順に横並びになっていないから、ひとつ間違えたら全然違う部屋にたどり着くことになる。 

 玄関の扉の前で須藤は三宅に出会った。
三宅は丁寧に挨拶しながらこの前襲われた時に助けて貰った礼を述べた。
三宅とは遠い親戚だが実際に会うのはこれが二回目だ。

ふたりの後ろからぜいぜい息を切らしながら小奇麗な女の人が近付いてきた。
 
 「あのぉ…301号はここで宜しいのでしょうか? 
いまさっき…階段を間違えたらしくて303号へ行ってしまって…。 」

田辺先生…と三宅は驚いたように言った。

 「あら…三宅くんだったの…。 」

こちらは…と三宅は須藤、田辺それぞれを紹介した。

 玄関の扉が開いて中から西沢が顔を出した。
ようこそ…と言いながら三人を部屋へと招きいれた。

 居間には滝川と亮…キッチンの方にノエルが居た。
それぞれが軽く挨拶と紹介を済ますと西沢が三人にわざわざ足を運んでもらった詫びを述べた。
外でできる話ではないので…と…。

 「亮…元気にしてるの…? たまには顔を見せなさい…。 
お祖父さまも心配してるわ…。 」

 田辺は甥である亮を気遣った。
うん…大丈夫だよ…何とかやってるからさ…亮はそんな当たり障りの無い言葉で誤魔化しておいた。
もともと居なかった人だから…なんてことは嫌味みたいで言えない。

 ノエルがコーヒーを運んできた。
久しぶりにノエルの表情を見て須藤は何となく以前と変わったように感じた。
 何処がと言われても説明のしようがないのだが…。
態度だけは相変わらずなので思い過ごしかとも思った。

 「それで…西沢先生…お話しとは…? 」

 田辺が最初に切り出した。 
みんなの目が一斉に西沢に向けられた。

 「三宅くんを襲っている連中について…いろいろ調べてみたのですが…彼等の発症の引き金となった古代遺跡には人為的に潜在記憶を呼び起こさせる細工がなされてあったのです。
それもここ一年~二年くらいの間に仕込まれたものでした。

 それを細工したのは相当に力のある業使いで…しかもかなり遺跡に詳しい人物だということが分かりました。
海外にまで力を及ぼすことができるほどの大きな力を持っている業使いです。
どなたか…お心当たりの方をご存知ないでしょうか? 」

 三人は顔を見合わせた。
海外にまでか…と須藤が呟いた。

 「力のある業使いのことなら…父か兄に聞けば分かるかもしれないけれど…遺跡に詳しいかどうかは…あのふたりにも分からないと思うわ。 」

田辺が自信なさげに言った。

 「私は家門から離れているので…自分以外の業使いについてはあまり知らないんですが…その業使いはこの辺りに住んでいるのですかな…? 」

須藤がそう訊ねると、西沢は…そう考えていいと思います…と答えた。

 「この地域のある公園で細工を試した痕跡があるのです。
特に有名な公園でもないので他の土地から来てわざわざ細工してみるなんてことはしないと思います。
 せいぜい…この地域か周辺の県…県の範囲までいくかどうか…。
勿論…通りすがりに試したということも考えられなくは有りませんが…ね。 」
 
 う~んとふたりの業使いは唸った。
心当たりと言われてもなぁ…。

 「三宅くんは…どう…? 」

西沢はまるで蚊帳の外と言った観の三宅に振った。

 「えっ…僕ですかぁ…? いやあ…業使いなんてまったく…知らないですね。」

業使いなんて…僕が知るわけないじゃないか…とでも言いたげな口調だった。

 「ことは急を要します。 このまま行くとその業使いはとんでもない相手と戦わざるを得ないことになります。
とてもひとりで戦って敵う相手では有りません。
下手をすれば本人だけでなく家族までを巻き込んで…跡形もなく存在すらもしなかったように消されてしまう可能性があります。

 知らん顔して放っておけばいいことかもしれませんが…何人もの同族がすでに巻き込まれています…。
全国的に見ればかなりの能力者が巻き込まれているでしょう…。
その業使いの家族ではないにせよ…巻き込まれた能力者たちの命だって成り行きでどうなるか分かったものではない。
放っておくわけにはいかないのです…。 」

 三宅の顔色が変わった。 家族の…命…。 西沢の顔を見つめた。
そうだ…と言うように西沢は頷いた。

自分だけでは…済まないんだよ…。
三宅を見つめ返すその目がそう語っていた…。









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続・現世太極伝(第四十話 忘れてください…。)

2006-07-19 18:30:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 こうしちゃ居られないと気ばかりは焦るものの…熱は容易にはひかなかった。
西沢が寝込むのは大概、蓄積された疲労で体力が限界にきている時だから、自分自身にヒーリングの力があっても魔法のように一瞬で治すというわけにはいかない。

 ひとりで暮らしていた頃のように貧血や脱水で病院へ運ばれないだけまだましかなぁ…とぼんやり思った。
ノエルがせっかく作ってくれたおじやだから少しは手をつけたものの…これがひとりだったら水も飲まないでいるかもしれない。

 考えてみれば…今はノエルや滝川が同居しているお蔭で病院通いをしなくて済んでいるようなものだ。

自己管理…苦手なんだよね…。

働くだけ働いてばったりいくのがいつものパターンで…時々相庭が覗いてくれなかったらとっくに死んでたかも…。

 「おやおや…またですか…? 」

噂をすれば…玲人だ…。 玄関の鍵を何重にしようと意味がない…。
相庭の代わりに原稿を受け取りに来たか…。

 「イラストはカルトンの中だ…。 勝手に持ってって…。 」

 西沢は愛想なく言った。 声を出すだけで息が切れる。
玲人は西沢の枕元に近付くとそっと西沢の額に触れた。

 「う~ん…きてますねぇ…。 ひょっとすると39度行ってるかも…。
気持ち…下げときましょう…。 」

 止せ…お前はヒーラーじゃないだろう…!
性質の悪い風邪だったらうつるから…玲人…止せ!

大丈夫ですってば…先生…ちょっと失礼…。

 玲人は身を屈めてそっと西沢にキスをした。
濡れた体表面から水分が蒸発する時のようなスーッとした感覚が重ねられた唇の辺りから全身に広がった。
 鉛のように重たかった身体が少し楽になった。
荒かった呼吸も穏やかさを取り戻した。

こんなところかな…。 2度ほど…下げましたけど…。

 玲人はにっこり笑った。
西沢はすねたように唇をへの字にまげて何も言わなかった。

 「怒っちゃいました…? 何か…悲しいなぁ…。 
もう…先生ったら…滝川先生がキスしても怒らないくせに…えこ贔屓なんだから。
熱下げただけっすよぉ…。 」

余計上がるわ…! 西沢は胸の中で呟いた。

 「ま…いっか…それはおいといて…と。 
例の公園…添田が白昼夢を見たという公園を調べてみました。
やはり…細工の痕跡がありますね…。 

 ということはつまり…遺跡の方も人為的な細工と考えられるわけで…。
しかも…最近っすね…。 
 遺跡とは違って人通りの多いところっすから…もし昔からのものなら…とっくに犠牲者が大勢出ているはずですが…それほどはいってないんで…。 」

 人為的か…。 誰が…何の為に…ってことだな…。
あ…すげぇ…楽になってきた…動いても眼…回んないし…。

 西沢は半身を起こした。
玲人がすかさず西沢の背中の辺りに背もたれ用のクッションを置いた。

 「玲人…ただひとり生き残った男が…不特定多数の敵と戦う使命を帯びていた場合…どう動くと思う…? 」

そうですねぇ…こちらから出向いたんじゃ埒があかないから…まとめて誘き出す作戦に出ますか…。

 「案外…そんなとこかも知れん。 その誰かは…そのために細工をした…。 」

相当な使い手ですぜ…海外の遺跡にまで力を及ぼしたとなると…。

 「玲人…。」

 耳を貸せ…というように西沢は手招いた。
はい…と玲人は再び身体を屈めた。

 不意に西沢の両腕が玲人を後ろ手にねじ伏せた。
痛っ! 玲人の仰け反った喉から思わず声が漏れた。

 「キスは気分のいい時にしようぜ…。
あんまり舐めたことすると…やっちゃうよ…。 」

 ギブ・アップ! ギブ・アップってば…先生! 
もう悪戯しません…て…勘弁してよ…。

 くすくすっと笑いながら西沢は手を離した。
気分よくなっちゃった…。 

 「紫苑…熱下げただけなんだからね。 大人しく寝てないと治らないよ…。 」

 じっとそのままの姿勢で玲人が言った。
西沢の手が玲人の頬をなぞった。

 「そうやって…昔みたいに普通に話してくれればいいのに…。
どうして…妙な話し方ばかりするんだよ…? 」

 相庭家は裁きの一族には違いないけど…主流との血の繋がりはないんだ…。
ずっと本家にお仕えしてきた立場だから…。
 代々執事や乳母を出している家の血族…その縁で主流の血を引く紫苑に仕えることになった。
今の僕は…紫苑にとって使用人みたいなものさ…。
玲人は僅かに寂しげな笑みを浮かべた。

 「玲人…おまえ…僕の兄貴じゃなかったのか…?
ほんの少し生まれ月が早いからって…ずっと僕を庇ってきてくれたじゃないか…。
 赤ん坊の時から兄弟みたいに育ったんだぜ…。
怜雄や英武より…近くに居たのに…使用人だなんて有り得ねぇ…。 」

 仕方ないんだよ…決まりだから…。
玲人の大切なお人形さんを護るためなら…玲人はそれで構わない…。

 「紫苑…。 」 

 頬に触れる紫苑の手…その手を引いて仕事先から仕事先へどれほど歩いたことか…。
ふらっと家出してしまう紫苑…この手を捕まえて何度西沢家へ連れ戻したか…。
紫苑は玲人を裏切者とは言わなかった…玲人の仕事と割り切ってくれた…。

 「使用人だなんて…絶対思わないからな…。 今でも僕は玲人を頼ってる…。 
相庭は…養父や実父以上に僕の父親だったし…おまえだって実の兄弟以上だ…。」

 綺麗ごとだ…紫苑…おまえは優しくて残酷…。 兄弟…兄弟以上…。
そうでなければ友だちか…?
 僕が欲しいのはそんな称号じゃない…。
だから…使用人でいいんだよ…鈍感…その方がまだ…ましなんだ…。

 玲人は起き上がるといつもの薄ら笑いを浮かべた。
僕の気持ちなんて一生気付きもしないだろう…から。

 「そんじゃ…仕事部屋からカルトンごと頂いていきます…。
使命を帯びた業使いについては…こちらでも少し探って見まっさ…。 」

僕はヒーラーじゃないんで…病気そのものは治せませんから…お大事に…。

 「ああ…有難うな…。 」

小さく手を振って玲人は寝室を出て行った。


 
 西沢の仕事部屋で目的のカルトンはすぐに見つかった。
中のイラストを確認すると封をして玲人は部屋を出ようとした。

 「びっくりしたぁ! 玲人さんじゃない? 」

 扉の前に亮が立っていた。
音がしたからさぁ…紫苑…寝てるはずなのに変だなぁって…。

 「原稿…取りに来たんで…。 
先生なら寝室…いま…熱だけは下げておきましたから…。 」

 そう…玲人さんも治療師だったの?
意外そうに亮が訊いた。

 「とんでもない…。 治療する力なんぞありゃぁしません。
解熱くらいがやっとで…。 身体が少しでも楽になれば…と思っただけです…。」

 玲人は空いている方の手で頭を掻いた。
滝川先生が聞いたら怒るだろうけど…熱は出し切れとか言ってね…。

 「そんなに…お互いに角突き合わせても仕方ないじゃない…。
滝川先生のことわざと苛々させてるでしょ…? 先生も嫌味言ったりするし…。
相当…焼きもち焼きなんだね…ふたりとも…。 」

さいで…と玲人は笑った。

 「別に…喧嘩するとか…仲が悪いわけじゃないんですよ…。
ノンケ面しながら紫苑に手を出して…ってこの頃じゃ目覚めちゃったのかノエル坊やとも遊んでるらしいですが…気に喰わない。 」

 へぇ~玲人さん…そっち系の人なんだ。 気付かなかったな…。
待てよ…奥さんがいるんじゃなかったっけ…? 

 「居ますよ…。 男としては極めて普通に暮らしてます…。 
でも…はっきり言って…それは相庭玲人の族人としての義務みたいなもんで…。

 あ…誤解しないでくださいよ。 
そっち系って言っても…他とは遊んでやしませんからね。 

滝川もそうかもしれないけど…大切なのはひとりだけ…出会ってからずっとです。
だけど…何も言えないんで…気付いてもくれません…。 」

 仕方ないんですけどね…。
紫苑はバイの気がまったくないってわけじゃないけど…どちらかというと悩殺ボディの女が好きで…女装趣味のお養母さんに隠れてよくグラビア雑誌を覗いてましたから…。
 ノエル坊やには悪いけど…もし…坊やが完全な男だったら手を出さなかったと思います。
細身の輝に惚れたのだって不思議なくらいで…。

 なのに…何で滝川よ! あのオジンの何処がいいわけ?
がたいがでかいだけじゃん…。 あの喉フェチ男!

 亮は思わず苦笑した。
日頃決して自分を崩さない冷静な男のはずの玲人が今日は何だかズタボロ状態…。
よほど溜まってんのね…。

 「失礼しました…。 つい…取り乱してしまった…。 
本当は…分かっているんです…滝川先生の想いが命懸けだってことも…。
紫苑がそのことをちゃんと知っていて…受け止めているんだってことも…。 」

 それが自分じゃないってことが…哀しいだけで…。
玲人は切なげな笑みを浮かべた。

あのふたりが何処までの関係か…なんてことは知りませんけど…ね。

 「自分じゃない哀しさ…か…玲人さん…それ分かるような気がするよ…。 」

亮が同病相憐れむといった眼を向けた。
年下の亮にそんな眼をされて…思わず玲人は声をあげて笑った。

 「情けない…亮くんに同情されるほど…愚痴ったなんて…。
忘れてください…。 戯言だと思って…。 」

 さて…仕事…仕事…。
玲人はいつもの玲人に戻って飄々と帰って行った。

勿論…玄関に掛けてある鍵なんか物ともせず…。








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続・現世太極伝(第三十九話 見えないもの…。)

2006-07-17 17:01:13 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 初雪ですなぁ…。 このところずっと暖かい日が続いておりましたが…やはり…冬なんですなぁ…。
何気なく外の景色に眼を遣りながら久継は呟いた。

 はらはらと舞い落ちる雪…。
まだ枝に色濃く残る晩秋の色に吸い込まれていく…。
 今まさに…季節が移る瞬間…。
甲高い声を残して濡れた枝からヒヨが飛び立つ…。   

ひとつ大きく息をついて…久継は話し始めた。
 
 「あれか…これかと検討致しました…が…導き出したものが真実かどうかとなると…自信はありません。 
 うちのカオリのことだけでしたら…呪文使いの戦い方はどうしても呪文という媒介を通してという形になるので…直接の敵とは見做されないかもしれない…と考えるところなのですが…。

 三宅一也のことがあります。
呪文を使う力もない…戦ってもいない…家に古文書があるというだけなのに何度も狙われる。
 初めは…三宅一族の末裔すべてを襲うつもりかと我々は考えていました。
力の有る無しに関わらず根絶やしにでもするつもりかと…。

 倉橋も昨今…かつてのような家人同士の行き来がなくなってしまったので…三宅の内情が分からず戸惑うばかりでした。
何しろ…三宅最後の業使いと言われていた先々代が亡くなってから久しいことですし…須藤家に養子に入ったというのは、さらにその前の代の話かと思われます。
 少なくとも須藤家のことは御使者から伺うまで覚えてもいませんでした。
我々の感覚ではとうに…三宅の業使いの力は絶えていたはずでしたから…。

 狙われているのは力を持つ須藤さんの方で…三宅の子は間違えられているのではないか…とも考えました。
カオリの場合と同じで須藤さんが敵と認識されなかったために相変わらず…三宅の子の方が狙われ続けているのではないかと…。

 では…何故…一也だけなのか…?
親戚はともかく…親兄弟でさえ襲われていないのに…。
人違い…と考えると…その疑問が残るのです…。 」

 そこまで話して久継は、ほっと息を吐き、お茶に手をつけた。
田辺が西沢に茶や菓子を勧めている間に、政直が一旦席を立ち、襖を開けて誰かに声を掛けた。

 パタパタと駆けてくる足音がして…双子と思われる亮やノエルくらいの男の子が姿を現した。
ふたりは西沢に向かって丁寧に挨拶をした後、政直の席のすぐ後ろに座った。

 「このふたりは政直の子どもで…ご覧のとおり双子です。
信久と敬久…敬久の方には業使いの力が備わっています。
区別がつきましょうか…? 」

 久継が西沢に問うた。
双子は一卵性なのか…まるで鏡に映したようにそっくりだ。

 「向かって右が信久くん…左が敬久くんですね…。
ですが…極めて微妙な違いです…。 
前以て皆さんとのお付き合いが無ければ区別できないところでした。 」

 西沢はふたりを一瞥すると即座に答えた。
久継は頷きながら微笑んだ。

 「まさに…そこです。
特殊能力者を区別することはこちらにそれなりの力があれば比較的容易ですが…業使いを普通の人と区別することは極めて困難なのです。
 正気ではない過去の夢に操られた者たちに…果たしてその区別がつくや否や…そこがどうしても疑問に思われます。

 もし…三宅一也に多少なりと業使いの力があったとしても…その家族と本人をどう区別しているのか…一也の中にだけ異なる要素があるのか…。
しかも…ただの業使いの気配というだけではない…カオリにも須藤にも無い何か特別なものが…。
だとしたら…それは何であろうか…と。 」

 西沢が疑問視した田辺や須藤が敵と見做されないことなどまったく問題ではなく…重要なのは三宅がなぜ敵と見做されたか…ということの方だと久継は言った。

 最初の犠牲者美咲の恋人で…巨石お宅…HISTORIANの使いっ走り…。
少なくとも…英会話塾が襲われた日までは…三宅は誰にも狙われてはいなかった。
英会話塾で…何があったのか…?

 「御使者…業使いの力量は気配では分かりません。
まるで何の力も持っていないような弱々しい者が、実は超大物だったりすることもあります。
どうか…そのことだけは胸に留め置いてください…。 」

 相変わらず顔には穏やかな笑みを浮かべながらも…久継は強い口調で忠告した。
肝に銘じて…と西沢は答えた。

 

 西沢から託された歳暮の品を持ってノエルは久々に実家へ戻ってきた。
定休日ということもあって智哉は家に居たが…いつもどおりに仕事をしていた。

 「おまえみたいな何もできんヤサグレの面倒を親身に看て貰ってるんだ。
こっちが歳暮を持って挨拶に行かなきゃならんくらいなのに…悪いことをした。
紫苑さんにくれぐれもよろしく言ってくれ。 」

 くそ親父…相変わらずひと言ずつ多い。
礼を言う時くらい素直にものが言えねぇのか…。 
ま…いつものことだけど…さ…。

 「なあ…俺…そろそろ…店で働こうと思ってるんだけど…。 」

 書店…くびになったのか…?
こちらも向かずに智哉は訊ねた。

かぁ~そうきたか…。

 「そうじゃないけど…店長が気を使ってさ…。 勤務時間減らしちゃったんだ。
増やして貰うよりは…どうせならその分こっちで仕事しようかなって…。 」

 経験者…平日時給800円…9:00~19:00…勤務時間相談に応ず…。
智哉は事務的にそう言った。

 「きちんと紫苑さんの世話して…ちゃんと学校へ行って…書店の仕事と重ならないように…時間決めろ…。
勤務予定は忘れずに前の週に出せよ。 今週分は今夜ファックスで送って来い。
そん中でバイトが必要な時間チェックして送り返してやるから…。 」

 よっしゃぁ…。 働くぜぃ…。 んじゃ…明日からよろしく…。

よろしくお願いしますと言え…馬鹿息子!

 へいへいすんません…ノエルはぺこりと頭を下げた。

まったく…おまえというやつは…俺は雇い主に対してそんな無礼な態度をとるような躾方をした覚えはねぇ!
 どうしようもねぇ奴だ…と…さも嘆かわしそうに不肖の息子を怒鳴り叱りつけながらも…心なしか智哉の口元が笑っているようにノエルには思えた。



 某国からミサイルが飛んできた…というニュースが世界中を駆け巡った。
第一報が入った時…西沢は一瞬ドキッとした。
HISTORIANの陰の努力も虚しく…とうとうそれが始まった…と感じた。

 ミサイルは海に落ち…眼に見える被害はなかった…が、これをきっかけにこの国でも軍備増強が叫ばれるようになるだろう。
憲法や法の改正を目指す者たちにとって格好の追い風になる。
 再びこの国は闇に向かって走り出すのか…。
どうか…この不安が杞憂となるようにと祈りたい。

 「考え方がどんどんエスカレートしていかないといいんだがなぁ…。  
相手が攻撃してきたから相手の基地を破壊した…っていうのと、相手が攻撃してこないように相手の基地を破壊した…ってのとはわけが違うからな。 」

 そう言って滝川はコーヒーの最後のひと口を飲み干した。
あ…余分があったらもう少しくれない…?
 徹夜の仕事が明けた西沢のために濃い目のコーヒーを入れていたノエルにカップを差し出した。
 ちょっと苦いかもよ…と言いながらノエルは滝川にもコーヒーを注いでやった。
いや…美味しいよ…ノエル腕あげたじゃん…。
滝川に褒められてノエルはちょっと肩を竦めて笑った。 

 「少し…寝た方がいいぞ紫苑…顔色が良くない。 
ここんとこ徹夜続きの上に…仕事がない日にはノエルと囮調査してるんだし…。
 そうはそうは…身体が持たないぜ…。 
いくらお務めだからっておまえが病院行きになったら元も子もないんだから…。」

 滝川は心配そうに西沢の顔を覗き込んだ。
あかん…熱あるわ…こいつ…目がうるうる…。
 
 「紫苑さん…。 仕事明けたんなら…無理しない方がいいよ。 」

 ノエルにまで言われて…西沢は眠そうにうんうんと頷いた。
そんじゃ…ちょっと寝るわ…。 欠伸しながら寝室へと向かった。
 
 「ノエル…今日はずっと実家…? 」

滝川が訊ねた。

 「うん…昼に一旦…様子見に帰ってくるよ。 亮にも声かけとく…。 」

 そっか…じゃ…頼むな…。 
僕もできるだけ早めに帰ってくるけど…紫苑…普段は丈夫なくせに熱出すと必ずひどくなるからな…。

 
 ノエルと滝川が仕事に出かけた後…ひとり寝室に残された西沢は滝川の予測どおり熱に浮かされていた。
 起きているのか寝ているのか…現実か非現実か…まるで酔っ払ったかのように頭の中で映像がくるくる回る。

 力のない業使いと…それを執拗に追う発症者…。 
DNAの螺旋階段をぐるぐると上る下る…。

 逃げろ! 逃げろ…三宅! 追いつかれる…! 
ひとつの身体に集約されて最悪の凶器と化したプログラムの恐怖が全世界を襲う。

 三宅…危ない…! 

いらない記憶きえろぉ!

 三宅の口から…突然…ノエルの声が響く…。
えっ…どうなってるの? いつの間にか…三宅がノエルの姿に変わっている…。
これはプログラム同士の戦いだ…須藤の声が聞こえる。

別の場所に三宅の身体がある…三宅の姿はしているがそれは空洞…。

三宅…三宅…どうしたんだ?

 何かのうねりが押し寄せる…空っぽな三宅の身体を目掛けて突進する。
傾れ込むように三宅の身体を満たしていく…。

危ない! 三宅…逃げろ!

 叫び声をあげたような気がして西沢は飛び起きた。
汗で身体中がびっしょり濡れていた。

 鰹節の匂いが漂ってくる…。 
寝室の扉からノエルが覘いた。

 「おじや炊いたけど…食べられる…? 」

 えっ…西沢は時計を見た。 ノエルが居るということは…もう昼か…。
覚え無しに寝てた…。

 「わざわざ…途中で帰ってきたんだ…? ごめんな…。 」

 西沢はベッドを降りてふらふらとキッチンの方へ向かった。
大丈夫…? 扉のところでノエルがそっと手を差し出した。

ノエル…おじやの作り方知ってたの…?

 母さんに炊くばっかりにして貰ったんだ…。
鍋ごと持ってきたから…簡単。

そっか…。

 おまえん中には父さんの遺伝子ばっかりが詰まってるに違いないって言われた。
あんなにごつくねぇぜ…って言ったら、それじゃ外側だけ私のだよ…だって…。

 突然…西沢は黙り込んだ。
じっと考え込んでいる。

 ノエル…プログラムはふたつあったんだよな…?
集約されるのは…覇権・覇者のプログラムばかりじゃないんだ…。
対抗するワクチン…と言ってよければだが…の方だって…もしかしたら…。

 三宅は…ワクチン・プログラムの完全結集体か…?
だから…発症者…にとっては最大の敵と見做されるわけだ…。

 熱出してる場合じゃないぞ…紫苑…。
早く何とかしないと…三宅はとんでもないものを敵にまわすことになる…。

本人がそれに気付いているかどうかは…謎だが…。







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続・現世太極伝(第三十八話 それ…変じゃねぇ…?)

2006-07-15 00:00:50 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 始まりは何にもない世界…。 天もなく地もなくただ混沌とした世界…。
混沌から太極が生まれ…その太極が動くと陽になり、動きが極まって静止すると陰となる…太極説だとそんなふうに表現されるかな…。

 「易経の時代によくこんなことを考えたなぁ…と僕なんかは感心する。
無から有が生ずるなんて現象…当時の人はどう説明してたんだろうなんてね…。
まあ…神話的に捉えていたんだろうから説明は要らなかったのかもな。 」

怜雄はまず…そんなところから話を始めた。

 「真空という言葉を聞いて…ノエル…どんなことを想像する? 」

問われてノエルはちょっと考えた。

 「空気も…何もないところ…かな…。 宇宙空間とか…。 
真空パック…空気入れないように密封するやつでしょ…。
あと…物理の実験…教科書にさ…真空状態で何とかってよく書いてあった。 」

すぐに思いつくだけ言ってみた。

 「さっきノエルは宇宙空間って言ったけど…空を見上げれば太陽や月やその他の星があって…今の宇宙が無の状態でないのは分かるよね。
 僕等が乗っかってる地球を始め…それら天体のもとになってる物質ってのが創生期にできて…それが進化して今の状態になったわけなんだが…。

 それじゃ…創生前の無の状態…というものを考えてみた時に…まるっきり何にもない状態でどうやって物質ができたんだろう…? 」

 何にもないところから…物質かぁ…。
マジックだね…まるで…。
でも…種があるんじゃない…?

 「ご名答…。 19世紀までは…この真空状態の空間は、何もない…何も起きていない場所だと考えられていた。
 けど…20世紀に入って量子論という考え方が出てくると、眼に見えないところにちゃんと種があるんだってことが分かった。

 ここで量子論についてごちゃごちゃ話したところで…意味ないから…省いちゃうけど…フォトン(光子)という粒子の集まり…電磁波だ。
他に電子とか陽子とか…そういった粒子もある。

 真空という状態は一見何にもないように見えて実はこれらの粒子の微小な波…振動に満ちているんだ。
ゼロ点振動って言うんだけどね…。

 物理学の講義じゃないんだから…ってまた怒られるから難しいことは置いといて、真空にこれらの波…ゆらぎがあればエナジーがあると考えられる。
このエナジーが物質化して進化した結果が今の宇宙…まあ…大まかに言えばそんなとこだ…。
 但し…今現在では真空のエナジーはほとんどゼロの状態だと言われているが…ノエルが知りたいこととは無関係だから…それはどうでもいいか…。 」

 エナジーの物質化…。
ノエルの頭の中で何度もその言葉が響き渡った。

 「僕の子宮は実際に生命エナジーを生み出した…。 
紫苑さん…できるかも…。 紫苑さんの言うとおりだね…。
0%じゃないんだ…。 」

 穏やかに微笑んで頷く西沢にノエルは無邪気な笑顔を見せた。
できるといいなぁ…ノエル…。
西沢が何気なく口にしたその言葉に怜雄も滝川も胸が絞め付けられるようだった。

 そのままみんなで和やかに談笑して過ごした後…帰宅する怜雄を見送るつもりで滝川は部屋の外に出た。

 「怜雄…ご両親には内緒にしておいてくれな…。
先のことはどうなるか分からないんだ…。 ノエルの心がどう変化していくか…。
ひょっとしたら…何事もなく…幸せに暮らしていけるのかもしれないし…。 」

そう願いたいな…と怜雄は溜息混じりに言った。

 「紫苑にはこれまで随分とつらい思いばかりさせてきた…。
西沢家がノエルとのことをあっさり認めたのは…長年…紫苑にしてきた酷い仕打ちに対する詫びのつもりでもあったんだ。
恭介…僕は…このまま紫苑がずっと幸せでいられるように祈るよ…。 」

そうだな…僕等には…祈ることくらいしか…してやれんからな…。

 それじゃ…お休み…恭介…またな…。
怜雄は軽く手を振るとエレベーターの中に消えていった。


 
 地下鉄の駅を出るとチラチラと白いものが舞いだした。
亮もノエルも思わず空を見上げた。
 
初雪だ…。

それは一瞬の儚い光景だったが…何となく浮き浮きしてお互いに顔を見合わせて笑った。

 亮がそのまま書店のバイトに入るので、ノエルはひとりマンションへ帰った。
谷川店長の気配りなのかどうか分からないが、このところノエルが担当する時間帯は早番が多くなり、結果としてあまりバイト料が入らなくなっていた。

 別に使う当てがあるわけじゃないからいいのだけれど…望んでもいないのに遅番を削られるというのもあまり面白い話じゃない。
やっぱり…そろそろ…親父の仕事手伝おうかな…。

そんなことを思いながら玄関を開けると…目の前にヒールの靴が揃えてあった。
  
 あれ…今日は紫苑さん居ないのに…輝さん知らないのかな…。
部屋の中には輝の好きなバラの紅茶の香りが漂っていた。

 「お帰り…ノエル。 今…お茶を淹れたところよ…。 召し上がれ…。 」

 輝はティーカップにお茶を注いだ。
ブランディはどうする…? 
 あ…ちょっとだけ入れる。
うふん…生意気…。

 「紫苑さん…今日は遅くなるよ…。 知ってた? 」

 知ってるわよ…。紫苑が居なくちゃ遊びに来ちゃいけない…?
んなことないです…僕は嬉しいけど…。
 
 「そうよね…。 たまには坊やも…おデートしないとね…。 」

 またまた…輝さん…。 
冗談よ…と輝は笑った。 

 「恭介のやつ…まだここに居座ってるのね。 困った男ねぇ…。
あなた…平気なの…? 川の字なんでしょ…? 」

新婚さんのベッドを占領するなんて…と不愉快そうに輝が訊ねた。

 なんとも思わないけど…居ないとかえって寂しいよ…。 
先生も時々遊んでくれるし…後から割り込んだのは僕の方だし…ね。
あっけらかんとノエルは答えた。
 
 「あなたも多情というか…遊び好きというか…まったく似たもの夫婦だわ。 」

 ノエルはくすっと笑った。 
嫌だなぁ…輝さんだって…好きなくせに…。

 あら…私は…今のところ紫苑とあなたの他に遊んじゃいないわよ。
あなたに比べりゃ半分じゃないの…。
輝は憤慨した。

 「そんなもん比べたってしょうがないよ…。 
大好きな人たちに囲まれているとすごく幸せな気分になるんだ。 
不道徳って言われりゃそうかもしれないけど…でも…赤ちゃん作るのは紫苑さんとだけって決めてるもん。 」

 あら…ノエル…私とは…? 
輝が不満げな声を上げた。
 えぇ…? 輝さん…子どもは要らないんじゃなかったの?
意外そうな眼を向けてノエルは訊き返した。

 「紫苑とは作らないってだけよ…。 要らないわけじゃないわ。
紫苑と私には複雑な事情があるけれど…ノエルとは別に何の障害もないもの。 」

輝はいつになく真面目な顔をして言った。

 「う~ん…でも…やっぱり…今はこっちが先だなぁ…。 
待てよ…そうしたら…とんでもないことになっちゃうよ。 
僕はお母さんで…お父さん…。 それ…変じゃねぇ…? 」

さすがのノエルも首を傾げた。

 「あら…いいじゃないの…。 他の人にはちょっとできない芸当だわ。 」

 さも可笑しげにくすくす笑いながら輝はノエルを見た。
いいわよ…待っててあげるから…ノエルがママになれたら…その次はパパになって頂戴よ…。

からかってんでしょ…輝さん…?

 からかってなんかいないわよ…。 待っててあげる…。
但し…あんまり待たせると…おばあちゃんになっちゃうからね…。



 西沢は再び倉橋家を訪れていた。離れの座敷にひとり座して…久継が現れるのを待っていた。
倉橋家から連絡が入ったのは今朝のことだった。久継と政直はどうやら家族旅行にでも出掛けていたらしい。
 業使いが襲われない理由を教えて欲しいと頼んだら、思い当たることがないわけではないが検討してみないと確かなことは言えないとの答えが返ってきた。
 
 西沢が…後日…また…と言いかけた時、久継の方から夕刻に会いに来て欲しいとの申し出があった。

 ひと口に業使いと言っても家門や流派が違えば業も呪文も異なるし、如何に久継が物知りであっても…簡単にこれこれこうです…と説明できるようなことではないのかもしれない。

 そんなことを考えながら静かに開け放たれた障子の向うを見ていた。
ちらちらと舞う雪がよく手入れされた庭に映えてなかなかの風情…。
 まだ…生まれたての雪は地に触れるだけで儚く消えていく。
そんな些細な現象も…この大地にとっては大きな意味を持っているのだろう。
 
 意味のないものはこの世には存在しない…それが西沢の根底にあるもの…。
女性としての自覚はほとんどないはずのノエルなのに、西沢のためにあれほど子どもを産みたがるのも、本人さえも気付かないところに何かそれなりの意味があるからかもしれない…。
なぜかそんなふうにも思えてきた…。

 ご無礼仕りました…と言いながら久継がその堂々たる体躯を現した。
政直と田辺がその後について現れた。

 「お訊ねの件をよくよく検討いたしました。
最も近いのではないかと思われる理由を考えましたので…。 」

この前よりもずっと健康そうに見える久継は、西沢に好意的な眼差しを向けながらゆったりと話し始めた…。








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