徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

最後の夢(第七十三話 最終回後編 永遠の未来へ)

2006-01-22 23:04:16 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 藤宮の輝郷が定時に理事長室を出た後は、理事長代理として悟が受験塾の終わる時間帯まで待機することになっていた。
 翔矢が講師を始めた当初は悟はまだ学生だったこともあって、それほど意識はしていなかったが実際自分が責任を負う立場になると、あの翔矢が問題も起こさず、いたって真面目に講師を務め業績を上げていることを喜ばずにはいられなかった。

 教壇に立っている晃の方にはさほどの感慨はないが、責任者の悟にとってはとにかく学園は平穏無事であることが何よりだ。
 翔矢がおとなしくしていてくれれば、それはもう約束されたも同然…。
それどころか生徒たちの数学の成績UPに大貢献というおまけが付いて万々歳。
但し…セクシーダイナマイトな奥さんが時々学園に姿を現すのだけは困りものだが…。
 別に悪いことするわけじゃないんだからそのくらい大目に見てやればいいじゃない…目の保養にもなるしさ…ま…ちょっと齢はいってるけど…と晃は笑った。



 透たちの溜まり場だった黒田のオフィスは今や和貴たちの世代の溜まり場になっていた。
 齢をとっても黒田は相変わらず元気で、時々子どもたちに混ざっていたりする。
黒ちゃんと呼ばれて上機嫌だ。

 黒田が最近少し気になっているのは彰久の長男修史(ひさふみ)…何か思い詰めたような顔で考え事をしている時がある。
今日もひとり…みんなより先にやってきてぼんやりと物思いに耽っている。

 「修史…どうしたよ? 悩み事か? 」

黒田が声を掛けると修史は黙って頷いた。

 「僕の舞…感情表現が中途半端なんだ…。 どうしたら史朗さんのように情念の世界を表現できるんだろう…?
 鬼面川の祭祀舞は御大親からのメッセージだから愛憎も善悪も清浄も不浄も男女も…すべてを表現できなければ意味がないんだ…。 」

 未熟な技量をじれったく思うのか唇を噛んで嘆息する。
それは仕方ないさ…おまえはまだ子どもなんだから…と黒田は苦笑した。

 「人生経験の違いは…今すぐには埋められない…。 
取り敢えずは…恋でもしてみな…。 成就しても失恋してもいい勉強になるぜ。」
 
修史の頬が赤く染まった。妙なところが史朗にそっくりだ…と黒田は思った。 

 「修さんでもいい…かな? 」

修…? 黒田は眼をぱちくりさせた。 

 「そりゃあ…また随分な年の差で…。 だけど…なんで修よ?
同級生にいくらでも可愛いお姉ちゃんがいるだろうによ。 」

修史はにっこり笑った。

 「女の子とは今までにも付き合ったことあるし…対象としては当然過ぎでしょ?
史朗さんの気持ちを知りたいんだ…。 もしくは…女性の…。 」

 ああ…そういうことね…今時の子は恋愛相手もちゃんと計算してるんだ…。
史朗の気持ちを探って張り合おうって算段か…末恐ろしいね。
 まあ…修なら…問題ないだろうが…彰久さんがなんと言うか…。
黒田は真面目一筋の学者の顔を思い浮かべた。

 「お父さまなら…了解済みだよ…ちゃんと相談したんだ…。 
それとなく…修さんに話しておいてくれるって….
お父さまの許可なしじゃ絶対相手にして貰えないから…。
 だけど…僕自身は修さんにどう近づいて行けばいいのか分からなくて…。
変なやつと思われても嫌だし…。 」

 変わった親子だ…。世間的には親が頭を抱えそうな状況なのに…許可…。
彰久さんは…やっぱり千年前の人なのかねぇ…。

 「何にしても…本気で惚れてなきゃ意味がないからやめとけ…。
そんな恋愛シミュレーションみたいなことじゃ史朗ちゃんの舞には近づけないよ。
 ロープレゲームやってるわけじゃないんだぜ。
男でも女でも命懸けで惚れたらきれいごとじゃ済まないんだからな…。 」

 表面だけ体験すりゃあいいってもんじゃないんだ…。
史朗がどれほど悩みぬいたか…修がどれほど苦しんだか…知りもしないで…さ。
黒田はゲーム感覚の現代っ子に特大の釘を差しておいた。



 「…というわけで修さん…ご迷惑でしょうが…あやつが言い寄ったら煮るなり焼くなりどうにでも…適当にあしらってください。
 何処まで本気だか分かりませんが…どうなろうと本人の責任において対処させますから…。
 親の僕が唖然とするくらいですから…さぞかし馬鹿げているとお思いになるでしょうが…あやつには口で言って聞かせたぐらいじゃ効果はありません…。 」

 彰久は何時になく突き放したような物言いをした。少し痛い目に遭ってこい…とでもいうように。
 いつもは冷静な彰久が相当頭にきていると見える。
やはり我が子のこととなるとさすがの賢人もただの人となるか…。

 「シミュレーションですか…。 僕はコンピュータじゃないんだけど…な。 」

 修は苦笑した。生身の人間相手にバーチャル的恋愛感は通用しないんだってことを教えて欲しいということらしい。
 仮に恋人と見立てた相手との恋愛を演出し心の動きを観察するなど…すでに現実の恋愛の域ではない。
 それは御大親への冒涜…人間への侮辱…そんなまがいものが祭祀舞の役に立つはずもない…。
 愛し愛される自分の内面を見つめるなら話は分かるが…。
彰久はそう修史に言いたいのだろう…。

 「僕の方が本気になってしまったら彰久さん…どうされます…? 」

修はちょっと意地悪く鎌掛けてみた。
 
 「そうなったらそうなった時のこと…他の方なら僕も許しはしませんが…相手が修さんだから何があっても安心できるわけで…。
 本当に申し訳ないのですが…うちの馬鹿息子としばらく遊んでやってください。
そのうち下のやつが同じことを言いだすかも知れませんが…。 」

 あくまで真面目に彰久は答えた。
何もこんな齢の離れたおじさんを選ばなくてもいいのに…と苦笑しながら修は彰久の依頼を引き受けた。



 古から鬼面川に伝わる三十六の古代祭祀舞は学術的にも価値があるというので、そういう方面からの研究者も時々出入りするようになった。
 責任者のひとり彰久が、専門分野は異なるにせよ、名の知れた学者であるということが祭祀舞の歴史的信憑性を高めて、そうした研究者たちを惹きつける要因となっているのかもしれない。

 彰久と史朗が祭祀による御大親のメッセージからこの十何年間に新しく生み出した二十四ほどの今様祭祀舞もわりと評判がよく、この頃では後援会や愛好者から古今取り混ぜてのリクエストも来るようになった。

 他の流派に比べれば極めてささやかな存在ではあるが、定期的に公演も催し、教室も増え、それなりに安定した収入も得られるようになっていた。
 仕事と舞とに日々追い回されて、ただ我武者羅に生きてきた史朗もようよう落ち着いてあたりを見渡せるようになった。

 やっとここまで…と感慨深げに振り返って見れば、そこに居るのは高級なものに囲まれながらどこか輝きを失いくたびれた自分…。
 
 見るたびに芽を…枝を伸ばしていく若い世代…。
ことに修史の舞は…。
 舞の実力では絶対に負けない自信があるとはいえ、若い命の輝きはそれだけで美しく、それに対抗するだけの光を放つ術を史朗は未だ知らない。
 修練を怠ってはいけない…やがて更に老けゆく自分をこれ以上惨めなものにしたくはない…今できることは…持てる力をより向上させることだけ…。

  

 洋館の居間の文机でいつものようにパソコンに向かっている修の耳に、史朗の舞う謡の調べが響いてきた。
 史朗が洋館で舞の稽古をするのは久しぶりのことだ。
新しい家が建ってからは史朗の部屋もそちらに移り、洋館で過ごすことはめったになくなった。

 修が部屋を覗くと史朗は床の上にへたり込んでぼんやり何かを考えていた。
修の姿を見ると笑顔を見せて立ち上がった。

 「何か…お見せしましょうか…? 」

 そう…以前はこうして時々修のために舞ってくれた…修だけのために…。
それは史朗から修への無言の意思表示…告白…。

 「そうだね…。 『雪嵐』を…。 」

修が言うと史朗は微笑んだ。

 「相変わらず…『雪嵐』…お好きですね…。 よかったら『夜桜』も…。 」

 舞に込められた史朗の想い…無言の叫び…剥き出しの魂…血を流す心…。
誰にもまねなどできない…できようはずがない…だって…これは…史朗自身…他の誰でもない…。
 修はうっとりと史朗の舞に見とれている。この一瞬だけは何があろうとこの人の心を誰にも渡さない…。
 史朗は一礼するといつものように少し注釈を加えた。

 「今様祭祀舞の方では…『雪嵐』には『波の花』、『夜桜』には『弓張月』が内容として近いと思われます…多少意図するところに違いはありますが…。
 どちらも御大親からの授かりものではありますし…現代の方には単純な今様の方が受けますが…僕は古代の方が好きですね…。」

 そう言った後で史朗はほんの少し沈黙した。
訝しげに史朗を見つめる修に向かって史朗は突然深々と頭を下げた。  

 「桜花を…跡継ぎに選ぶことができなくて申し訳ありませんでした…。
あなたが…御大親に願を懸けてまで僕に授けてくださった娘なのに…。 」

 何だ…そんなことか…。雅人のおしゃべりめ…要らざることを…。

 「当たり前のことだ。 修史の方が優れている以上は修史を選ぶのが宗家としてのおまえの務め…。 何も謝る必要はない。 」

 桜花は可愛い…だがそれとこれとは別の話。
それとも修史を選んだことを後悔しているのか…修は探るように史朗を見た。
 
 「彰久さんが…話してくださいました。 
修史が本気であなたに惚れこんだらしく…人の心はゲームのようなわけにはいかないのだということにやっと気がついたようだと…。

 あの子は師匠の僕を負かすためにあなたを利用しようとしていたのですね…?
ミイラ取りがミイラになったと…彰久さんは笑いますが…僕は笑えません…。 
大事な桜花をはずしてまで後継者に推した僕を…それを認めてくださったあなたをあまりに馬鹿にしている…。 」

 史朗はじっと修を見返した。
修はふっと笑みを漏らした。

 「そう…腹を立てるな…。若気の至りだと思って許しておやり…。
人の心の機微に気付いたのなら…それでいいじゃないか…。 
 それに…桜花のことは…僕がおまえのために願を懸けたのは…僕がおまえを苦しめたことに対するの精一杯の償いでもあるんだ…。 」

 突然の修の言葉に史朗は驚愕した。
とんでもない…こんなに大切にしてもらったのに…あなたのお蔭で夢だって叶えられたのに…苦しめただなんて…。

 「僕の中の憎しみなんて…嫉妬なんて…とうに消えてなくなっていたんだ。
だけど…言えなかった…。 
 言えば…おまえが…僕の大切な宝物が…この手から何処かへ逃げて行ってしまうような気がして…。
 僕の我儘でおまえを閉じ込めてしまった…。 
もっと違う生き方が出来たのだろうに…今よりずっと幸せになれたかも知れないのに…。 」

修は申し訳なさそうに史朗を見つめた。

 「僕は…他にどんな素晴らしい道が開けていたとしても…やはりあなたと生きてきたこの道を選びます。
 後悔なんかしていないし…これ以上の幸せなんて何処にありましょうか…?
僕は十分好きなように生きてきたし…世間的なモラルさえもかなぐり捨ててあなたを愛し…笙子さんを愛し…桜花まで得た。
大勢の温かい家族や友人に囲まれて…この上何を不平を申すことがありましょう?

 苦しめただなんて…僕が苦しんだと言うのならあなたは僕以上につらい思いをなさってきたのに…。  」

 史朗の手が修の手を包み込んだ。
この手に支えられてここまで来た…。この手が僕を愛し労り慈しんでくれた。
 僕だけじゃない…あなたは幾人もの人を救い…育て…この紫峰だけではなく、藤宮も、鬼面川も、城崎も、樋野も…その他にもそれこそどれくらいの人々があなたから恩恵を受けていることか…。 

 「後悔なんてしないでください…今でも僕を思ってくださるなら…。 
こんなすすぼけた中年親父になってしまったけれど…。 」

 史朗は自嘲した。
修はくすっと笑った。

 「綺麗だよ…おまえは…。 若い修史がライバル意識を燃やすくらいだもの…。
おまえとのことを後悔しているわけじゃないんだ…おまえに僕の中の鬼を見せてしまったことを…さ…。
 僕は事あるごとにおまえを手酷い目に遭わせてしまったから…。
ずいぶんつらかったろうと…思うよ…。 」

 あなたのせいじゃない…それは…あなたが悪いんじゃない…。

 「何もかも承知で…あなたを愛したのは誰の意思でもない…僕の意思です。
御大親の御意思でもなく…僕が決めたこと…。 」

 酷いことなんて何もしていない…あなたはいつも真剣に僕に向き合ってくれた。

 「僕は年をとりました…。 もう…修史のような初々しい輝きを取り戻すことはできないけれど…磨き上げればそれなりに褪せずに輝くことができるでしょう…。
 もうしばらく…史朗を磨くべき原石としてお傍に置いて頂けますか…? あなたの宝箱の中に…。
史朗の舞を愛してくださいますか…? 」

 真剣な眼差しで史朗は修の眼を見つめた。
修は一瞬…意外だというような表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

 「生涯…傍に置いておこう…。 時々磨きをかけられるように僕の手の届くところへ…僕の大切な宝箱へ…。
いつか神々しいまでの輝きを帯びたその舞姿が見られるように…。 」

 穏やかな笑みを浮かべ…史朗は頷いた。
若手のことなど気にしている暇はないぞ史朗…昔…雅人くんが言ってたろ…一生物の宝の石になれって…自分を磨けって…。
僕はこの人のために輝く…この人のために舞う…それだけでいいじゃないか…。

 修の手が史朗の頬に触れた。
この世で史朗と巡り合った不思議…愛し合った不思議…。
千年も前に消えたはずの閑平の儚く切ない想い…。
その想いが史朗となって修の前に現れ…修の中の樹へと伝わる…。

 そんなメルヘンが…現実にあったなんて…誰も信じないだろうけど…ね…。
千年の時を越えて…史朗や彰久さんと再会できたこと…本当に嬉しかった…。
あとどのくらい…一緒に居られるのかは分からないけれども…。
僕は…そう長くは生きられまい…。 樹は若くして亡くなっている…。

どうか…この奇跡が来世にまで続きますように…。
そう…祈らずにはいられない…。


 千年神と讃えられた不思議な力を持つ男は…いま常人の心で祈っている。
千年の時を越え巡り合ったいくつもの魂が次の千年の時までも越えてまた巡り合えるように…と。




最終回後編 完







最後の夢(第七十三話 最終回前編 嫉妬)

2006-01-19 23:43:05 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 雅人はいまや修の代理としても十分に周りの信頼を得るまでに成長していた。
既に真貴との間には子どもがふたりいて、まあまあご機嫌な家庭を築いている。
 相変わらず遊びも盛んだが不思議なことに雅人の遊びには必ず利がついて回る。
時には鈴の時のように失敗もやらかすが転んでもただでは起きない。

 真貴はそういう雅人の天性の力を認めていて好きなように泳がせてくれる。
但し手綱はしっかりと握っていて許容範囲内を超えると痛い鞭が飛んでくる。
うちはかかあ天下だからね…と透たちにはそうこぼしながらも幸せそうである。

 雅人は本家の当主後継のひとりとして母屋で生活しているが、透と隆平の一家は林の中に新築された屋敷に住んでいる。

 透は黒田の仕事を引き継ぐため黒田の許で働いている。
暇そうに見えても黒田は実際にはいくつもの会社を経営している実業家で、その規模は結構大きい。

 修は我が子のように育ててきた透を敢えて手元には置こうとせず、一旦は実の父親である黒田の許に返そうとした。
 しかし、黒田は今さら修から透を奪うようなことをする気はなく、このまま修の息子でいる方が透にとっても幸せだろうと考えた。
 
 ふたりの父親がお互い我が子のためを思って遠慮しあっている…そんな状況を見るにつけて、自分は間違いなく修や黒田に愛されて育ったんだということを改めて実感した。
 どの道、透が宗主である以上は黒田とは暮らせないから、黒田の仕事を引き継ぐことで黒田の息子として…紫峰本家に身を置き、修の傍で暮らすことで修の息子として生きようと透は自らの将来を決めたのだった。

 

 隆平もその向かいに家を建てたが、こちらは学究生活が長かったためにまだまだ新婚さん状態である。
透一家は毎日あてられっ放しというわけだ。

 隆平は藤宮の大学で教鞭をとっているが、時には鬼面川流の総務を務め、瀾と組んで事務方の要のひとりとなっている。
 鬼面川本家の祭祀伝授者としてはまあまあそれなりの能力を発揮するが、舞の才能がいまいちなので舞の伝授者にはむかない。
 むしろ鬼面川とは赤の他人…城崎家の瀾の方が優れた資質を持ち、鬼面川流立ち上げ早々に伝授者になっている。
 ただ惜しむらくは鬼面川一族以外の者の舞には御大親の霊験がなく、そのことだけは瀾がいかに修行をつもうともどうしようもなかった。
 


 稽古を終えた若手が帰ってしまった後の稽古場に史朗は力が抜けたようにへたり込んでいた。
 いまさっきまできびきびと舞の指導をしていた自分が嘘のようだ。
情けない…と史朗は思った。

 修史を後継者に決めたのは自分自身ではないか…。
それなのに…。
 稽古場の姿見に映る今の自分…稽古で鍛え上げたその姿はいまでも決して老けてはいない…老けてはいないが若くはない…。
修史のあの初々しい舞い姿は…もはや自分の中にはない…。

 修史の舞いが修の眼に留まりその力を認められたのは嬉しい…修史を選んだ者として…嬉しいが…哀しい…その眼はもはや修史に向けられている…。

 愚かだ…若手に嫉妬するなんて…おまえは師匠ではないか…。
鬼面川の祭主たる者がなんというぶざまな姿をさらすのだ…。

 いい年をして…みっともない…醜い…。
胸の中に渦巻くものを誰にも打ち明けられず、ただひとりもがき苦しみ、浅ましい心を捨てきれない自らを責め苛む。

 『叔父さま! 雅人叔父さま! 早く来て! お父さまが…! 』 

 母屋の方で和貴と久史の叫ぶような声がして…史朗は我に返った。
階段を駆け下りるけたたましい音…雅人が慌ててとんでいくのが眼に見えるようだった。


 居間のテーブルに無造作に置かれた雑誌の脇で修が腹を押さえて蹲っていた。
このところほとんど発作がなくて出番がなかった雅人は少しばかり安心していたのだが、治っていたわけではなかったようだ。
青い顔をした修の背中をそっと擦り始めた。

 「修さん…気持ち悪いだけ…? 呼吸は大丈夫…? 」

修は無言で頷いた。

 「誰だ? こんな雑誌居間に持ち込んだのは…? 
表紙だけでもお父さまのご気分を害するとあれほど言ったはずだよ。
 そうでなくても小さい子も居るんだから気をつけないと…。
部屋に片付けておきなさい。 」

雅人は和貴と久史を睨みながら片方の手で雑誌を渡した。
 
 「ごめんなさい…。 大丈夫…お父さま?
さっき友だちから借りて…メールしてるうちに置き忘れちゃったんだ。 」

 久史が頭を掻き掻き謝った。
おまえかよ…と修と雅人は同時に思った。

 「まあ…親にも隠れず堂々と…ってのも悪くはないが…。
その手の本はできれば自分の部屋で見てくれ…。 」

修はできるだけ子どもたちに心配をかけまいと努めて穏やかに笑って見せた。

子どもたちが雑誌を片付けに部屋へ行ってしまうと雅人が怒ったように言った。

 「発作…本当は何度も起きてたんだね。 僕に隠してたんでしょう…? 」

背中を擦る雅人の手に力がこもった。

 「いいんだよ…もう…。 生涯このままでいようと決めたんだ…。 」

 修は力なく笑った。
雅人は訝しげに修を見た。

 「昔…史朗がね…修に実の子が授かるなら自分は子を持てなくていい…と願を懸けてくれて…さ。
 そんなの不公平だろ…? 僕だけ幸せになるなんてさ…。
史朗には両親も兄弟もいないんだぜ…僕もそうだけど…ずっと血の繋がった家族を…子どもを欲しがっていたんだから…。
 だから…彰久さんに願を懸けて貰ったんだ…。
僕はこのまま…この病に苦しんでも構わないから…史朗に子どもを…と…。 」

 雅人は言葉を失った。
鬼面川の願掛けのご利益が本当にあるものかどうかは知らないが…ふたりとも自己犠牲が過ぎる…。

 「馬鹿だと思うかい…? 僕は…それでも幸せだから…。
だって桜花(はな)はいい娘だろ…桜花を授かった幸運に比べれば…こんな病気なんでもないじゃないか…? 」

可愛い桜花…史朗の娘…僕の娘…。

雅人はそっと背後から修の肩を抱きしめた。 

 「父さん…僕らの大切な父さん…。 お願いだから…ひとりで我慢しないで…。
症状を和らげるくらい…許してもらえるでしょう? 
もう…治らないなら…少しでも楽にさせてあげたいよ…。 」

そうだな…修は頷きながら笑みを浮かべた。

 「有難う…雅人…次からはまた…おまえを呼ぶよ…。 」



 おばさん…嫌な呼称だわ…。
昼間、通りすがりに落し物を拾ってあげた学生から丁寧に礼を言われたにも関わらず、それを思い出すたびに笙子は胸にちくりときていた。

 会社では社長としか呼ばれないけれど…社員たちだって陰ではあのおばさんなんて呼んでいるのね…きっと…。
 
 「ねえ…史朗ちゃん…齢はとりたくないわねぇ。 」

 …って最中に何考えてんだか…と史朗は溜息をついた。
言われてみれば…そう…笙子さんも少しきてるかなぁ…。
 齢の割には体形もいいし…見た目も綺麗だし…若いし…。
でもやっぱり昔ほどじゃないなぁ…。 

 「男はいいわよね…。多少崩れたって目立たないんだから…。 」

 …んなこと考えてる体勢じゃないと思うけど…。
いいんだけどね…いつものことだから…。
でも…僕だって気にしてますよ…崩れちゃいませんけど…。
どう頑張ったって…絶対…若くはなれないんだから…。 

 そう…もう二度とあの頃の僕には戻れない…修さんに初めて受け入れて貰えたことを無邪気に喜んでいた自分には…。

 「黙ってないで…自分から聞いたら…いいじゃない…? 
もう愛してないの…あの子の方がいいの…って…うふふ。
 史朗ちゃんは元来気骨のある男っぽい人なのに…修の前では私よりもずっと女性的だわね…。
そのギャップが可愛いんだけど…。 」

 また人の心を勝手に読んで…そんな恥ずかしいこと…言えるか…。
雅人くんじゃあるまいし…僕がそんなことを口にしたら冗談では済まなくなる…。

 それに…そんな単純な問題じゃない…。
修さんと僕の間にはとんでもなく複雑な感情が…そもそもあなたがその原因なんだから…。
少しは真面目に…。

 史朗の心を読んだのか笙子はやっと対戦モードに戻る…。
初めての夜以来変わらない…笙子との冗談みたいな夜の営み…。 




次回後編へ












 

最後の夢(第七十二話 その後…)

2006-01-16 23:40:53 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 稽古場に射しこむまだ浅き春の陽だまりにひとり座して、ほころび始めた庭の梅の古木を愛でながら、史朗ははるか過去に思いを馳せていた。

 母屋に寄り添うように新築されたこの稽古場のある屋敷は、修が史朗のために建ててくれたものだ。
 いまや鬼面川流祭祀舞の宗家として世間に知られるようになった史朗だが、少し前まで相変わらず紫峰の修練場で教室を開いていた。

 それほどの規模ではないが彰久や小峰衆も稽古場を持ち教室を開いているのに、
宗家たるものがヤドカリでは格好がつかないだろうと言う者があって、仕方なくあちらこちらの物件をあたってはみた。
 しかし紫峰の家から離れて他所へ移る気にはどうしてもなれなかった。
鬼母川流はここで産声をあげたんだから…宗家だけは…ここに根を張り続けていきたいのだけれど…いけないことなのだろうか…?とひとり悩んだ。

 史朗の気持ちを察した修がまたまた先走って専門家を呼び、母屋のすぐ近くに稽古場つきの屋敷を建てさせた。
 新しい家くらいは自分でどうにかするつもりだった史朗は、いつもながらの修の度を超えたお節介に困惑し天を仰いだ。
 それでもマンションの時のことを思い出して溜息半分苦笑いしながら修の厚意を有り難く受け取ることにした。
そんな経緯があってこうして紫峰の敷地内に木田の表札を出させてもらっている。
 


 あれから何年になるのだろう…。
楽な道ではなかったが紫峰の家族やその一族、彰久を始めとする鬼面川の一族に藤宮家…そして城崎家にも助けられてようようここまできた。
 鬼母川流の立ち上げに修とともに心から協力してくださったお祖父さま…一左は今は御大親の御許におられる…。 

 「お父さま…宗主が戻られました。 」

 出入り口の扉の向こうから桜花(はな)の声がした。
美しい娘に成長した桜花はいま14才…史朗のひとり娘…授かるはずのなかった実の娘だ。
 笙子は三人立て続けに子どもを産んだが、長男の和貴(かずき)、次男の久史(ひさし)は修の子で、たったひとり生まれた女の子が史朗の娘だった。
 修のために諦めたはずの我が子だったが鬼母川の御大親は慈悲深く史朗にこの上ない贈り物を下されたのだった。
 
 但し御大親は桜花を宗家の後継者にすることを望まれなかったようで、そのことが今、史朗にとって頭の痛い問題となっていた。

 周りに大勢男の子が居る中の初めての女の子だったこともあって修は桜花を我が子以上に可愛がっており、いつか史朗の後を継いでくれるようにと願っていた。

 確かに桜花には才能があり最高レベルの伝授者ではあるけれど、史朗は桜花よりも彰久の長男修史(ひさふみ)の天性の才能を高く買っていた。
 また、次男の彰史(てるふみ)も相当な力を持っており、このふたりを差し置いて桜花に後を継がせることなど到底考えられなかったし納得できなかった。
 
 鬼母川流は史朗と彰久が主になって立ち上げたには違いないが、後ろ楯になってくれた修と史朗が生み出した子どものような存在でもあり、修が居なければ影も形もなかったものであるだけに修の意思に逆らうようで心苦しかった。

 扉が開かれると、修と彰久、彰久の息子たちが連れ立って稽古場へ入ってきた。
その後から桜花が姿を現した。

 「史朗…鬼母川の子どもたちの舞を見せてくれるそうだね。 」

 何も知らされていない修が楽しげに言った。
史朗は微笑んで頷いてから、修史、彰史、桜花に舞を披露する用意をさせた。

 先ずはひとりずつ『実り』など比較的短いものを舞い、それぞれの成長した姿を修に見せた。
それぞれにいい出来だ…と修は思った。

 史朗が無言で指示を出すと、修の前に三人が並び同じものを同時に舞い始めた。
修の好きな『夜桜』を始め、『夕立』、『雪嵐』と難しいものが次々に舞われた。
 修は気軽な気持ちで可愛い桜花の舞を中心に見ていたのだが、次第に三人の中のひとりの舞に釘付けになった。

 修史の舞…まだ未熟ではあるが…それは確かに史朗の舞を受け継ぐもの。
こうして舞い比べると格段に差が見えてくる。
修は鋭い視線を向けて修史の一挙一動を観察した。

 すべての舞が終わると史朗は三人を労いながら稽古場の外に出した。
稽古場には修と史朗、彰久だけが残った。

 「史朗…いい後継者が出来たな…。 」

 史朗の思惑を見透かしているかのように修はそう言いながら笑みを浮かべた。
史朗は無言で嬉しそうに頷いた。

 「今はまだ荒削りだが…近い将来きっと輝く。 僕は新しい宝石を見つけた。」

 修は磨き甲斐のある宝物の出現に心底わくわくしているようだった。
それを聞いて史朗はほっとしたように彰久の方に顔を向けた。

 「彰久さんはどう思われます? 」

史朗に問われて彰久はいつものように落ち着いた表情でふたりを交互に見た。

 「桜花の舞は…どうやら僕に似たようですね。
伝授した者としては…それはそれで誇らしくもあるが…。
 宗家の舞を引き継ぐべき者としては…公平に見まして修史の舞が史朗くんに最も近いかと…。 」

 彰久は何の衒いもなく我が子を推挙した。
史朗は従兄彰久を祭主の鑑として尊敬し実の兄のように慕ってきたが、彰久もまた史朗の舞をこの上ないものと評価し畏敬の念を抱いていた。
 それゆえ史朗の舞自体を受け継げる者でなければ、たとえ史朗の実子桜花であっても宗家の後継者として認めるわけにはいかなかった。

 「では…宗家の後継は現段階では修史ということで…。 」

 史朗が晴れやかな顔をして宣言した。修も彰久も異存はないと答えた。
お祖父さま…お蔭さまで鬼母川流にもとうとう二代目が誕生しますよ…史朗は一左の御霊にそう報告して手を合わせた。



 後継者と言えば問題ありの城崎翔矢は…いま受験塾でトップクラスのカリスマ数学講師として活躍していた。
 翔矢は紫峰家に預けられている間に、修の家族や屋敷に出入りする様々なタイプの人たちから刺激を受け、おおいに鍛えられて学んだ後、悪さをする危険性がなくなってから城崎の家に戻ってきた。

 しばらくは城崎や久遠の手伝いなどをしていたが、もともと頭脳の方はすこぶる優秀であるにも拘らず、城崎家の人々からどうしても幼い子ども扱いされてしまうことに閉口した。
 いい加減うんざりした翔矢は齢相応に扱ってもらえるように何か自分に出来ることはないかとあれこれ思案した。

 そんな折、瀾が一般教養の科目である数学に手を焼いているのを傍で見ていた翔矢が事も無げに問題を解いて、数学の苦手な瀾にも分かりやすく解説した。
 驚いた瀾が修に報告したのがきっかけで藤宮学園高等部受験塾の講師採用試験を受けることになったのだった。

 監視付きでの通学とはいえ、もともと理数に秀でた大学を優秀な成績で卒業したわけだから数学に強いのは当たり前で、その特異な性格や行動も学者肌や変わり者の多い藤宮学園の職員気風にもぴったりとはまったらしく、採用されたその時点で定年退職したベテラン講師のクラスをすんなり引き継いだ。

 塾生たちからは翔矢ちゃんと呼ばれながらも同年代のような気安さで分かりやすく解説してくれる先生として受け入れられた。

 ただ…講師同士の付き合いとなると子どもっぽい翔矢にはどうしてもついていけないところが出てくるため、修は唐島に白羽の矢を立てて翔矢の面倒を見させることにした。
 唐島は高等部の方の教師だが週に何度か受験塾でも国語を担当しており、翔矢と講師仲間との顔繋ぎや補佐には持って来いだった。

 勿論…雅人は激怒した。
後遺症の原因となった唐島を修が知人として受け入れているのを見ると、歯がゆさと情けなさで泣き出したいくらいだった。
修は…あいつには貸しがあるから…となんでもないことのように笑った。

 あの翔矢がまともな仕事に就いて、しかも立派に成績を残しているという情報は樋野家を驚愕させた。
 翔矢が社会に適応できるようになるとは樋野の誰も考えていなかったからだ。
後継者問題が再燃するかと思われたが事態は意外なところで決着を見た。

 久遠が樋野の忠正の娘を嫁に貰ったのだ。
あの事件の後、忠正の長女咲が婚家先から出戻ってきたのだが、久遠とは高校の時の同級生でお互いに結構気が合っていた。

 樋野からは時々縁談話が来ていたので、どうせなら気が置けない咲を嫁に貰いたいと久遠が忠正に掛け合った。

 忠正はこれを好機と見て取った。
本家の血を引く久遠が夫で後ろ盾なら咲を長に推してもいい。
 そうすればわざわざ城崎家の子久遠や翔矢を連れてくる必要は無く、久遠と咲の間に生まれるであろう子どもの誰かを樋野の長の後継にすればいいことだ。
樋野としても万々歳…。

 言わば樋野と城崎の利害が一致したわけで、久遠は目出度く咲と一緒になった。
咲は樋野の長だから取り敢えずは別居結婚ということになるが…修と笙子の場合もそうだし…独り身が長かった久遠は慣れもあってお互いに行ったり来たりの生活にそれほど不自由を感じなかった。
 
  

 修の内妻にも雅人の子の母親にもなれなかったが、鈴はいま紫峰家にとって欠くべからざる地位を獲得していた。
本家取締り役のはるの後を引き継いだのである。

 笙子と修の長男和貴のベビーシッターになった鈴は、笙子の都合で時々和貴を本家に連れてきて世話をすることがあったが、その姿に西野が惚れた。

 心優しい西野の誠意ある申し出を鈴は嬉しく思った。
紫峰の人々も西野の伯母はるも心から賛成してくれたので、少し迷いながらも再び嫁ぐ決心をしたのだった。
 鈴の家格は西野よりずっと上ではあるが、二度目の結婚ということでもあり、雅人の手が付いていることは周知の事実で、鈴の家族は何ら文句を言わなかったし、かえって鈴の落ち着く先が決まったことを喜んでさえいた。

 
 
 翔矢の面倒を看るようになってからも頼子は相変わらず修には熱を上げていた。
雅人の記憶ではとうとう根負けした修と1~2度そんなことがあったような気がするが、お互いに執着するような関係にはならなかった。
 翔矢のこれからを心配する城崎の願いを聞き入れて頼子は翔矢と所帯を持ち、頼りない翔矢をしっかりと支えている。

 何もかもが夢のように過ぎていったが、この10何年かの間には本当にいろいろなことがあった。
 あの事件以降も修さんときたら性懲りもなくいろいろなことに首を突っ込むものだから…命の縮む思いを何度したことか…。
その度に史朗さんも大変な思いをしてきたんだから…。

 だけど…史朗さんにとって一番つらいのは今かも知れないな…。
大きく溜息をついて雅人は、修たちと一緒に稽古場から出てきた史朗を見つめながらそう思った…。

 




次回 最後の夢 最終回へ









最後の夢(第七十一話 ベビーシッター)

2006-01-14 00:01:18 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 紫峰家が樋野家と城崎家の諍いの仲裁者として介入したことは紫峰自身は無論のこと他家の者も誰ひとり他言しなかった。
 しかし、その筋の眼は何処にでも光っているものらしく、世の中には樋野と同じように紫峰のことを伝え聞いている者もあるようで、大戦前にすでに途絶えていた裁定者としての地位が再び復活したかのように伝わっているらしかった。

 そのような問い合わせがあるたびに今更在りえぬ話だと否定した。
いまやほとんどの家がその能力を隠し、普通人として自由気ままに生活しているというのに、裁定者として再び立つなど御免被りたいというのが宗主の本音だった。

 紫峰宗主は最悪の奥義の伝授者…その荷を背負うだけでも十分に重い。
個人的な繋がりがあるのでなければ他の一族と関わるつもりなど毛頭ないし、縁も所縁も無い者に要らざるお節介など焼きたくもない。

 紫峰に関する言い伝えや古書が残っているような古い家系は、現在ではそれほどの数が残存しているわけではないとみえて、しばらくするとまた静かで平穏な生活が戻ってきた。

静かで…平穏…?



 新生児室のベビーベッドの上に居並ぶ赤ん坊の中で、一際大きな声を張り上げて泣いているのは修の長男和貴(かずき)、その隣で大人しく指を銜えながら和貴の方を見ているのは彰久の長男修史(ひさふみ)…残念なことには鈴と雅人の子どもは度重なる不調のためにこの世に生きて産まれてくることができなかった。

 雅人は鈴がぎりぎりまで必死で頑張ってくれたことに感謝したが、生まれてくるのを心待ちにしていただけに、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
 長いことずっと頑張ってきた鈴さんはもっとつらいんだろうな…と思い、鈴の前では努めて明るく振舞った。

目の前で鈴が溜息をついた。

 「おっぱいがこんなに…溢れるくらい出てくるのに…飲んでくれる赤ちゃんがいないんですねえ…。」

 寝巻きの胸のところが沁みになっていた。
その姿が痛々しくて雅人には何も言えなかった。

 呼び鈴が鳴って史朗が顔を出した。
こんな時どう言っていいのかは分からないが世話役としてはどうしても来ないわけには行かなかった。

 「具合はどう…? 」

 恐る恐る史朗が訊いた。
鈴はにっこり笑って大丈夫です…と答えた。

 「笙子さんや玲子さんは…? 」

 鈴が子どもを失ったのと同じ頃に男の子が生まれたことを鈴は伝え聞いていた。史朗の表情が少し曇った。

 「玲子さんは問題ないんだけどね。 笙子さんはちょっと具合が良くないんだ。
おっぱいが全然出なくてね…ひどく落ち込んでるよ。 」

鈴はちょっと小首を傾げて考えると、急に思いたったようにベッドから降りた。

 「雅人さん…笙子さんのところへ行くわ…。 」

 長いことあまり動かない生活を強いられていた鈴は覚束ない足取りで笙子の部屋へ向かった。

 笙子の部屋にはちょうど修が来ていた。
鈴が姿を現すとふたりは驚いたように鈴の顔を見た。笙子は自分の経験から鈴は当分ショックから立ち直れないだろうと思っていたのだが意外に元気そうに見えた。

 「おめでとう…男の子だったのね。 」

 笙子のベッドの横に設置されたベビーベッドの中には授乳のために連れてこられた和貴がいた。
鈴はいとおしげに赤ん坊を見つめた。

 「いい子が生まれてよかったわねぇ…。 」

鈴がそう言うと笙子が溜息をついた。

 「前のことがあるから…無事生まれてくれたのは本当に有り難いんだけど…。
おっぱいが出ないのよ…。 粉ミルクに頼るしかなさそう…。

 それに…私はすぐにでも復帰しなきゃならないんだけど…時間が不規則だからなかなかすぐには良いベビーシッターが見つからなくてね…。

 問題山積なのよ…。 」

 笙子は敢えて普通の会話を心掛けた。鈴を慰めるような言葉は避けた。
慰めの言葉なんか耳に入らないだろうから…。

 「笙子さん…それ…私にやらせてくれない?  」

ええっ…とその場のみんなから思わず声が漏れた。

 「私の身体が回復するのは少し先だろうけど…おっぱいはすぐにあげられるわ。
そのうちに全面的に世話をしてあげられるようになると思うの。

 私がベビーシッターなら笙子さん…時間を気にしないで仕事できるでしょう?
月曜から金曜までマンションに居て土日は本家に帰る…そんな感じでどうかしら?

 勿論…ちゃんとお給料は頂くわ…。
長老はとてもお元気だからお世話といっても何もすることがなくて…。 」

 笙子は思わず修を見た。いいよ…と修は頷いた。
笙子は和貴を抱き上げると鈴の傍に連れてきた。

 「お願いできる? 」

 笙子の腕から和貴を受け取った鈴はみんなの見ている前で堂々と胸をはだけ、そのふくよかな乳房を和貴に吸わせた。
 満足げに空腹を満たす和貴の表情に鈴は思わず微笑んだ。
和貴が満腹になって眠ってしまうまでの間…時は穏やかに流れた…。
 


 紫峰の修練場でひとり祭祀を行っている史朗を彰久は不思議そうに見ていた。
何かのお礼の報告と感謝の言葉を御大親に奏上しているようなのだが、良いことがあった割には何処と無く寂しそうでもある。  

やがて祭祀を終えると彰久の方を振り返った。

 「無事…修さんに長男が生まれたので…御大親に御礼を申し上げていました。」

史朗は微笑んでそう話した。

 「御大親に…史朗くん…あなた…まさか願懸けの祭祀を…? 」

 彰久は心配そうに訊ねた。
御大親に願を懸ける時には願を懸ける者は何かを犠牲にしなければならない。

 「ええ…もし…修さんにひとりでも子が授かるなら…僕には子を与えてくださらずともよいと…。 」

 なんという…彰久は心を痛めた。史朗には親も兄弟もいない。
それゆえに史朗がどれほど自分の子どもを欲しているか…彰久は知っていた。
その気持ちを犠牲にしてでも…修のために…。

 「御大親がお聞き届けくださった以上…僕に子が授かることはないでしょう…。
鬼面川の祭祀舞を引き継ぐのは彰久さんのお子たちということになりましょうか。
この史朗の舞は一代限り…。 」

 史朗は立ち上がると『夕立』を舞い始めた。
時々刻々移り往く自然現象の微妙な変化をも舞い分けるその神業とも言うべき史朗の…閑平の表現力…。
見事という他なく彰久はただ感嘆するばかりだった。



 倉吉の報告では翔矢がかけた敏の暗示はすっかり解けて今は素直に取り調べに応じているらしかった。
 ただ…城崎と久遠のために翔矢のことはすべて内緒にしていて、昭二を殺した理由は裏切られたと誤解したからだと説明しているようだった。

 解決しても後味の悪い思いが残る…嫌な事件だった。
誰をどう非難したところでどうにもならない。
やり切れない気持ちと折り合いをつけるのが唯一救われる道だった。

 妻を亡くしたとはいえ瀾と久遠が戻ったことで城崎家は昔の活気を取り戻した。瀾は大学と祭祀舞の稽古とで忙しくしていたが、以前とは打って変わって家業の手伝いもするようになり城崎を喜ばせた。
 久遠は城崎の家業の他に自分の店もそのまま続けていたが、樋野の圭介と佳恵に代理を任せ、日常の業務にあたらせることにした。

 翔矢の再教育以外はまるですべてがもともとそうであったかのように何事も滞りなく過ぎていった。 
 




次回へ


最後の夢(第七十話 能力者の裁定人)

2006-01-12 23:53:45 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 久遠より少しだけ小柄で同じように細身の翔矢は修よりずっと年下に見える。
どちらかと言えば瀾に近く、似てはいるが久遠と並んでも双子には到底思えない。
 年下の修にこれだけべったりと甘えていてもそれほど違和感がないのはその見た目の幼さと陽菜によく似ているという女顔のせいなのだろう。

 「ねえ…気付いていたなら…どうして幼児だとか赤ちゃんだとか嘘言って…僕に合わせてくれたの…? 」

翔矢は甘ったるい声で訊いた。

 「嘘じゃないだろ…怒りが支配した時のおまえはまるっきり赤ん坊…甘える時は幼児そのもの…。
 だけどおまえの本当の感情年齢は…まあ…14~5ってところだな…。
その演技力で8歳くらいに見せてはいるけど…。 
 みんな誤解しているが…おまえは頭脳に問題があるわけじゃない…。
ただ行動や感情面が幼稚なだけさ…。 」

 当面の課題はその精神的未熟さからの脱却だな…と修は胸のうちで思った。
鼻先でふふんと笑いながらも翔矢の肩が少し震えているのが修の手に伝わった。

 「伯父さまには…優しい顔もあったんだ…。 僕が赤ん坊で居る限り…それほど酷いことはされなかった…。 
 ただ甘えていれば…勉強以外何もできない振りをしていれば…優しかった。
僕が自分で判断したり…行動したりすると怒り狂って…久遠を殺すぞって…。
久遠のこと言われると僕抵抗できないから…どんな暴力を受けても黙ってた。
 おかしなことに城崎家を不幸にすることなら何をしても子供の悪戯だと笑って見ていたけど…ね。」

 邦正には内緒で伯母の珠江ができる限りの手を尽くしてくれたお蔭で、完全な幼児化は免れたし、ある程度は大人の考えも持てるようにはなったが、そのことを表面上は隠しておかなければならなかった。

 「樋野の為でもあるんだよ…。 伯父さまは自分以外の誰かが長になる力を持っていると疑っただけで、無情にもその人を叩き潰そうとする。
長老衆のひとりが目をつけられて嘆いているのを耳にしたことがあるよ。
 本家に僕という存在がある限り他に後継者は出てこないから伯父さまの天下は続くだろうし、僕なら伯父さまの言うなりだと信じているから安心しているんだ。
安心していれば誰にも攻撃しないだろうからね…。 」

 翔矢は未熟なりに長として一族を護る方法を考えていたようだ。
もし翔矢が居なければ長と長老衆の間で同族同士の壮絶なバトルが繰り広げられていたかもしれない。
 我慢に我慢を重ねてきた翔矢だが…爛のマスコミへの登場をきっかけに耐えられなくなった。
 久遠が思い出してしまう…城崎に帰ってしまう…。
僕を置いていかないで…ひとりにしないで…もうひとりでは堪えきれない…。

 「…許してくれないね…きっと…久遠も…瀾も…。 」
 
犯した過ちの大きさを思い黙り込んでしまった翔矢の頬を涙が伝った。

 「時が経てば…久遠や瀾とも仲良く暮らせるようになるさ…。 」

宥め諭すような修の言葉を聞きながら翔矢はただ…無言で何度も頷いた。



 城崎衆のひとりに連れられて先に紫峰の屋敷まで逃れてきていた頼子と佳恵は心配と不安で一睡もできずにいた。
 西野の知らせで無事帰ってきたと聞くや、隊列を組むように何台も連なって戻ってきた車を出迎えるため表門のところまで大急ぎで駆けて行った。

 翔矢の姿を見るとさすがに引いたが時間の経過と共に慣れてしまった。
子どもっぽい翔矢の姿や仕草が彼女たちには何となく可愛く見えたらしい。
 頼子なんぞ相当痛い目に遭わされたはずなのにそんなこと微塵も感じられないほどの世話焼き振りだった。

 修の方を伺いながら…あっさり乗り換えられたかもね…と透が雅人に囁いた。
ま…翔矢の方が母性本能を刺激するんじゃない…と雅人が相槌を打った。
 これで修さんはプリンちゃんから解放されるわけ…?と隆平が訊いた。
プリンちゃんはいいけどさ…子猫が一匹増えちゃったわけよ…しかも♂のわけあり…雅人が肩を竦めた。

 なんか修さんの周りって男ばっかりだよね…晃が言った。
そうそう…あのお姉さまは結構修さんの好みのタイプだったんだぜ…でも結局残ったのは♂の子猫。
 宗主…女好きのわりには女運が悪いようですな…と悟が気の毒そうに言った。
良いんじゃないの…男には十分もててるからさぁ…瀾が冗談ぽく笑った。

 子どもたちがそんなこんな取るに足らない話をしている間に、修と一左、城崎、久遠の間で翔矢の今後のことが話し合われた。

 修が特に注意を促したのは、翔矢が他人を利用して人を殺めたのは事実で、これは絶対に許されない行為…弁解の余地は無いのだということを本人にしっかりと自覚させ、周りもその点については感情に流されないようにするということだった。

 細々とした取り決めの後、城崎は頼子と佳恵を連れて一先ず引き上げていった。
長期滞在をしていた爛は帰宅の準備のため、久遠は慣れない生活の始まる翔矢のために帰宅を一日延ばした。

 父親を見送って戻ってきた久遠は縁側のところでぼんやり東屋の方を眺めている史朗を見かけた。
 
 「腹の怪我は大丈夫か…? 」

久遠はそう声をかけた。

 「ああ…もう平気だ…。 」

史朗は腹を撫でて微笑んで見せた。

 「なあ…史朗…宗主はおまえだと分かっていてなぜ攻撃したんだ? 」

訊くか訊くまいか迷った挙句、久遠は理解できない修のあの攻撃について訊ねた。 
 「樹の御霊だからだよ…。 紫峰では樹に背くような行為は許されない。
透くんたちは樹に刃向ったあんたを庇ったから同罪と見なされたんだ。
 あのまま子どもたちを攻撃して怪我負わせたら修さん自身が苦しむだろう…?
それで僕が身代わりになっただけ…。 」

それでも十分苦しむと思うが…と久遠は思った。

 「修と樹は同じ人物なのに…攻撃を止めるわけにはいかなかったのか? 」

史朗は溜息をつきながら頷いた。

 「千年以上も前からの決まりごとなんだ。 
樹の御霊に背いたとみなされた者は身をもって潔白を証明しなさい…ってね。
代々宗主が樹の代理を務めているわけだけれど…修さんは本物だから厳しいよ。
 大丈夫…逃げようとしたり反撃したりしなければ、少し痛い思いはするけれど見殺しにはされないから…。 」

 史朗はまた久遠に向かって微笑んだ。
千年…そんな決まり取っ払っちゃえばいいだろうが…と久遠は呆れ顔で言った。

 「紫峰の立場がそうさせるんだよ。
信じないかも知れないけど…彰久さんと僕は修さんと同じで千年前の鬼母川の祭主の生まれ変わりだ…。
 当時の紫峰家のことも少しは覚えている…。
紫峰と藤宮は他の一族とはいつも距離を置いていた。

 それはその能力の特殊性からいって存在の独立性を保つためと言われているけど『生』の藤宮『滅』の紫峰は本当は能力者たちを裁定するために中立を図る必要があったんだ。
 おそらく朝廷が決めたことではなくて、能力者たちの間で自然発生的に『滅』の紫峰が裁定者になっていったということなのだろうけれど…。 」

 樋野が紫峰家を畏れた訳がそれで納得できた。
久遠たち300年程度の家柄では知り得ぬことだが、さらに古い家系では未だに樋野のように紫峰を裁定者と見做している一族が存在するに違いない。

 「それで…厳しすぎるほど厳しい決まりごとに縛られて生きているって訳か…。
何だかなぁ…って感じだよ。 」

 修ほどの男が旧態依然とした決まりごとに甘んじているとは…ね。
久遠は少し興醒めた。

 「理由はそれだけじゃない…。 何と言われようとそうせざるを得ないのさ。
紫峰の最悪の処刑奥義『滅』を封印しておくためにね…。
宗主は封印の鍵だから鍵を壊そうとする者に対しては容赦ないんだ。
『滅』は相伝とともに宗主の身体に受け継がれていく。
宗主の精神力だけが鍵となる。 それ自体が超原始的なんだから…。 」

 処刑って…久遠は慄然とした。
その気になれば修は…本当に人を殺せるってことか…?
史朗の時のように後から助けるなんてこともせずに…か?

 紫峰の名を聞いて樋野の長老衆が可笑しいほどうろたえていたその姿が、いまの久遠には笑えないものとなっていた…。





次回へ











最後の夢(第六十九話 恩と仇)

2006-01-10 19:02:46 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 その痛みは…勝手に樋野の家を出た罰だ…。
二度と逃げ出すな…今度逃げ出したら久遠を殺す…。

古い記憶が翔矢に襲い掛かった。翔矢は怯え両手で頭を抱えた。

 逃げないよ…もう逃げたりしないよ…。
お願い…久遠を…殺さないで…。

 苦痛に耐え切れず叫ぶ声が部屋中に響き渡る。
久遠…久遠…苦しいよ…痛い…よ。

 翔矢から伝わってくる過去の恐怖が久遠の中の鬼を呼び覚ます。
俺の名を利用して…翔矢に何をした…。
 翔矢が俺にしたことは…すべて貴様が翔矢にしたこと…貴様が翔矢の身体に叩き込んだこと…。

 許せん…修が何と言おうと…俺と弟にこれほどの地獄を見せておきながらその恩人面…。
目覚めた鬼は見る間に久遠のすべてを支配していく。

 「修! 手を出すな! こいつは俺がやる! 」

久遠は形相凄まじく修に向かって叫んだ。
 
 「死ぬがいい…俺がこの手で殺してやる! 
よくもここまで翔矢を苦しめてくれたな…翔矢が犯した罪はすべて貴様が翔矢に教えこんだことではないか! 」

 久遠が初めて伯父に向かって暴言を吐いた。 
邦正は思わず怯んだ。
まさかあの穏やかな久遠が自分に反抗するなど有り得ないと考えていたのだ。

 邦正以上に透と雅人が慌てた。
久遠は宗主の眼前に飛び出て行きかねない勢いだ。
いま出たら命が危ない。

 「悟! 晃! 久遠を抑えろ! 宗主に近づけるな! 
瀾! 翔矢を! 」

 瀾は急いで翔矢の身体を庇うように支えた。城崎も彼等に身を寄せた。
透の一声で悟と晃が背後から久遠を抑え宗主の視界の外へ引き戻そうとした。
それを振り払おうとするのをさらに透と雅人が押し戻す。

 修の青い視線が瞬時にそれを捉えた。
雅人がやばい…っと思った瞬間、史朗がスクラム状態になって動けない透と雅人の前に立ち楯になった。

 氷柱のように鋭く青く凍てついた焔の矢が史朗を目掛けて放たれた。
その矢を史朗は敢えて避けようとはしなかった。
腹を貫いた矢を握り締めたまま、史朗はその場に崩れ落ちた。

 久遠は我が眼を疑った。
修は表情ひとつ変えていない。邪魔をする者には当然の報いだと言わんばかりだ。
なぜだ…おまえの愛人だろう…?

その場の誰もが衝撃を受けた。紫峰の非情さを目の当たりにして…。

 「史朗さん! なんてことを…。 僕等を庇うなんて…。 」

 透が史朗を支え起こした。
雅人は急いで史朗の腹から矢を抜き出血を止めようとした。
 
 「久遠さん! 前にも言ったでしょう! 不用意に樹の御霊に近付いてはだめだと! 無礼は許されないんだよ! 」

 雅人は久遠を咎めるように怒鳴った。
呆然としている久遠に史朗は弱々しい笑みを向けた。

 「大丈夫…急所外れてるから…。 彰久さんが…傍に居てくれたから…。
雅人くん…少し待って…。 」

 彰久…ああ…もうひとりの鬼母川の祭主の名だ…と久遠は思った。
傍に…? どこか離れた所から思念を飛ばしているのか…?
 久遠の疑問を余所に、史朗は痛みを堪えて起き上がると少し前に進み出て修に向かって平伏した。

 「樹の御霊…鬼母川の史朗…誠に差し出がましいことを致しました。
どうか…お慈悲を以ってお許しくださいませ…。
 
 改めて樹の御霊にお願い申し上げます。
邦正の如き卑小の魂を滅するために…御霊の神聖な御力を穢してはなりませぬ。
どうか御怒りを御収め頂きたく…。

鬼母川の御大親の御心を御伝え申し上げる次第にございます。 」

 史朗の痛々しい様子に眼を向けるでもなく修はただ邦正を見据えていた。
目の前で味方側の者にさえ容赦のないところを見せ付けられた樋野の衆は身動きひとつできず、どうなることかと息を呑んで宗主と史朗…そしてやや臆した邦正に視線を向けていた。

 「下がれ…。 」

 修は史朗の顔も見ることなく言った。
史朗は手をついて再び深く頭を下げて退いた。
透や雅人の傍まで来るとさすがに苦痛に顔を歪めた。

 修を取り巻く澄んだ青の焔がほんの少し紫を帯びた。
史朗はそれを眼にすると少しほっとしたように頷いた。

 「済まん…史朗…俺のせいで…。 」

 久遠は史朗の前に膝を折って史朗の顔を覗き込み申し訳なさそうに言った。
雅人の治療を受けながら史朗は軽く微笑んだ。

 「いいんだ…。 これくらいの覚悟はいつでもできている…。 鬼退治さ…。
あの人にこれ以上…苦しい思いをさせたくないから…。 」

 彰久さん…有難う…どうにか…透くんたちを護ることができましたよ。
そう史朗が呟くと…どこからともなくどう致しましてと返す声が久遠の耳にも聞こえたような気がした。



 修はそっとあたりを見回した。樋野の衆の恐れおののく顔が見えた。
邦正の先ほどまでとは打って変わった怯え顔に思わず冷たい笑みを漏らした。

 「樋野の邦正よ…。 命までは取らぬ…。 
鬼母川の史朗がおまえの命乞いをしてくれたこと…恩に着よ…。
あれは…おまえに見返りなど求めぬ…恩とはそうしたものだ…。 

 諸々の罪と悪心の報いにおまえの力を消滅させる。
おまえは今後…翔矢のいた座敷牢で残された時を過ごすのだ…。 
翔矢の苦しみがどれほどのものであったか身をもって味わうがいい。

 樋野の衆よ…それでよいかな…? 
おまえたちの長であった者のことだ…よく考えて返答せよ…。 」

 修は忠正と珠江を見た。
ふたりは顔を見合わせて頷きあい、了承を得るべく他の長老衆にも眼を向けた。
 長老衆はこれまでの幾多の惨状から慮って、邦正の暴虐な行動が今に非ずともいつか確実に樋野に滅びの道を歩ませることになるだろうという懸念を抱き、了解の意味で忠正と珠江に向かって深く頷いた。

 「紫峰の宗主よ…我々に異存は無い。
同族に滅びを導く者は長に非ず。 ただ肉親の情として命乞いをするのみ。 」

 忠正は史朗がしたように平伏して答えた。
樋野衆が後に続いた。

 何を馬鹿な…と邦正は叫んだ。
修は左の手のひらを上に向け、青の焔を勢いよく立ち上らせた。
焔は邦正を目掛け突進した。
 避ける間もなく全身を青の焔に包み込まれた邦正は呼吸もままならぬかのように天を仰いで口をパクパク動かし喘いだ。

 珠江が眼を背けた。
どれほど冷酷な性格の男にせよ、長年連れ添った夫の無残な姿を正視することは夫婦の情としてできなかった。

 やがて焔は吸い込まれるように修の手のひらに戻った。
修の全身を覆っていた青の焔は次第に勢いを失い…薄れ消えていった。

 樋野の屋敷に漂っていた凍てつくような冷気はいつしか消え去り、あたりは平穏な空気に包まれた。

 ぼんやりと文字通り力が抜けたように邦正は宙を見つめていた。
正気は正気らしく忠正の呼びかけにきちんとした言葉を返した。
もっと酷い状態を想像していた樋野の衆はほっと胸を撫で下ろした。

 「修さん…修さん…助けて! お願い…史朗さんが…。」

 史朗の手当をしていた雅人が悲鳴を上げた。
傷自体はたいしたことのないものなのに史朗はだんだんぐったりしていく。
雅人にはどうしていいか見当がつかない。

 修が史朗や子どもたちのいる方へ近付いてきた。
雅人が懸命に手当てをしている史朗の傷はただの傷ではなく、その傷を受けた場所から次第に全身を蝕んでいく類のもので、雅人がどう頑張っても止血するのがやっと…修自身が矢に込めた業を解かない限りは…。

 修は史朗の前に跪くとそっと史朗の傷に触れた。
史朗の傷口から青の焔が修の手の中に吸い込まれた。  

 「ごめんなさい…修さん…余計なことして…。 」

 史朗が呟くように言った。
修は無表情に頷いた。雅人がほーっと溜息をついた。

 なぜ…俺じゃないんだ…? なぜ…俺を庇ってくれた者たちに攻撃を…?
久遠はそう訊ねてみたかった。 

 だが…個人的な話をする間もなく、城崎と樋野の手打ちの式が再開され、今度は邪魔をするものもなく滞りなく儀式を終えた。
 これで樋野家と城崎家は正式に親戚関係を結んだことになる。
陽菜の時には城崎家の勝手な都合で本家と城崎本人だけの個人的な付き合いに終わった関係がようやく一歩前進した。

 久々のお祝いムードに華やぐ樋野の一族を尻目に、縁側でひとり茫然と庭を見つめる普通の老人と成り果てた邦正を長と呼ぶものはもはや誰もいなかった…。
 


 再教育と称して引き取られていく翔矢は修を待っていた黒塗りの高級車のシートに大人しく身体を沈めて、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 他の者は皆自分たちの車で帰途につき、今後の相談もあることから、紫峰家で待ち合わせることになってはいたが、わざわざ大好きな久遠と別の車に乗ったのは、修の内緒話を聞くためだった。

 「そろそろ…芝居はやめにしないか…翔矢? 」

 修は翔矢の顔を見ることもなく静かにそう言った。
翔矢は少し驚きながら…それでもなんでもないことのようにふっと笑った。

 笑いながら翔矢は修母さんの肩に頭をもたせ掛けた。
だって…そうしないと…生きられなかったんだもの…。
もう…ほとんど壊れかけていたんだもの…。
ううん…完全に壊れてたのかも知れないよ…。

 修は微笑んでそっと甘えっ子の肩を抱いてやり…やっと鳥籠から脱出できて安心している翔矢の髪を撫でてやった…。

 


次回へ

最後の夢(第六十八話 静寂の鬼)

2006-01-08 23:58:57 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 否…とは言えなかった。
後継者翔矢に拘ったのは樋野側…城崎でも紫峰でもない。
万が一奇跡でも起きて翔矢が長として立つに足る者に成長をしたとすれば、それは樋野にとって喜ぶべきことと考えても良いのではないか…。
まあ…無理だろうが…。

 邦正があの体たらくでは後継がそれほどの者でなくても文句は言えまい。
あの邦正の許でここまで樋野が平穏に過ごしてこられたのは長夫人の珠江が黙ってしっかりと後見を果たしていたからだ。
 普段は良い男なのだが…怒るとまるで人が変わる。
翔矢じゃないが本当に人殺しもしかねないほどに滅茶苦茶なことを考える…。
陽菜の方がよほど長に向いていたのに早世したのは惜しいことだった。

 忠正は大きく溜息をついた。
他の長老衆とも顔を見合わせ暗黙の了解を得た。

 「翔矢が立ち直った場合には…樋野は翔矢を真の長として迎えましょう。
決して傀儡には致しません。 粗末にも扱いません。 
宗主…城崎の長…この旨誓って相違ございません。  」

 城崎は驚いたように修の顔を見た。
修は穏やかに笑みを浮かべながら頷いた。

 「では…翔矢の再教育…紫峰がお引き受けいたしましょう。
仮に翔矢が戻ってくるとして…それまでの間は樋野ではどなたが長代行になられますか?」

 忠正は考えた。
自分でもよいが…邦正の手前もある。珠江なら代理としては問題あるまい。
何事かあった時には自分が動けば済むこと…。

 「長の内室に…代行させようかと思っております。
珠江はわりと近い身内で樋野の血を引いておりますし、今までも本家の要でありましたから誰にも異存は無いかと…。 」

忠正は思うところを述べた。

 「それは重畳…。 忠正さんも当然…後見に就かれるのでしょうな。
なに…紫峰家としては樋野のお決めになることに口出しをするつもりはありませんが、今後の連絡先のこともありますからね…。 」

 珠江夫人が樋野の長の席についたところで樋野と城崎は紫峰を仲介として両家和解の手打ちを行う運びとなった。
 城崎としてみれば腹に据えかねることも多々あるが、ここでことを荒立てては両家は永久に和解の機会を失う。 
亡くなった陽菜の気持ちを思えば、これ以上の争いは無益…避けねばならない。
 兎にも角にも大事な息子たちが長の年月を経てようやく父親の城崎の許に帰ってくるのだ。
そう思うとこの手打ちの式には感慨深いものがあった。

 

 樋野本家の屋敷に今まさに手打ちの音が響こうとした時、突然、座敷に血相変えた長邦正が飛び込んできた。
邦正は狂気とも思える鬼の形相で周りのすべての者を睨みつけた。

 「手打ちなど許さん! 
忠正…おまえが居ってこのざまは何だ?  なぜ戦わん! 
紫峰の若造が如何な奇跡の力の持ち主と言えど戦わずして白旗を振るか?
 俺が倒れたらおまえが代わって指揮を取り、一族の最後のひとりまで命を賭して戦うのが樋野の流儀ではないか? 」

邦正が声を限りに怒鳴るのを忠正は平然と受け流した。

 「間違えるな邦正…。 紫峰衆は戦いを挑んできたわけではない。
樋野の若手の愚か者が血迷って攫ってきた娘御ふたりを救いに来たまでのこと…。
 悪いのは馬鹿なまねをした当方の若い衆だ。
長であれば詫びて当然のことであろう…。 それを何だ…いい年をして…。 」

 忠正の答えに言葉を失った邦正は他の長老衆の同意を求めるように彼らを見た。
誰もまともにその視線に答えず眼を逸らせた。
 邦正は怒りに震えた。
紫峰の若造や城崎の狸めの甘言に乗り、長である俺を無視するつもりか…。
樋野最強の力を甘く見たか…。

 「翔矢は渡さん! 翔矢は樋野の子だ! この俺の宝は誰にもやらん! 」

 邦正の怒りが頂点に達した。
いまや執念の塊と化した邦正はあろうことか自分に反対する忠正目掛けて念の爆撃を開始した。
 忠正は一瞬早くその場を逃れたが傍に居た長老のひとりが煽りを食った。
邦正の攻撃は的を得ず相手が誰であろうと関係ないようだった。
怒りに我を忘れた男は手当たり次第にものをぶち壊し、壁を破壊し、人を襲った。

 城崎の面々も紫峰側の者も攻撃を避けて障壁を張った。
忠正と珠江は長代行らしく客人である紫峰宗主の前に身を挺して出鱈目な邦正の攻撃を受けることの無いように護っていたが、そのことがさらに邦正の怒りの火に油を注いだ。
 樋野の誇りを忘れて強者に媚び諂うか…。
歯止めの効かなくなった力は同族をもさんざんに痛めつけ、何事かと駆けつけた樋野の中枢部の使い手たちをも巻き込んだ。
翔矢の場合とは違って彼等も長を取り押さえることには遠慮があるし抵抗もある。

 「翔矢! 欲しい物は金も物も不自由なく与えて育ててやった恩を忘れたか? 
久遠! 家出したおまえを拾ってやったのは誰だ?
おまえらふたりともあれほど可愛がってやったのに…俺の心を裏切るのか? 」

 久遠も翔矢も動揺を隠せなかった。
確かに…確かに優しい時の伯父は自分たちを可愛がってくれた。
まるでペットか人形のように猫可愛がりしただけだが…それでも恩があることには変わりはない。
 だが…ひとたび人が変わるとふたりとも死ぬほどつらい眼に遭わされた。
そのことも忘れることができない。

 翔矢の手が震え久遠はその肩を抱いてやった。翔矢の恐怖が伝わってきた。
久遠脳裏に思い出すだけで怖気奮うあのことが浮かび上がった。 
 あの時翔矢が久遠にしたこと…翔矢が伯父の顔を暗示したのは自分の罪を隠すためだけではなく…もしかしたら翔矢自身の…。
久遠は翔矢の顔を覗き込んだ…怯えた翔矢の顔…。

 思い出すな…と修の声が頭に響いた。
おまえの中の鬼を起こすな…。これ以上…鬼を肥やすことはない…。
僕がすべて引き受ける。鬼に食い荒らされるのは…僕だけでいい。
僕はもう…鬼そのもの…。

 久遠は驚いて修を見た。
修は悲しげに微笑んだ…。

 「忠正さん…珠江さん…離れていなさい…。
この男は…もはや救いようがない…。
おのれの怒りに任せて一族を滅ぼそうとするなど長のすることではない…。

 久遠や翔矢の受けた痛み…それが分からないとは人とも言えぬ…。
恩の押し売りはするものではない。
見返りを受けようとする者に恩を語る資格などは無い…。 」

 修の周りに名状しがたい冷気が漂い始めた。
紫峰の面々は修の中の鬼の覚醒を止められぬことを悟った。
長老衆も使い手たちもあたりの異様な寒さに身を震わせた。
 紫峰宗主の雰囲気がだんだんに変化するのを身の内から感じ取って忠正も珠江も畏れ慄いた。

 青く澄んだ焔が修の身体を覆った。
透と雅人は顔を見合わせた…あれは…あの最悪の奥義ではない…。
だが…恐ろしく青い焔…怒りの焔には違いない…。
どうするつもりだろう…。
ふたりは今までに眼にしたことのない清んだ焔に眼を奪われた。

 城崎も瀾も修の姿に紫峰の本当の恐ろしさを感じ取っていた。
憐れみも同情も感じられない…まして慈悲もなく…強いて言えば感情そのものが無いように思える。
透き通った青の焔…。

静寂の色…。

 邦正が狂気のように未だ暴れまわっていることを、その場のすべての人から忘れさせてしまうような別世界が修の周りにできあがっていた…。





次回へ

最後の夢(第六十七話 返答は如何に…?)

2006-01-07 23:41:56 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 忠正は天を仰いだ。
確かに今の翔矢では樋野の長は務まらない。
邦正の言い草じゃないが期待できるのはこどもを作らせることだけだ。
 もし翔矢がまともな育ち方をしていたら、おそらくは優れた長になったことだろうに…邦正め愚かなまねをしおって…。
今更ながらに邦正の馬鹿さ加減に腹が立つ。

 「翔矢を返して頂けますね? 」

 修は再び最長老に答えを迫った。
慌てた長老衆はその場での即答を避け、しばしご猶予を…と揃って奥の間へ下がって行った。
 紫峰家の介入という樋野家始まって以来の危機に長老衆も困惑している様子だ。
しばらくは戻って来ないだろう。

 待たされている間に長夫人の指示で客人には朝餉が饗された。 
夫人の心尽くしを皆は有り難く頂いたが、修だけはお茶以外の物には手をつけなかった。

 「修…食べないの? 御腹空いてないの? 」

翔矢は不思議そうに訊いた。

 「気にしないで…翔矢。 時々食べられなくなる体質なんだ…。 」

 そうなんだ…と翔矢は納得したが、雅人と透が不安そうに修の方を見た。
修が食事を取らないのは発作を起こしているのでなければ潔斎だ。
つまり…長老衆の回答によってはひと暴れするつもりでいるということ…。

 「翔矢…いま修って呼んだね。 修母さん…はやめたのか? 」

 久遠が可笑しそうに笑いながら訊いた。翔矢はチラッと修に眼を向けてから少しだけ悲しげな顔をして久遠に言った。

 「久遠…僕…いつもこどもってわけじゃないんだ。
札びら切って敏を動かしたり、きみに酷い想いをさせたり、瀾の母親を殺そうと企んだり…そんな悪さを考えている時には少しおとな…みたいな気がする…。」

 そう言いながら翔矢はしょげてしまった。  
修母さんにお尻を叩かれるような悪いことをいっぱいしてしまったんだと改めて気付いたのだ。

 「僕…お巡りさんのところへ行かなきゃね…。 また…ひとりぼっちだね…。 
今度は本物の檻の中…。 」

翔矢の頬を涙がつうっと伝った。再び…翔矢の中のこどもが目を覚ました。

 「ごめんね…父さん…。 ごめんね…瀾…。 」

 翔矢は直接、瀾の母親を殺したわけではない。敏に久遠を追い出したのは瀾の母親だと吹き込んだだけだ。
それでも自分がそう言わなければ3人組は瀾の母親を襲わなかったかもしれない。
 昭二の時もそうだ。昭二が敏を裏切って瀾殺しを止めようとしていると話した。
敏は逆上しやすい男なのに…強力な暗示を掛けてしまった。

 「ごめんね…久遠…。 」

 城崎は邦正を呪った。
ことの善悪すら瞬時に判断できないような育て方をした憎むべき男を…。
 翔矢は感情が高ぶると後先考えないで行動してしまう。
気持ちが落ち着いてきて、それがいけないことだと分かった時にはもう遅い。

 「翔矢…おまえがお巡りさんのところへ行っても追い返されるだけだよ。 
暗示の能力なんて誰も信じないからね。
おまえはこれからできる限りの努力をして亡くなった方々に心から償いなさい。」

城崎に優しい言葉を掛けられて翔矢は無言で頷いた。

 瀾は溜息をついた。何でこんな悲しいことになったんだろう。
血を分けた兄貴のひとりが母と僕を殺そうと考えるなんて…。
 それもこれもきっかけは僕がマスコミにこの能力を誇示したりしたからなんだ。
翔矢兄は…多分…久遠兄が僕を思い出してしまうのではないかと不安になったんだろうな…。

 「翔矢…おまえにはまだ悪いことをしたんだという意識がある。
普通に育っていても世の中にはそれすら分からない者も居るんだ。
おまえはよくひとりでそのことを学んだね…。 」

 修は翔矢に微笑みかけた。
少しはにかんだように翔矢はみんなの顔をチラチラッと見回した。

 「僕にだって少しは周りを知る手段はあったんだよ…。 
インターネットで周りの人の考えを知ったり…チャットとかで会話もした…。
でも…みんな本当のことかどうか分からないから…すごく不安だった。
 伯母さまが時々パソコンの本をくれて…伯父さまはパソコンに弱いから…内緒で外の世界を見て勉強しなさいって…。 」

 城崎は義姉に感謝した。翔矢が完全に幼児化してしまわなかったのは義姉が陰で支えていてくれたお蔭だったのだ…。
 久遠の時にも自分が悪者にされながら秘かに護っていてくれた。
どれほど感謝してもし足りない。城崎は心で手を合わせた。

  

 半時ほども待たされたろうか…樋野の長老衆が緊張した面持ちで戻ってきた。
忠正は膳を下げた家人から紫峰宗主が朝餉に手をつけなかったと聞いて、これは相当に腹を立てているのだと勝手に解釈した。
 古書や言い伝えの忠告はともかくも、修のあの信じ難い力を目の前にしては何とか穏便にことを運ぶしかないと考えていた。

 「お待たせいたしました。 」

 最長老は修の前に手をついた。
修も居住まいを正した。

 「翔矢は樋野にとって大切な後継者…このことに変わりはありません。
ただ…今すぐに翔矢を後継に立てることは樋野家にとって得策ではなく、翔矢自身のためにもならぬと判断いたしました。

そこで宗主に折り入ってお願いしたきことがございます。 」

 来たな…と修は思った。

 「聞けば城崎の末の息子が馬鹿げた騒動を起こした際に、紫峰家がその恩情を以って厳しい修練を課し鍛え直したとか…。 
 紫峰家にとっては甚だご迷惑とは存ずるが…翔矢を再教育しては頂けないものかと…そう考える次第です。 」

 忠正は平伏した。
とんでもない狸だが…この男こそは長に相応しい…と修は感じた。

 樋野の体面を考えればそう簡単に翔矢を城崎に返すわけにはいかない。
邦正のしたことは翔矢の将来を考えれば謝って済むような問題ではないからだ。

 翔矢は樋野の長の後継者…としておくことで翔矢の樋野での地位と財産を保証したことになる。
 その上で再教育と称して中立である紫峰に預ければ城崎も文句は言わない。
結果はどうなろうと手は尽くしましたよということで城崎に戻す…但し…翔矢の身分は変わらないから上手くすれば翔矢のこどもが樋野の後を取ってくれるかもしれない…。
 できれば…樋野から嫁を送って…と最長老は目論んでいた。
何…翔矢がだめなら久遠のこどもでも構わんし…取り敢えずは親戚付き合いを続けていく方が樋野にとっては利がある…。
紫峰を怒らせずに済むしな…。

 平伏した狸親爺の胸の内が修には手に取るように分かった。

 「翔矢の再教育を引き受けることは紫峰としては迷惑とは思わん…。
しかし…ご期待に副えるかどうかは…保証の限りではない。

 忠正さん…もし…翔矢が独り立ちを果たしたら…あなた…どうなさいます?
ただの後継ではなく実際に長としての翔矢の存在をお認めになりますか? 
他の長老衆は如何に…? 」

 修が鋭い眼差しで長老衆を見回した。
その視線を受けるたびに長老衆を怖気震わせるような寒さが襲った。

 「宗主…それは無理でしょう…。 
口惜しいことだが…何とか生活できるくらいになれば良しとせねばなりません…。
もう少し早く…できれば10代のうちに再教育がなされておれば…。 」

城崎が心から悔しそうに言った。翔矢が情けなさそうな顔をして俯いた。

 「城崎さん…翔矢の前で言うことではありませんよ。
さあ…長老方…お答え頂きましょうか? 
 そこまで翔矢に拘っているのだから…まさか邪魔にはしますまいね…?
長となれば…あなた方の上に立つことになる…それでもかまわぬ…翔矢に従うと…? 」

 長老衆は返答に詰まった。
そこまでの決心ができているとは言えなかった。
また…そこまでの答えを要求されるとも思っていなかった。

 忠正の眼に映る若く穏やかなはずの紫峰宗主の顔が時とともに老獪な化け物のように感じられるようになってきた。

古い言い伝えの正しさを忠正は今…身をもって味わっていた。
 




次回へ


最後の夢(第六十六話 関わるな…!)

2006-01-06 17:33:26 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 樋野の長の唇からぜいぜいと激しい呼吸音が漏れ聞こえるようになった頃、あたりは異様な静けさに見舞われた。
 邦正の疲労は頂点に達しているのに修の方は襟ひとつ乱した様子もなく、邦正の攻撃を敢えてかわそうともしない。
 最初のうちは攻撃されたら軽く攻撃し返すくらいのことはしていたが、それも面倒くさいといった面持ちで時折他事に視線を向けたりもしている。

 そんな状況が樋野の族人から族人へと伝わり、すべての眼が今、邦正と修の方に向けられていた。
 
 樋野の長である邦正の力を知らぬ者がないだけに、この眼を疑うような光景に誰もが言葉を失った。
 邦正が修に目掛けて放っているその力はビルのひとつやふたつ粉々に吹っ飛ばすくらいの威力がある。
その証拠に修に命中しなかった時には煽りを食って車も岩も木っ端微塵。
それなのに修は欠伸を噛み殺すほどに退屈している。
 
 翔矢を別にすれば、樋野最強の破壊力を持つ長の力を以ってしても毛ほども通じない相手に、もはや戦う気力も失せた樋野の衆を尻目に史朗や学生軍団が集まってきた。
その後に城崎衆も続いた。

 「命まで取る気はないみたいだね…。 」

 透がぽつりと呟いた。
そうだね…と雅人が頷いた。

 「さっきの気配ではその気だったんだろうけど…考え直したみたい…。 」

会話の意味がよく飲み込めず久遠はふたりの顔を覗き込んだ。  
 
 「どういうこと…? 」

ふたりは顔を見合わせた。

 「さっき…宗主はあの爺さんに対して紫峰の最悪の奥義を使おうとしたんだ。
でも馬鹿馬鹿しくなったみたい…で。 」

伯父にはそれほどの価値もないと判断されたわけか…久遠は唸った。

 「長としては命を取られるよりも残酷な結果を招くよ…。 生き地獄だね。 」

史朗が溜息混じりにそう呟いた。

 「それが罰なんだ…翔矢という人間を愚弄した男に対する…。 」

悟がそう言うと雅人は違うというように首を振った。

 「罰だなんて考えてないよ…宗主はただ翔矢に代わって最高の仕返しを楽しんでいるだけ…殺すのをやめて遊んでるんだ。 」

 久遠は思わずごくっと唾を飲んだ。修の残虐性とはこのことなのか…。
まるで猫が捕まえてきた獲物を生殺しにして遊ぶような…。

 息も絶え絶えになりながら邦正の攻撃は続いている。
すでに取り巻き連中でさえ邦正とは距離を置いているというのに…。



 やがて精も根も尽き果てた邦正はその場にどっと崩れ落ちた。
まさに自滅としか言いようがない。
すでに初老の邦正にはこの結末は相当に堪えたことだろう。  
 自分の誇る力がまるで相手に通用せず戦いにもならぬくらい無視され続けた。
能力者にとってこれ以上の屈辱はない。
 
 これから先の邦正を待っているものは同族の哀れむような視線と隠居への道、もう樋野の誰も邦正にはついては来ない。
 戦ってぼろ負けしたというのならまだ救いもあるが長たるものがまったく相手にされないのではお話にもならない。
邦正の修に対する攻撃はすべて恥の上塗りに終わってしまった。



 ゆっくりと修は城崎と久遠の方へ近づいた。
修の奇跡のような力を目の当りにして城崎はただ茫然としていた。

 翔矢の手を修が引いた。
城崎の腕の中から翔矢が立ち上がると修はその前に跪いて翔矢に微笑みかけた。

 「翔矢…おまえは樋野の長の後継だ。 ここに集まっている者たちにもう戦いは終わったんだと伝えなさい…。 」

翔矢は素直に頷いた。集まっている樋野勢に向かって翔矢は宣言した。

 「もう…戦わなくていい…。 みんな家に帰って怪我の手当てを…。 」

 翔矢がそう言うと樋野衆は翔矢に軽く頭を下げて戻っていった。
修はチラッと周りに残っていた取り巻き連中を見た。

 「翔矢…あの人たちはどうするんだい? 
おまえは随分あの人たちにはひどい目に遭わされたろ? 」

 翔矢もチラッと周りを見た。取り巻き連中は内心びくびくしていた。
翔矢が修を嗾けたりしたら大変なことになる。

 「あの人たち…そうしろって伯父さまに言われたんだもの。
悪いのはあの人たちじゃない…。
 今度は誰が樋野の長になるか分からないけど…あの人たちにはずっと長を護って貰わないと…そうでしょ? 」

翔矢はそう修に訊ねた。修は頷いてまた微笑んだ。

 「あなたたちも帰りなさい…ついでに伯母さまに声を掛けて…伯父さまを連れに来てって伝えて…。 」

取り巻き連中は深々と頭を下げると急いでその場を立ち去った。

 「翔矢…いい子だ。 」

 修母さん…翔矢は修の首に手を回して抱きついた。 
修はその背中を優しく叩いた。

 だからなんで修母さんなの…? 久遠が首を傾げた。
透が笑って答えた。

 「翔矢さんの心を読んでわざと言わせてるんだよ…。 
悪さした子どものお尻をぶつのはたいていお母さんでしょ…。
 翔矢さんは修さんのことをお母さんみたいだと思ったんだ。
僕もよくぶたれたけど…痛いよぉ…。 」

 あ…なるほど…お尻ね…。父さんは…拳骨ばかりだったな…。
久遠は城崎の方を振り返った。

 「ねえ…翔矢…そろそろ…おとなの翔矢に戻ってもいいんじゃないか…? 
ちょっと気持ちが落ち着いたようだから…。 」

 修が翔矢の耳元でそっと囁いた。
翔矢がニヤッと笑った。

 「う~ん…もう少し甘えさせてくれたっていいじゃない?
赤ちゃんだって言ったのは修母さんでしょ…。 」

ふっ…と修も笑った。

 「また今度ね…おまえが興奮してこどもになっちゃった時に…。 
伯母さまもご登場のようだし…さ。 」

 修は本家の屋敷の方から樋野の長老衆や家人をを従えて出てきた上品な婦人に眼を向けた。
 婦人は倒れている邦正を見ても動じることもなく家人に言いつけて屋敷の中へ運ぶように命じた後、自分を見つめている修と城崎に向かって丁寧にお辞儀をした。
 
 「御目文字かない光栄に存じ申し上げます。 邦正の家内でございます。 
樋野衆が大変ご迷惑をおかけしたようで…誠に申しわけないことでございます。
宗主…どうぞ中へお入り下さいまし…。 城崎の長も他のお連れさまも…。 」

 久遠の伯母は先に立って丁重に修を屋敷へと案内した。
大家の奥方らしくその背中はきりっとはしているが、どこか寂しげに見えた。



 樋野の座敷からはあの庭が見えた。殺されかけた幼い瀾を伯父の手から奪い取り、久遠が必死で庇った場所である。

 樋野の重鎮たちとは初対面の修に城崎がひとりひとりを紹介した。 
紫峰の若い宗主に対して樋野の長老衆は礼儀を欠かぬようによくよく心して臨んだ。
察するに彼等も紫峰家について何らかの知識を持っているものと思われた。

 紫峰、城崎、樋野の間で…藤宮、鬼面川も居るには居るが…一頻り挨拶が交わされると、長夫人は畳に手をついて城崎に対し丁重に詫びの言葉を述べた。

 「翔矢のことはすべて長の独断で行われたことで、私以外は翔矢の本当の素性を知る者はありませんでした。
 私の妹の息子として紹介され、表向きは養子として扱われ、ここに居る長老衆も翔矢が閉じ込められたままだとは知らずにいたのです。

 勉強や運動はさせましたが、外部の人との直接の接触を許さず、翔矢は奥の部屋で孤独に育ちました。 
 学校には行かせましたがいつも監視をつけ、先生以外とは余計な話はさせず、身体が弱いからと行事には参加させませんでした。
 翔矢がひどくこどもっぽい考え方や行動をするのは外からの刺激がほとんどなかったせいでしょう。 」

 長夫人は申し訳なさそうに翔矢の方を見た。
翔矢は静かに微笑んだ。

 「義姉さん…邦正さんはそれほど城崎家を…私を憎んでおいでだったのかね?
翔矢を独り立ちできないような状態に追い込んでしまうほどに…。
惨い仕打ちをしなさったものだ…翔矢は血を分けた甥ではないかね…。 」

 城崎はやり切れぬように訊ねた。
大切な息子を攫われた上に、その子の一生に関わるほどのとんでもない育て方をされて城崎は何処に怒りをぶつけたらよいのか分からずにいた。

 「失いたくなかったのだ…と思います。 
仲の良かった妹の陽菜さんの遺していった子どもたちだもの…久遠のことも翔矢のこともあの人にとっては可愛くて仕方がなかったんだと…。
手放したくない想いがこんな馬鹿なことを仕出かす結果に…。 」

 伯母は少し涙ぐんでいるようだった。
邦正に対しては言いたいことが山ほどあったが、この夫人を責めたところで虚しいだけで城崎はすべての言葉を飲み込んでしまうより他なかった。

 「長老衆にお訊ねしますが…翔矢は城崎の家に返して頂けるのでしょうね? 」

 修は黙したままの重鎮たちに返答を促した。
邦正の父方の従兄で最長老の位にあるという忠正が一礼をして答えた。

 「無論…と申し上げたきところですが…本家には他に跡取りがおらず…今となってはどうしても翔矢が必要なのです。 」

 それはおかしい…と修は言った。

 「ならば…夫人の妹の子であると紹介された時にどうしてすんなり後継者と認めたのですか?
 血筋からいけば忠正さんのこどもの方がずっと本家に近いわけでしょう?
その方が本家の後を継いでも構わないはずじゃありませんか。
翔矢が陽菜さんのこどもだと本当は皆さんご存知だったのでは…? 」

 長老衆が一斉に唸った。

 「翔矢は今のままでは長としては務まりません。 
それをご承知の上で翔矢に…とおっしゃるならあなた方も邦正さんと同罪。
これから先も翔矢をここに閉じ込めて傀儡にしてしまおうというのでしょう? 」

 同罪と言われた時、長老衆の背筋を冷たいものが走った。
長老衆に向ける一言ごとに修の指摘は厳しいものとなり、彼等を見透かすようなその眼は鋭さと冷たさを増す。

 樋野の古い言い伝えと古書に残る紫峰。
関わってはならない…。 
関わってしまった時には礼を尽くさねばならない…。
決して戦いの道を選んではならない…。
何よりも…紫峰宗主を敵にまわしてはならない…。 

なぜなら…それは…滅びへの道…。




次回へ

最後の夢(第六十五話 異変)

2006-01-05 00:24:23 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 邦正の取り巻きの連中はどうやら樋野の中枢とも言うべき力の持ち主のようで、猟銃を捨てた途端に封印してきたその力を外に向けて解放し始めた。
 圭介などよりもはるかに強力なサイキックパワーが彼等には存在する。
それ故に長きに亘って翔矢の力を抑えることができたのだろう。

 翔矢の久遠にも匹敵する力は感情に左右されやすく不規則に変化する。
変則的な力は非常に制御し辛いが、彼等ほどの力があって、さらにチームを組んでいるとなれば突発的な変化にも対応できる。

 おそらく翔矢が押し付けられた環境に耐えられなくなって何かことを起こすたびに彼らが力で抑え付け、翔矢の独立心の芽生えを阻んできたのだろう。

 心までも拘束された翔矢は孤独から逃れる最後の希望を久遠に求め、他の誰を殺してでも久遠を手に入れたかったに違いない。



 修のお蔭で少し身体が楽になった城崎は人見知りしておずおずと近付いてきた翔矢を温かくその腕に迎え入れ、伯父の許で惨い半生を歩んできた息子をしっかりと抱きしめてやった。

 伯父たちからの攻撃を遮るために父親と翔矢の前に立った久遠の目に先に行ったはずの史朗と兼元を始めとする何人かの城崎衆が戦いながらこちらに向かって駆けて来るのが見えた。

 「御大! ご無事ですか! 」

 兼元が大声で叫んだ。
城崎は手を振ってその声に答えたが内心複雑だった。
兼元たちが来てしまった以上城崎は樋野に宣戦布告を行ったようなものだ。

 城崎はできれば族間の争いを避けたかった。
城崎家と樋野家は時折城崎一族の傲慢から小さな諍いはあったものの昔から協調関係を維持してきた。
 邦正は城崎にとって義理の兄でもあり身内でことを荒立てたくはなかったのだ。
そのためにただひとりでここまで出向いてきたというのに…。 
   
 「悠長なことを考えている場合ではないですよ。 城崎さん。
いい加減平和ボケから目を覚ましなさい。  
邦正はあなたが思うほどあなたを身内だとは考えていない。 」

 修はそう忠告した。城崎は翔矢の受けた仕打ちを思い素直に頷いた。
その様子をいかにも不思議そうに邦正は見ていた。

 「ひとつ訊く…。 紫峰はなぜ城崎に肩入れするのか?
長い能力者の歴史の中で紫峰が他の一族のために動いたという話はめったにない。
それも姻戚関係にある藤宮のためという以外にはほとんど聞いたことがない。
 或いは歴史には残らなかったろうが古き時代には鬼面川とも通じていたというからその折には何かあるのかもしらんが…。 」

 邦正の話しぶりから樋野家は元主家であった城崎家よりもずっと古い家系だということが窺い知れた。
 城崎も久遠も樋野が歴史の浅い城崎に屈した詳しい事情はよく知らなかったが、ここで聞く限り、少なくとも樋野は世が世ならば城崎家の上を行く相当な家柄であっただろうと推察された。
 
 「それは…だ。 城崎瀾が僕の息子たちの友人だからさ。
あと…そうだな…僕の愛人の愛弟子でもあるか…。 ま…そんなもんだ。 」

取ってつけたような言い方に邦正は腹を立てて納得しなかった。

 「ふざけるな! 紫峰家ともあろうものがそんなことで動くか! 
また動いて良いものではない! 」

 邦正の物凄い剣幕に修は苦笑した。かなり珍しいことではあるが、樋野には紫峰家に関する歴史的情報が遺されているらしい。
邦正は曲がりなりにも長としてそれを学んでいたと見える。
ならば…と修は宗主の顔を見せ始めた。

 「樋野の家に紫峰家についてどのくらいの情報が遺されているのかは知らないが紫峰の在り方をあんたに問われる謂れはない。
 たとえ気紛れにせよ宗主が動くと決めたからには動くのが紫峰のやり方だ。
まあ…気紛れでことを決めるなんて宗主は…実際のところ歴代で僕ひとりくらいなものだろうが…な。」
 
 そう言って修はクスクス笑った。
邦正はぞっとした。
 紫峰ほどの一族が黙って気紛れに従うほどの宗主とはいったいどれほどの力の持ち主なのか…?

 「何がそうさせた? 何が気に入らない? 
樋野家としては紫峰に攻撃を仕掛けた覚えはない。 
 今までのことはすべて翔矢の城崎に対するただの悪戯ではないか…。
いわば城崎の家庭内の問題だ。樋野自体とは何の関係もない。 」

 邦正は城崎の事件への関与を強く否定した。
ただの悪戯…ね。 修の目が冷たい光を帯びた。
 餓えて餓えて餓えきった心がたったひとつ手の届くところにある微かな温もりを求めた…それが悪戯…か。

 「確かに…樋野一族自体には何の関係もないだろうよ…。
本家の長…樋野邦正以外には…。 
だって…これはすべて…あんたの悪意から起きたことだから…。 」

 修に名指しで決め付けられて、邦正は反論しようと口をもごもごさせたがまったく言葉にならなかった。

 「分かるまいな…その傲慢な心には…。
誰からも顧みられることなく育った子どもの心の飢えがどんなものか…。

 何が気に入らないって…?
全部だよ。 何もかもだ。

 こどものままでいることを強要しておきながら、こどもを作れ…だ?
馬鹿言ってんじゃないぜ。

 翔矢のしたことが悪戯だと言うなら、その責任を取るのはあんただよ。
翔矢はまだ赤ちゃんだから育ての親のあんたが責めを負うのは当たり前だろ。

 ふたりも命を落としたんだ…あんたが翔矢に吹き込んだ悪意のせいで…。
純粋な翔矢はあんたの言うことを真に受けてしまった。 」

 修にそこまで言われると邦正も再び激昂してきた。
紫峰の宗主が何ぼの者じゃ! 目に物見せてくれる。

 宗主と長の間に異様な空気が漂いだしたことに久遠は戸惑った。
伯父の方はともかく修の様子が尋常ではない。
 修は故意に伯父を怒らせているかのように思える。
口ではなかなかに厳しいことを言っているが、その目は異常なほど落ち着いた色を浮かべ相手の動きを静かに観察している。

 邦正の取り巻き連中が動き始めた。久遠たちと修を取り囲むように迫って来る。
翔矢は日頃この取り巻き連中にはよほどひどい目に遭わされているのか、怯え震えて動けない。
城崎が幼い子どもを護るようにしっかりと抱きかかえていた。

 瀾は久遠と並んで城崎と翔矢への攻撃を防ぐための壁となっていた。
初勝利を挙げてからそれほど時間が経っていないというのに、樋野の超ど級と対戦することになったわけで怖くないと言えば嘘だった。

 「来るぞ! 」

 久遠が瀾に声をかけた。取り巻きの輪が崩れるとすぐに男が迫ってきた。
男は瀾の方へ腕を伸ばしいきなり電撃のような力を放った。
 翔矢を護るためには避けるわけにはいかない。
瀾は持てる力でそれを跳ね返した。

 男の攻撃を合図に取り巻き連中は一斉に動き始めた。
それまで他の合戦場と比べれば比較的静かだった修と邦正の周辺も、もはや話し合う場ではなくなり、城崎、樋野、鬼母川、藤宮、紫峰入り乱れての大合戦場へと化した。
 戦いながら久遠は修の様子を気にしていた。
伯父の攻撃は長年同じ樋野に暮らした久遠でさえも一度も目にしたことのない激しいものだったが、なぜか相手をしている修だけは静かなままだった。
 
 攻撃も受けているし攻撃してもいる…それなのにまるで傍観者でもあるかのような静けさの中に居る。
 久遠と対戦した時には少なくとも音を感じることができた。
ところが今の修には…そう表現していいならまるで無声映画のように音がない。
音だけではない…体温すらも感じられないくらい修から温もりが消えていく。
寒々とした空気がただ流れている…。

 おかしなことは修にだけ起っているわけではなかった。
久遠がそれとなく見回すと、その気配を察したか透の顔色が変わった。
雅人も隆平も戦いの手を止めて修の方へ怯えた目を向けた。
史朗も落ち着かない様子で時折修に目を向ける。
藤宮のふたりでさえ何かを感じ取っているようだった。

 いま誰かと戦ってさえいなければすぐにでも修を止めたいというような雰囲気が彼等にはあった。
 何が起ろうとしているのか…?
家族をさえもこれほどに怯えさせるような…何が?

 樋野の超ど級を相手にそれほどの者とは感じられない久遠でさえも、紫峰一族のその異変には不安を感じた。

 何が始まろうとしているんだ…?
久遠はこれという訳もなく胸にざわつくものを覚えた。




次回へ