今日もいい天気の予報だったので、早起きして出かけた。少し標高が高いからか、
風はつめたかった。
4日たっただけなのに、桜はほぼ終わってた。
JR日光線今市駅・今市宿(後半)・鉢石宿・日光東照宮・JR日光線日光駅と歩いた。
今日で日光街道をすべて歩いたことになる。

今市の礼弊使街道の杉並木、ここ今市で日光街道と合流する。

その追分にある杉の大木、向かい側に追分地蔵尊(2mの石の座像)が安置されている。

今市宿の古そうな家。1868年4月から6月の戊辰戦争で町が焼失したので古い町並みは
残っていない。

今市宿の出口からの杉並木、遊歩道になっていて、両側を清水が流れ、快適だ(ここから5枚の写真)。





日光杉並木オーナーの表札。
日光杉並木保護財団に1本1000万円の寄付をして、オーナーになるような制度があり、
その表札らしい。

男体山が美しい。

石の釣鐘、堂の左の大木の桜はほぼ散ったあとだった。

このお堂の近く、野口というあたりの家、時代劇映画に出てきそうな雰囲気。

反対側にも回ってみた。
ここで、杉並木にひっそりと店を開いている「わさび」のお店があった、晃麓わさび園(日光市野口)
だった。
夕食に食べたが、街道歩きの思い入れも加わって、すごくおいしかった。

この後、杉並木が主要道と重なり、歩きにくくなったが、風景はよかった。

大木なので、並木太郎と名がついている。

さきほどから続く杉並木はすばらしいが、歩道がいいかげんなので歩きにくい。

また正面に男体山が見えた。

男体山の東側に続く連山。

明治時代に杉並木を愛した外国人が石を削って作らせたベンチがあった。その人と同じように
すわってみた。座り心地は満点だった。

東武日光駅から見た日光連山。

門前町で目に付いた家(ここから4枚)。




神橋(しんきょう)、入場料を払った際のパンフレットによれば、日本三奇矯の一つとのこと。
と言っても、向こう岸の出口は閉鎖されているので、また戻ってくる。向こう岸へ行くには、
隣の日光橋を渡る。江戸時代に将軍とお供の人達しか渡れなかったので、その名残なのだろ
うか(上下の写真)。


日光橋を渡って、東照宮の入口へ向かう。
突き当たりに杉並木寄進碑がある。

杉並木寄進碑と太郎杉、ここが入口で、日本橋からの日光街道(徳川幕府の正式名称は
日光道中)のゴールになる。
のんびりと歩いたので、9日かかった。万歩計によると合計で180kmだった。

せっかくなので東照宮にお参りした。
この写真は江戸時代(1652から1868年の間)に東照宮の防火と警備を担当した八王子千人同心
を偲んだ碑が付いている常夜燈。
昨年9月5日に甲州街道、八王子宿に千人同心の碑があり、屋敷のあった地区を通った。
徳川家康は織田、徳川軍に負けた武田家の旧臣250人を召抱えた、これが八王子千人同心の
始まりだ。
その後、敗戦した北条家の家臣やその他の浪人も召抱え、八王子に千人規模の戦闘集団を作った。
この人達は関が原の戦い、大坂の陣にも家臣団として活躍したらしい。また、幕末には新撰組に
子孫が応募したといわれている。
平和になった1652年からは半年交代で100人ずつが日光に出張して、防火と警備にあたったとの
ことだ。
徳川家康の人集めの術には感心する。

日曜日だったので、拝観券売り場以降はにぎやかだった。

三猿、本地堂、陽明門、眠猫など有名どころを見に、東照宮へ。

これが一番気に入った建物。

東照宮。

奥宮へ、結構な急階段だった。数人の若いお父さんが子供を抱いて登っていたので、
がんばってるなーと思った。その内、数人の若いお母さんも子供を抱いて登ってきたので、
すごいなーと思った。ぼくが若い頃はどうしていたのかすっかり忘れたが、こんなにすごく
なかったと思う。今の人達は感心だ。

奥宮拝殿。

奥宮宝塔の門。

二荒山神社(ふたらさん)。

JR日光駅前から見た男体山、神々しい。

ホームから見た男体山東側の連山。

ホームからは水力発電所らしきものも見えた。

JR日光駅、列車は1時間に1本ていどしかない。今日はたくさんの観光客が乗った。

しかし、歴史ある古い駅舎なので、こういう場所もある、使うことがあるのだろうか。
JR日光線での宇都宮駅までの旅はのんびりと癒されるものだった。
風はつめたかった。
4日たっただけなのに、桜はほぼ終わってた。
JR日光線今市駅・今市宿(後半)・鉢石宿・日光東照宮・JR日光線日光駅と歩いた。
今日で日光街道をすべて歩いたことになる。

今市の礼弊使街道の杉並木、ここ今市で日光街道と合流する。

その追分にある杉の大木、向かい側に追分地蔵尊(2mの石の座像)が安置されている。

今市宿の古そうな家。1868年4月から6月の戊辰戦争で町が焼失したので古い町並みは
残っていない。

今市宿の出口からの杉並木、遊歩道になっていて、両側を清水が流れ、快適だ(ここから5枚の写真)。






日光杉並木オーナーの表札。
日光杉並木保護財団に1本1000万円の寄付をして、オーナーになるような制度があり、
その表札らしい。

男体山が美しい。

石の釣鐘、堂の左の大木の桜はほぼ散ったあとだった。

このお堂の近く、野口というあたりの家、時代劇映画に出てきそうな雰囲気。

反対側にも回ってみた。
ここで、杉並木にひっそりと店を開いている「わさび」のお店があった、晃麓わさび園(日光市野口)
だった。
夕食に食べたが、街道歩きの思い入れも加わって、すごくおいしかった。

この後、杉並木が主要道と重なり、歩きにくくなったが、風景はよかった。

大木なので、並木太郎と名がついている。

さきほどから続く杉並木はすばらしいが、歩道がいいかげんなので歩きにくい。

また正面に男体山が見えた。

男体山の東側に続く連山。

明治時代に杉並木を愛した外国人が石を削って作らせたベンチがあった。その人と同じように
すわってみた。座り心地は満点だった。

東武日光駅から見た日光連山。

門前町で目に付いた家(ここから4枚)。




神橋(しんきょう)、入場料を払った際のパンフレットによれば、日本三奇矯の一つとのこと。
と言っても、向こう岸の出口は閉鎖されているので、また戻ってくる。向こう岸へ行くには、
隣の日光橋を渡る。江戸時代に将軍とお供の人達しか渡れなかったので、その名残なのだろ
うか(上下の写真)。


日光橋を渡って、東照宮の入口へ向かう。
突き当たりに杉並木寄進碑がある。

杉並木寄進碑と太郎杉、ここが入口で、日本橋からの日光街道(徳川幕府の正式名称は
日光道中)のゴールになる。
のんびりと歩いたので、9日かかった。万歩計によると合計で180kmだった。

せっかくなので東照宮にお参りした。
この写真は江戸時代(1652から1868年の間)に東照宮の防火と警備を担当した八王子千人同心
を偲んだ碑が付いている常夜燈。
昨年9月5日に甲州街道、八王子宿に千人同心の碑があり、屋敷のあった地区を通った。
徳川家康は織田、徳川軍に負けた武田家の旧臣250人を召抱えた、これが八王子千人同心の
始まりだ。
その後、敗戦した北条家の家臣やその他の浪人も召抱え、八王子に千人規模の戦闘集団を作った。
この人達は関が原の戦い、大坂の陣にも家臣団として活躍したらしい。また、幕末には新撰組に
子孫が応募したといわれている。
平和になった1652年からは半年交代で100人ずつが日光に出張して、防火と警備にあたったとの
ことだ。
徳川家康の人集めの術には感心する。

日曜日だったので、拝観券売り場以降はにぎやかだった。

三猿、本地堂、陽明門、眠猫など有名どころを見に、東照宮へ。

これが一番気に入った建物。

東照宮。

奥宮へ、結構な急階段だった。数人の若いお父さんが子供を抱いて登っていたので、
がんばってるなーと思った。その内、数人の若いお母さんも子供を抱いて登ってきたので、
すごいなーと思った。ぼくが若い頃はどうしていたのかすっかり忘れたが、こんなにすごく
なかったと思う。今の人達は感心だ。

奥宮拝殿。

奥宮宝塔の門。

二荒山神社(ふたらさん)。

JR日光駅前から見た男体山、神々しい。

ホームから見た男体山東側の連山。

ホームからは水力発電所らしきものも見えた。

JR日光駅、列車は1時間に1本ていどしかない。今日はたくさんの観光客が乗った。

しかし、歴史ある古い駅舎なので、こういう場所もある、使うことがあるのだろうか。
JR日光線での宇都宮駅までの旅はのんびりと癒されるものだった。