神楽坂2009年6月16日(火)

2009-06-17 20:05:41 | 東京23区とその近辺
カルチャーセンターの講義で5月末に行った神楽坂周辺をカメ
ラ持参で再度まわった。
その時の地図も説明書も持参したのに何度も迷うほど。この
界隈は路地が入り組んでいる。それだけ風情が残っているこ
とにもなる。
今日も歩くことを再開するリハビリも兼ねているので、杖2本
(かっこよくトレッキング・ポールと言うらしい、まわりの
人達から勧められて買った)も使った。階段や坂道ではすごく
楽だった。万歩計は10,500歩で7,5キロだった。

上州道へ通じる江戸の北の関門、牛込見附の門の2基の石組
跡(上下の写真)。



飯田橋駅西側の牛込濠沿いの歩道、松がきれい、水面も見える。

駅前から見た西側の牛込濠、電車の線路も含めて外濠だったの
だろうか。

駅前の東側、東京湾から船でこれた飯田濠のあった所。
再開発されてビルになっている。

飯田濠は暗渠になって東へ流れて行く。
暗渠に入る流れの上の橋は落ち着いた雰囲気をだす工夫がされて
いて、かわるがわる休みに来る人が絶えない。

牛込濠からの流れ、落差がある。江戸時代から落差があって、
舟はここまでだったらしい。橋の南側、上の写真の右側。

暗渠への入り口、橋の北側、橋の写真の左側。

暗渠入り口を眺めていたら、白鷺、亀、鵜と並んだ。
こんなところでもいろんな動物がいる。

魚を探す白鷺、一方、鵜は潜るのを繰り返していたが、潜った
まま暗渠へ行ってしまった。

セキレイまでやって来た、切がないので出発した。

下から見た神楽坂、たくさんの人で賑やか。
大学生から老人まで、女性の3,4人連れが多い。
夫婦で高級一眼レフをさげている人も結構いた。

小栗横丁の熱海湯。

熱海湯前の坂道(階段)。

さっきの坂を行くと若宮町になった、しゃれたケーキ屋さん。
しゃれた店、喫茶店が多い。

勉強熱心な人が多いなーと思った理科大若宮校舎。

牛込城の土塁の跡と言われている石垣、路地の奥にある。
この辺は結構切り立った崖になっている、この石垣の上にも
家が建っているが大丈夫かという気がする。

右側がさっきの石垣と家、正面の家の向こうに牛込城があった。
この崖も心配なほど高い。

たぶんこの方向が城の大手門の方向。

牛込城の跡に建られた光照寺、この辺りで一番高いところにある。

ざくろの花がきれいだった。

たぶんこの方向に江戸城が一望できた。
牛込城(砦を兼ねたような武士の居館)を建てた牛込氏は三代
にわたってここに本拠を構えていた。
牛込氏の祖先は大胡氏で、赤城山南麓に勢力を張っていた豪族。
前橋市大胡地区に大胡城を構えていたが、16世紀中ごろに
牛込に移り牛込氏を名乗った。はじめは後北条氏の配下、
小田原攻めの後に徳川氏の配下になり、旗本となる。
牛込城は江戸城が一望できたためか、徳川時代の初めに徳川政
権の命令で壊されたらしい。
牛込氏は徳川家光の命令で改易されたが、幕末まで続いた。
このお寺は17世紀中ごろに神田から移ってきた。
ここにお城があったら、すばらしかったと思う。
前にブログに書いた足利市の�絛阿寺(ばんなじ)も、ここも
立派な居館は政権が落ち着くとにらまれるもとになり、お寺
に姿をかえるようだ。

先ほどの熱海湯横の階段、この右側の料理屋さんには以前に
宴会で来たことがあるのに気づいた。

その階段に通じる熱海湯と反対側の入り口。

神楽坂沿いにある善国寺(毘沙門天で有名)。

本多横丁から三年坂方面。有名な通り。

かくれんぼ横丁の辺り(上下の写真)、テレビドラマ「拝啓、
父上様」のロケ地らしい。ぼくは黒木メイサが可愛かったの
しか覚えていないが。



牛込消防署、マンションの一階にある。こういう迷路の地区を
担当するのは大変だろうと思う。

筑土八幡神社、9世紀の初めに起源があるらしい。

境内にある1664年に建てられた庚申塔、「太陽と月、桃の木、
二匹の猿」の図柄が珍しいらしい。

お参りしていたら、どこからとも現れて足にすりすりをして
くれた猫、あまり人がお参りしないからか人恋しそうだった。



いつまでも見送ってくれていた。

物書き旅館として有名な「和可菜」、右の奥のほうは料亭
「幸本」、兵庫横丁の入り口。
ブロック塀の手前、砂利が見えている所は更地になっていて
ビルが建つらしい、残念だけれど、東京ではどんどんビルに
なって雰囲気がなくなるのも仕方がないのかもしれない。

ここを奥のほうへ入っていくと雰囲気のいい階段になる。
ここでもビル工事が行われていた。

寺内公園(行元寺跡)、このお寺は明治40年に西五反田に
移転。江戸時代から境内を町屋として貸していたが、跡地を
貸して、そこが神楽坂花柳界の発祥の地となったらしい。
今はこの記念公園?以外は神楽坂アインスタワーはじめ高層
マンション群になっている(上下の写真)。



袖摺坂。

マンション併設ビル型神社に立替中の赤城神社。
今後、東京の神社はこういう風になって行くのだろうか。
この神社は大胡氏が牛込に移ってきた時に本国の鎮守である
赤城神社を分祀したのが始まりといわれている。

敷地を覗いた。完成したら見に来たい。

現在の神社。

西側の参道、かなり急に下っている。

上から見た神楽坂、これで終点。
この坂の下のほうに不二家があり、鯛焼きを売っているので、
買いにいった、4人しか並んでいないので、ラッキーと思ったら、
一番目の人が30個買った。4人とも五十代の女性でその内三人
は確実に同じ団体なので、この人たちで100個なくなる、もう
一人いるので、すべてなくなって次に焼きあがるまで長時間待つ
のは確実。残念ながらあきらめた。しかし、30個も買ってどう
するのだろう。

杖の助けもあって、楽しく歩くことができた。
コメント (1)
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新宿御苑2009年6月9日(火)

2009-06-10 23:03:33 | 東京23区とその近辺
ぼくが通っているカルチャーセンター(生涯教育教室)で5月
14日(木)に新宿御苑の見学・講義があった。
講師は東大名誉教授の方で明治初めに新宿植物御苑を造っ
た福羽逸人という方のお弟子さんにあたる。
ここで仕事をされていたので、博学多識で薀蓄も深く大変お
もしろかった。
そのときには講義と見学に集中したかったので、写真機はもっ
て行かなかった。
それで今日ゆっくりと見るためにやって来た。それと、碓氷峠
で傷めた右ひざが治らないので、近場でリハビリするという
目的もある。

新宿御苑の歴史は、徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸に
入城した頃にはじまる。江戸城の守護を目的として家臣の
内藤家に広大な土地が与えられて、その一部に屋敷や庭が
できて、その場所がつながっていく。
明治維新の前は、高遠藩主内藤家の下屋敷だった(内藤家は
旗本から大名に出世した)。大木戸門の所にある玉藻池を中
心にした雰囲気のいい日本庭園は内藤家下屋敷の庭園とのこ
とだった。
明治には、この場所は国の所有になり内藤新宿試験場として、
世界にも目を広げた農業等の研究施設となる。
名前は変わるがこの性格はかわらず続く。国の迎賓施設や
皇室の儀式施設としても使われた。現在でも年間数日は皇室
などの行事に貸切になる。
戦後は国民公園新宿御苑として開放された(国の所管)。
今のような公園形式になったのは、先ほどの福羽御料局長の
御苑改造計画によるもので、明治の後半に、イギリス風景式
庭園、フランス整形庭園、日本庭園で構成されるようになった。

新宿門から大木戸門方面に向かうとこういう感じ。
新宿の町中とは思えない静けさ。

日本では珍しいレバノンシーダー、中近東を代表する
木。

隣はおなじみのヒマラヤスギ。下の写真はその実。



ハナノ木、知らない木があるとうれしくなる。

立派なヒマラヤスギの後ろの建物が旧洋館御休所。
1896年(明治29年)建築。
この少し前頃の「アメリカの住宅様式」らしい。

ヒマラヤスギの西側からみた玄関前。

同じく東側から。

真ん中ユリノキ、5月の時は花が咲いていたがすで
に終わっていた、右側メタセコイヤ。

ホオノキ、5月に咲いていた花は終わっていた。

印象に残った木だが名前は知らない。

枇杷、たくさん実がなっていた、こんなに大きい
と感動する。

違うところの枇杷、こちらの実にはカラス
が群がっていて、さわがしかった、すこし
怖かった。

内藤家の大名庭園の跡、この写真をとるために立って
いる辺が屋敷の縁側あたりと思う。
見えている玉藻池の周りには本格的望遠レンズのカメラ
や野鳥観察望遠鏡の人が数人じっと座っていた。
ぼくが歩き回るとじろっと見られたような気がする。
カワセミをまっているのだろうか。

カシワバアジサイ、ちょうど花がきれいだった。

フランス整形庭園、写真を写すのに立っているこの砂利
引きの場所には計画ではフランス風の宮殿を建てる予定
だったが予算が集まらず現在も砂利引き広場のままである。
ここをはさんで東側がフランス整形庭園、西側がイギリス
風景式庭園と対照して見られるようになっている。

フランス庭園側のプラタナスの並木(庭園の両側にある)、
日本のプラタナス並木の木はすべてこの木の子孫とのこと。
これだけ大きくて、そろっていると感動する。上下の写真。



ばらがきれいだった。

背景に新宿、代々木の街が見える。

イギリス庭園から見た砂利広場とフランス庭園。

イギリス風景式庭園の全景。

そこの端にあったケヤキとおもわれる大木(右側)。
いろんな木が茂っている。

おなじあたりのぼくの好きなタイサンボク、花が咲い
ていて、いい香りだった。

池の最下流、渋谷川へ放流(上は池側、下は川側)。



アメリカササゲ、百数十年を経ている本体は枯れて
いるが、周りから芽をだしている、すばらしい。

隣にある小さいアメリカササゲ、花が咲いている。
説明板によると枯れた木と根はつながっているとの
こと。

可憐なその花。

プラタナスの大木、並木のもこれも百数十年経ている
のだろうが、並木のほうは剪定するから少し幹なんか
が細くなるのだろうか。
それとも種類が違うのだろうか。

かつら。いかにも古い木という雰囲気をかもしだしている。

旧御涼亭、台湾が日本だったころに台湾から贈られた建物。

タイワンスギ、台湾を代表する木とのこと。
父は一歳から旧制高校を卒業するまで台湾に住んでいたの
で、昔、生きている頃に一緒に来たらいろいろ話をしてく
れただろうと思う。

旧御涼亭から見た対岸の多行松(たぎょうしょう)。
赤松の園芸種とのことだが、5月の時にはじめて見たので
印象に残った。東海道を歩いた時に滋賀県石部宿(甲西駅)
近くで、「うつくし松自生地」の看板があり、説明書にこれ
とよく似た松が載っていた。少し遠かったので行かなかった
が行っておけばよかった。園芸種と自生種なので似ているが
違うのだろうか。
とにかく気に入ったので、何枚も写した。









ラクウショウ、前に出てきたメタセコイヤとそっくりだけど
この木は下の写真のように気根を地上に突き出すところが珍
しい。





ラクウショウの葉、メタセコイヤと見分けがつかない。

興味津々できょろきょろしすぎて、疲れた(上下)。


都会の真ん中にこんなすばらしいところがあるとあらためて思っ
た。乳母車を押したお母さんの団体が幾組みもいて皆よく知って
いるのだなーと思った。
新宿という町にとって、長い歴史の中で生き残ってきた息抜きの
場所のであり、大事に残していかなければならない場所と思う。
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甲南大ネットワークキャンパス東京(サピアタワー10F)に行きました

2009-06-03 20:46:39 | 東京23区とその近辺
小さい頃からの友人が甲南大学ネットワークキャンパス
東京の所長になったので、訪ねて行った。
東京駅日本橋口のサピアタワー10階というすばらしい立地
である。
さすがに関西の名門の甲南学園だけのことはある。
経済界で活躍している先輩が多く、愛校精神や人脈を大切に
しているんだと感心した。
彼は、小学校(幼稚園?)から大学まで甲南だけれど、
仕事人生の最後?をこういう所で過ごせるのは、誰にでも
好かれる人柄と豊富な人脈の賜物と思う。
すばらしい。

入り口(上下)



講習会、学会等に使う、30人なら2室、合併して1教室なら
70人の部屋、PCコーナー、応接コーナー、事務所スペースと
ゆったりしている。これは、その部屋に掛けられていた額。

事務所スペース

東京駅方面

皇居方面

神田方面
二人で訪問したので、三人で思い出話をしながらの夕食
で楽しかった。
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