カルチャーセンターの講義で5月末に行った神楽坂周辺をカメ
ラ持参で再度まわった。
その時の地図も説明書も持参したのに何度も迷うほど。この
界隈は路地が入り組んでいる。それだけ風情が残っているこ
とにもなる。
今日も歩くことを再開するリハビリも兼ねているので、杖2本
(かっこよくトレッキング・ポールと言うらしい、まわりの
人達から勧められて買った)も使った。階段や坂道ではすごく
楽だった。万歩計は10,500歩で7,5キロだった。
上州道へ通じる江戸の北の関門、牛込見附の門の2基の石組
跡(上下の写真)。
飯田橋駅西側の牛込濠沿いの歩道、松がきれい、水面も見える。
駅前から見た西側の牛込濠、電車の線路も含めて外濠だったの
だろうか。
駅前の東側、東京湾から船でこれた飯田濠のあった所。
再開発されてビルになっている。
飯田濠は暗渠になって東へ流れて行く。
暗渠に入る流れの上の橋は落ち着いた雰囲気をだす工夫がされて
いて、かわるがわる休みに来る人が絶えない。
牛込濠からの流れ、落差がある。江戸時代から落差があって、
舟はここまでだったらしい。橋の南側、上の写真の右側。
暗渠への入り口、橋の北側、橋の写真の左側。
暗渠入り口を眺めていたら、白鷺、亀、鵜と並んだ。
こんなところでもいろんな動物がいる。
魚を探す白鷺、一方、鵜は潜るのを繰り返していたが、潜った
まま暗渠へ行ってしまった。
セキレイまでやって来た、切がないので出発した。
下から見た神楽坂、たくさんの人で賑やか。
大学生から老人まで、女性の3,4人連れが多い。
夫婦で高級一眼レフをさげている人も結構いた。
小栗横丁の熱海湯。
熱海湯前の坂道(階段)。
さっきの坂を行くと若宮町になった、しゃれたケーキ屋さん。
しゃれた店、喫茶店が多い。
勉強熱心な人が多いなーと思った理科大若宮校舎。
牛込城の土塁の跡と言われている石垣、路地の奥にある。
この辺は結構切り立った崖になっている、この石垣の上にも
家が建っているが大丈夫かという気がする。
右側がさっきの石垣と家、正面の家の向こうに牛込城があった。
この崖も心配なほど高い。
たぶんこの方向が城の大手門の方向。
牛込城の跡に建られた光照寺、この辺りで一番高いところにある。
ざくろの花がきれいだった。
たぶんこの方向に江戸城が一望できた。
牛込城(砦を兼ねたような武士の居館)を建てた牛込氏は三代
にわたってここに本拠を構えていた。
牛込氏の祖先は大胡氏で、赤城山南麓に勢力を張っていた豪族。
前橋市大胡地区に大胡城を構えていたが、16世紀中ごろに
牛込に移り牛込氏を名乗った。はじめは後北条氏の配下、
小田原攻めの後に徳川氏の配下になり、旗本となる。
牛込城は江戸城が一望できたためか、徳川時代の初めに徳川政
権の命令で壊されたらしい。
牛込氏は徳川家光の命令で改易されたが、幕末まで続いた。
このお寺は17世紀中ごろに神田から移ってきた。
ここにお城があったら、すばらしかったと思う。
前にブログに書いた足利市の�絛阿寺(ばんなじ)も、ここも
立派な居館は政権が落ち着くとにらまれるもとになり、お寺
に姿をかえるようだ。
先ほどの熱海湯横の階段、この右側の料理屋さんには以前に
宴会で来たことがあるのに気づいた。
その階段に通じる熱海湯と反対側の入り口。
神楽坂沿いにある善国寺(毘沙門天で有名)。
本多横丁から三年坂方面。有名な通り。
かくれんぼ横丁の辺り(上下の写真)、テレビドラマ「拝啓、
父上様」のロケ地らしい。ぼくは黒木メイサが可愛かったの
しか覚えていないが。
牛込消防署、マンションの一階にある。こういう迷路の地区を
担当するのは大変だろうと思う。
筑土八幡神社、9世紀の初めに起源があるらしい。
境内にある1664年に建てられた庚申塔、「太陽と月、桃の木、
二匹の猿」の図柄が珍しいらしい。
お参りしていたら、どこからとも現れて足にすりすりをして
くれた猫、あまり人がお参りしないからか人恋しそうだった。
いつまでも見送ってくれていた。
物書き旅館として有名な「和可菜」、右の奥のほうは料亭
「幸本」、兵庫横丁の入り口。
ブロック塀の手前、砂利が見えている所は更地になっていて
ビルが建つらしい、残念だけれど、東京ではどんどんビルに
なって雰囲気がなくなるのも仕方がないのかもしれない。
ここを奥のほうへ入っていくと雰囲気のいい階段になる。
ここでもビル工事が行われていた。
寺内公園(行元寺跡)、このお寺は明治40年に西五反田に
移転。江戸時代から境内を町屋として貸していたが、跡地を
貸して、そこが神楽坂花柳界の発祥の地となったらしい。
今はこの記念公園?以外は神楽坂アインスタワーはじめ高層
マンション群になっている(上下の写真)。
袖摺坂。
マンション併設ビル型神社に立替中の赤城神社。
今後、東京の神社はこういう風になって行くのだろうか。
この神社は大胡氏が牛込に移ってきた時に本国の鎮守である
赤城神社を分祀したのが始まりといわれている。
敷地を覗いた。完成したら見に来たい。
現在の神社。
西側の参道、かなり急に下っている。
上から見た神楽坂、これで終点。
この坂の下のほうに不二家があり、鯛焼きを売っているので、
買いにいった、4人しか並んでいないので、ラッキーと思ったら、
一番目の人が30個買った。4人とも五十代の女性でその内三人
は確実に同じ団体なので、この人たちで100個なくなる、もう
一人いるので、すべてなくなって次に焼きあがるまで長時間待つ
のは確実。残念ながらあきらめた。しかし、30個も買ってどう
するのだろう。
杖の助けもあって、楽しく歩くことができた。
ラ持参で再度まわった。
その時の地図も説明書も持参したのに何度も迷うほど。この
界隈は路地が入り組んでいる。それだけ風情が残っているこ
とにもなる。
今日も歩くことを再開するリハビリも兼ねているので、杖2本
(かっこよくトレッキング・ポールと言うらしい、まわりの
人達から勧められて買った)も使った。階段や坂道ではすごく
楽だった。万歩計は10,500歩で7,5キロだった。
上州道へ通じる江戸の北の関門、牛込見附の門の2基の石組
跡(上下の写真)。
飯田橋駅西側の牛込濠沿いの歩道、松がきれい、水面も見える。
駅前から見た西側の牛込濠、電車の線路も含めて外濠だったの
だろうか。
駅前の東側、東京湾から船でこれた飯田濠のあった所。
再開発されてビルになっている。
飯田濠は暗渠になって東へ流れて行く。
暗渠に入る流れの上の橋は落ち着いた雰囲気をだす工夫がされて
いて、かわるがわる休みに来る人が絶えない。
牛込濠からの流れ、落差がある。江戸時代から落差があって、
舟はここまでだったらしい。橋の南側、上の写真の右側。
暗渠への入り口、橋の北側、橋の写真の左側。
暗渠入り口を眺めていたら、白鷺、亀、鵜と並んだ。
こんなところでもいろんな動物がいる。
魚を探す白鷺、一方、鵜は潜るのを繰り返していたが、潜った
まま暗渠へ行ってしまった。
セキレイまでやって来た、切がないので出発した。
下から見た神楽坂、たくさんの人で賑やか。
大学生から老人まで、女性の3,4人連れが多い。
夫婦で高級一眼レフをさげている人も結構いた。
小栗横丁の熱海湯。
熱海湯前の坂道(階段)。
さっきの坂を行くと若宮町になった、しゃれたケーキ屋さん。
しゃれた店、喫茶店が多い。
勉強熱心な人が多いなーと思った理科大若宮校舎。
牛込城の土塁の跡と言われている石垣、路地の奥にある。
この辺は結構切り立った崖になっている、この石垣の上にも
家が建っているが大丈夫かという気がする。
右側がさっきの石垣と家、正面の家の向こうに牛込城があった。
この崖も心配なほど高い。
たぶんこの方向が城の大手門の方向。
牛込城の跡に建られた光照寺、この辺りで一番高いところにある。
ざくろの花がきれいだった。
たぶんこの方向に江戸城が一望できた。
牛込城(砦を兼ねたような武士の居館)を建てた牛込氏は三代
にわたってここに本拠を構えていた。
牛込氏の祖先は大胡氏で、赤城山南麓に勢力を張っていた豪族。
前橋市大胡地区に大胡城を構えていたが、16世紀中ごろに
牛込に移り牛込氏を名乗った。はじめは後北条氏の配下、
小田原攻めの後に徳川氏の配下になり、旗本となる。
牛込城は江戸城が一望できたためか、徳川時代の初めに徳川政
権の命令で壊されたらしい。
牛込氏は徳川家光の命令で改易されたが、幕末まで続いた。
このお寺は17世紀中ごろに神田から移ってきた。
ここにお城があったら、すばらしかったと思う。
前にブログに書いた足利市の�絛阿寺(ばんなじ)も、ここも
立派な居館は政権が落ち着くとにらまれるもとになり、お寺
に姿をかえるようだ。
先ほどの熱海湯横の階段、この右側の料理屋さんには以前に
宴会で来たことがあるのに気づいた。
その階段に通じる熱海湯と反対側の入り口。
神楽坂沿いにある善国寺(毘沙門天で有名)。
本多横丁から三年坂方面。有名な通り。
かくれんぼ横丁の辺り(上下の写真)、テレビドラマ「拝啓、
父上様」のロケ地らしい。ぼくは黒木メイサが可愛かったの
しか覚えていないが。
牛込消防署、マンションの一階にある。こういう迷路の地区を
担当するのは大変だろうと思う。
筑土八幡神社、9世紀の初めに起源があるらしい。
境内にある1664年に建てられた庚申塔、「太陽と月、桃の木、
二匹の猿」の図柄が珍しいらしい。
お参りしていたら、どこからとも現れて足にすりすりをして
くれた猫、あまり人がお参りしないからか人恋しそうだった。
いつまでも見送ってくれていた。
物書き旅館として有名な「和可菜」、右の奥のほうは料亭
「幸本」、兵庫横丁の入り口。
ブロック塀の手前、砂利が見えている所は更地になっていて
ビルが建つらしい、残念だけれど、東京ではどんどんビルに
なって雰囲気がなくなるのも仕方がないのかもしれない。
ここを奥のほうへ入っていくと雰囲気のいい階段になる。
ここでもビル工事が行われていた。
寺内公園(行元寺跡)、このお寺は明治40年に西五反田に
移転。江戸時代から境内を町屋として貸していたが、跡地を
貸して、そこが神楽坂花柳界の発祥の地となったらしい。
今はこの記念公園?以外は神楽坂アインスタワーはじめ高層
マンション群になっている(上下の写真)。
袖摺坂。
マンション併設ビル型神社に立替中の赤城神社。
今後、東京の神社はこういう風になって行くのだろうか。
この神社は大胡氏が牛込に移ってきた時に本国の鎮守である
赤城神社を分祀したのが始まりといわれている。
敷地を覗いた。完成したら見に来たい。
現在の神社。
西側の参道、かなり急に下っている。
上から見た神楽坂、これで終点。
この坂の下のほうに不二家があり、鯛焼きを売っているので、
買いにいった、4人しか並んでいないので、ラッキーと思ったら、
一番目の人が30個買った。4人とも五十代の女性でその内三人
は確実に同じ団体なので、この人たちで100個なくなる、もう
一人いるので、すべてなくなって次に焼きあがるまで長時間待つ
のは確実。残念ながらあきらめた。しかし、30個も買ってどう
するのだろう。
杖の助けもあって、楽しく歩くことができた。