奥州街道6月5日(土)

2010-06-06 19:00:48 | 奥州街道
東北新幹線那須塩原駅ータクシーー鍋掛宿出口・越堀宿・芦野宿・白坂宿・白河宿ータクシー
ー東北新幹線新白河駅と歩いた。
今日で奥州街道(幕府正式名称、奥州道中)をすべて歩いたことになる(宇都宮宿までは
日光道中と同じ道)。


この前の終着地、鍋掛宿出口の那珂川、今日も鮎釣りの人がいた。

杉渡土集落の家、作業するおじいちゃんのまわりを走り回る4,5歳の女の子に微笑みかけたら
はずかしそうに逃げていった。

富士見峠(下り)、今日はこういう緩やかな峠を数え切れないほど越えた、疲れが溜まって
行くのを痛感した。

余笹川、上流方向、ここも鮎釣りの人達が思い思いに釣っていた。

下流方向、カメラを替えたら、今までより薄くて小さくなったので、年寄りには構えにくくて
左端に指先が写ってしまった、気を付けなくては。

黒川に面する黒川集落、江戸時代からこういう景色だったのだろうなと感じる。

カキツバタかハナショウブか見分けられないがきれいだった、この後も川、池、田んぼに
咲いていた、紫のもあった。

夫婦石の一里塚、左の杉林の向こうの土の盛り上がった所と右のてっぺんに木が生えている所、
この辺りの一里塚は盛り土が小さいように思う。

睨み合っているかえる。

芦野宿入口から歩いて来た丘を振り返る、奈良川の向こうがむき出しの崖になっている。
右端から下ってきた。

芦野宿を過ぎて蟹沢?の家、ほっとする感じの雰囲気。

今日はこういう感じの景色の中をえんえんと歩いた。

疲れたので寄居本郷の公民館のような所で休憩。ここから2,3分歩いた所で激しい通り雨に見舞
われた、リュックの収納に慣れてないので、ビニールカッパがなかなか見つからず濡れてしまった。
といっても15分ぐらいでかんかんでりになったのですぐに乾いたが。

寄居大久保の2軒の古そうな家。左の塀の家は手入れして住んでいたが、右の赤い屋根の
門の家は住んでいないようにも思った。

そのすぐ近くの田畑の中の石柱群の一つ。なにかの願掛けの旅行(講)の立てたものと
思うが、なぜ郡山宿の海老屋さんがここに立てたのだろうか、何里かおきに立てたのが残
ったのだろうか。
今日歩いた所には、馬頭観音と書いたタイプと仏様を彫ったタイプの馬頭観音さまが多かった、
牛頭観音と書いた石柱もいくつかあって、このタイプの観音さまは初めてだ。

この辺りには石切り場がいくつかあった、また石材店の看板もいくつかあった。
石切り場はほそぼそと稼動しているのだろうか(3枚の写真)。
そういえば、大谷石の産地も近くだった。



ここは掘った跡に水が溜まったのだろうか。

明神集落の峠に神社があった、地図に「境の明神」と記されている所らしい。
標識には境の明神(玉津島神社)となっていて、峠の向こうのもう一つの神社と対になって
いるらしかった。なんだかよく飲み込めない内容だったで、帰ってから調べることにした。

なんだか疲れたのでここでも休んだ。

神社のすぐ隣の峠の頂上、那須町と白河市、つまりは栃木県と福島県の境になる。
江戸時代には下野と陸奥の境にあたった。

そのすぐ隣の境の明神、ここには和算のことが書いてある説明板とさっきと似たような説明板
があった。
こちらにもお参りしたが苔むしていて、なんとなく鳥肌がたって不思議な感じがした。
帰って調べたら、福島県のホームページでサイト内検索したものがわかりやすかった。
いろいろ総合すると次のようになった。
「境の明神は玉津島明神(衣通姫)と住吉明神(筒男命)を祀る神社で国境を守護している
那須町(栃木県、下野)ではこちら側が女神さま、向こう側が男神さまとみなしているが、
白河市(福島県、陸奥)ではその反対にみなしている。女神さまが豊穣、繁栄を表し、男神さま
が武力、守護を表しているから祀る場所がさかさまになる。」
衣通姫の物語は昔読んでおもしろかったように思うので今度くわしく調べてみる。

てっせんの花がきれいな家、古い農具なんかも置いてあって、通る人の目を意識している
ように思った。
家の周りの草抜きをしていたご主人らしき人に、「きれいですね」と声をかけたが会話に
乗ってこなかった。残念。

遠くから目立っていた大木。ケヤキだと思う。近づくと2本で一対で、その間に崩れそう
ではあったが木製の鳥居が立っていた。昔から街道筋で目だっていた木なのだろう。

今日は、はじめての那須の山々。

金売り吉次のお墓がある皮籠の集落に到着。ここの大きいタイプの家は独特な感じがした。
ここから4枚の写真、もちろん同様の家は他にも何軒かあった。





この家は取り壊し中だった、同様式での改造だとうれしいのだけれど。

やっと白河の町並みにたどりつく。最初に目に付いた家。

お醤油屋さん。

誰だったか明治以降の有名な人の生家と書いてあった。

もうすぐでゴールの女石の追分と言う頃に2回目の通り雨にあった。今回はカッパをすぐに
出して着たので濡れなかった。10分でやんで、かんかんでりにもどった。
印象に残った家。

阿武隈川、上流方向。この名前で東北地方にはいったんだと実感した。

下流方向。

この後、女石追分から旧道で国道4号に出て、女石交差点にもどって、そこのMINISTOPに
タクシーを呼んで新白河駅に出て帰った。
今日も前回に続きたくさん歩いてかなり疲れたが天気が良くて気持ちよかった。

これから先、各藩管理の奥州街道は北へえんえんと続く。
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奥州街道6月1日(火)

2010-06-02 17:11:35 | 奥州街道
JR東北本線氏家駅ータクシーー喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿ータクシー
ー東北新幹線那須塩原駅と歩いた。ここから白河宿までは、電車、バスが不便な地域だ。


喜連川宿、右が店舗で呉服屋さん、左がその住居。

喜連川宿出口の道標、右は奥羽海道らしかったが、左はわからず。

そのすぐ先の内川(下流方向)、喜連川の町並みは内川とこの前渡った荒川の合流点の
扇状地にある。

上流方向、雲の下が山々のようだ。

道端の花。

今日は、こういう風景の中をえんえんと歩いた、晴天で日差しは強かったが、風がひんやり
していて気持ちがよかった。

立派でよく手入れされた長屋門、看板は上江川郵便局。

久しぶりにこのタイプの道祖神に出会った。この手前にももう一つ同タイプが居られた。
どちらも二、三十年前に、お祀りされていた、こういう風習が現代にも受け継がれている
のだろうか。

先ほどは、田んぼの風景だったが、こちらは麦畑の風景、こうごにいりまじって続く。

この家は、障子(紙)と雨戸(木)のみで、ガラス戸がない。めずらしい。

このあたりによくある「立派なタイプ」の家。

佐久山宿出口の岩井橋から見た箒川(上流方向)。鮎釣りの人達が居て、看板、のぼりが
たくさん出ていた。昨日、解禁されたらしい。

これもこのあたりによくある大きい農家。

グミの季節だった、小学校の行き帰りにとって食べていた。さすがにとるのは気が引けた。

崩れそうな長屋門、残念だが維持には相当な金がかかるし、実用にはならないし、仕方の
ないことかもしれない。

すぐ近くのよく手入れされた長屋門、ステイタスとして残してほしい。

麦畑のむこうに那須の山々がかすんで見えた。

道の両側にお屋敷、親園(ちかぞの)という集落だった。

またグミがあった、大きい木だった。

親園の交番の住居は、奥の農家と同じく昔風のみばえだった、いいことだと思う。

大田原宿でなんとなくいいなーと思った家。

城跡と同じく小高い丘の上にある大田原神社(上下の写真)。



大田原宿出口の蛇尾川(上流方向)、左の林の奥に先ほどの神社がある。

昔はかやぶきだったかなーという農家。練貫(ねりぬき)という大きい交差点の手前。

同じあたりの相の川(上流方向)、那須の山々が近くなった。

日光の近くで見たこいのぼりと同じタイプの豪華版のこいのぼり。

鍋掛宿出口、越堀宿入口の那珂川(上流方向)。

下流方向、昨日の鮎釣り解禁でこの付近も看板、のぼりがたくさん出ていた。釣っている人は
1人しか見えなかった、帰った後かもしれない。

今日はここまで、昭明橋をバックに、たくさん歩いて疲れた顔を。

バスは最終が行った後なので、タクシーを呼んで那須塩原駅に向かった。
30分ぐらい前に疲れ果てて神社で腰をおろしていたら、目の前を男女高校生がバイクで走って
行った。二人乗りの人達もいた、皆、地味なおそろいの白いヘルメットをかぶっていたので、
通学に許されているのかもしれない。こういう不便な所では自己責任を身に付ける教育にも
なるし、大英断かもしれない。
それにしても青春映画、とくに昔のアメリカの、を彷彿とさせる一瞬だった。
残念ながら、写真は撮れなかった。
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奥州街道5月10日(月)

2010-05-11 19:08:40 | 奥州街道
今日は奥州街道(徳川幕府正式名、奥州道中、白河宿まで)を歩きはじめた。
といっても、日本橋から宇都宮宿までは日光街道(日光道中)と同じ道なので、宇都宮の追分
から続きを歩き始めたことになる。
ここからは買うのに適当なガイドブックが見つからないので、二万五千分の一の地図をたよりに
歩くことにした。インターネットのブログetcも頼りにした。

行程は、追分にある宇都宮小幡郵便局から喜連川宿の喜連川本町バス停までだ。


旧城下町の名残は地名ぐらいしかない、市街で目に付くのは二荒山神社だ、急な階段と立派な
社殿、平日九時半なのに町の人達のお参りが多い、仕事や通学のついでにと言う風情だ、
親しまれていることがわかる。







駅近くの旧家、交通量の多い主要道路にぽつんと残っている、現役で使われているようなので
うれしかった。

市街を出た竹林町の立派な長屋門。

このあたりには、大きな農家が数軒あった。

なんとなくなつかしい感じがする宇都宮化成の工場。
 

 
この4枚の写真のように、ところどころに街道の名残みたいな木がある。

続いて海道町、このへんにも大きな農家が多い。
上下の写真は同じ家、造園業をやっているらしい、屋敷林がすばらしい。





これは新築の農家、当世風。





すこし感じのいい歩道になってきた。





白沢宿に近づいた稚ヶ坂の上にある王子製紙日光工場、ここが日光工場と名づけられる
のかなーと思う。

白沢宿入口に祀られていた神様、こういう名前の神様は初めてだ。この後も祀られていたので、
この街道では一般的なのかもしれない。

白沢宿、街道の両側に小川が流れる道や水車を再現して観光の目玉にしていた。水がきれいで
豊富(3枚の写真)。





鬼怒川までの途中の西鬼怒川、水量が豊富。

一里塚跡、バスの折り返し場のようだが、バスは1本/時間以下だ。

しばらくは鬼怒川の堤防上の道を歩く、まわりは川原と田畑。

藤の花があちこちに咲いていて、きれい。

これが鬼怒川、川原が広い。

田植えの終わった田。

こちらは麦畑。

阿久津大橋から鬼怒川上流を。

同じく下流を。

氏家宿入口の大きな農家、屋敷林が美しい。

氏家宿の道標、こういう物があるとほっとする。

字はやっと読めるていど。

氏家宿ではこの家ぐらいしか目をひかなかった。

氏家市街を通り過ぎてから、旧家の表示の家や大きな家が数軒あった。
この家の門の説明文の赤い矢印は、昔の大洪水の水跡を示している、ずいぶん深かった
事になる。

上下の写真は同じ家。



おなじあたりにあった十九夜(左端)、二十六夜、二十三夜の石塔、それぞれ祈る内容が
ちがうようだが、こういうふうにそろっていると圧巻。
一ヶ所に集めたのだろうか。

これが左端の十九夜塔の正面、陰にもう一つ二十三夜塔があった。
全部で四つだ。

花いっぱいの農家(上下の写真は同じ家)。



かっこいい家、残念ながら廃屋。

田畑の中に突然現われた大きくて立派な保育園。どういう人達が預けるのだろうか。
夕方に、喜連川からJR氏家駅まで乗った帰りのバスがここを通った時にはたくさんのお母さん
が車で迎えに来ていた。





喜連川宿へは峠(弥五郎坂)を越える、ぼくは旧道の方で越えた。
登り口の農家、ここの屋敷林も大木ですばらしい。

この家の横にも、さきほどの神様が居られた。

こういう感じの道が続くさびしい峠。途中にキリンの研究所があり、こんなさびしい、
不便な所にとおどろいた。

ゴルフクラブもあった。有名なのかなー。

喜連川宿入口にもこの神様が祀ってあった。

喜連川宿の荒川、那珂川の上流らしい?。

喜連川神社、感じのいい所だった。





市役所の支所の入口は再現された喜連川足利氏の館の長屋門。
足利氏の末裔の喜連川足利氏は江戸時代の喜連川藩主、小藩だったが格式は高かった。
支所の観光課の人も郵便局の人も大変親切だった。
バスは不便で帰りは1時間近く待った、一日10本ぐらいしかなく、それも朝夕に集中している。
正月・お盆は運休とか日曜・祝日は運休とかの注意書もあった。
いつかの中山道のヒッチハイクを思い出したが、幸運にもバスはあった。
JR氏家駅には15分程度だった、ここからは自家用車必須の地域が続きそうだ。
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