虎ノ門-六本木街歩き1月28日(水)

2015-01-29 21:07:24 | 東京23区とその近辺
カルチャーセンターで「都心部山の手の地形と街並みを体験する」ということで、霞が関、虎ノ門、愛宕、麻布台、六本木と歩いた。
先生と30数人の大所帯なので、イヤホンガイド付きだった。大変、便利な器械だ。


50年ぐらい前に完成直後、かなり並んで当時は展望台だった最上階から景色をたのしんだのをおぼえている。

付近の様子はがらっと変わっていた。

高層ビルの右側は官庁ビル、左側は官庁+オフィスビルだ。

この高層ビルの工事中に江戸城の外堀の石垣が発掘されて、一部がこのように展示されている。

江戸時代初めのこのあたり。目の前は日比谷入江という海だ。

霞が関コモンゲートの東南方向、新橋駅方面。日比谷入江があったところ。霞が関には江戸時代より前に奥州路の
関所があったらしい。

コモンゲートの北西方向、外堀通。溜池と呼ばれる川を利用して、外堀が作られていた場所。


金毘羅宮。江戸時代に讃岐丸亀藩主京極家が勧請したのがはじまり。

鳥居の後ろのビルは神社の境内に建っている。


日本基督教団芝教会と虎ノ門ヒルズ。新旧建物が印相的だ。

虎ノ門ヒルズ。昨年竣工したばかり。地下にここから新橋間の高速道も完成した。

ばりばり働いているという雰囲気だ。

ここもおなじ。女性が多いように思うが?


馬で駆け上がったことで有名な愛宕神社参道。



いっしょにあったセンリョウとマンリョウ。

今日もあった顔だしパネル。

NHK放送博物館。後ろの高層ビルは愛宕グリーンヒルズの高級賃貸マンション(左)とオフィスビル(右)。

愛宕神社から愛宕グリーンヒルズへ通じるデッキ状の歩道。

愛宕グリーンヒルズ。青松寺ほかの関係者と森ビルの再開発事業で生まれた。右から高層マンション、青松寺、高層
オフィスビルが中心になっていて、ゆったりとしていて緑が多い。主として青松寺の境内地を使っているので、青松
寺は収入で建替えもした。江戸時代にも門前を長屋などにして貸地経営をしていたらしい。







以前は門前にあった有名な料理屋さん、現在はマンション棟の2階あたりにある。

その東側の谷。再開発には加わっていなくて、一般の住宅やお寺が雛段状にたてこんでいる。


オランダ大使公邸。

オランダ大使館、建物は奥で見えない。


東京都水道局芝給水所。



配水池(貯水能力8万㎥)。


幸福稲荷神社。ここは鎌倉街道跡とのことで、鎌倉時代の創建らしい。


裏側から見た配水池。


西久保八幡神社。平安時代に東国平定で活躍した源頼信や太田道灌のゆかりの神社らしい。丘を桜田通にくだって、
またのぼる。





縄文時代には、このあたりの谷は海だったようだ。


霊友会釈迦殿。すごい迫力だ。




坂を上って、東側をながめると我善坊谷の住宅群が見える。ここも再開発計画が進んでいて空き家が増えていた。
六本木のビル群のようになるのだろうか。

飯倉片町交差点から。


六本木の裏通りではディナーの開店準備中。


戦前に趣味人の大家さんが建てた賃貸住宅、俗称「スペイン村」。ここから4枚。








泉ガーデンタワー。

六本木交差点の東側にもこういう谷がのこっていた。

六本木交差点。ここで解散。


有志と先生、計6人でここでだべる。50年ぶりにきた。記憶にあるのは、建て替え前の2階か3階建ての店舗。
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奈良・平安時代の東海道跡1月26日(月)

2015-01-27 19:22:38 | 東海道
最近読んだ「古代の道」(吉川弘文館)に官道の東海道(都~常陸国府)の東京23区部分に道路跡と推定できる現存の
道路があると書いてあり、東武スカイツリー線の鐘ヶ淵駅付近から京成押上線の京成立石駅の東側までの地図も載って
いた。そこをたどった。
古代東海道の豊嶋駅(駅:官道の中継拠点、役所があった。場所は谷中霊園。)から井上駅に向かっている。本による
と井上駅は下総国府(市川市国府台の和洋女子大付近)の中か付近と推定している。
今日は出来れば江戸川の西岸までは行って、対岸の和洋女子大の校舎(高層ビル)を眺めたいと思っていた。幸運にも
そうすることが出来た。


ここから出発。この駅の西側のたどれるところまで行って、またここに戻ることにした。

駅の西側、これから行ってみる方向。豊嶋駅つまり谷中霊園の方向。

駅の東側。下総国府つまり和洋女子大の方向。
古代の官道は直進しているのが特徴で、たしかに両方向ともかなり向こうまで見える。


ここはこちら側と向こう側で道がくいちがっている。古代官道は道幅12~13mだったので、現在のこの道の巾5~6m
から考えると、ずっと昔に幅が維持管理できなくなった時に事情があって食い違って残った、なんて勝手に想像して
みるとたのしくなる。

ふりかえって見た様子。勝手な想像が当たっているのではと思えてくる。

ふりかえって見る。

ふりかえって見る。江戸時代の道の跡でよく見る道路際の祠もあった。多分江戸時代にもよく使われた道だったのだろう。

墨堤通に突き当たる。向こうは都営白鬚東アパート。



上野の丘とか谷中霊園の丘が見えないかとアパートの西側にも行ってみた。地図ではこの方向化と思うがビル群で
なにもみえない。ここからだと三ノ輪駅、谷中霊園が直線状とおもわれる。

この橋にも行ってみた。

隅田川上流。

下流。スカイツリーもうっすらと写っている。

橋の上からだとこの方向が谷中、上野の丘だろうか。
奈良・平安時代には低湿地上からだから、間近によく見えたと思う。



鐘ヶ淵駅に戻って、東側を目指す。


直進。


荒川西岸堤防に突き当たる。この川は大正初めから昭和初めにかけての大工事でできた人工の大河川。もちろん奈良・平安
時代は陸地。


古くからの街道の名残と思われる石仏か石神。ちゃんとお祀りされている。


大河だ。


歩いて来た方向をふりかえる。


向こうに見える四ツ木橋まで行って、対岸に渡って、続きを見つける。


荒川はすごい水量だ。


鉄塔のあたりがさっき居た所。


対岸に着く。目の前の川は荒川に沿って流れる綾瀬川、この川も江戸時代の人工河川。


続きは、本の地図から見てこのあたりにになる。


ここらしい。ずっとむこうまで真っ直ぐ。


ふりかえる。すぐ前が高速の高架。




四ツ木3丁目1と2の間。


直進する。




平和橋通を渡った。


葛飾区教育委員会の説明看板があった。本に載っていたのと同じ道、しかも立石より先の江戸川までかいてあった。
これで行きやすくなる。中川につき当たった後の道はぼくが考えた道と違っていた、助かった。





とにかく真っ直ぐ。


京成立石駅に近づくと太い道になった。

奥戸街道と書いてある。

ややこしいけれど線路の向こうへこの道は直進している。





中川につき当たる。川のたもとの祠。郵便局もある、本はここまで。



祠にあった道標。さっきの説明板によるとここから川沿いに行くことになる。ぼくはこの本奥戸橋を渡って、奥戸街道
を行くのだと考えていた。


本奥戸橋。


川沿いに行く。こういう道標があった。道標ではなく、石仏かもしれない。石仏であれば、初めて見た。

江戸時代のものだ。

この道が帝釈天への道なのだろうか。いずれにしても、この川沿いは街道筋だったのだろう。

この後、本に写真が載っていた「立石」、説明板では「立石様」、を探した。詳細地図がないので、すぐ近くを通って
いたのに30分ぐらい、探し歩いた。まず、大学生らしき人に聞いたら、「知らない」とのことだった、次に散歩中の
お年寄りに聞いたら「あのあたりだったように思います」と大体の方角を教えてくれた、だいぶん通り過ぎていたので、
引き返した。よけいにわからなくなり、次にであったお姉さんに聞いたら道順を教えてくれた。着くはずの所に見当
たらないので、幼児連れのお母さんに聞いたら、目の前の横丁の奥だった。ずいぶん苦労した。


「立石様」





本によるとこの石は立石の基部とのこと。この上に各地までの距離とかを書いた石板が乗っていたようだ。日本橋の
里程標のようなものなのだろうか。立石の痕跡は全国にあるらしい。千二三百年前から大事にされて、いまでも
祀られていることに感動した。ここでしばらく休憩して、パンを食った。







つき当たりが30分ぐらい前に通り過ぎた川沿いの道。すぐだったのに標識もないので見おとした。

川沿いの道にもどって、ふりかえる。奥のつき当たりに立石児童遊園がある。


気を取り直して、先を急ぐ。奥戸橋で中川を渡る。上流方向。


下流方向。右側の岸べり(川の北側)を歩いて来た。


環七はここを通っているのだと知った。


またまたこの説明板。元気が出る。

下総国府跡までもうすこしだ。


三和橋で新中川を渡る。

上流側。

下流側。




このあたりもずっと真っ直ぐだ。



京成本線京成小岩駅。


さらに真っ直ぐに行く。



ついに道が突き当たりになり、お寺の向うに江戸川西岸の土手が見えた。

まわりこんで土手の下に行く。


土手に上がって対岸を見る。

江戸川上流方向。

下流方向。JR総武線市川駅の方向。


背の高いビルが和洋女子大のビル。このあたりが下総国府跡らしい。遺跡が発掘された。



見えないけれど豊嶋駅跡(谷中霊園)は真ん中方向だろうか。写真では確認しにくいが左側にスカイツリーが見えて
いた。

今日歩いた所は、奈良・平安時代にはアシ、ススキや背の低い雑木のしげる低湿地だっただろうから、その中を西の
丘から東の丘へ幅12mの道が直進していたら立派だっただろうと思う。
坂上田村麻呂、源頼義・義家、更級日記の著者も通ったのだろうと思う。
こういう道を維持管理するのは地元の人達にはすごい負担だっただろうから、中央政府の力はすごかったのだろう。
維持管理できなくなり、平安末、鎌倉以降この12mの官道は消えていく。
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どんど焼き1月17日(土)

2015-01-18 13:20:27 | 雑感
街歩きや街道歩きの途中、遠くから眺めたことは何度かあるけれど、自分が参加したのは初めてだった。ぼくが小さい頃には、
この催しは阪神間や東京ではなかったようにおもう。


町内で集めて来たお正月飾りで、町内会と父兄の有志の方がこういう風に準備する。大変だろうと思う。地域のつながりには重要
な事だ。

小学生を中心にたくさん見に来ている。

迫力がある。消防団、消防士、消防車が待機している。









待機している消防車。

付近の人が通報したらしく消防車がサイレンを鳴らしてやって来た。ここだと確認して、「ーーー消防も待機して
いますので、ご安心くださいーーー」と近所に聞こえるように放送していた。



消防団が後の始末をする。

燃えている時間は1時間半だった。

この後、お餅が配られて、ぼくもいただいた。おいしかった。また、こいう遊び?もあって、大人気だった。


前の週の1月10日(土)には、町内をリヤカーを引いて回って、お正月飾りを回収して歩いた。ぼくも参加した。
最近のリヤカーはアルミ製で軽いし、折りたたんで収納出来るようになっていて、便利だった。




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根津、千駄木界隈(街歩き)1月13日(火)

2015-01-17 13:08:32 | 東京23区とその近辺
カルチャーセンターの街歩きに参加して、15、6人で先生の案内つきで歩いた。「都市風景を味わう」のが目的なのだが、
目で見て「いいなー」とか「なるほど」とか感じても、写真に撮って、後でチェックして、「こんなんじゃなかったなー」
ということが多い。しかたがないのでブログには、目的以外の、単なるぼくの興味対象の写真もたくさん含めた。


メトロ根津駅近くのこの建屋は大正初めのもの。不忍通に面した側が道路の拡幅で削られて、不自然な格好になっている
がけっこううまく隠している。









当初は小売りのお店だったらしいが現在はお料理屋さん。



そのすぐ近くの日本家屋、西洋風家屋、藏がまざった家。昭和の戦前の様式で文化住宅というらしい。子供の頃住んで
いた阪神間では、文化住宅というと安物の集合住宅だったので、ずいぶん意味がちがうなーと思った。



崖地の踊り場状の土地には大きな木が生えていることが多い。ぼくの好きな風景だ。この桐の花が咲くころ見に来たい。
切り倒されない内に。水脈がここで切られているのか、コンクリート擁壁は苔に覆われている。



冬なのにすだれが吊ってある変わった感じの家。何かの家元でお稽古のために家が広いらしい。



根津教会。大正の建物。手入れがいい。



表具、武田とガラス戸に書いてあった。現役の店舗なのだろうか。風格がある。



根津神社。場所も建物もすばらしい。徳川家ゆかりの神社。



境内の背後の丘の上にある水色っぽい建物は弥生正緑館。明治末の建屋で住宅の一部らしい。後でこのお宅の正面にも
行ったが、この建物は敷地の奥にあってほとんど見えなかった。



拝殿と本殿が同じ屋根の下にある権現造という様式。1706年に徳川綱吉の命で造った。権現造は徳川時代初めの
久能山東照宮が発祥の様式。



庚申塔があつめられている。





この石神も移されてきたらしい。




東京大学の野球場。グランドも観覧席もりっぱだ。観覧席は戦前のもの。







この後、千駄木を歩いたのだが、うまく撮れなくてここで終わり。おもしろい所はたくさんあったのだけれど絵(写真)
に出来るのかというとそう簡単ではなかった。
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矢倉沢通(やぐらさわどおり)1月12日(月)

2015-01-15 11:36:35 | その他の街道
ひさしぶりに本格的な街道歩きに出かけた。今日はJR小田原駅付近から大雄山線大雄山駅付近までだ。
江戸幕府所管の27道について道中奉行が編集した「五街道其外分間見取延絵図」の復元解説本である「五街道分間延絵図」
に載っている矢倉沢通の小田原から関本までだ。この本は102巻からなっていて46万円ぐらいする、矢倉沢通は2巻で7万円
弱だ。早稲田大学中央図書館でこの本から手持ちの地図にトレースして、解説の地名、寺、神社、一里塚などをメモして
たどっていくのだがガイドブックではないので、現地に行ってみて勘を頼りに歩く。この前に行った根府川通の時もかなり
迷った(2013-3)。根府川通は東海道箱根越えの南側裏道で矢倉沢通は北側裏道だ。


まずは、高円寺駅からの富士山。東京駅からこだまで小田原へ。



ここが東海道と矢倉沢通の分岐点。





東海道、京都方面。

矢倉沢通、関本(大雄山駅付近)方面。これから歩く方向。


街道のおもむき。









五百羅漢の玉宝寺。

お寺の背後の丘の一帯は戦国時代の多古城の跡。


やっと富士山が撮れる所があった。



やって来た方向。

これから行く方向。


たびたび見えるようになる。


狩川の駒千代橋たもとの駒千代観音堂にある石仏群、おもに馬頭観音。


橋の上から。







清左衛門地獄池を探して、富士フイルム工場方面に向かう。

工場が見えてきた。

煙突が3本ある後方の建屋群が富士フイルム工場。




少し迷ってやっと到着。分間延絵図の解説に載っていたので、案内標識があるだろうと思っていたがほとんどない。

お社は厳島神社。



この湧水は富士フイルムの水源の一つとなっている。


お隣の弁天様と湧水を使った人工の滝。


次は南足柄神社を探す。久しぶりの男女の道祖神。山梨地方、長野地方には多かったように思う、ここから北側への
つながりが強いのだろうか。


お正月の飾りの整理など町内会の清掃に大勢集まっていて、その一人に教えてもらって到着。



境内から見た関本の街並み。


あちこちにこのタイプの男女道祖神があった。

消えてしまっているが同じタイプと思う。


こちらは馬頭観音像。


こちらは達磨像と思う。



富士フイルム付近からずっと、こういうきれいな水が豊富に流れる水路が多い。
奥の山、特に箱根の外輪山からの湧水が水源になっているのだろう。


大雄山駅→福田寺へ向かう。狩川川原のどんど焼きの準備。

寒いのに川遊び。


大雄山駅に到着。

日向ぼっこしながら、金太郎像の前で定番の昼食。

この後、webで調べた時に見つけた、大山へお詣りする道から西に続く矢倉沢往還が通っている福田寺に行くことに
していた。標識か観光地図ぐらいはあるだろうと思ったのが甘かった。駅でもらった地図に小さく載っていたが
観光地扱いでなく、迷った。富士フイルム前駅近くで、やっと、歩いている人が次々に2人いて、親切に教えてもらっ
た。二人ともお寺はあるけど行ったことはなく、名前までは確認していないとのことだった。勘を頼りにしばらく
行く、車は通るが歩いている人はまったくいない。やっと40代ぐらいの女性が犬の散歩でやってきた。声を掛け
たらあやしまれるだろうなーとおそるおそるたずねたら、さっとスマホを出して、ヤフーで調べてくれた。
こういう時つかいなれていると便利なんだと感心。おまけにいつもの犬の散歩コースということで迷わない地点
まで10分ぐらいいっしょに行ってくれた。感謝感謝だ。


やっと福田寺(左の塀の向こう、入口は木の所)に到着。入口付近が矢倉沢往還(大山道。矢倉沢通とは別
の道)の峠だった。

その峠から松田(東側、小田急線新松田駅付近)方面。

お寺の手前の道標。「右 大山」ははっきり読めるが、「左 ?」だ。下部にも何か書いてあるがわからなかった。



webでは「左 ふじ」だと書いてあった、よく見ると「左 ふし」に見えなくもない。

道標の左方向。右方向はさっきのお寺の塀沿いの道。

T字路なので直進すると大雄山線和田河原駅に行きそうだ。そちらに向かう。




駅近くの水路、ここもきれいで豊富な水が流れていた。






帰りの電車から。

この後、帰りは小田原駅から小田急特急にした、予想外にすいていた。
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