JR中央本線酒折駅-甲府柳町宿-韮崎宿-穴山駅と歩いた。
酒折駅を出てすぐ、甲府柳町宿の入口辺りの堂々とした家(3枚の写真)。
正面から。
通り過ぎてから、奥行きもある。
甲府駅の正面の通り。
甲府の真ん中は近代的大都会なので、昔の面影はない、そんな中、蔵つきの
家があった、家はモダンな建築。
説明板には、「上石田のサイカチ」で甲府市指定の有形文化財・天然記念物、樹齢
300年と書いてあった。場所は甲府市街のはずれ、荒川橋を渡った所で昔は荒川の
川原に当たる場所だったらしい。
樹木好きのぼくとしては感激した、ニセアカシアのように豆がぶらさがる木らし
い。
子供みこし、この時期どこでも年中行事になった、お巡りさんも大変。
本来の街道から寄り道をして、信玄堤を見ることにした。その途中のいつもの
道祖神。
信玄橋から見た南アルプス(上下の2枚の写真)。
釜無川の上流方向。
信玄橋下流方向の信玄堤(上下2枚の写真)。
上流方向の信玄堤(3枚の写真)、想像していたものとは大分違っていた、増水、
洪水時に流れの強さを分散し、方向を制御する工夫がなされていて、それを
総称して信玄堤というらしい。説明板を読むと、写真に撮った以外にも釜無川、
御勅使川(みだいがわ)のあちこちに工夫がされているとのことだった。
この写真を見ても、堤防・波消しブロックの様なのや二重に土手になっている
ようなのがわかる、また水流に近い所にも木を束ねた様な物や石を籠にいれた
物を置いたらしい。
ここは今は公園として整備されていて、子供連れで賑わっていた。
今でも甲府市街を水害から守っている。
御勅使川の方向を見る。流れているのは釜無川、両河川とも通常時にはおだやか
な川らしいが大雨が降ると突如、変貌するらしい。
引き返して、街道に戻る途中の石柱群。左に見える道祖神は通常タイプの道祖神
だった、久しぶりだ。
突如、低層ビル群があらわれた、研究所、研修所の雰囲気、なんだろうと思っていた
ら、竜王赤坂ソフトパークとサンテクノカレッジの看板があってなるほどと思っ
た。
遠くに八ヶ岳連峰が見えてきた。
突如現れた古い立派な家。
久しぶりに現れた男女の道祖神。
豪邸。
ここからの3枚写真は同じ家。まるで砦のような家。まず玄関。地名は志田だった。
そこから街道沿いの様子。
通り過ぎた所からの様子。すごく広い家。
上の家の街道の反対側の家。これも立派。
志田のお宮さんのケヤキと道祖神。紅葉しかけていて、きれいだった。
金剛地という落ち着いた雰囲気の集落にあった二十三夜の石柱、久しぶりに
現れた。
韮崎宿入口の塩川橋から見た南アルプス。
ふと目を転じると富士山が見えた。この日は春霞のような天気だったので写真で
は見えないかもしれない。写っている低い山の背後、写真の真ん中をよく見ると
かすかに写っている。
富士山はどこから見ても感激する。
韮崎宿のメイン通り。
醤油、味噌、こうじの看板のお店。この三つは製造工程上関連があるのだろうか。
ここでやっと駒つなぎ石(馬つなぎ石)の現物を見ることが出来た(上下の写真)。
ぼくは子供の頃をはじめとして、宝塚市・西宮市に住んだ期間が長い。
小林一三氏は阪急グループの創始者、宝塚歌劇の創始者として、地元では超有名、
しかし韮崎の出身とは思いもしなかった、てっきり阪神間出身と思っていた。
韮崎宿を過ぎてから、釜無川が増水時、氾濫時の迂回路である原路(はらみち)
(信州往還とも呼ばれていた)を行くことにした。
理由は、1:新府城の横を通って、どんな所なのか全景を見たかった、2:今日
は中央本線の穴山駅、できれば日野春駅から帰りたかった、からだ。
原路は釜無川の河岸段丘上にあって、相当な断崖絶壁の上にある。
原路に対して、本道は河道(かみち)と呼ばれていて、川沿いを通っており、
中央本線の駅に行くには不便。
河岸段丘上に上がるのに急坂なので息が切れた、上に上がると八ヶ岳連峰がまた
みえた。
ここにも堅固な館風の立派な家があった。
これが新府城のあった小山。川側は断崖絶壁なので堅固なのだが、後ろ側はこの
ように守りが未完成。
武田勝頼が織田・徳川勢に攻撃され形勢不利になった時点で、家臣の真田昌幸に
城の普請を命じた。1年の短期間後の1581年12月に勝頼は躑躅ヶ崎館から移って
くる。しかし、家臣達の徳川氏への寝返りがつづき、一族で重臣の穴山梅雪まで
寝返り、武田方諸将が動揺してしまい、ここでは無理と判断し、真田昌幸、小山田
信茂らの重臣と軍議の結果、小山田信茂の岩殿城に一族で移り、拠点にすることに
して、自ら火を放った。しかし、城の目前の笹子峠辺りまで来た時点で、
小山田信茂の寝返りに合い、織田勢にも取り囲まれ、一族で自刃する(1582年
3月)。 (岩殿城跡の写真は9月25日のブログに。)
その後、新府城の地は徳川家康が甲州平定の拠点にし、平定が終わった1590年に
廃城となる。
武田信玄は城を持たない主義だったので、長篠の戦に敗北後、重臣に裏切られ続
けた勝頼は大変苦労することになった。
本やこの付近のあちこちの説明板等を読んでいると勝頼が気の毒になって来る。
付近からの八ヶ岳連峰、この道は大変景色がいい、歩道がなく歩きにくいのが
困るが。
こういう風に日が山に隠れそうになって来たので、今日は穴山駅までにして、
急いだ。
穴山の集落、落ち着いた所、手前2軒は古い様式、奥は新築の家。
同じく、ほっとする感じの家。
穴山駅は小奇麗な駅だったが、無人駅だった。同じ列車から降りてきた人はなし、
乗った人はぼくとおばあさんの二人だった。
穴山氏の発祥の地の看板が駅にあった。帰って調べてみると、南北朝時代から、
この辺りを領有していた武田氏系の豪族で、穴山梅雪はその何代目かの頭領。
梅雪は徳川家康とともに織田信長への挨拶のため安土城に行き、帰途も家康
とともに堺に回った、ここで本能寺の変がおこった。
家康は有名な伊賀越えで無事脱出するが、梅雪は別行動で甲斐へ戻る途中、
京都府田辺市で襲撃を受けて殺害された。
その後、子供が後を継いだが数年後に若くして病死し、穴山氏は断絶した。
子供の頃、まんがで読んだ真田十勇士の一人、穴山小助も穴山氏出身らしい。
韮崎宿の後、河岸段丘を登る所からずっと登りで、歩道がないこともあって歩
き難く、疲れた顔をしている、急に寒くなってジャンパーを着た。駅のベンチ
でぼやーっとしていたら元気になった。