東工大からの富士山10月27日(火)

2009-10-27 17:10:57 | 東京23区とその近辺
今日は台風一過の晴天だったので、前から見たいと思っていた東工大、大岡山
キャンパスからの富士山を見に行った。
見たいと思って行っても、なかなか見れなかったが、今日はきれいに見えた。


普通に撮るとこういう風になるが、目で見た感じとは大分違う。

上下2枚が目で見た感じに近い、高層ビルと送電鉄塔がなければ、風景としては
満点だが贅沢は言えない。



うつくしい風景というのはどういう意味を持つのかよくは解らないが、なにか
重要なものを持っているような気がする。
そうでなければ、風景の浮世絵とか名所図会とか風景写真集が人気を集める
はずがない。
そろそろ、風景を大事に残すことを考える時代になったのではないだろうか。

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甲州街道10月18日(日)

2009-10-21 10:42:47 | 甲州街道
JR中央本線酒折駅-甲府柳町宿-韮崎宿-穴山駅と歩いた。


酒折駅を出てすぐ、甲府柳町宿の入口辺りの堂々とした家(3枚の写真)。

正面から。

通り過ぎてから、奥行きもある。


甲府駅の正面の通り。


甲府の真ん中は近代的大都会なので、昔の面影はない、そんな中、蔵つきの
家があった、家はモダンな建築。


説明板には、「上石田のサイカチ」で甲府市指定の有形文化財・天然記念物、樹齢
300年と書いてあった。場所は甲府市街のはずれ、荒川橋を渡った所で昔は荒川の
川原に当たる場所だったらしい。
樹木好きのぼくとしては感激した、ニセアカシアのように豆がぶらさがる木らし
い。


子供みこし、この時期どこでも年中行事になった、お巡りさんも大変。


本来の街道から寄り道をして、信玄堤を見ることにした。その途中のいつもの
道祖神。


信玄橋から見た南アルプス(上下の2枚の写真)。



釜無川の上流方向。


信玄橋下流方向の信玄堤(上下2枚の写真)。



上流方向の信玄堤(3枚の写真)、想像していたものとは大分違っていた、増水、
洪水時に流れの強さを分散し、方向を制御する工夫がなされていて、それを
総称して信玄堤というらしい。説明板を読むと、写真に撮った以外にも釜無川、
御勅使川(みだいがわ)のあちこちに工夫がされているとのことだった。
この写真を見ても、堤防・波消しブロックの様なのや二重に土手になっている
ようなのがわかる、また水流に近い所にも木を束ねた様な物や石を籠にいれた
物を置いたらしい。
ここは今は公園として整備されていて、子供連れで賑わっていた。
今でも甲府市街を水害から守っている。





御勅使川の方向を見る。流れているのは釜無川、両河川とも通常時にはおだやか
な川らしいが大雨が降ると突如、変貌するらしい。


引き返して、街道に戻る途中の石柱群。左に見える道祖神は通常タイプの道祖神
だった、久しぶりだ。


突如、低層ビル群があらわれた、研究所、研修所の雰囲気、なんだろうと思っていた
ら、竜王赤坂ソフトパークとサンテクノカレッジの看板があってなるほどと思っ
た。


遠くに八ヶ岳連峰が見えてきた。


突如現れた古い立派な家。


久しぶりに現れた男女の道祖神。


豪邸。


ここからの3枚写真は同じ家。まるで砦のような家。まず玄関。地名は志田だった。

そこから街道沿いの様子。

通り過ぎた所からの様子。すごく広い家。

上の家の街道の反対側の家。これも立派。


志田のお宮さんのケヤキと道祖神。紅葉しかけていて、きれいだった。


金剛地という落ち着いた雰囲気の集落にあった二十三夜の石柱、久しぶりに
現れた。


韮崎宿入口の塩川橋から見た南アルプス。

ふと目を転じると富士山が見えた。この日は春霞のような天気だったので写真で
は見えないかもしれない。写っている低い山の背後、写真の真ん中をよく見ると
かすかに写っている。
富士山はどこから見ても感激する。


韮崎宿のメイン通り。
醤油、味噌、こうじの看板のお店。この三つは製造工程上関連があるのだろうか。


ここでやっと駒つなぎ石(馬つなぎ石)の現物を見ることが出来た(上下の写真)。



ぼくは子供の頃をはじめとして、宝塚市・西宮市に住んだ期間が長い。
小林一三氏は阪急グループの創始者、宝塚歌劇の創始者として、地元では超有名、
しかし韮崎の出身とは思いもしなかった、てっきり阪神間出身と思っていた。


韮崎宿を過ぎてから、釜無川が増水時、氾濫時の迂回路である原路(はらみち)
(信州往還とも呼ばれていた)を行くことにした。
理由は、1:新府城の横を通って、どんな所なのか全景を見たかった、2:今日
は中央本線の穴山駅、できれば日野春駅から帰りたかった、からだ。
原路は釜無川の河岸段丘上にあって、相当な断崖絶壁の上にある。
原路に対して、本道は河道(かみち)と呼ばれていて、川沿いを通っており、
中央本線の駅に行くには不便。
河岸段丘上に上がるのに急坂なので息が切れた、上に上がると八ヶ岳連峰がまた
みえた。


ここにも堅固な館風の立派な家があった。


これが新府城のあった小山。川側は断崖絶壁なので堅固なのだが、後ろ側はこの
ように守りが未完成。
武田勝頼が織田・徳川勢に攻撃され形勢不利になった時点で、家臣の真田昌幸に
城の普請を命じた。1年の短期間後の1581年12月に勝頼は躑躅ヶ崎館から移って
くる。しかし、家臣達の徳川氏への寝返りがつづき、一族で重臣の穴山梅雪まで
寝返り、武田方諸将が動揺してしまい、ここでは無理と判断し、真田昌幸、小山田
信茂らの重臣と軍議の結果、小山田信茂の岩殿城に一族で移り、拠点にすることに
して、自ら火を放った。しかし、城の目前の笹子峠辺りまで来た時点で、
小山田信茂の寝返りに合い、織田勢にも取り囲まれ、一族で自刃する(1582年
3月)。 (岩殿城跡の写真は9月25日のブログに。)
その後、新府城の地は徳川家康が甲州平定の拠点にし、平定が終わった1590年に
廃城となる。
武田信玄は城を持たない主義だったので、長篠の戦に敗北後、重臣に裏切られ続
けた勝頼は大変苦労することになった。
本やこの付近のあちこちの説明板等を読んでいると勝頼が気の毒になって来る。


付近からの八ヶ岳連峰、この道は大変景色がいい、歩道がなく歩きにくいのが
困るが。


こういう風に日が山に隠れそうになって来たので、今日は穴山駅までにして、
急いだ。


穴山の集落、落ち着いた所、手前2軒は古い様式、奥は新築の家。

同じく、ほっとする感じの家。


穴山駅は小奇麗な駅だったが、無人駅だった。同じ列車から降りてきた人はなし、
乗った人はぼくとおばあさんの二人だった。

穴山氏の発祥の地の看板が駅にあった。帰って調べてみると、南北朝時代から、
この辺りを領有していた武田氏系の豪族で、穴山梅雪はその何代目かの頭領。
梅雪は徳川家康とともに織田信長への挨拶のため安土城に行き、帰途も家康
とともに堺に回った、ここで本能寺の変がおこった。
家康は有名な伊賀越えで無事脱出するが、梅雪は別行動で甲斐へ戻る途中、
京都府田辺市で襲撃を受けて殺害された。
その後、子供が後を継いだが数年後に若くして病死し、穴山氏は断絶した。
子供の頃、まんがで読んだ真田十勇士の一人、穴山小助も穴山氏出身らしい。

韮崎宿の後、河岸段丘を登る所からずっと登りで、歩道がないこともあって歩
き難く、疲れた顔をしている、急に寒くなってジャンパーを着た。駅のベンチ
でぼやーっとしていたら元気になった。
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根津美術館の庭

2009-10-17 16:58:39 | 東京23区とその近辺
9日(金)に新装成った根津美術館に行った。ここは女房とよく行ったお気に入り
の場所だ。
2006年5月から改築工事で休館していた、有名な隅研吾の設計による新展示棟が建
っていた。いつものように渋谷から歩いていった、途中の景色は3年の間に多少
変わっていた。


これが新館、展示と言う意味では抜群に良くなったが美術館、美術館した建物に
なった。当たり前と言えば当たり前だが、前の建物の方が温かい感じがして、
ぼくは好きだ。美術館の個性がなくなったような気がする。
展示はいつもの通り、日本画中心で、屏風もあってすばらしかった。

庭はほとんど変わっていなくて、ほっとした。























この辺りは高低差のある地域なので庭を作るには適している。うまく傾斜を
利用して庭が出来ている、都心の穴場と思う。多分、以前は庭には誰でも
入れるようになっていたのではないかと思う、小さい子供連れが池のほとりで
遊んでいるのをよく見かけて、ほほえましいなーと思っていた。
こんどは美術館を通らないと行けなくなった、これも当たり前といえば当たり前
だが。

以前はこの辺りのみが建物になっていた、今はここが事務棟のようだ。
とにかく、また来れるようになってうれしい。

ここから恵比寿まで歩いて、これもまた半蔵門から移転、新装成った山種美術館
に行った。

これが建物、ここも見やすくなっていた。
速水御舟展だった、何回も見たものも多かったが、何回見ても感激する。

そこから代官山まで歩いて、電車に乗った。

途中、恵比寿駅の近くに恵比寿神社があった、何回も付近を通っているのに、
今日はじめて気がついて、お参りした。
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甲州街道10月14日(水)

2009-10-16 14:23:03 | 甲州街道
JR中央本線甲斐大和駅-鶴瀬宿-勝沼宿-栗原宿-石和宿-酒折駅と歩いた。
朝の内はジャンパーを着ていないと寒いぐらいだった、紅葉はまだだったが。


前回にも載せた、日川と笹子沢川の合流点、いつみても流れがきれいで感激する。


鶴瀬宿近くの石屋さん、この赤っぽい石が特産品なんだろうか、こんだけ並んで
いると目に付く。

鶴瀬宿には、本陣等の跡の説明柱があるのみで、とくに目立ったものはなかった。
通り過ぎた辺りの道端のりんご畑、おいしそうだった。


これはぶどう畑、この後いやというほど現れる。向こうは中央道。


勝沼宿へ行く途中、長柿という集落あたりにあった長垣橋、昭和37年竣工と書い
てあったが今は通行止めになって久しい様子の板敷きの歩行者用の吊橋。
渡れたらいいのになーと思った。

下から見たところ、ここから川までもずいぶんな深さがあるあるので、吊橋から
見たら目がくらむだろうなと思った。

もう少し下にある橋から、絵になる風景だった。

普段は汚い水の川しか見ないので、川底が透き通ってみえると感激してしまう。

これが集落の風景、いかにも街道沿いの感じ。


勝沼に近づくと立派な家が多くなる、ここからは、もう勘弁して欲しいというぐ
らい、ぶどう狩り屋さんが延々と続く。

勝沼本陣跡、「槍掛けの松」の表示柱がたっていた。立派な松だったが樹齢等は
書いてなかった。

勝沼宿の街並、ここから6枚の写真、落ち着いた宿だった。





この家は新築、大金持ち風だが風景にはとけこんでいると思った。

旧田中銀行の建物(文化財らしい)の隣の家、表札はなかったが気になった。

その裏の蔵、大きいがいつまで持つか心配、残してほしい。


勝沼宿を出た辺りの豪邸。


この辺りの道祖神はこういう独特な形をしている。そういえば、笹子駅から後、
二十三夜の石柱、庚申塚etcを見かけなくなった。峠の前後で風習の違いがある
のだろうか。


これも豪邸。


街道沿いによくある風景、祠と道祖神、ここも丸い石でつくられている。
今までは石に神様、男女の姿や文字を彫ったものが多かった。


いつものようにお宮さんで昼食。


なんとなく撮りたくなった家。栗原宿の辺りか。

いかにも街道沿いの祠という感じがする。

その境内の道祖神。

栗原宿の大宮五所大神(神社)、このクロ松は立派だった。

この境内にも道祖神があった。


これも豪邸。もうすぐ笛吹川だ。

日川の堤防下の家、庭がブドウ畑になっている。こういう形式の家はぶどう狩り
屋さんには多いが、ここは上から見れて面白い。

日川を渡る、上流方向(うえの写真)と下流方向(下の写真)、山また山に囲ま
れた盆地である。水はきれいだが川にごみが目に付くようになった。
今日歩いた所は、盆地だからか、水が豊富できれい、溝でさえそうだった。



障子と雨戸だけの家、だいたいの古い家はガラス戸を追加しているので、もとの
形のまま残っているのは珍しい。住むのには不便だろうなー。

この道祖神はいままでのとまた少し違っていて、男性性器を表しているように
見える。そういえば中山道にも似たようなのがあった。

この辺りは日川の堤防沿いで笛吹川、重川もすぐそこだ。多分、何度も氾濫した
川床と思う、桃畑が続いていた。
桃畑で農作業していた、同じ年頃の方が「調べ物をしているんですか」と声を
掛けてくれた、立ち話で次のことがわかった。
1、今歩いている道が旧甲州街道で鉄道馬車が石和まで通っていた。さっきの
道祖神の所の細い道も旧甲州街道で主に駕籠が通っていた。
2、昔は川がしょっちゅう氾濫して、そのたびに畑も家も、お上の土地
の割り当てから始まって、復旧は大変だったらしい。
3、勝沼から石和までの間、果物の中心が、ぶどう→桃→柿と移る。
4、一宮の桃は天下一品だ。
そういえば、阪神間では桃と言えば岡山だけど、東京のスーパーでは山梨だった
なーと思い出す。

その辺りの古い家。ほとんどが新しい家だったので目だっていた。


笛吹川の南側の堤防。

笛吹橋から上流方向を。

北側の堤防の松並木、見ごたえがあった。
この辺りから、石和の温泉街が始まる。戦後、発見された温泉なので、ビル形式
の宿屋が多そうだった。

石和宿の入口にあった道祖神。

郵便局の看板があった、多分、奥の建物がそうなのだろうが、蔵の入口にも
少し古めの郵便局の看板があった。確かめようと思ったが、どういう訳かしま
っているようだった。

お味噌屋さん、製造している。

豪邸。

これも豪邸。

さっきの人が言っていた通り柿畑だ。

またまたこの様式の道祖神。

この辺りには、とびとびに豪邸がある。

石和宿のお宮さんの道祖神。

石和宿の中心は近代的な街並になっていて、説明板はあっても宿場を思わせる
物はない。


宿を過ぎた辺りの古い家、由緒ありげだった。

同じ辺りの豪邸。

同じ辺りの古い家。


酒折駅のある酒折の町は、山梨学院大学の城下町の感じがする。
この中心建物以外にも、幼稚園から大学までの施設がそこら中にある。
立派な教育施設だ。
酒折駅では、小学生とそのお母さん達、中高生達、大学生達とたくさんの人達が
列車を待っていた、小学生達はみんな賢そうに見えた。

酒折宮、「やまとたけるのみこと」が東征の帰途立ち寄って、連歌のような
催しをしたと言われており、連歌発祥の地とされているとのこと。

この後、酒折駅から、帰った。

すっかり、秋になった感じがした。
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甲州街道10月10日(土)

2009-10-11 17:59:57 | 甲州街道
JR中央本線笹子駅-黒野田宿-笹子峠-駒飼宿-甲斐大和駅と笹子峠越えを歩いた。


黒野田宿の落ち着いた風景、上下の写真は同じ家、思わず立ち止まってしまう
風情だった。



笹子川、水がきれい。

山からの流れ、いくつも流れがあってその水が集まって行く。

峠の入口へと近づく。

いいなーとほっとする風景。


苦手なハイキングコースの道になった、今回は前後に十数人の人達がいるので
ほっとする。写っているのは一番先頭のご夫婦、この後、これでいいのかという
感じのぬかるんで歩いた跡のわからない道になった。付いていこうとしたら、
突然立ち止まって、お茶を飲んで休み始めたので、あせった。「道がわかりにく
いですね」と言ったら、「そうですね、歩きにくいですね、しかしこれしか道ら
しいのはないから、ここを行きます」と言う返事だったので、いやいや先頭に
なってしまった。写真のような道なら、昔の街道はこうだったのだろうと思える
が、今は宿場の人達が労役で維持管理しているわけではないから、台風の後で踏
みしめた跡が消えた巾1mの道らしきものになっていた。

川沿いなので、地図(新田沢)とチェックして多分あっているだろうと思った。

無事に道路に出て、「矢立の杉」の標識もあった。

その後の道、街道的な道。ゆっくり休憩して、先頭になるのをさけた、今度の
先頭は女性の3人連れ、みんなハイキングに慣れている様子。

碓氷峠の時と違って、ちゃんと橋が維持管理されていた。

矢立の杉に到着、車道からも来れるようになっているので、何人かの人達がいた。
戦の前に、この街道を通った弓矢時代の武士達が、戦勝祈願のために、この杉に
矢を射て、山の神に祈ったと言われている。よく見ると矢傷らしきものがあった。

樹齢1000年とも言われている。高さは十数mぐらいだろう。

しかし、よく見ると中が空洞らしい、説明板には中から上を撮った写真があって、
煙突状になっていた。いつまでも元気で居て欲しいと思う。


ここで笹子駅でシャッターを押すのを頼まれた5,6人組の方々が追いついてきた、
またシャッターを頼まれた、ぼくも頼んだ。雑談中にしばらく連れて行ってもら
うことになった。
よく知っている方もいて、わかりにくいハイキングコースを笹子隧道へ向かった、
ぼくだけだったら多分、車道を歩いたと思う。

途中に何本かあった実、葉から推測して、碓氷峠で花が咲いていて、撮ったのと
同じと思う。赤くなっているものも遠くにあった。

笹子隧道に到着、向こうが見える。ここは山越えをする。
一緒に歩いていた方々はここで昼食とのこと、「峠には昼食できる場所はないよ」
とのことなので、ぼくもいつものように簡単な昼食を食べて、お礼を言って、先に
出発。あまりいい道ではなかったがすぐに向こう側にでた。

峠、道の途中と言う感じで、景色は開けていない。

向こう側の出口付近の神様の石像(多分、道祖神)、神々しい雰囲気だった。

反対側の入口、こちら側には装飾がない。


峠からは平坦な下り道だった、かなり長い道のり。
途中にあった伐採跡?、この後、どういう風に処理されていくのか心配、かなり
の間、放りっぱなしになっている様子だった。

こういう景色、峠越えの後はいつもこういう景色だったような気がする。

道端の「あけび」、何箇所もなっていた、これが一番きれいに撮れた。
取って食べることは出来ない高さで残念。40年ぐらい前、工場勤務だった時に
道端のあけびを毎年楽しみに味わったのを思い出す。


やっと駒飼宿に着いた。宿の家、6枚の写真。



この家は新築だけれど雰囲気が昔の家風で気に入った。よそ者の勝手な印象かも
しれないが、街道沿いには○○ハウスよりもこういう家が増えてほしい。

雰囲気は悪くないが、なんとなく変わっているなーという家。

裕福そうな家。



庭先農園みたいなところのりんご畑。

いかにも旧街道沿いと言った雰囲気、白い柱は旧甲州街道の標識。


鶴瀬宿の入口あたりを通って、甲斐大和駅に向かった。
大和橋からの日川とそこにそそぎこむ笹子沢川(小さいほうの川)、いい景色
だった。

甲斐大和駅では、途中で出会ったほとんどの人達とまた出会った。
列車を待っていたら、雷が鳴り、夕立が来そうな気配で、実際、乗ってから2,3駅
は雷と雨だった。ぬれなくて済んでよかった。
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