甲州街道-諏訪大社上社-7月16日(土)

2011-07-18 16:38:01 | 甲州街道
前回、このあたり来たのは、2010-6-18だった。その時には、街道から少し離れている
諏訪大社上社にはお参りしなかったので、今日はゆっくり、のんびりお参りに来ること
にした。
退職してから、休日・連休からは無縁になっていたので、混雑という点でうっかりして
いた。
中央本線の指定券はすべて売り切れで、7:00新宿発の特急は、通路もデッキも入れない
大混雑だった。あわてて並んだ7:18の臨時特急にかろうじて座れた。
今日は茅野駅からタクシーも使って、なんて気楽に考えていたが、乗り場で、「待って
も今日はタクシーは無理ですよ」と言われた。登山客の団体にすべて予約されていて、
一台もないらしい。重装備の登山客がおおぜい集まっていたが、夫々の目的の山のふも
とまで、予約したタクシーで行くらしい。いくつもの団体の乗車の整理ですごくにぎや
かだった、びっくりした。
したがって、今日は一日中歩いた、もっともそれがぼくの本来なのだが。


駅のすぐ近くにあった達屋酢蔵神社。ケヤキの大木と湧水がきれいだった。


おなじあたりの上川であゆ釣りをする人。


その先の宮川、車で来る人用の上社・前宮の看板に従って歩く。


前宮に近づいた「小町屋の辻」の看板と道祖神。


同じ所の祠、久しぶりに男性性器の像がおいてあった、集落の繁栄を願うものだと思う。


同じ所の「山の神」?の祠。諏訪湖のまわりにはこのタイプのものがたくさん祀られて
いて、大事にされている。


前宮の立派な神社林が見えてきた。




諏訪大社、上社、前宮。ここが一番古い社らしい。入口から木が鬱蒼と茂っている。


先へ進む。


振り返ってみる。山に登っている感じだ。




神事が行われる建物。一般的な神社とは建物の配置がちがうように思う。


さらに上って、先に行く。


拝殿。圧倒される神社林を背景にしている。


横から見た拝殿、本殿、神社林と清水とされている有名らしいせせらぎ。



神社林の中でも一段と迫力のある老大木。手前は御柱の一本。



またちがう御柱の一本。


拝殿から茅野の方向を。


次は神長官守矢資料館に行く。道端の道祖神、手前の二本の棒は溝で洗っている
すき、くわのたぐい。


夏の景色。茅野は大きな町だ。


神長官守矢資料館はこの家(多分、守矢家)の一角にある。有名な建築探偵、藤森照信
東大教授の作品だ。神長官というのは諏訪大社の神官のトップのことらしい。


先ほどの前宮の神事が行われた建物の中に、神事の際にはこのようなお供えがされたとの
こと。現在は省略されて、鹿の剥製が供えられるらしい。

上社・本宮では、「肉食をするためのお札」を昔と同様に売っていた。


古図。


裏にあった祠。守矢家敷地内のミシャクジ社、重要な神様らしい。


同じ所にあった祠。


さらに奥に藤森教授作のオブジェが二つ建っていたので見に行った、そこにあった
わらぶきの祠。


敷地内の生垣に囲まれた祠。

その内部。




敷地を後にする。


隣にあった藤森神社、後ろに資料館が見える。
隣の家も藤森さんだった、藤森教授は茅野市出身と聞いたことがあるが、
ここが実家なのだろうか。


上社・本宮へ向かう途中にあったこの地方独特の屋根飾りの家。


ほんとうにこのタイプの祠があちこちにある。


湧水、つめたくてほっと一息つけた。

この奥にも祠があった。


逃げ水の見える道路に立っていた道祖神、拝むだけで元気がでる。


急勾配の階段の上にある北斗神社。灯籠には地震倒壊対策と思われる枠が
組んであった。

勇気を出して上ることにした。バランスを失うと転げ落ちる。

頂上の祠にたどり着く。

下を振り返る、ほんとに急だ。下りるのも怖くて、そろりそろりだった。


本宮の近くの神社。



本宮の神社林も鬱蒼と茂っている。


参道。



振り返ってみる。


拝殿。

拝殿付近。


違う側の入口。



手水舎で手を清めたら、温泉だったので、おどろいた。


太鼓は見えにくいが二つある、白いのと黒いの(左側)と。


さっき通った参道。


ここでも巫女さんの髪飾りはすてきだ。


古いのと新しいのと二体並んだ道祖神、出会うとなぜかほっとする。


上諏訪に行く途中また上川を渡る。


ずいぶんと歩いたと思ったが、諏訪大社の鳥居があらわれた、まだまだ御神域
を抜けてなかったのだ。


ひたすら先をいそいでいたら足長神社に出た、ここは昨年も通ったと思う。


以下、昨年も歩いたように思う道をひたすら歩く。









武津公民館の道祖神、ここは昨年も写真を撮ったので、よく覚えている。


上諏訪には造り酒屋が軒をならべている、その中の二軒。
昨年、撮った真澄で有名な宮坂醸造の古い様式の建物は工事用の塀で囲われて
いた。どうなるのだろうか。



先宮神社の拝殿と樹齢650年と言われるケヤキの老大木。駅に近いので、家も
立て込んでいるし、裏にはマンションも建っているが、神社林がすばらしい。

ここが今日の最後の目的地。

2010-6-18にここを通った時、足にまめができて、足も痛くなって、入口の
階段で腰を下ろして休憩し、手当てをした。その時はさっと通り過ぎたのだが
、先をいそいでいたら、この神社の御柱の置き場所があり、由緒ある神社で
あることがわかった。だから、今日ゆっくりお参りしたかった。
由緒の概略:
ご祭神は高光姫命(たかてるひめのみこと)と言う方だ。
古事記でおなじみの天孫降臨直前の物語に出てくる国譲りの話と関係している。
アマテラスオオミカミの家来のタケミカヅチノカミと争って負けて、諏訪に敗走
し、国を譲ることに同意して、諏訪にこもって、統治することになった
タケミナカタノカミに対して、この地方の元の神様として抵抗して、ついに敗れ
たのがタカテルヒメノミコトと伝えられている。そのためこの神社にふうじこめ
られてしまった。一説にその時タケミナカタノカミがタカテルヒメノミコトの
美しさにほれこんで、愛妾にしてとじこめたとも言われている。
国譲りでオオクニヌシノカミ、コトシロヌシノカミ、タケミナカタノカミが
ふうじこめられる話、また武田信玄と側室諏訪御料人(武田勝頼の母)の話を
思い出して、不思議な気分になる。

神社の入口。

外に行けないように橋というか普通はかかっている石のふたがない。
由緒に従って、受け継がれているらしい。
この神社は地元の大和地区の人達に大切に受け継がれてきて、お祭りは盛大な
心のこもったものらしい。
筋の通った、魅力的な神様なのだろう。


駅へ向かう。

途中にあった集落の神社の神社林(鎮守の森)。東京の人口密集地の再開発された
神社に最近二回行ったが、このあたりの神社との大きな違いは、神社林だ。
工事の過程で神社林を切ってしまうのはゆずるとしても、20年、30年後の事を考えて
木を植えておけばいいのにと思う。きらびやかな建物はそれはそれでいいが、すぐに
あきられてしまうのではないだろうか。神社はやはり人の集まる所であってほしい。





また別の神社、こちらの売りは岩らしい・

すぐに上諏訪駅に着いて、楽しかったなーと思いながら帰った。
かえりの列車はすいていた。
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甲州街道‐穴山駅→韮崎駅の川沿い‐7月11日(月)

2011-07-12 13:24:59 | 甲州街道
夏本番になったので、街道歩きに行った。
この区間は前に歩いているが違う道を歩いた。


うれしい夏の到来だ。



穴山橋から釜無川上流方向。
八ヶ岳と右側に見える川が削った崖(七里岩)がいい景色だ。
水がきれいで、アユ釣り客もたくさん来ていた。

下流方向。


一休み、日陰でなくても風が涼しい。


川の左岸の先ほどの崖。


左の丘の麓が韮崎市街。




江戸時代に釜無川から引かれた灌漑用水である徳島堰、水量が豊富で見ていると
引き込まれそうな気がする。今日の歩きは半分がこの用水沿いだった。

ところどころにこういう洗い場のようなものがある、今も使われているのだろう
か、危ないような気もするが。




釜無川の向こう、左岸の丘、一昨年はこの上にある、川氾濫時の脇道である蔦木道
を歩いた。今回は甲州道中の本道を歩く。


釜無川の谷は絶好の水田地帯。


どういう訳か韮崎には古い家を見かけない、この家は貫禄があった。


川の右岸の丘(山)から流れて来る沢、上の方で崩落が起きている。
こういう沢がたくさんそそぎ込んでいる、大雨の時はすごい勢いなのだろうと思う。


この橋(桐沢橋)で左岸に渡る。この丘の上に悲劇の新府城があった、こちら側
からは登る道はなさそう、蔦木道側からはたやすく行ける。


この橋から見た上流。

下流、ここにもアユ釣り客がつめかけている。

右岸側の丘と山、このあたりは結構狭い谷になっている。




左岸の集落から見ると崖が高くてこわいように感じる。




この集落には古い門がいくつかあった。家の方は新築されていた。


右岸側のいかにも夏という景色。


丘の上の東京エレクトロンの事業所。現役時代、お得意さんだった。
一昨年には前を通った。




韮崎駅近く、金網は張ってあるが、よくもまあこんなに危ない場所に
住めるとびっくり。

今日で出会った道祖神はじめ石神、石仏達。










今年も父が好きだったノウゼンカズラがあちこちに美しく咲いていた。









韮崎駅に到着、駅からの景色。

まだ時間が早かったので、甲府で途中下車して、武田神社(武田信玄の
つつじヶ崎館跡)にお参りした。



高校生が来ていて、にぎやかで、おもしろかった。





館の堀の跡。

館の井戸の一つ、ここは現在も使われていた。

城下町が一望できる場所にあって、背後は山だ。周りには家臣が住んでいて
まさに「人は城、人は石垣、---」だ。勝頼はなぜここを捨てて、新府城
を建設して移ったのだろうか。家臣団の寝返り、離反が続いたからだろうか。
そういうことを思いながら神社を後にした。
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甲州街道6月16日(水)

2010-06-18 18:31:54 | 甲州街道
JR中央本線富士見駅ー金沢宿・上諏訪宿・下諏訪宿ーJR中央本線下諏訪駅と歩いた。

今日は2度激しい通り雨にあった、1回目は富士見駅から30分間ぐらいで、傘を差して、それでも
濡れながら歩くはめになり、今日はどういうことになるのかなー、ついさっきまでの車窓からは
晴天だったのにと思った。2回目は茅野で、最近始めた郵便局のスタンプ集めをしていた時に急
に豪雨になったので、そこで15分雨宿りをした。それ以外は幸いにもかんかん照りだった。


前回(6月11日)には、ここから歩いてきた方を振り返って写真を撮った、これが今から行く
方向。ここが今日の出発地点、止みそうだが雨がまだ降っている。
左に行って、すぐに右に行く道があったが、本来はこの先に道があったと思える地形だった。

通り雨が止んで、すぐに青空になってきた。

原の茶屋という付近の家、家の中にも花を生けたりして、きれいにしている。
あまり通る人はいないと思うが、楽しませてもらった。

おなじ所の明治天皇もお飲みになった湧き水。

こういう落ち着いた町並み。

これから歩いていく方向の山々が雲の下遠くに見える、右の林はカゴメの工場だった、
よく手入れされた歴史のありそうな工場だった。

雨上がりで山がきれい。

御射山神戸という変わった地名の集落。ここから3枚の写真。
この家は新築、農作業場が新しいタイプで、今後流行るのではと思った。

貫禄がある家。

蔵も含めて一つ屋根で、面白い改造をしている。

遠くから見て、立派な木だと思っていたら、一里塚跡だった。

登り続けているなーと思っていたら、標高917mだった。

さっきの大木の塚と対になっている塚の木は小ぶりだった。
御射山神戸の一里塚跡。

少し離れて二本を見たところ。

同じあたりの道端に、ぼくの好きなアザミが群生していた。

金沢宿の家。ここから3枚の写真。
金沢宿手前は、セイコーエプソン富士見事業所の城下町の様相で、社宅、寮、厚生施設等が
たくさん続いた。





茅野に入る頃、雲行きがあやしくなって来た。
2回目のどしゃ降り通り雨の時、茅野駅前郵便局でスタンプを押してもらっていたので、
そこで15分雨宿り、助かった。雨が止むと晴天になった。

上諏訪宿手前の風景、諏訪湖の方面を見る。青空になった。

村の神社、豊な森。

桑原集落のいい雰囲気の町並み。ここから3枚の写真。





久しぶりのこのタイプの道祖神。隣の秋葉山の石柱は結構あった。

上諏訪宿の家。ここから6枚の写真。
これは呉服屋さん。

有名な造り酒屋さん、東京のお店でもたいがいは置いている。このあたりの造り酒屋さんには
どこも煙突が見えなかった、なぜだろう。

これも造り酒屋さん。

これも違う造り酒屋さん、ちょうど観光客風の男女が楽しそうに買って出てきた。

またまた。かたまって在る。

すぐ隣にも。かたまっている方がいいのかもしれない。
今日はさすがに買わなかった。

大和集落の家、散髪屋さんの様だ。

上諏訪から下諏訪の街道路は予想に反して湖岸ではなく山すそを歩く。登ったり下ったりの
連続で足にくる。湖も見えそうで見えない、やっと湖面が見えた。

材木が干されて?いた。先宮神社の御柱と書いてあった。先ほど足にできたまめの手当てをした
神社だ。石段に座らせてもらって、靴をぬいで休憩した。そう言えば、9月に御柱祭をすると
書いてあったような気がする。諏訪神社と関係する神社なのだろうか。ここの参道の鳥居の
手前の石段に座った時に不思議に感じたことがある、それは道路との間に水量が豊富な
小川?、溝?が流れているのだが、普通は架かっている橋とか石の蓋とかがなくて剥き出しだった
ことだ。もちろん跨げばいいのだが、足が疲れていたこともあって、おやっと思った。
その時は気にとめなかったので写真も撮らなかった、こういうお祭りをする神社だったら
撮っておけばよかった。

ぐるっと見渡せる場所に来た。西の方向。

これから行く北の方向。

歩いて来た南の方向。

高木集落の家。上下の写真。

この家の壁には、茶屋跡という標識が貼ってあった。

地図で見る限り下諏訪宿はもうすぐ。諏訪湖と歩いて来た方向の景色。
このあたりだったと思うが、追い越していった車が止まって、待っていて、声がかかった。
40歳代の女性で、「ストックは使い易いですか。テレビで使うといいといっていたので、ーーー」
の質問だった。「スキーのストックのように使えて、疲れないし、早く歩けるしいいですよ」
と強く薦めておいた。
山登りが趣味の人だろうか、それとも普段用に親に薦めるのだろうか。

上諏訪宿入口の家。

甲州道中(甲州街道)と中山道の追分。ここが甲州街道(幕府正式名称:甲州道中)の終着地。上下2枚の写真の標識の所。



疲れた顔。

諏訪大社下社秋宮にお参りした。

立派な社殿。

社殿の裏の右と左に御柱が飾ってあった。



この後、町を歩いて行って、上諏訪駅から列車に乗った。
町はきれいな観光地で、観光バスの団体客がおおぜい居た。

今日で甲州街道は終わった。
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甲州街道6月11日(金)

2010-06-12 23:42:18 | 甲州街道
JR中央本線穴山駅ー台ヶ原宿・教来石宿・蔦木宿ーJR中央本線富士見駅と歩いた。
天気は快晴だったが、残念ながら、かすんでいて遠くの山々は見え難かった。
暑かったが、山の中で風が気持ちよく、はる蝉も鳴いていた。

使っているガイドブックはこのあたりをかなり省略しているので、二万五千分の一の地図に
「甲州道中分間延絵図」(江戸時代の本)とその解説をトレースして、補った。


甲州街道は2009-10-18(日)に穴山駅まで来て以来、8ヶ月ぶりだ。
日光・奥州街道が先になってしまった。その時は韮崎から、原道という脇道を通って、
新府城跡に行き、穴山駅に来た、この道は釜無川洪水時に使われた河岸段丘上の道だ。
今日は本道である川沿いの河道にかなりの高低差を一気にくだった、かなり下に来た
所からの景色。

穴山橋から釜無川の上流方向、むきだしの断崖絶壁、地図には七里岩と書いてあった。

下流方向、ここにも鮎釣りと思われる釣り人達がいた。水が透き通っている。
左の丘の上に原道がある。

上円井集落の家、田舎には入口の上に松等の枝を引っ張ってきて見栄え良くしている家
が多い。手入れが大変だろうなー。

すぐ近くに立派な長屋門の家があった。

上の写真の家の玄関、内藤さんというお宅で、覗くと庭に明治天皇行幸の記念碑があった。
庄屋さんだったのだろう。

七里岩の続き。

牧原集落の家。ここから3枚の写真。



変則的な長屋門。

大武川、上流方向。とにかく水がきれいで冷たそう、暑かったので、つかりたくなる。

釜無川の向こうに、まだ崖が続いている。

三吹集落の家。ここから6枚の写真。
奥のグリーンの屋根が母屋、塀などが厳重で写真がうまく撮れなかったが立派なお屋敷。

同じ家を隣の家の入口から見ると右側のようになる、生垣で仕切っているだけで行き来は
自由なようなので、親子とかだろうか。こういう風に隣同士で新旧の様式で建っている
豪邸を結構見かける。

障子の中のガラス部分がすばらしい。

ここでも枝を引っ張っている。

なんとなくほっとする家。

新しい様式の新築だが、雰囲気的にはまわりにとけこんでいた。

道端の雑草がきれに咲いていた。

台ヶ原宿の家。ここから10枚。
二軒に見えるが一軒の家と思う。

上の写真の奥の部分、新しく出来た部分と思うが、西部劇のスペイン風の家のテラスを
連想した、雰囲気は宿場に合っていて、楽しかった。



多分、この写真全部が造り酒屋北原家の家だと思われる。

店舗の玄関に当たる所。またまた、うれしくなって720ml1本を重いのに買ってしまった。
ここで飲んだ柄杓一杯の清水と小さいグラス一杯の冷酒がおいしかった。

これが買った酒、弱いので買ったのが家に溜まっている。順番に飲んで楽しんでいるので、
飲むのが楽しみだ。

北原家の説明板と明治天皇宿泊の碑。

筋向いのお菓子屋さん、おかみさん?が美人だったので、重くなるのに胡桃ゆべしを買って
しまった。帰ってから食べたら、おいしかった。



ここで台ヶ原宿は終わり。

すごく疲れた感じがしたし、13時になっていたので、ここで休憩して、持ってきたもので昼食
にした。たまたま白須松原址碑のある公園だった。南北朝の時代には歌にも詠まれた松原
だったのに昭和15年に切り払われてしまった。

神宮川(江戸時代から近年まで、濁川と呼ばれていた)の上流方向。

下流方向。水がとてもきれい、すぐ近くの山の麓にサントリーの蒸留所があるらしい。

松原・荒田集落の家。ここから3枚。どの家もほっとする感じが伝わる。





釜無川とその向こうの段丘、今日はこういう景色が続く。

教来石宿の家。

山口の関所跡。教来石宿は甲斐の国最後の宿なので、信濃の国との国境の警備の役割
を果たしていた。

国界橋からの釜無川、下流方向。本当は向こうに見える赤い新国界橋を渡るべきだったが、
ガイドブックの文章は新国界橋、地図はこの国界橋になっており、ここを渡ってしまった。

上流方向。

このとおり、今は使われていないらしい。渡ったら、「危険、渡るな」と書いてあったが
反対側にはなにも書いていなかった、やれやれ。
ここで、甲斐の国(山梨県)が終わり、信濃の国(長野県)が始まる。

蔦木宿の本陣跡。

蔦木宿の風景、ますぐに道が通っていて、両端に枡形がある立派な構え、昔は栄えて
いたと想像できる。現在はJR中央本線信濃境駅が最寄り駅だが少し距離があって、取り
残された町になっている。

出口の民家の庭先のような場所にあった立派な石柱群。

またまたかなり急な登りになって、釜無川の向こうに山々が見える。さっきまで、川は
北側だったが、こんどは南側になった。

富士見近くの家。しめ縄のような飾りがすばらしい。

同じ辺りのきれいだった花、ウツギの一種?。

同じく富士見近くの家。

富士見の終着地に近づいた頃、立派な松林が現われた、白須の松原もこういう風景が続い
ていたのだろうか。

今日の終着地から見た風景。ここから街道を離れて、20分歩いて富士見駅に行った。

今日は穴山から下った時以外はすべて登りで足がつかれた、距離としてもたくさん歩いた。
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甲州街道10月18日(日)

2009-10-21 10:42:47 | 甲州街道
JR中央本線酒折駅-甲府柳町宿-韮崎宿-穴山駅と歩いた。


酒折駅を出てすぐ、甲府柳町宿の入口辺りの堂々とした家(3枚の写真)。

正面から。

通り過ぎてから、奥行きもある。


甲府駅の正面の通り。


甲府の真ん中は近代的大都会なので、昔の面影はない、そんな中、蔵つきの
家があった、家はモダンな建築。


説明板には、「上石田のサイカチ」で甲府市指定の有形文化財・天然記念物、樹齢
300年と書いてあった。場所は甲府市街のはずれ、荒川橋を渡った所で昔は荒川の
川原に当たる場所だったらしい。
樹木好きのぼくとしては感激した、ニセアカシアのように豆がぶらさがる木らし
い。


子供みこし、この時期どこでも年中行事になった、お巡りさんも大変。


本来の街道から寄り道をして、信玄堤を見ることにした。その途中のいつもの
道祖神。


信玄橋から見た南アルプス(上下の2枚の写真)。



釜無川の上流方向。


信玄橋下流方向の信玄堤(上下2枚の写真)。



上流方向の信玄堤(3枚の写真)、想像していたものとは大分違っていた、増水、
洪水時に流れの強さを分散し、方向を制御する工夫がなされていて、それを
総称して信玄堤というらしい。説明板を読むと、写真に撮った以外にも釜無川、
御勅使川(みだいがわ)のあちこちに工夫がされているとのことだった。
この写真を見ても、堤防・波消しブロックの様なのや二重に土手になっている
ようなのがわかる、また水流に近い所にも木を束ねた様な物や石を籠にいれた
物を置いたらしい。
ここは今は公園として整備されていて、子供連れで賑わっていた。
今でも甲府市街を水害から守っている。





御勅使川の方向を見る。流れているのは釜無川、両河川とも通常時にはおだやか
な川らしいが大雨が降ると突如、変貌するらしい。


引き返して、街道に戻る途中の石柱群。左に見える道祖神は通常タイプの道祖神
だった、久しぶりだ。


突如、低層ビル群があらわれた、研究所、研修所の雰囲気、なんだろうと思っていた
ら、竜王赤坂ソフトパークとサンテクノカレッジの看板があってなるほどと思っ
た。


遠くに八ヶ岳連峰が見えてきた。


突如現れた古い立派な家。


久しぶりに現れた男女の道祖神。


豪邸。


ここからの3枚写真は同じ家。まるで砦のような家。まず玄関。地名は志田だった。

そこから街道沿いの様子。

通り過ぎた所からの様子。すごく広い家。

上の家の街道の反対側の家。これも立派。


志田のお宮さんのケヤキと道祖神。紅葉しかけていて、きれいだった。


金剛地という落ち着いた雰囲気の集落にあった二十三夜の石柱、久しぶりに
現れた。


韮崎宿入口の塩川橋から見た南アルプス。

ふと目を転じると富士山が見えた。この日は春霞のような天気だったので写真で
は見えないかもしれない。写っている低い山の背後、写真の真ん中をよく見ると
かすかに写っている。
富士山はどこから見ても感激する。


韮崎宿のメイン通り。
醤油、味噌、こうじの看板のお店。この三つは製造工程上関連があるのだろうか。


ここでやっと駒つなぎ石(馬つなぎ石)の現物を見ることが出来た(上下の写真)。



ぼくは子供の頃をはじめとして、宝塚市・西宮市に住んだ期間が長い。
小林一三氏は阪急グループの創始者、宝塚歌劇の創始者として、地元では超有名、
しかし韮崎の出身とは思いもしなかった、てっきり阪神間出身と思っていた。


韮崎宿を過ぎてから、釜無川が増水時、氾濫時の迂回路である原路(はらみち)
(信州往還とも呼ばれていた)を行くことにした。
理由は、1:新府城の横を通って、どんな所なのか全景を見たかった、2:今日
は中央本線の穴山駅、できれば日野春駅から帰りたかった、からだ。
原路は釜無川の河岸段丘上にあって、相当な断崖絶壁の上にある。
原路に対して、本道は河道(かみち)と呼ばれていて、川沿いを通っており、
中央本線の駅に行くには不便。
河岸段丘上に上がるのに急坂なので息が切れた、上に上がると八ヶ岳連峰がまた
みえた。


ここにも堅固な館風の立派な家があった。


これが新府城のあった小山。川側は断崖絶壁なので堅固なのだが、後ろ側はこの
ように守りが未完成。
武田勝頼が織田・徳川勢に攻撃され形勢不利になった時点で、家臣の真田昌幸に
城の普請を命じた。1年の短期間後の1581年12月に勝頼は躑躅ヶ崎館から移って
くる。しかし、家臣達の徳川氏への寝返りがつづき、一族で重臣の穴山梅雪まで
寝返り、武田方諸将が動揺してしまい、ここでは無理と判断し、真田昌幸、小山田
信茂らの重臣と軍議の結果、小山田信茂の岩殿城に一族で移り、拠点にすることに
して、自ら火を放った。しかし、城の目前の笹子峠辺りまで来た時点で、
小山田信茂の寝返りに合い、織田勢にも取り囲まれ、一族で自刃する(1582年
3月)。 (岩殿城跡の写真は9月25日のブログに。)
その後、新府城の地は徳川家康が甲州平定の拠点にし、平定が終わった1590年に
廃城となる。
武田信玄は城を持たない主義だったので、長篠の戦に敗北後、重臣に裏切られ続
けた勝頼は大変苦労することになった。
本やこの付近のあちこちの説明板等を読んでいると勝頼が気の毒になって来る。


付近からの八ヶ岳連峰、この道は大変景色がいい、歩道がなく歩きにくいのが
困るが。


こういう風に日が山に隠れそうになって来たので、今日は穴山駅までにして、
急いだ。


穴山の集落、落ち着いた所、手前2軒は古い様式、奥は新築の家。

同じく、ほっとする感じの家。


穴山駅は小奇麗な駅だったが、無人駅だった。同じ列車から降りてきた人はなし、
乗った人はぼくとおばあさんの二人だった。

穴山氏の発祥の地の看板が駅にあった。帰って調べてみると、南北朝時代から、
この辺りを領有していた武田氏系の豪族で、穴山梅雪はその何代目かの頭領。
梅雪は徳川家康とともに織田信長への挨拶のため安土城に行き、帰途も家康
とともに堺に回った、ここで本能寺の変がおこった。
家康は有名な伊賀越えで無事脱出するが、梅雪は別行動で甲斐へ戻る途中、
京都府田辺市で襲撃を受けて殺害された。
その後、子供が後を継いだが数年後に若くして病死し、穴山氏は断絶した。
子供の頃、まんがで読んだ真田十勇士の一人、穴山小助も穴山氏出身らしい。

韮崎宿の後、河岸段丘を登る所からずっと登りで、歩道がないこともあって歩
き難く、疲れた顔をしている、急に寒くなってジャンパーを着た。駅のベンチ
でぼやーっとしていたら元気になった。
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