5月13日(木)にカルチャーセンターの講義で大隈講堂と大隈記念タワーを見学した。
右が講堂、左が記念タワー。
大隈講堂。
講堂の内部、照明や明り取り窓が幻想的(4枚の写真)。
舞台横の控え室も立派(上下の写真)。
廊下も美しい(上下の写真)。
大隈重信侯の銅像、講堂の壁にひっそりと収まっている。この像の方が正門奥のものより
古いらしいが、いかにも政治家然としているので、正門奥には使われなかったらしい。
講堂の時計台の内部、西側。
陽が当たっているので、針がよくわかる。
南側。
北側。
東側。
修理した時に取り替えた部材を保存している(上下の写真)。
大隈記念タワーに向かう。
入口にある甲骨文字の「稲」の飾り。
上の方の階の階段にも甲骨文字の稲があった。
その近くにあった記念プレート。
タワーからの景色。
左から1/3のあたりの黒いビルの後ろの鉛筆の先のようなものが新テレビタワー。
この写真では真ん中へんに見える。
真ん中のとんがった塔の左のビルの後ろにかすかに見えるのが東京タワー。
新宿方向。
早稲田キャンパス(上下の写真)。
正門奥の大隈重信銅像。
その銅像と向き合って立っていると言われている大隈夫人の銅像、大隈庭園にある。
横から見た所。
品のある銅像だ。
憩いの場、大隈庭園。
大変楽しい見学だった。
右が講堂、左が記念タワー。
大隈講堂。
講堂の内部、照明や明り取り窓が幻想的(4枚の写真)。
舞台横の控え室も立派(上下の写真)。
廊下も美しい(上下の写真)。
大隈重信侯の銅像、講堂の壁にひっそりと収まっている。この像の方が正門奥のものより
古いらしいが、いかにも政治家然としているので、正門奥には使われなかったらしい。
講堂の時計台の内部、西側。
陽が当たっているので、針がよくわかる。
南側。
北側。
東側。
修理した時に取り替えた部材を保存している(上下の写真)。
大隈記念タワーに向かう。
入口にある甲骨文字の「稲」の飾り。
上の方の階の階段にも甲骨文字の稲があった。
その近くにあった記念プレート。
タワーからの景色。
左から1/3のあたりの黒いビルの後ろの鉛筆の先のようなものが新テレビタワー。
この写真では真ん中へんに見える。
真ん中のとんがった塔の左のビルの後ろにかすかに見えるのが東京タワー。
新宿方向。
早稲田キャンパス(上下の写真)。
正門奥の大隈重信銅像。
その銅像と向き合って立っていると言われている大隈夫人の銅像、大隈庭園にある。
横から見た所。
品のある銅像だ。
憩いの場、大隈庭園。
大変楽しい見学だった。
今日は奥州街道(徳川幕府正式名、奥州道中、白河宿まで)を歩きはじめた。
といっても、日本橋から宇都宮宿までは日光街道(日光道中)と同じ道なので、宇都宮の追分
から続きを歩き始めたことになる。
ここからは買うのに適当なガイドブックが見つからないので、二万五千分の一の地図をたよりに
歩くことにした。インターネットのブログetcも頼りにした。
行程は、追分にある宇都宮小幡郵便局から喜連川宿の喜連川本町バス停までだ。
旧城下町の名残は地名ぐらいしかない、市街で目に付くのは二荒山神社だ、急な階段と立派な
社殿、平日九時半なのに町の人達のお参りが多い、仕事や通学のついでにと言う風情だ、
親しまれていることがわかる。
駅近くの旧家、交通量の多い主要道路にぽつんと残っている、現役で使われているようなので
うれしかった。
市街を出た竹林町の立派な長屋門。
このあたりには、大きな農家が数軒あった。
なんとなくなつかしい感じがする宇都宮化成の工場。
この4枚の写真のように、ところどころに街道の名残みたいな木がある。
続いて海道町、このへんにも大きな農家が多い。
上下の写真は同じ家、造園業をやっているらしい、屋敷林がすばらしい。
これは新築の農家、当世風。
すこし感じのいい歩道になってきた。
白沢宿に近づいた稚ヶ坂の上にある王子製紙日光工場、ここが日光工場と名づけられる
のかなーと思う。
白沢宿入口に祀られていた神様、こういう名前の神様は初めてだ。この後も祀られていたので、
この街道では一般的なのかもしれない。
白沢宿、街道の両側に小川が流れる道や水車を再現して観光の目玉にしていた。水がきれいで
豊富(3枚の写真)。
鬼怒川までの途中の西鬼怒川、水量が豊富。
一里塚跡、バスの折り返し場のようだが、バスは1本/時間以下だ。
しばらくは鬼怒川の堤防上の道を歩く、まわりは川原と田畑。
藤の花があちこちに咲いていて、きれい。
これが鬼怒川、川原が広い。
田植えの終わった田。
こちらは麦畑。
阿久津大橋から鬼怒川上流を。
同じく下流を。
氏家宿入口の大きな農家、屋敷林が美しい。
氏家宿の道標、こういう物があるとほっとする。
字はやっと読めるていど。
氏家宿ではこの家ぐらいしか目をひかなかった。
氏家市街を通り過ぎてから、旧家の表示の家や大きな家が数軒あった。
この家の門の説明文の赤い矢印は、昔の大洪水の水跡を示している、ずいぶん深かった
事になる。
上下の写真は同じ家。
おなじあたりにあった十九夜(左端)、二十六夜、二十三夜の石塔、それぞれ祈る内容が
ちがうようだが、こういうふうにそろっていると圧巻。
一ヶ所に集めたのだろうか。
これが左端の十九夜塔の正面、陰にもう一つ二十三夜塔があった。
全部で四つだ。
花いっぱいの農家(上下の写真は同じ家)。
かっこいい家、残念ながら廃屋。
田畑の中に突然現われた大きくて立派な保育園。どういう人達が預けるのだろうか。
夕方に、喜連川からJR氏家駅まで乗った帰りのバスがここを通った時にはたくさんのお母さん
が車で迎えに来ていた。
喜連川宿へは峠(弥五郎坂)を越える、ぼくは旧道の方で越えた。
登り口の農家、ここの屋敷林も大木ですばらしい。
この家の横にも、さきほどの神様が居られた。
こういう感じの道が続くさびしい峠。途中にキリンの研究所があり、こんなさびしい、
不便な所にとおどろいた。
ゴルフクラブもあった。有名なのかなー。
喜連川宿入口にもこの神様が祀ってあった。
喜連川宿の荒川、那珂川の上流らしい?。
喜連川神社、感じのいい所だった。
市役所の支所の入口は再現された喜連川足利氏の館の長屋門。
足利氏の末裔の喜連川足利氏は江戸時代の喜連川藩主、小藩だったが格式は高かった。
支所の観光課の人も郵便局の人も大変親切だった。
バスは不便で帰りは1時間近く待った、一日10本ぐらいしかなく、それも朝夕に集中している。
正月・お盆は運休とか日曜・祝日は運休とかの注意書もあった。
いつかの中山道のヒッチハイクを思い出したが、幸運にもバスはあった。
JR氏家駅には15分程度だった、ここからは自家用車必須の地域が続きそうだ。
といっても、日本橋から宇都宮宿までは日光街道(日光道中)と同じ道なので、宇都宮の追分
から続きを歩き始めたことになる。
ここからは買うのに適当なガイドブックが見つからないので、二万五千分の一の地図をたよりに
歩くことにした。インターネットのブログetcも頼りにした。
行程は、追分にある宇都宮小幡郵便局から喜連川宿の喜連川本町バス停までだ。
旧城下町の名残は地名ぐらいしかない、市街で目に付くのは二荒山神社だ、急な階段と立派な
社殿、平日九時半なのに町の人達のお参りが多い、仕事や通学のついでにと言う風情だ、
親しまれていることがわかる。
駅近くの旧家、交通量の多い主要道路にぽつんと残っている、現役で使われているようなので
うれしかった。
市街を出た竹林町の立派な長屋門。
このあたりには、大きな農家が数軒あった。
なんとなくなつかしい感じがする宇都宮化成の工場。
この4枚の写真のように、ところどころに街道の名残みたいな木がある。
続いて海道町、このへんにも大きな農家が多い。
上下の写真は同じ家、造園業をやっているらしい、屋敷林がすばらしい。
これは新築の農家、当世風。
すこし感じのいい歩道になってきた。
白沢宿に近づいた稚ヶ坂の上にある王子製紙日光工場、ここが日光工場と名づけられる
のかなーと思う。
白沢宿入口に祀られていた神様、こういう名前の神様は初めてだ。この後も祀られていたので、
この街道では一般的なのかもしれない。
白沢宿、街道の両側に小川が流れる道や水車を再現して観光の目玉にしていた。水がきれいで
豊富(3枚の写真)。
鬼怒川までの途中の西鬼怒川、水量が豊富。
一里塚跡、バスの折り返し場のようだが、バスは1本/時間以下だ。
しばらくは鬼怒川の堤防上の道を歩く、まわりは川原と田畑。
藤の花があちこちに咲いていて、きれい。
これが鬼怒川、川原が広い。
田植えの終わった田。
こちらは麦畑。
阿久津大橋から鬼怒川上流を。
同じく下流を。
氏家宿入口の大きな農家、屋敷林が美しい。
氏家宿の道標、こういう物があるとほっとする。
字はやっと読めるていど。
氏家宿ではこの家ぐらいしか目をひかなかった。
氏家市街を通り過ぎてから、旧家の表示の家や大きな家が数軒あった。
この家の門の説明文の赤い矢印は、昔の大洪水の水跡を示している、ずいぶん深かった
事になる。
上下の写真は同じ家。
おなじあたりにあった十九夜(左端)、二十六夜、二十三夜の石塔、それぞれ祈る内容が
ちがうようだが、こういうふうにそろっていると圧巻。
一ヶ所に集めたのだろうか。
これが左端の十九夜塔の正面、陰にもう一つ二十三夜塔があった。
全部で四つだ。
花いっぱいの農家(上下の写真は同じ家)。
かっこいい家、残念ながら廃屋。
田畑の中に突然現われた大きくて立派な保育園。どういう人達が預けるのだろうか。
夕方に、喜連川からJR氏家駅まで乗った帰りのバスがここを通った時にはたくさんのお母さん
が車で迎えに来ていた。
喜連川宿へは峠(弥五郎坂)を越える、ぼくは旧道の方で越えた。
登り口の農家、ここの屋敷林も大木ですばらしい。
この家の横にも、さきほどの神様が居られた。
こういう感じの道が続くさびしい峠。途中にキリンの研究所があり、こんなさびしい、
不便な所にとおどろいた。
ゴルフクラブもあった。有名なのかなー。
喜連川宿入口にもこの神様が祀ってあった。
喜連川宿の荒川、那珂川の上流らしい?。
喜連川神社、感じのいい所だった。
市役所の支所の入口は再現された喜連川足利氏の館の長屋門。
足利氏の末裔の喜連川足利氏は江戸時代の喜連川藩主、小藩だったが格式は高かった。
支所の観光課の人も郵便局の人も大変親切だった。
バスは不便で帰りは1時間近く待った、一日10本ぐらいしかなく、それも朝夕に集中している。
正月・お盆は運休とか日曜・祝日は運休とかの注意書もあった。
いつかの中山道のヒッチハイクを思い出したが、幸運にもバスはあった。
JR氏家駅には15分程度だった、ここからは自家用車必須の地域が続きそうだ。
連休に博多に行くことがあったので、そのついでに、中学か高校の教科書に載っていて、
前から見たいと思っていた「金印」と「その発掘場所」を見に行った。
行ったことのある人達からは、金印も場所も思ったほどではなく、行かなくてもいいのでは、
と言われていたが、両方とも見てみると感激だった。
これが30日に行った福岡市立博物館のホームページの金印の写真、本物を展示となって
いて、一辺2.3cm、108gということだった。字の面も鏡で見ることが出来て、よかった。
次の1日は天神からバスに乗って、発掘場所(金印公園になっている)の志賀島(しかのしま)
に行った。土・日・祝日と連休中は1時間に1本、それ以外は早朝に2本・夜に1本の日に3本
しかない。
この写真は那珂川の西中島橋から市街を見た所、橋にある説明書にはこの川の東側が商人の町
博多で西側が黒田藩城下町福岡だと書いてあった、初めて知った。
バスでは1時間半近くかかった。
志賀島、左端に金印公園が正面の町並みの右端に志賀海神社がある。
景色のいいところなので、ドライブの人達、サイクリングの人達がぱらぱらといた。ハイキング
の人は1人しか会わなかった。
のんびりしたいい所だ、道端では貝、干物、夏みかん等を売っていた。
町並みを抜けるとすぐに公園がある。公園は小高い岡になっていて見晴らしがいい。
能古島と福岡方面、ヤフードームがにぶく光っている。道端で売る干物をガードレールで
干している。
江戸時代には、この石碑の道路側からその先の海中に田畑があり、お百姓さんが農作業中に
、石板(1枚を二人でもちあげるような)で囲まれた箱のようなものの中に納められていた金印
を見つけたのことだった。
ふつうなら、こういう権威の象徴は墳墓に埋葬されると思うのだが、どういうことが起こっていた
のだろうか。
公園からの景色はすばらしい、藤がきれいだった。
町並みへ戻る、右端の海の向こうが玄界灘だと思われるが服装も靴も準備してないので、
一周するのはあきらめた、残念。
海岸にごみがなく、水も驚くほど澄んでいる。風が強くて吹き飛ばされそうだった。
魚釣りの人達もちらほらいた。
志賀島小学校の裏の桐の花、みごとだった。
志賀海神社、神宮皇后と関わりのある古い由緒ある神社、静かに落ち着いた、
感じのいい所だった。
海の中道の方向、きれいな砂浜の海岸だ。