弥山や西国街道を歩く元気はなかったので、街をぶらぶら歩いていたが、急に昔テレビで見た、大竹駅付近
の古い街並みがあったなーと思いついて、行ってみた。
駅についたら、観光案内所はなくて、日曜だからか駅構内売店のスペース(よく町のパンフが置いてある)は
しまっていて、駅員さんに聞いたら「古い街並みは聞いたことがないです」と言われた。かろうじて、観光案内
絵図(看板)があったがこれにも載ってなかった。ぼくの勘違いだったかと帰りかけたが、せっかくだから
ぐるっとみまわして、古そうな道を30分だけ行ってみることにした。
街道タイプの家がちらほらあるなーと思いながら、まあどうせ同じ道を戻るのだから帰りに撮ればいいやーと
30分行くとちょうどそこに、この道標が立っていた。小瀬川にかかる大和橋の北側の交差点だ。
橋の方向は岩国下関道となっている。
ぼくが歩いて来た方向は廣島上方道となっている。
設置時期は大正3年だった、この様式の道標は広島ではいくつか見たような気がする、はっきり
しているのは京橋川、栄橋東詰にある道標でこれも大正初め設置だった。
大正時代にはここから木野村を経て島根県(石州)に行く道だったのだろう、帰ってからインターネット
で検索したら益田市まで通じている山越えの細い道路があった。推測だが益田市側から瀬戸内海へ荷物
を運んだ街道だったのだろう、江戸時代にはあったのではないだろうか。
30分たったし、大収穫だったので、ここから写真を撮りながら大竹駅に戻った。
上下の写真は同じ家。奥行きがあって広い家であることがわかる。
この家はお茶屋さん、街道沿いの集落にはお茶屋さんが必ずと言っていいほどある。
茶壺と茶箱が置いてあった。
上下の写真は同じ家。奥行があるのがわかる。
テレビで見たような気がした古い街並みがき気になるので、インターネットで調べたらずっと先の木野村
の街並みで、木野のひな流しの催しを特集したものだったようだ。
そこには以前、西国街道歩きで行ったが古い街並みのことは忘れていた。いつかちゃんと準備して行きたい。
の古い街並みがあったなーと思いついて、行ってみた。
駅についたら、観光案内所はなくて、日曜だからか駅構内売店のスペース(よく町のパンフが置いてある)は
しまっていて、駅員さんに聞いたら「古い街並みは聞いたことがないです」と言われた。かろうじて、観光案内
絵図(看板)があったがこれにも載ってなかった。ぼくの勘違いだったかと帰りかけたが、せっかくだから
ぐるっとみまわして、古そうな道を30分だけ行ってみることにした。
街道タイプの家がちらほらあるなーと思いながら、まあどうせ同じ道を戻るのだから帰りに撮ればいいやーと
30分行くとちょうどそこに、この道標が立っていた。小瀬川にかかる大和橋の北側の交差点だ。
橋の方向は岩国下関道となっている。
ぼくが歩いて来た方向は廣島上方道となっている。
設置時期は大正3年だった、この様式の道標は広島ではいくつか見たような気がする、はっきり
しているのは京橋川、栄橋東詰にある道標でこれも大正初め設置だった。
大正時代にはここから木野村を経て島根県(石州)に行く道だったのだろう、帰ってからインターネット
で検索したら益田市まで通じている山越えの細い道路があった。推測だが益田市側から瀬戸内海へ荷物
を運んだ街道だったのだろう、江戸時代にはあったのではないだろうか。
30分たったし、大収穫だったので、ここから写真を撮りながら大竹駅に戻った。
上下の写真は同じ家。奥行きがあって広い家であることがわかる。
この家はお茶屋さん、街道沿いの集落にはお茶屋さんが必ずと言っていいほどある。
茶壺と茶箱が置いてあった。
上下の写真は同じ家。奥行があるのがわかる。
テレビで見たような気がした古い街並みがき気になるので、インターネットで調べたらずっと先の木野村
の街並みで、木野のひな流しの催しを特集したものだったようだ。
そこには以前、西国街道歩きで行ったが古い街並みのことは忘れていた。いつかちゃんと準備して行きたい。