中山道2009年7月20日(月)

2009-07-22 17:54:42 | 中山道
20日に沓掛宿(しなの鉄道中軽井沢駅)から岩村田宿(長野新幹線
佐久平駅)まで歩いた。
5月9日以来なので1ヶ月強ぶりとなった、ここのところ曇りで雨が
降りそうな日が続いたのでいらいらしていたが、今日は天気だっ
たので勇んで、出かけた。
今日歩いた佐久高原は避暑地軽井沢があるだけあって、涼しくて
さわやかだった。
かっこうやうぐいすが時々鳴いて、すばらしかった。
碓氷峠で傷めた右ひざはまだ痛みがとれないが、左ひざと対象形
になって腫れはとれた。
ハイキング用杖2本も持って行って、用心しながらゆっくり歩いた。


沓掛宿には古い家、街並はない。これは古いかどうかはわからない
が駅前のお店。


沓掛と追分宿の間、遠近(おちこち)神社。伊勢物語にゆかりの神社らしい。
たしかに下の境内の写真でもわかるとおり厳かな気持ちになる神社
だった。

神社の説明書によると、祭神は「いわながひめ」だった、つまりぼくが
ファンと前に書いた「このはなのさくやひめ」のお姉さんだ。
祭神がこの方の神社ははじめてだ、めずらしいのではないだろうか。
長寿健康・安産の守り神と書いてあった。
妹の「このはなのさくやひめ」は、富士山の神とみなされ、浅間神社に
祭られるので、全国いたる所に祭られて、超有名な神様、お父さんは
「おおやまつみのかみ」でこの方も超有名な神様。
古事記の天孫降臨の物語にこの方たちは登場する、「ににぎのみこと」
と「このはなのさくやひめ」が主演俳優、「おおやまつみのかみ」と
「いわながひめ」が助演俳優にあたる。この方はこの物語以降出てこない
ので、どうなったのかすごく気になっていたので、うれしくなった。


遠近神社のある借宿地区の家(上下)、雰囲気のいい所。



国道18号線の標識、後ろに小さく見えるのが追分宿方面の標識。


追分の一里塚、国道の両側にあり「こぶし」の木が植わっているが
森に中なので見分けにくい(上下)。



ここから追分宿。油屋旅館、脇本陣跡に建っている。
この宿には馬子唄道中と書いたちょうちんがさがっていた。
何か催しがあるのだろうか。








ぼくが中山道歩きのガイドブックにしている「中山道69次を歩く」
の著者岸本先生が作った中山道69次資料館。岸本先生が説明をして
おられた。展示や資料が充実しているので、日を改めてゆっくり訪ね
たいと思った。追分宿のはずれにある。


御代田にはいると野菜畑がふえてくる、畑の向こうの浅間山。


このあたりからレタス畑がたくさんあった。


手前がグリーンリーフレタス、向こう側がサニーレタス(茶色)、
いずれもスーパーでお馴染みの野菜。




レタスの植え付けをするご夫婦。こうやって移動する椅子のような
道具で植えていくことをはじめて知った。
炎天下で苦労して育てたものを食べているんだと思った。


軽井沢以降道端にたくさん生えている「くるみ」の木とその実(下)。
正確には「おにぐるみ」という日本の野生種らしい。
途中でくるみ畑らしき森もあったがこれは種類がちがうのかもしれない。



このところ定着している神社の石段を借りての昼食。
涼しくて満足度が高い。


御代田の一里塚、入り口に立派な説明書きがあり、2本あると書いて
あった。もう一つが見つからないので、近くにおられたお年寄りの
ご夫婦にたずねたら、枯れてしまったとのことだった。この枝垂桜は
立派。ご夫婦からは、連休に孫が訪ねてきたはなしを聞いた。


だんだん遠くなる浅間山。


ここからは小田井宿。きれいな花(上下)。



小田井宿からの浅間山(上下)。



この宿場は古い街並を残した落ち着いたところだった。


ここの本陣は和宮降嫁の時に使われていて、その時の改造の様子や
昔からの間取りが残っていると書いてあったが、門から建屋までがはな
れていて、塀もあるので中はわからなかった。
安川家住宅と書いてあった、写真は取れなかった。
この家が隣の家、続いているようにもみえた。
以下、立派な家が続く。














この家はワイヤーで引張上げて補強している、修理するのだろうか。
残ってほしい。


飴やはやっていないようだったが、人は住んでいた。
ここも残ってほしい。


小田井宿を出ると国道8号線を延々と歩く、あまり興味を引く
ものはない。
国道沿いのショッピングセンター入り口で客の呼び込みをする
おねえさん、歩いている人、自転車・バイクの人はいないので、
クーラーつけて窓閉めている車の人には効果がないのではと思
ったが、浴衣姿はそうでもないかも。


さすがに長野県、国道脇にも観光客目当てのリンゴ園と販売所
がいくつもある。もちろん今は売っていないが。


きょうの旅の最後の写真、国道沿いの住吉神社のけやきの古木、
幹の中が空洞になっていた。
このあと岩村田宿の向こうのはずれまで行ったが、興味を引く
ものはなかった。近代的な地方都市だった。

ここからは、おまけ。
今日歩いた所に、去年から気になっている草花があった。
以下の3枚。







去年7月、わたらせ渓谷鉄道足尾駅のプラットホームで。


上下は、去年7月、田町の新幹線線路沿いで。

暑い中咲いている黄色い花が気に入っている。名前は不明。

(注)2010年7月に本屋で立ち読み中に名前がわかった、
「ビロードモウズイカ」でヨーロッパからの帰化植物(外来雑草)、
もともとは観賞用だったとのこと。
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大学構内2009年7月17日(金)

2009-07-18 23:03:53 | 雑感
カルチャーセンターで通っている早稲田大学の構内です。
構内は学生でいっぱいで、活気がありますが、どういうわけかここ
だけはいつ行ってもこういう感じで誰もいません。
15分ぐらいの間は、1人で景色を堪能できるので、得した気分に
ひたっています。




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千鳥ヶ淵2009年7月7日(火)

2009-07-08 22:35:32 | 雑感
いままで千鳥ヶ淵には何回か行っているがいずれも桜の季節だった。
桜ではない季節にも行ってみたかったので、梅雨の晴れ間、ぼくの
好きな高温多湿な日だったので、うかれて行ってみた。
半蔵門駅から遊歩道へ向かった。

この場所の桜の季節の写真(4月3日)、ボートがたくさん出ていて、
賑わっているのがわかる。



この方面の桜の頃(以下、2枚)。









今日は人がほとんど居ない(上3枚)が、桜の頃は人だらけ(下)。



ほぼ同じ場所の今日と桜の頃(上下)。



今日はのんびりしているので、人も猫もお昼ね中。

これが九段下駅側の遊歩道の出入り口の景色。
この遊歩道は昨年までは地道だった、立派な遊歩道になって、歩き
やすくなったが、桜の木のためにはならないような気がする。
元気をなくさないように国か都かわからないが、最大の努力を
してほしい。

同じく出入り口付近の、国の元気さを象徴するように翻るインド国旗。
インド大使館も遊歩道と同じように真新しくなった。
千鳥ヶ淵はここで終わり。


大山巌元帥の銅像。九段下駅の近くにある。
この銅像は前から気になっていて、写真を撮りたいと思っていた。
理由はこの方の子孫(多分、ひ孫)の方と仕事上親しくさせて、もらっ
ていたから。元帥の写真を何枚か見たが、この方と似ている。
また、昨年11月に出張で会津若松方面に行き会津若松城で、大山(山川)
捨松夫人の展示があった。現在でも薩摩出身者と会津出身者は犬猿の仲
と言われているのに、傷もなまなましい明治のはじめに、薩摩の大物と
会津藩の家老の娘が結婚するのはたいへんだっただろうな思い、どういう
事情があったのか知りたかった。
インターネットであちこちの記事を読んで、次のことがわかった。
映画になったら当たりそうだし、女性を主人公にしたNHKドラマにもなる
内容で感激した。

大山元帥は西郷隆盛配下の幹部で親戚でもある、戊辰戦争の会津の戦い
では、砲兵隊長ととして、会津若松城を砲撃した。一方、大山夫人は
家老の家柄の娘として、8歳であるにかかわらず、籠城していた。
大砲の不発弾の処理に参加して、大怪我をしている。

会津藩士は国替えのため、青森方面で窮乏生活を、藩制がなくなるまで
送っていて、夫人は函館のフランス人の家に預けられていた。

元帥は陸軍軍人として、ジュネーブに留学し、英仏独語が堪能だったとの
こと。国事多難な折、留学半ば、3年で、呼び戻され、不運にも西郷隆盛
討伐隊に幹部として加わっている。大変な苦労人と思う。

夫人は外国文化に親しんでおり、明治初めての女性留学生5人の1人
として、アメリカに国費留学し、11歳から大学を卒業するまで、11年間
アメリカで生活した。帰国時は日本語がもうひとつだったらしい。
こんな訳で、当時は才色兼備な女性として、奇異の目でみられていたらしい。
美しさはどの写真をみてもはっきりわかる、会津で展示をちゃんと読もうと思
ったのも写真があまりに美しかったから。

元帥は奥さんを亡くして、外国高官との付き合い柄、後妻を求めており、
先妻の父親の「適任である」との勧めで、お見合い的なことをした。
元帥が気に入って(一目ぼれと書いてあった)、猛アタックしたらしい。
しかし、夫人の家の方は猛反対で、なかなか進まなかったが、夫人が今で言う
「デート」を重ねてから決めると言い、その後、元帥の人柄にほれてOKしたら
しい。ちなみに夫人も英仏独語がぺらぺらだった。
結婚披露宴は「鹿鳴館」で行われ、すべてフランス語が使われたらしい。
夫人が「鹿鳴館の花」と呼ばれたことは有名でぼくも知っていた。

元帥は元老・公爵に登りつめ、首相にも推挙されたが政治にはかかわらない
と言って断ったらしい。

夫人は津田塾大学、看護学校(アメリカの看護婦資格を持っていた)など
の運営に尽力した。

うまく書けないが、明治のすばらしいお話の一つと思う。


牛ヶ淵、蓮が生えていて風情がある(上下の写真)、下の写真では
よく見ると草刈をしている。手入れをしているから、きれいに保たれている。



清水門、昔の雰囲気が残っているように思う。

東京国立近代美術館の常設展に行った。ゴーギャン展には興味がなかった
ので、行かなかった。もう何年かまえなら行っていたと思うが、歳をとると
好奇心が失われる。常設展には日本画がかなりあってそれを中心に見た。
ここの4階の休憩室は景色がいい、自販機の飲み物を飲みながら眺めるのが
好きだ。上下の写真がその景色。



近代美術館を出て、北桔橋門から皇居東御苑に入った。

内側からの門。

天守台の景色(上下)。この天守台は三代将軍家光が大改修した天守閣の基礎。
立派な天守閣だったが、四代家綱の時代に明暦の大火で焼失し、それ以後
江戸城には天守閣は建設されなかった。
家綱の幹部には理論的な家臣がいて、天守閣がもはや莫大な費用をかけて
まで必要でないことを認識したのだと思う。



丸の内方面。この公園には外国人がおおかった、芝生に寝そべったり、
walkingしたりしていた。

たまにはーーー。

大好きな鬼百合の花。

百人番所、大手三之門を警護していた鉄砲百人組の詰所。

大手門、ここが今回の出口。

内堀通りから見たところ。東御苑はこれで終わり。

夕方になったので桔梗濠に帰ってきた鵜。

日比谷のビルから見た皇居外苑。

同じく日比谷公園。

東京のこの地域は緑が多くすばらしい場所と思う。
ロンドンのハイドパーク、グリーンパークと比べても引けをとらないと
ぼくは感じている。
ただ、国や都の内外への宣伝や管理や公開の仕方に問題があり、評価さ
れないのではないだろうか。
皇室の住居で公開はされていなくても、東京の真ん中にはこんなに緑が
あって、周りから眺めるだけでもすばらしい休養の場所であると思う。
エコだなんだも大切だけれど、こういう国民の財産としての公園とか緑
とかも大切だと思う。
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