西国街道(広島)6月27日(日)JR山陽本線玖波駅ー大野浦駅

2010-06-30 13:01:54 | その他の街道
今日は広島に来たついでに、竹原の古い町並みを見に出かけたが、広島駅で、乗ることに
していた瀬戸内マリンビュウー1号が運休になったことを知った。後の列車で行けるよう
だったが、出鼻をくじかれてしまって、気合が入らなかったので、代わりに西国街道を
JR山陽本線玖波駅から大野浦駅まで歩くことにした。距離は近いが、ガイドブックをフタバ
図書で買ったときに立ち読みした程度の記憶で、その本も地図も持っていないので、行き当
たりばったりだ。
それでも、駅に観光案内パンフレットぐらいはあるかと思ったが、玖波駅はこの時刻、無人駅
だった。駅前看板ぐらいしかなかった。


玖波宿の街並は予想以上で元気が出た。ここから9枚の写真。











上下の写真は同じ家。



落ち着いた集落だった。集落の出口が隧道なのも風情がある。

その後、よくわからないまま歩いていたら、西国街道の小さい標識が見つかった
。標識をたどって行くと山の中で80過ぎぐらいのおじいさんと出会い、声を掛けられた、教師
を退職後22年経ったと言っておられた。「西国街道散歩ですか、何回か出会いましたかね。
私はこの上に別荘があって、アニメをかいたり、西国街道について調べて、書いたりして
いるんです。寄って行きますか。」と言われたが、さすがに立ち話だけにした。本宅は五日市
らしい。
広島岩国道路(高速道)の向こうに宮島が見える。

なにかが動いたなと思ったら、カマキリの子供だった。

途中の大きな家、宮島の景色がいいだろうなー。

山側はこんな雰囲気、宮島と同様に岩がごつごつしている。

雨は強くなってくるし、突然、舗装がなくなって、ハイキング道になるしでおっかなびっくり。

依田神社と吉田松陰腰掛の岩と書いてあった。

「残念さん」と標識があった。説明によると、幕府軍の和平の軍使が長州方に向かう途中に
長州軍に撃たれて、死に際に「残念」の一言を残したので、村人が祠を建てて、慰霊したと
のこと。
そういえば、先ほどの神社もこの軍使の名前の依田神社だったので、同じ人を祀っている
のだろう。
この辺りは、幕末の長州・幕府の激戦地だったとのこと。

砂防ダムが最近の雨で美しい滝のようになっている。

こういう道が続き、雨の中歩いている人もいないので、さびしい。

やっと、舗装道路に出た、宮浜温泉の源泉地と書いてあった。

ここからは眺めがいい。

少し下ると、新婚時代に女房とその家族と行ったと思う、「石亭」の前に出たので、パンフ
レットをもらいに寄った。「ずいぶんびしょ濡れですね」と言われたので、「玖波から残念さん
を通ってきました」と答えたら、あきれられた。

そこからの宮島の景色、まちがっているかもしれないが、泊まった時に庭先から列車が走る
のが見えたと思う。

宮浜温泉からの宮島の景色、上下の写真。
西国街道はもう少し山側にもどるのだろうと思ったが、雨も降りそうなので、海岸よりすこし
山側を大野浦駅まで歩いた。



宮浜温泉からの山の景色。
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甲州街道6月16日(水)

2010-06-18 18:31:54 | 甲州街道
JR中央本線富士見駅ー金沢宿・上諏訪宿・下諏訪宿ーJR中央本線下諏訪駅と歩いた。

今日は2度激しい通り雨にあった、1回目は富士見駅から30分間ぐらいで、傘を差して、それでも
濡れながら歩くはめになり、今日はどういうことになるのかなー、ついさっきまでの車窓からは
晴天だったのにと思った。2回目は茅野で、最近始めた郵便局のスタンプ集めをしていた時に急
に豪雨になったので、そこで15分雨宿りをした。それ以外は幸いにもかんかん照りだった。


前回(6月11日)には、ここから歩いてきた方を振り返って写真を撮った、これが今から行く
方向。ここが今日の出発地点、止みそうだが雨がまだ降っている。
左に行って、すぐに右に行く道があったが、本来はこの先に道があったと思える地形だった。

通り雨が止んで、すぐに青空になってきた。

原の茶屋という付近の家、家の中にも花を生けたりして、きれいにしている。
あまり通る人はいないと思うが、楽しませてもらった。

おなじ所の明治天皇もお飲みになった湧き水。

こういう落ち着いた町並み。

これから歩いていく方向の山々が雲の下遠くに見える、右の林はカゴメの工場だった、
よく手入れされた歴史のありそうな工場だった。

雨上がりで山がきれい。

御射山神戸という変わった地名の集落。ここから3枚の写真。
この家は新築、農作業場が新しいタイプで、今後流行るのではと思った。

貫禄がある家。

蔵も含めて一つ屋根で、面白い改造をしている。

遠くから見て、立派な木だと思っていたら、一里塚跡だった。

登り続けているなーと思っていたら、標高917mだった。

さっきの大木の塚と対になっている塚の木は小ぶりだった。
御射山神戸の一里塚跡。

少し離れて二本を見たところ。

同じあたりの道端に、ぼくの好きなアザミが群生していた。

金沢宿の家。ここから3枚の写真。
金沢宿手前は、セイコーエプソン富士見事業所の城下町の様相で、社宅、寮、厚生施設等が
たくさん続いた。





茅野に入る頃、雲行きがあやしくなって来た。
2回目のどしゃ降り通り雨の時、茅野駅前郵便局でスタンプを押してもらっていたので、
そこで15分雨宿り、助かった。雨が止むと晴天になった。

上諏訪宿手前の風景、諏訪湖の方面を見る。青空になった。

村の神社、豊な森。

桑原集落のいい雰囲気の町並み。ここから3枚の写真。





久しぶりのこのタイプの道祖神。隣の秋葉山の石柱は結構あった。

上諏訪宿の家。ここから6枚の写真。
これは呉服屋さん。

有名な造り酒屋さん、東京のお店でもたいがいは置いている。このあたりの造り酒屋さんには
どこも煙突が見えなかった、なぜだろう。

これも造り酒屋さん。

これも違う造り酒屋さん、ちょうど観光客風の男女が楽しそうに買って出てきた。

またまた。かたまって在る。

すぐ隣にも。かたまっている方がいいのかもしれない。
今日はさすがに買わなかった。

大和集落の家、散髪屋さんの様だ。

上諏訪から下諏訪の街道路は予想に反して湖岸ではなく山すそを歩く。登ったり下ったりの
連続で足にくる。湖も見えそうで見えない、やっと湖面が見えた。

材木が干されて?いた。先宮神社の御柱と書いてあった。先ほど足にできたまめの手当てをした
神社だ。石段に座らせてもらって、靴をぬいで休憩した。そう言えば、9月に御柱祭をすると
書いてあったような気がする。諏訪神社と関係する神社なのだろうか。ここの参道の鳥居の
手前の石段に座った時に不思議に感じたことがある、それは道路との間に水量が豊富な
小川?、溝?が流れているのだが、普通は架かっている橋とか石の蓋とかがなくて剥き出しだった
ことだ。もちろん跨げばいいのだが、足が疲れていたこともあって、おやっと思った。
その時は気にとめなかったので写真も撮らなかった、こういうお祭りをする神社だったら
撮っておけばよかった。

ぐるっと見渡せる場所に来た。西の方向。

これから行く北の方向。

歩いて来た南の方向。

高木集落の家。上下の写真。

この家の壁には、茶屋跡という標識が貼ってあった。

地図で見る限り下諏訪宿はもうすぐ。諏訪湖と歩いて来た方向の景色。
このあたりだったと思うが、追い越していった車が止まって、待っていて、声がかかった。
40歳代の女性で、「ストックは使い易いですか。テレビで使うといいといっていたので、ーーー」
の質問だった。「スキーのストックのように使えて、疲れないし、早く歩けるしいいですよ」
と強く薦めておいた。
山登りが趣味の人だろうか、それとも普段用に親に薦めるのだろうか。

上諏訪宿入口の家。

甲州道中(甲州街道)と中山道の追分。ここが甲州街道(幕府正式名称:甲州道中)の終着地。上下2枚の写真の標識の所。



疲れた顔。

諏訪大社下社秋宮にお参りした。

立派な社殿。

社殿の裏の右と左に御柱が飾ってあった。



この後、町を歩いて行って、上諏訪駅から列車に乗った。
町はきれいな観光地で、観光バスの団体客がおおぜい居た。

今日で甲州街道は終わった。
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甲州街道6月11日(金)

2010-06-12 23:42:18 | 甲州街道
JR中央本線穴山駅ー台ヶ原宿・教来石宿・蔦木宿ーJR中央本線富士見駅と歩いた。
天気は快晴だったが、残念ながら、かすんでいて遠くの山々は見え難かった。
暑かったが、山の中で風が気持ちよく、はる蝉も鳴いていた。

使っているガイドブックはこのあたりをかなり省略しているので、二万五千分の一の地図に
「甲州道中分間延絵図」(江戸時代の本)とその解説をトレースして、補った。


甲州街道は2009-10-18(日)に穴山駅まで来て以来、8ヶ月ぶりだ。
日光・奥州街道が先になってしまった。その時は韮崎から、原道という脇道を通って、
新府城跡に行き、穴山駅に来た、この道は釜無川洪水時に使われた河岸段丘上の道だ。
今日は本道である川沿いの河道にかなりの高低差を一気にくだった、かなり下に来た
所からの景色。

穴山橋から釜無川の上流方向、むきだしの断崖絶壁、地図には七里岩と書いてあった。

下流方向、ここにも鮎釣りと思われる釣り人達がいた。水が透き通っている。
左の丘の上に原道がある。

上円井集落の家、田舎には入口の上に松等の枝を引っ張ってきて見栄え良くしている家
が多い。手入れが大変だろうなー。

すぐ近くに立派な長屋門の家があった。

上の写真の家の玄関、内藤さんというお宅で、覗くと庭に明治天皇行幸の記念碑があった。
庄屋さんだったのだろう。

七里岩の続き。

牧原集落の家。ここから3枚の写真。



変則的な長屋門。

大武川、上流方向。とにかく水がきれいで冷たそう、暑かったので、つかりたくなる。

釜無川の向こうに、まだ崖が続いている。

三吹集落の家。ここから6枚の写真。
奥のグリーンの屋根が母屋、塀などが厳重で写真がうまく撮れなかったが立派なお屋敷。

同じ家を隣の家の入口から見ると右側のようになる、生垣で仕切っているだけで行き来は
自由なようなので、親子とかだろうか。こういう風に隣同士で新旧の様式で建っている
豪邸を結構見かける。

障子の中のガラス部分がすばらしい。

ここでも枝を引っ張っている。

なんとなくほっとする家。

新しい様式の新築だが、雰囲気的にはまわりにとけこんでいた。

道端の雑草がきれに咲いていた。

台ヶ原宿の家。ここから10枚。
二軒に見えるが一軒の家と思う。

上の写真の奥の部分、新しく出来た部分と思うが、西部劇のスペイン風の家のテラスを
連想した、雰囲気は宿場に合っていて、楽しかった。



多分、この写真全部が造り酒屋北原家の家だと思われる。

店舗の玄関に当たる所。またまた、うれしくなって720ml1本を重いのに買ってしまった。
ここで飲んだ柄杓一杯の清水と小さいグラス一杯の冷酒がおいしかった。

これが買った酒、弱いので買ったのが家に溜まっている。順番に飲んで楽しんでいるので、
飲むのが楽しみだ。

北原家の説明板と明治天皇宿泊の碑。

筋向いのお菓子屋さん、おかみさん?が美人だったので、重くなるのに胡桃ゆべしを買って
しまった。帰ってから食べたら、おいしかった。



ここで台ヶ原宿は終わり。

すごく疲れた感じがしたし、13時になっていたので、ここで休憩して、持ってきたもので昼食
にした。たまたま白須松原址碑のある公園だった。南北朝の時代には歌にも詠まれた松原
だったのに昭和15年に切り払われてしまった。

神宮川(江戸時代から近年まで、濁川と呼ばれていた)の上流方向。

下流方向。水がとてもきれい、すぐ近くの山の麓にサントリーの蒸留所があるらしい。

松原・荒田集落の家。ここから3枚。どの家もほっとする感じが伝わる。





釜無川とその向こうの段丘、今日はこういう景色が続く。

教来石宿の家。

山口の関所跡。教来石宿は甲斐の国最後の宿なので、信濃の国との国境の警備の役割
を果たしていた。

国界橋からの釜無川、下流方向。本当は向こうに見える赤い新国界橋を渡るべきだったが、
ガイドブックの文章は新国界橋、地図はこの国界橋になっており、ここを渡ってしまった。

上流方向。

このとおり、今は使われていないらしい。渡ったら、「危険、渡るな」と書いてあったが
反対側にはなにも書いていなかった、やれやれ。
ここで、甲斐の国(山梨県)が終わり、信濃の国(長野県)が始まる。

蔦木宿の本陣跡。

蔦木宿の風景、ますぐに道が通っていて、両端に枡形がある立派な構え、昔は栄えて
いたと想像できる。現在はJR中央本線信濃境駅が最寄り駅だが少し距離があって、取り
残された町になっている。

出口の民家の庭先のような場所にあった立派な石柱群。

またまたかなり急な登りになって、釜無川の向こうに山々が見える。さっきまで、川は
北側だったが、こんどは南側になった。

富士見近くの家。しめ縄のような飾りがすばらしい。

同じ辺りのきれいだった花、ウツギの一種?。

同じく富士見近くの家。

富士見の終着地に近づいた頃、立派な松林が現われた、白須の松原もこういう風景が続い
ていたのだろうか。

今日の終着地から見た風景。ここから街道を離れて、20分歩いて富士見駅に行った。

今日は穴山から下った時以外はすべて登りで足がつかれた、距離としてもたくさん歩いた。
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奥州街道6月5日(土)

2010-06-06 19:00:48 | 奥州街道
東北新幹線那須塩原駅ータクシーー鍋掛宿出口・越堀宿・芦野宿・白坂宿・白河宿ータクシー
ー東北新幹線新白河駅と歩いた。
今日で奥州街道(幕府正式名称、奥州道中)をすべて歩いたことになる(宇都宮宿までは
日光道中と同じ道)。


この前の終着地、鍋掛宿出口の那珂川、今日も鮎釣りの人がいた。

杉渡土集落の家、作業するおじいちゃんのまわりを走り回る4,5歳の女の子に微笑みかけたら
はずかしそうに逃げていった。

富士見峠(下り)、今日はこういう緩やかな峠を数え切れないほど越えた、疲れが溜まって
行くのを痛感した。

余笹川、上流方向、ここも鮎釣りの人達が思い思いに釣っていた。

下流方向、カメラを替えたら、今までより薄くて小さくなったので、年寄りには構えにくくて
左端に指先が写ってしまった、気を付けなくては。

黒川に面する黒川集落、江戸時代からこういう景色だったのだろうなと感じる。

カキツバタかハナショウブか見分けられないがきれいだった、この後も川、池、田んぼに
咲いていた、紫のもあった。

夫婦石の一里塚、左の杉林の向こうの土の盛り上がった所と右のてっぺんに木が生えている所、
この辺りの一里塚は盛り土が小さいように思う。

睨み合っているかえる。

芦野宿入口から歩いて来た丘を振り返る、奈良川の向こうがむき出しの崖になっている。
右端から下ってきた。

芦野宿を過ぎて蟹沢?の家、ほっとする感じの雰囲気。

今日はこういう感じの景色の中をえんえんと歩いた。

疲れたので寄居本郷の公民館のような所で休憩。ここから2,3分歩いた所で激しい通り雨に見舞
われた、リュックの収納に慣れてないので、ビニールカッパがなかなか見つからず濡れてしまった。
といっても15分ぐらいでかんかんでりになったのですぐに乾いたが。

寄居大久保の2軒の古そうな家。左の塀の家は手入れして住んでいたが、右の赤い屋根の
門の家は住んでいないようにも思った。

そのすぐ近くの田畑の中の石柱群の一つ。なにかの願掛けの旅行(講)の立てたものと
思うが、なぜ郡山宿の海老屋さんがここに立てたのだろうか、何里かおきに立てたのが残
ったのだろうか。
今日歩いた所には、馬頭観音と書いたタイプと仏様を彫ったタイプの馬頭観音さまが多かった、
牛頭観音と書いた石柱もいくつかあって、このタイプの観音さまは初めてだ。

この辺りには石切り場がいくつかあった、また石材店の看板もいくつかあった。
石切り場はほそぼそと稼動しているのだろうか(3枚の写真)。
そういえば、大谷石の産地も近くだった。



ここは掘った跡に水が溜まったのだろうか。

明神集落の峠に神社があった、地図に「境の明神」と記されている所らしい。
標識には境の明神(玉津島神社)となっていて、峠の向こうのもう一つの神社と対になって
いるらしかった。なんだかよく飲み込めない内容だったで、帰ってから調べることにした。

なんだか疲れたのでここでも休んだ。

神社のすぐ隣の峠の頂上、那須町と白河市、つまりは栃木県と福島県の境になる。
江戸時代には下野と陸奥の境にあたった。

そのすぐ隣の境の明神、ここには和算のことが書いてある説明板とさっきと似たような説明板
があった。
こちらにもお参りしたが苔むしていて、なんとなく鳥肌がたって不思議な感じがした。
帰って調べたら、福島県のホームページでサイト内検索したものがわかりやすかった。
いろいろ総合すると次のようになった。
「境の明神は玉津島明神(衣通姫)と住吉明神(筒男命)を祀る神社で国境を守護している
那須町(栃木県、下野)ではこちら側が女神さま、向こう側が男神さまとみなしているが、
白河市(福島県、陸奥)ではその反対にみなしている。女神さまが豊穣、繁栄を表し、男神さま
が武力、守護を表しているから祀る場所がさかさまになる。」
衣通姫の物語は昔読んでおもしろかったように思うので今度くわしく調べてみる。

てっせんの花がきれいな家、古い農具なんかも置いてあって、通る人の目を意識している
ように思った。
家の周りの草抜きをしていたご主人らしき人に、「きれいですね」と声をかけたが会話に
乗ってこなかった。残念。

遠くから目立っていた大木。ケヤキだと思う。近づくと2本で一対で、その間に崩れそう
ではあったが木製の鳥居が立っていた。昔から街道筋で目だっていた木なのだろう。

今日は、はじめての那須の山々。

金売り吉次のお墓がある皮籠の集落に到着。ここの大きいタイプの家は独特な感じがした。
ここから4枚の写真、もちろん同様の家は他にも何軒かあった。





この家は取り壊し中だった、同様式での改造だとうれしいのだけれど。

やっと白河の町並みにたどりつく。最初に目に付いた家。

お醤油屋さん。

誰だったか明治以降の有名な人の生家と書いてあった。

もうすぐでゴールの女石の追分と言う頃に2回目の通り雨にあった。今回はカッパをすぐに
出して着たので濡れなかった。10分でやんで、かんかんでりにもどった。
印象に残った家。

阿武隈川、上流方向。この名前で東北地方にはいったんだと実感した。

下流方向。

この後、女石追分から旧道で国道4号に出て、女石交差点にもどって、そこのMINISTOPに
タクシーを呼んで新白河駅に出て帰った。
今日も前回に続きたくさん歩いてかなり疲れたが天気が良くて気持ちよかった。

これから先、各藩管理の奥州街道は北へえんえんと続く。
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奥州街道6月1日(火)

2010-06-02 17:11:35 | 奥州街道
JR東北本線氏家駅ータクシーー喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿ータクシー
ー東北新幹線那須塩原駅と歩いた。ここから白河宿までは、電車、バスが不便な地域だ。


喜連川宿、右が店舗で呉服屋さん、左がその住居。

喜連川宿出口の道標、右は奥羽海道らしかったが、左はわからず。

そのすぐ先の内川(下流方向)、喜連川の町並みは内川とこの前渡った荒川の合流点の
扇状地にある。

上流方向、雲の下が山々のようだ。

道端の花。

今日は、こういう風景の中をえんえんと歩いた、晴天で日差しは強かったが、風がひんやり
していて気持ちがよかった。

立派でよく手入れされた長屋門、看板は上江川郵便局。

久しぶりにこのタイプの道祖神に出会った。この手前にももう一つ同タイプが居られた。
どちらも二、三十年前に、お祀りされていた、こういう風習が現代にも受け継がれている
のだろうか。

先ほどは、田んぼの風景だったが、こちらは麦畑の風景、こうごにいりまじって続く。

この家は、障子(紙)と雨戸(木)のみで、ガラス戸がない。めずらしい。

このあたりによくある「立派なタイプ」の家。

佐久山宿出口の岩井橋から見た箒川(上流方向)。鮎釣りの人達が居て、看板、のぼりが
たくさん出ていた。昨日、解禁されたらしい。

これもこのあたりによくある大きい農家。

グミの季節だった、小学校の行き帰りにとって食べていた。さすがにとるのは気が引けた。

崩れそうな長屋門、残念だが維持には相当な金がかかるし、実用にはならないし、仕方の
ないことかもしれない。

すぐ近くのよく手入れされた長屋門、ステイタスとして残してほしい。

麦畑のむこうに那須の山々がかすんで見えた。

道の両側にお屋敷、親園(ちかぞの)という集落だった。

またグミがあった、大きい木だった。

親園の交番の住居は、奥の農家と同じく昔風のみばえだった、いいことだと思う。

大田原宿でなんとなくいいなーと思った家。

城跡と同じく小高い丘の上にある大田原神社(上下の写真)。



大田原宿出口の蛇尾川(上流方向)、左の林の奥に先ほどの神社がある。

昔はかやぶきだったかなーという農家。練貫(ねりぬき)という大きい交差点の手前。

同じあたりの相の川(上流方向)、那須の山々が近くなった。

日光の近くで見たこいのぼりと同じタイプの豪華版のこいのぼり。

鍋掛宿出口、越堀宿入口の那珂川(上流方向)。

下流方向、昨日の鮎釣り解禁でこの付近も看板、のぼりがたくさん出ていた。釣っている人は
1人しか見えなかった、帰った後かもしれない。

今日はここまで、昭明橋をバックに、たくさん歩いて疲れた顔を。

バスは最終が行った後なので、タクシーを呼んで那須塩原駅に向かった。
30分ぐらい前に疲れ果てて神社で腰をおろしていたら、目の前を男女高校生がバイクで走って
行った。二人乗りの人達もいた、皆、地味なおそろいの白いヘルメットをかぶっていたので、
通学に許されているのかもしれない。こういう不便な所では自己責任を身に付ける教育にも
なるし、大英断かもしれない。
それにしても青春映画、とくに昔のアメリカの、を彷彿とさせる一瞬だった。
残念ながら、写真は撮れなかった。
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