The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
野村克也・著“超二流―天才に勝つ一芸の究め方”を読んで
新型肺炎は小康状態に入った。雨が降り始めて来ている。雨音はあたかも既に梅雨のようだ。晴れれば五月晴れで太陽の光はまぶしく、ウィルスもこれで消滅するように思える。
だが、報道によれば東京や九州では新規感染者数が完璧には減りそうでなく、むしろ増加の傾向にある、という。これでインフルエンザの一種と言えるのだろうか。症状も新型肺炎というよりも、血栓症に警戒しなければならない疾患だとも聞く。一体、どういうウィルスなのか。
どうやら新型ウィルスであり、やはり中国湖北省の中国科学院武漢ウイルス研究所から漏洩したものと思わざるを得ず、世界世論もその疑惑に向かっているようだ。その疑惑の状況証拠が多すぎる気がする。しかも、中国本土での感染拡大が始まった頃、マスクをはじめ医療防護具等の中国内で生産量の拡大、輸入の促進とともに、輸出を抑制させた、という疑惑も持ち上がっているようだ。しかも、このところ香港国家安全法制定を決定したという。これは国際公約の一国二制度の順守を破る意図である。
それにもかかわらず、日本政府・現政権は習近平の国賓としての秋季来日にこだわっている、という。こういう外交センスで良いのだろうか。現中国政権には信頼が置けない傾向が顕著になって来ている。だからこそ豪州は、対中貿易を犠牲にしても強硬な対中姿勢を示しつつある。こうした是々非々論が信頼を得る上には大切だ。
そうでなければ、いよいよ尖閣領有権も怪しくなってくる。“今の香港、明日の台湾、将来の琉球”が現実化しつつある。今後は米台と踵を強く合わせて行く方向で進むのが正しい在り方ではなかろうか。
こうした中 果たして、日本人の“民度は高い”と言えるのだろうか。政府の“自粛要請”におとなしく従っていることが“高い民度”論の根拠になっているようだが、自らは非合法な振舞いをするにもかかわらず、何ら補償のない“自粛要請”をする現政権におとなしく従うことが、ものを考える“民度の高い”国民のすることだろうか。あたかも小学校低学年の先生が“こうしてはいけませんよ”と児童に言っていることに素直に従っている図ではなかろうか。昔、進駐米軍の司令官・マッカーサーが“日本人は6歳の子供だ”と言ったというが、まさに至言であり、当時から日本人は成長していない、むしろ後退しているかのようだ。
私は実際に見たわけではないが、この騒動で様々な差別があったという。罹患者や医療関係者とその家族に対する言われなき差別がはなはだしいという問題だ。自分が罹患した場合への単純な想像力すらこの国の人々には決定的に欠如しているのだ。あたかも途上国の未開住民のような反応ではないか。
そうした素地があってなのか、現実を把握するのにどんな数値データが必要なのか、必要なデータならばどうすることでそのデータが得られるのかを考え、処置するという発想も極めて希薄である。だからこそ、初期段階からPCR検査実施への理解力が無く、“それは無用だ”の議論が結構な指導層にすら蔓延してしまったのだ。
有効なワクチンの無い前提で感染が小康状態となった今や、重要なデータは各地域での罹患率(抗体保有率)の調査だ。それで集団免疫の獲得に向けて現状がどうなっているかを知ることだろう。判断可能なデータを得るための疫学調査は必須ではないか。しかし、そうした動きが全く見られないし、それが重要だという議論すら殆ど起きていない。
自粛と医療崩壊の合間を行ったり来たりするのは、社会と経済の崩壊へと追い込んで行ってしまう愚策だ。
黒川前検事長の処遇をめぐっては、不法そのもの扱いではなかったか。その非合法性を覆い隠すために検察庁法を改訂しようとしたが、失敗した。普段大人しいはずの芸能人までもがようやく猛反対し、その影響力からか政権支持率が大きく下落し始めた。ある芸能プロダクションの社長は怒り心頭だという。SNSでも“#さようなら安倍”が流行っているという。アホアホ政権のリップサービスのみの政策にようやく辟易して来たのであろう。
だが、しかし芸能人の発言で世論が大きく左右されるのは、これもその国の後進性の現れではないのか。衆愚政治の初歩的段階である。
アホアホ政権が不法にまみれている現状に気付くのは、時すでに遅しで既に、自分たちの生存権が脅かされている瀬戸際にある。しかし、その現実にも気付いていないのではないか。政権というものは、少しでも劣後する気配があれば厳しく批判し、交替させなければ、国家的危機に直面し、それが徒に拡大する可能性は大きくなるのが常なのだ。このままの遅い政策では、ある予測によれば日本企業の半数が半年後倒産する、と言われているようだ。これが現実になっては、国家存亡の大不況である。アホノミクスはやはりアホの“ゆでガエル”政策そのものだったのでないか。
ところが、株式市場は順調に価格上昇している。金融市場で金余りが促進されている現実からのようだ。この金が必要な人々に回っていないことが問題なのだ。それは日本の政治家の大きな課題だか、依然として“昨日までの続きで明日がやって来る”と心底思っているかのようで呑気だ。
問題は、この危機から脱出する具体策を誰も構想していないことが、大いなる危機の前兆ではないか。この災厄を改革のきっかけにすることすら出来ないでいる。教育の“9月入学制論”もいつの間にやら葬り去られた。日本の教育が世界標準に追いつかなくて良いのかの議論よりも、それが“現状では出来ない”議論ばかり盛んだ。この後で述べる野村氏の著書でもわずかに出てくる言葉だが、“できない理由を探すな”だ。何が必要でどうしなければならないかが、本質の議論だ。それが問題ならばこれを奇貨に改革する気構えが無さすぎる。
伊勢湾台風で名古屋周辺が壊滅的被害を受けたことがあった。近鉄名古屋線も復旧に相当な時間が要すると予測された。当時の近鉄社長・佐伯勇氏はこれを奇貨にして、名古屋線の復旧を標準軌に改変し、車両も改造し、大阪・名古屋間を直通化した。こういう決断力、これは出来ない理由ばかりあげつらっていてはできない構想力であり改革だ。
教育は国家百年の大計でありグランドデザインだ。それを旧態依然のまま放置して良いのか。首相は“文教族”ではなかったか。一瞬の政治的成功だけを追うのは、小物政治家のすることだ。アホアホはこの面でも本領発揮とは、如何にもnothing過ぎるではないか。コズルサばかりの政治家は害悪でしかない。直ちに追放するべきだ。
さて、今回も“書棚”への投稿。故野村克也氏の本“超二流―天才に勝つ一芸の究め方”(ポプラ新書)の紹介だ。GWの“密教”本を読む合間に、気分転換に読んだ。現役選手の評価も結構書かれていて、知らなかったその選手の背景が分かって面白い。
カバーの表に野村氏の顎を撫でる写真が大きく乗っている。その裏には次の表現がある。“人は誰しも「強み」や「一芸」を持っている。その‘才能’を眠らせたままにすることなく解放させることができた「超二流」は、時に天才、一流にさえも勝つことができる。まだ見ぬ潜在能力を秘めた‘凡人’だからこそ発揮できる最強の「洞察力」とは。ノムさんの原点、「選択と集中」の極意!”
書店で見た、この本の装丁と表題が私の琴線に触れて、思わず買ってしまった。“超一流”という言葉があるが、“超二流”とは面白い。何だか自分でも手が届きそうなポジションではないか。今からでも間に合いそうだと誰しもが思うのではないか。
前書きにいきなり、“「超二流」という言葉は、私の尊敬する三原脩監督が作り出したものだ。”とある。ナルホド。
続けて、この“「超二流」をあえて定義すれば、自らの強み・長所と弱点を理解して、強みを活かせるように頭を使う選手だろう。”その超二流の選手が多いチームが超一流だという意味のことを言っている。確カニ!
さらに、“私は、自らのことを間違いなく「二流」だったと思っている。・・・自分の人生を振り返ってもやはり私は「二流」であり、「弱者」だった。”と断言している。自分のことを一流だと勘違いしてしまえばそこで成長はせず、頭を使って努力もしなくなるだろう。頭を使って努力をすれば“やはり、二流は最後に勝つ。一流をも負かすことができる。”と、言っている。実績を挙げた人の言葉、勇気が湧いてくるではないか。
天性の素質に限界を感じた場合、必要になってくるのが“何かを感じる力”だという。“いつでも何かを感じるように心がけることで、壁を突破するヒントが得られるはずだ。”と指摘している。しかし、それは言葉や理詰めで説明できない、と言っている。
記憶違いかも知れないが、いつぞやの高校野球夏の大会で優勝した沖縄の学校の監督がこれに近いことを言っていて、感じる訓練として“季節の小さな変化を感じるようにして、それを記録しろ”と言っていたように思う。恐らく同じ意味なのかもしれない。この話を聞いた時、不思議な気持ちになったが、これこそは正に私の弱点であると反省して気を付けるようにしているつもりだ。
いずれにしても“最大の悪は鈍感だ。”とも言っている。相手を観察するときも、“感覚を鋭敏すれば、小さな変化に気づくことができる。こうした積み重ねが大きな変化を生む。”選手の育成も同じだという。至言ではないか。
この本では、各章の終わりにその章の総括となるような言葉を掲載している。第1章では既に紹介した部分にある。第2章以下は以下の通りである。
“自己評価が正しいとしている前提がおかしい。肝心なのは自己評価ではなく、他人の評価だ。”
“「これだ」と決断したら、時には他人の言葉に耳を貸さず、我が道を行くこともひつようなのだ。”
“「プロセス」さえ見つかれば、結局「徹底できる人」こそ、一番強いと思っている”
“優秀なリーダー(特に野球監督)は、本番では何もしない”(括弧内は筆者注/つまり“徹底して準備する”、の意。)
“自分や部下が輝ける「ポジション」「役割」を見つけ出す努力を怠らない”
“他人が評価してくれるからこそ、自らの位置を再認識することができて謙虚さを忘れずにいることができる”
ところで、この本の記述で強い印象にあったのは次のような部分だった。
監督は大卒でなければなれない。自分は高卒だからなれるとは思ってもおらず、野球解説で生きていこうと思っていた。ところが、南海の現役4番打者で捕手だった当時、シーズン終盤に最下位だったが、その不振チームの監督就任の命が下った、という。チーム不振なのは有力ピッチャーが居ない上に、4番の自分がシーズン前に怪我をして離脱していたという理由があったという。そこでとにかく当時「南海ホークスのドン」だった鶴岡一人氏が日本シリーズの解説に来ていたので、試合前に挨拶に行ったら「お前、監督というものがどういうもんだか分ってるのかっ!」とものすごい剣幕だったという。鶴岡氏は野村氏が新人の時に監督だったという関係。こういった剣幕の背景について語ってくれていないので、その意味が私には分からない。お前なんかに務まるハズがない!という意味ではあろうが、どこに問題があるとみていたのか不明だ。この本では他にも理解不能で理不尽な鶴岡氏の発言を思い出して記述している部分があるが、野村氏も若い時は理解に苦しんだのかもしれない。
それにもかかわらず、この本では5大監督として、三原、水原、鶴岡、川上、西本の各氏を挙げている。鶴岡氏の何が良かったのかこの本では不明のままだ。
面白いことに野村氏の後に星野(仙一)氏が監督になって、野村氏の去ったチームで星野氏が優勝させているパターンがある。阪神と楽天がそうだ。楽天では日本一にもなった。その阪神はさすがの野村氏でも歯が立たなかったようで、どうやら“タニマチ”が悪さしたようだ。
その星野氏のことをこの本では、ほんの1箇所だけで羨望の念をこめて、大先輩川上氏への挨拶の様子を見て、“世渡り上手”と評しているのが面白い。確かに星野氏はマスコミへの気遣い抜群だったとの評を別に聞いたことがある。そして、逆にご自分のコミュニケーション力は“二流も二流”だと評している。処世術やコミュニケーション力も決して否定するものではないが、“自分の仕事における本質的な能力を向上させる努力を諦めてはいけない”と強調している。
野村氏のプロ野球監督としての生涯ゲーム成績は1,565勝1,563敗でその差は僅かに2ゲーム差だそうだ。この勝敗の僅差は、試合の都度にはあまり勝利にこだわらず、選手を育てる面が強かったせいではないかと、私は勝手に思っている。この本では、そうした人間形成を含めての選手育成の考え方を示したものと、思う。だから同氏の訃報を知って心から泣いた野球人はかなり多いのではないかと、これまた勝手に思っているのだ。
野村氏はそれこそ“一流の地頭(じあたま)と感じる力”を持った人ではなかろうか。だからこそ、頭を使って努力をして“一流をも負かすことができた”と自信を持って示すことができるのだろう。実際に会った人は、“頭の良い人だこ感じた”と言っているのを聞いたことがある。彼を系統的な理論で育てた人物は居なさそうで、どうやら少なくとも鶴岡監督はそうした理論派ではなく“気合と根性論”。それにもかかわらず、独自の野球理論を生み出したのが、“一流の地頭と感じる力”の天性のお蔭ではなかったのではなかろうか。
果たして、“二流、三流の地頭と感じる力”で“超二流”になれるのだろうか。いずれにしても、たとえ現実に不可能でも、人としては努力は必要なのだろう。そうでなければ、底なしの地獄に転落して行くのが人生なのだろう。

« 空海と密教の... | 的場昭弘・著“... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |