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本郷和人・著“日本史 自由自在”を読んで

“新型肺炎、終息の予感”と先週書いてしまったが、何と兵庫・大阪往来禁止措置となった。だが、陽気はどんどん良くなって、桜の開花は何時か?となっている。それでこれからインフルエンザが蔓延するとは思えない。米国発の研究結果によれば、新型肺炎も温暖で湿潤な気候では拡大しないとすることが分かった、という。日本では九州より北海道、イタリアでも南部より北部での流行が顕著だ。シンガポールやアフリカ諸国でも感染が見られるとの報道があるが、感染クラスターの空調が問題では無かったか、との議論もある。エアコンフィルターにウィルスが居れば、エアコンでわざわざ湿度を落とした空気を循環した結果とも言える。恐らく、それが本当だろう。
だが、医療システムを崩壊させられない行政当局としては、一つの研究結果だけで、それを当てにするのはリスクが大きすぎる。様々な閉鎖措置は当然であろう。しかし、我々一般人としては、こうした“常識”を働かせることも重要だ。“常識”的心眼をもって行政の意図を推し量る、これが大人の行動だろうと思うのだ。この春に、京都の観光地を巡るのは絶好の機会と心得るべきだろう。それが、疲弊した観光産業を応援できるならなおさらだ。
雨が降ったなら、降ったでウィルスを押し流すものと心得るべきだろう。先に言ったように、ウィルスの性質を知ればこれまでの知見を覆す結果は出ていない。例えば、金属上ではイオン化しやすいので、細菌やウィルスは長期生存しがたいといわれていたが、今回の武漢ウィルスもその傾向にあるということのようだ。TBS3/22報道によれば、米国立感染研究所等の共同チームの調査結果、ウィルスの生存期間は、エアロゾルで3時間、プラスチック72時間、ステンレス48時間、銅4時間ということで、銅はイオン化傾向が高いので生存し難いようだ。恐らく、他項目についても押して知るべしではないか。

この度の東京五輪は“呪われたオリンピック”とは重要閣僚の発言らしいが、正にこの五輪は招致決定後、トラブル続きだ。競技場の施設問題から、ロゴマーク、マラソン開催場所等々問題だらけ。やっとのことで日本に辿り着いた聖火が強風の式典で消えた。
結局、当初計画の東京を中心としたコンパクトな安上がり五輪とはならず、経費ばかりが嵩む大会となる気配濃厚である。それで国家財政は持つのだろうか。中止となれば、今までつぎ込んだ経費はパァ!延期となっても経費の嵩む事実に変わりなさそう。それに、どうやら発売済みのチケットもパァになる可能性は高いという。あたかも紙屑になった終戦直後の国債のようだ。

ところで、3月20日の伝えるニュースでは“米国のトランプ大統領は19日、安倍首相が16日夜に行われた先進7か国(G7)首脳のテレビ会議で、東京五輪・パラリンピックを予定通り開催するかどうかに関して「決めていない」と説明したと明らかにした。” という。安倍首相はテレビ会議後、記者団に「完全な形で実現することについてG7の支持を得た」と強調したが、実際は、少々ニュアンスが異なるようだ。ある種、首相の二枚舌ではないのか?安倍氏のこうした人間性にはいつもあきれてしまう、最早コメントに疲れる。

兎に角繰り返すが、今や欧米ではオーバーシュートの傾向にあるようだが、桜が咲く湿潤な気候になりつつある日本では武漢ウィルスも抑制の傾向にある。恐らく既に蔓延期は終わり集団免疫に入っているとも思われ、厚労省の手際の悪さにもかかわらず、幸運にも結果オーライ、となっているのではないか。
それにしても、厚労省の不作為には驚嘆させられる。政府は東北の大震災以降BCP(事業継続計画)を民間に対し声高に“指導”していたにもかかわらず、この体たらくである。自らの襟を正さず、民間を“指導”するという度し難い明治以降の“お上意識”。情けない限りだ。マスクすら1か月以上前に月に6億枚の生産が可能だと宣言したにもかかわらず、未だに品薄ながらも一般国民に提供できている訳ではない。こうした政府の無責任な発表に一般国民は反応すらしていない。
それに比して、韓国の対応は一部海外からは称賛の報道があるという。この点で、今後日本政府は韓国に見習うべきところがあるのではないか。こうした点の報道も何だか忖度して、抑制されているような気がする。


さて、引き続き読書は今回も本郷和人教授の本“日本史 自由自在”を何とか読んだので感想を報告したい。このところ少し離れてはいたが、“本郷和人ワールド”の蘊蓄の世界に浸りきっている。これが結構楽しい。マイブームであろうか。出版社の紹介文は次のようだ。

考えれば考えるほど日本史は奥深い。たった漢字ひと文字のお題から日本史の勘どころへ。教科書や通史は退屈だという人へ。東京大学史料編纂所教授が教える、新しい歴史の愉しみ方・第二弾。
編、食、境、武、裸、王、笑、一、男、白、道、美。
たった漢字ひと文字のお題から、即興で歴史の森に分け入り、ついには日本史の勘どころにたどりつく――
東京大学史料編纂所教授のフリースタイル講義、開講
教科書や通史は退屈だという人には特におすすめ。
縦横無尽の即興講義。
次から次へと飛び出す、日本史のひきだし。

本題の“自由自在”は小学校高学年で使用させられた参考書“算数自由自在”を思い出す。この本は、正規の教科書にはあまり出てこない、植木算、流水算、鶴亀算等々が、自由自在にできるようになることを目的としていた。だが子供の頃皆目理解できず、何だかうんざりして将来への不安の一要素だった記憶がある。鶴亀算は理屈が未だに理解できていない。しかし、中学生になって連立方程式ができればその理屈の理解は不要だと分かって、かなり安心したものだった。その後高校生になって、植木算は数列へつながり、流水算はベクトルへとつながり、それは物理学への応用となる基本となると理解できた。
本書では編集部からであろうか、提示された“たった漢字ひと文字のお題”から日本史のエピソードを“自由自在”に語るという、あたかも芸人のような仕業で、本郷教授も小学生参考書を念頭に置きながら、ほろ苦い記憶の内で面白がって付けた書名なのであろうか。

現に、本郷教授は“はじめに”で子供の頃の“日本史が大好きだった”思い出を語っている。
“史料をもとにして「考える」からこそ、日本史という学問は楽しいのだ。・・・それは「人間ってなんだ、生きるってなんだ」という大きな疑問について、過去のさまざまな人の生き方や事象や制度や慣習を素材として、考えることじゃないのか。”こうして子供の頃のように、日本史を考えることの楽しさを思い出したのだという。そうした、とりとめのない思いで書いた本だという。

読み終えて得たものは、“本郷ワールド”では蘊蓄が圧倒的だ。だがそれを保持するには記憶力が要る。それでもまぁ、暇つぶしと教養涵養には有効か。そして、その蘊蓄が章が進むにしたがって、日本史の本質へと迫っていっていて大変面白く秀逸である。あの漢字の並び順は、そういう意図で並べられたのであれば徹底して良く練られた企画になっている。それはあたかも、ラベルのボレロのようだ。最終章はあたかも最高潮といった形で、突然に終わる。否、最終章だけで日本の“美”についての本質と評論、芸術論になっていて大変な興趣がある。

この紹介文、気になるのが“新しい歴史の愉しみ方・第二弾”という台詞。では第一弾は何か。第一弾抜きに第二弾を語って良いのか。どうやら、同じ企画で“信、血、恨、法、貧、戦、拠、知、三、異。たった漢字ひと文字のお題から、即興で歴史の森に分け入り、ついには日本史の勘どころにたどりつく”という同じ出版社からの“考える日本史(河出新書)”が前に出ていたようだ。今回それはそれで、まぁ第二弾の紹介としたい。きっと、第一弾の企画が評判良かったので、2匹目のドジョウを狙ったのに違いない。そして結論から言うと面白かった。いずれ、第一弾の蘊蓄を楽しむこととしたい。

何度も言うように思われるかもしれないが、これは蘊蓄集である。蘊蓄の面白さは人によって感じるところがちがう。だから、ここに取り上げたものが必ずしも人によって面白いとは思わないことは十分に考えられるので、実際にこの本を読んでもらえたら、良い。まぁ、それはどんな本にも言えることではある。

“編”では日本正史の編纂は、中国のようになされなかった。何故か日本には革命がなく、万世一系の天皇が居て、自らの正当性を改めて語る必要がなかったからだ、という。“食”では日本では肉食は仏教伝来以降なかったという。だが、どうやら仏教普及以前も肉食について、不思議にも文献には皆目登場しないという。そして“日本人の骨を調べると、古墳時代は背が高い。しかし、その後だんだん低くなる。・・・しかし、明治になって肉を食べるようになると、また背が高くなり始める。”と言っている。ある種の謎だと指摘している。
“境”では“一所懸命”の武士の登場に言及。“武”では日本は“なんちゃってヤンキー”意識があり“文弱”を嫌う傾向があると言っている。朝鮮半島では武官は文官の下に就くが、日本では“武”が上だった。しかし、明治以降の富国強兵では、その“なんちゃってヤンキー”とは少し違っていて、そういった点からも明治で伝統的日本が切れていたのではないかと言っている。
“王”では古代“大王(おおきみ)”だったが、天智・天武時代に律令体制を敷き、神話を整理し国に成り立ちを明文化し、“天皇”と称するようになった。この中国皇帝と並び立つ称号を中国側で“承認”したのが、“中国史上唯一の女帝・則天武后”だという。“「面白いから認めよう」と言った”というのだ。

“道”や“美”でいよいよこの本の大団円、蘊蓄の佳境、日本美の芸術論へと入って行く。“道”では、千利休の辞世の句の紹介から禅宗の思想を解説してくれている。ここから日本の“美”つまり芸術への導入となっている。

人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這寳剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころす)
堤る我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち) 今此時ぞ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

“「力囲希咄」は「えい、やあ、とう!」といった意味らしい。「私は七十歳になった。えい、やあ!」”。
“天に抛”の“抛(なげうつ)”は利休が名乗った号“抛筌斎(ほうせんさい)”でも使っていたという。“筌(せん)”は“魚を獲る道具”で魚問屋の豪商だった家業を投げ打って、茶道に専念する意味。
利休は茶道の他に禅にも打ち込んだ。その禅の思考は、“師に会えば師を殺し、仏に会えば仏を殺し、先輩に会ったら先輩を殺す。禅宗は、固定的な価値観を全部一回否定してみる。・・・(生と死や、貧しさと豊かさ等の)二分法自体を一回否定してしまって、考えてみる。この考え方は「正と反を一度否定して合に至る」というヘーゲルの弁証法と同じ”。こうして“ひとつの概念を否定して違う世界に行く”、“その「違う世界」を一言であらわすと、禅宗の場合は「無」ということになる。一切がないということ。”
“死を前にした利休が宝剣を抛つという。宝剣はまさにお茶の世界。” 我得具足(わがえぐそく)とは私の茶道具のことと分かる。“得具足であるお茶の道具を抛って、今度は死の世界に行く。それは自分にとって新しい挑戦である。・・・それが利休の到達した境地だとすると、まさに禅的な理解”ができる、という。
“自分が打ち込んだ世界を「道」としてとらえる考え方は、世阿弥や、禅宗に打ち込んだ利休が根幹にある”。これは永続的に自分を高めていかないと、すぐに崩れてしまうので“たえず自分を修行の道に追い込んでいく・・・”これが禅宗の本来の考え方。途中経過が意味があると考えるのは欧米的であるが、日本的には“経過の向こう側に何か価値があると考えて、極めようとする。しかしその何かが、言語化されず、ただ感じるしかない境地”であれば、“そこには、(ヘーゲルのような)哲学は生まれない。”との指摘である。

最終章は日本の“美”。“日本の美とは、一体何か。・・・私は「生活の美」がいつ成立したのかという視点が非常に重要になる。つまり日本人皆がそこに美を見出し、多くの人に共有される美が成立したのは、どの時期なのか”が問題だという。例えば、源氏物語は平安時代の王朝小説だが、実は室町時代に最も親しまれたのだから、室町時代の芸術ではないのか、という議論がある。そのような様々な事例を挙げて、生きた芸術とは一部の上層階級の人々が愛でたものではなくて、そこには“多くの人に共有される美”がなくてはならないと言っている。
古代からの天才的で寸分たがわぬ“美”と、江戸時代の仏師・円空の人々に愛された「ヘタウマ」の魅力とどちらが優位か、という究極の問いかけ。そして、「歴史とは、数少ない優れた個人が作っているものだろうか?社会に生きる多くの人たちが主人公の歴史があっていいのではないだろうか?」という立論。
そして、“江戸時代には、権力者ではなく、庶民の文化が開花する。まず上方に文化が花開き、それが元禄文化として定着し、その元禄文化に学びながら江戸の庶民が文化文政の文化を生み出していく。”と結んでいる。
だが、ではあの利休はどう評価すれば良いのだろうか、少し疑問がのこるのだ。利休は私には距離があり過ぎるのだ。

“おわりに”では“日本史の黒幕”という“三人の碩学の1978年の鼎談を文庫として出しなおした”本を紹介している。“そこには教養としての歴史がぎっしりと詰まっていた”という。現代の科学的な歴史学を称揚し過ぎて、“史料に忠実であれ、とのみ強調する凡庸な歴史研究者のいかにつまらないことか。彼らには教養が足りない。素材が不足しているから、先の三人の碩学のように、豊かな思考を紡ぐことなど到底できない。”と嘆いて終わっている。


  

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