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正確な“広田弘毅”像とは

ようやく涼しくなって来た頃に、この夏休みに読んだ本を紹介するのは気が引けるが、原稿を放っておけないので 厚かましくも取り上げた。その本は、城山三郎氏の小説“落日燃ゆ”である。この小説は しばしば著名人の愛読書になっているとの評価もあるようだが、私はこれまで 読む機会がないというか、差し迫って読む気にならなかったのが 何となくその気になったというところだった。
また、この小説を読んでいる最中に、中公新書から 服部龍二著“広田弘毅―悲劇の宰相の実像”が出版されていたことを知り、これも読むことにした。
そして さらについでに レンタル・ビデオ店で見つけた“東京裁判”も見た。今回は、遅読の私の さらに遅い読後コメントです。

“東京裁判で絞首刑に処せられた七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。”
これは小説“落日燃ゆ”の紹介文だ。城山氏は、この小説の最初に“広田は、背広のよく似合う男であった。” “軍服も、モーニングも、大礼服も、タキシードも似合わなかった。”と言っているが、これにより、出自が身分の低い能吏であることを強くイメージさせようとしたのかも知れない。小説全体のムードを 良く醸し出している。
この城山氏に対し、服部氏は新書“広田弘毅”の刊行の動機について次のように言っている。
“(広田に対し)過度に同情的な描写が、広田の実像から離れているように思えた。
歴史小説で主人公を同情的に記すのは自然だとしても、そのような小説が日本人の広田像となり、ひいては日中戦争や東京裁判に対する国民の歴史観を形成してきたとすればどうであろうか。等身大の広田像を慎重に描き直さねばならないはずである。そのような思いから、執筆の動機が芽生えていった。”

服部氏によれば、小説に“広田は玄洋社の正式メンバーではない”と書かれていることや終戦直後の“国際検察局の尋問に「広田は一切しゃべるまいと思った」”に“事実誤認がある”ということだ。
“(城山氏は)外務省記録などの基礎資料を渉猟してはいないため、肝心の広田外交が十分には分析できていないのではなかろうか。”と服部氏は指摘している。
確かに、服部氏は その主張を裏付けるように様々な証拠を新書内で積み上げているので、真実味がある印象を受ける。しかも広田外交政策の本質を 次のように総括している。“かたや、合理主義的な外交官でありながら、玄洋社の流れをくむ国士でもある広田は、二つの顔に揺れていた。”この定まらない二面性の中で“高揚する世論と(近衛公の)ポピュリズム政治に動かされた広田は、蒋介石政権との交渉を見限りはじめるとともに、傀儡政権の樹立という陸軍の構想に取り込まれ”たと言うのだ。

それから身分上の問題として少々気になる部分がある。それは、小説で昭和天皇の謎めいた発言として取り上げ、結局、種明かしはせずに終わっていることがある。それは、広田氏が首相拝命の際、昭和天皇から言われたご注意についてである。
“「第一に、憲法の規定を遵守して政治を行うこと」
「第二に、外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように」
「第三に、財界に急激な変動を与えることのないように」”
・・・・・・
“だが、広田に対し、天皇はさらにもう一カ条つけ加えていわれた。
「第四に、名門をくずすことのないように」”
(広田が頭の中で)“見廻してみると、そうした中に広田ひとりが素裸になって立たされている感じであった。<背広を着たやつ>は、ふつうには、宰相としての資格がないのだろうか。宰相としては、きわだった新参者であり、枠をはめておく必要があるということなのだろうか。”
この部分の記述は 城山氏の推測だろう。しかし、この点について 服部氏はこの謎の種明かしをしてくれている。
“天皇発言の真意は広田の出自を問題視したというよりも、そのころ議論となっていた貴族院改革や華族制度改革に慎重を期すように告げた可能性が高い。この貴族院改革とは、有爵議員や多額納税議員の数を制限し、勅撰議員に職能類別の議員を設けて職能代表とするなどの内容だった。「皇室の藩屏」と呼ばれた華族に打撃を与えかねないものだけに、天皇としても改革を看過できなかったのであろう。”
この部分は 天皇と皇族や華族との関係を示す微妙な部分なのであろう。戦後、身分制を取り払い民主化することによって、天皇家だけが浮き上がった存在となってしまったようだが、それが現在辛い形で天皇家を襲う遠因になっているのだろうか。

城山氏の“小説”を読んだ後で、服部氏の“解説”を読むと、“広田弘毅”へのイメージが相当変化する。歴史小説は やはり作家の作り上げた“虚構”なのだ、と 一応認識して了解しておかないと大いなる誤解を生むものと言える。似たようなことは 小説“坂の上の雲”での乃木将軍の扱いにも言えることなのだろうか。
宮城谷昌光氏の“楽毅”は 史記のほんの1頁の記述を全4巻の本に仕立て上げたと言いう。作家のイマジネーションもここまで来ると ものすごいと驚嘆せざるを得ない。それだけに 小説では歴史的事実に反する記述もしばしばありうることなのだろう。

小説では広田氏がオランダ公使として勤務に就く時の次の句を紹介している。
“風車、風の吹くまで昼寝かな”
そして、そのオランダ公使で一丁上がりの外交官人生が、“自ら計らわず”で 外相に、そして首相にまで上り詰め、さらに“自ら計らわず”で 処刑されるという、特異な運命に翻弄される。そしてその彼の行為に一向に主体性を感じない。
結局は戦争協力者というより、積極的戦争指導者として断罪されたのは、陸軍の横暴にも“自ら計らわず”という信条を反映させ、付和雷同した結果なのであって、当然の結果としか 言いようがないようにも思う。とにかく 主体性の欠如が悲劇を招いたと言えるのではないか。夜郎自大の偏狭で凶暴な陸軍と 主体性の欠如した軟弱良識派。いずれも日本人の典型であるとするならば、先の戦争は起こるべくして起こったと言えるのだし、今後も 同じことが再び起きる可能性は高いと言えるのではないか。そう思うと 何だか暗澹たる気分になる。
それにしても統帥権の独立を楯に暴走する陸軍を 誰も処罰せず、統制のとれない いい加減な権力構造に呆れるばかりである。天皇の激怒にすら、適切に対応せず、ウヤムヤにして責任者に厳罰を課していない。それを言えば 今の高級官僚も同じことなのかも知れない。たとえ権力者に対してであっても正義と法の厳正な執行がなければ国家は亡ぶのである。軍人を含め役人こそ厳格な遵法者であり、厳正な執行者でなければならない。
だが、今の私には 真の“時代の空気”は 分からない。広田氏はこの抗えない“時代の空気”に戦わずして負けたのだろうか。

映画“東京裁判”での広田氏の姿は 他の被告と同じように というか 中でも特に精彩のない姿であった。一時代をリードした人々が敗者として引きずり出された哀れな様子を映像として見ただけという印象だ。その肉声は罪状認否についての箇所だけであった。

戦後のある時期、服部氏によれば、“実のところ昭和天皇も、広田に失望していた。”ことが明らかになったという。政治学者・猪木正道氏の著作(猪木正道著作集・第四巻)の広田に対する酷評を目にした昭和天皇は宮内庁を通じ、“「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と首相在任中の中曽根康弘に伝えている。”とのことである。

しかし、当時どうして、こんなに主体性のない政治家が生まれたのか。ヒョッとして天皇制と何らかの関係があるのかも知れない。首班指名がいず方からとなく決められて行くという、今にして言えば“闇”の決定方式の中では、妙に主体性を持つことは意味をなさないが、それが そういう精神構造を生んだ原因のような気がする。また どうやら選ぶ側も ギラギラした主体性のある人物を選ぶ傾向にはなかったのではないか。現に 広田氏と同期の吉田茂氏は 遠ざけられていた。
国家の選良にして こんな主体性の無さ、付和雷同ならば、まして一般庶民の間に確固たる個の確立があるとは言い難い。かくして 一般大衆も夜郎自大の軍部に引っ張られ、軍国主義的“空気”が形成されていったのではないかと思う。かつて終戦後GHQのマッカーサーは“日本人は12歳だ”と言ったそうだが 恐らく当時それは至言であったのだろう。

しかし、さすがに現代では主体性の無い政治家は、この日本であっても埋没してしまう。それはやはり健全なあり方だと思う。その点でマッカーサの伝で言えば、今 日本人は何歳になったのだろう。未だ成人ではないのだろうか。
人は すべからく拠って立つ原則をしっかり持つことと モノゴトの本質を見つめていなければ 人生を大きく誤ることになるのだろうが、実はそれを実践することは 非常に困難なことであるのが現実だ。
個を確立し、まじめに生きること、その結果 悲劇に襲われるのであれば、それは運命と諦める以外に仕方ないことと覚悟することも必要かも知れない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )
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« アメリカ型市... 市場原理主義者 »
 
コメント
 
 
 
はじめまして (makaron_2008)
2008-10-16 22:08:51
私も
城山三郎の
落日燃ゆ
読みました。

個人的に
城山氏と広田弘毅のファンです。
 
 
 
Japanese (noga)
2010-11-27 06:01:56
日本人には、意思がない。が、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
英米人は恣意の人を相手にしない。
'Shame on you!' (恥を知れ)と一喝して、それで終わりである。
恣意の人は、子供・アニマルと同等である。

子供・アニマルの状態になるのは、日本人としても恥ずかしいことである。
だから、普段は胸のうちに秘めている。
いずれにしても、腹の底にたまっていて、公言できない内容である。

言葉にするのをはばかられる内容であるから、言外の行動に出る。
それで、本人は、わけのわからぬ暴動を起こす。
この問題に対処するには、本人のリーズン(理性・理由・適当)を理解するのではなくて、周囲の者の察しが必要である。
察しは、他人の勝手な解釈であって、本人の責任とはならない。

その内容を「真意は何か」と言うふうに、本人に問いただすこともある。
言外の内容は、言語を介しては通じにくい。腹を割って話さなくてはならない。
日本人といえども、恣意の内容は公言をはばかられることである。
恣意の実現のためには、赤子になったつもりで、皆の衆に甘えさせてもらうものである。
こうした人情話をするには、是非とも談合が必要である。

英米人は、リーズンを求めている。
英語で答えるときは、リーズナブルな内容を提出しなければならない。
以心伝心・言外の内容などを求めていない。
'Be rational!' (理性的になれ) にも、'Shame on you!'にも意味がある。
日本語の理性には意味はなく、恥も英語の内容とは違ったものになっている。

だから、英文和訳の方法により英米文化を取り入れることは難しい。
日本語による英語教育の振興にも限界がある。


http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


 
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