山に登る間は、「修(修行)も無し、成就も無し」とは言えません。
既に登っていて山頂に達すれば「修(修行)も無し、成就も無し」ということは
出来ると思います。
「末世の衆生のために仮りに方便をときたまえ」という文言(もんごん)が
円覚経にありますが、此の「仮りに」とは、修行する方便を「仮りに説く」
という意味です。
ですから、戒法保つとか、坐禅をするとか、これらは皆「仮り」です。
何故かというと「本来成仏」だからです。
各々が世に現われる時には、円覚即ち真如が根元で現われて来たのです。
円覚即ち真如が無ければ現われて来ることは出来ないのです。