絶えず相対的な考えでもって坐っていたのではいけないのです。
「法」 としては、いつでもどこでも、何をしていても「法」から
はずれることがありません。
しかし、「自分は何故それがそうと気が付かないのか」 という
「問題意識」 を自分で持っている必要がある訳です。
「なるほど、そういうものか」 ということで、自分の頭で考えている
だけではいけないのです。
かの有名な趙州(じょうしゅう)禅師でも 「法」 が分からない時が
あったのです。
ですから、お尋ねになったではありませんか。
だからわかったのです。
「知にも属せず、不知にも属せず」 ということが。
「今の自分」 の一呼吸一呼吸、「見聞覚知(けんもんかくち)」
するものというのは 「知にも属せず、不知にも属せず」 して、
ものが見え、聞こえ、考え、知り、呼吸が出来ているでは
ありませんか。
「今の自分」 はわかるわからないに関係なくものが見え、聞こえ、
考え、知り、呼吸が出来ているではありませんか。
そういう自分というものを、はっきり見極めること。
それが 「禅」 です。