活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

問題意識3

2016年08月21日 | 法理

絶えず相対的な考えでもって坐っていたのではいけないのです。

「法」 としては、いつでもどこでも、何をしていても「法」から

はずれることがありません。

 

しかし、「自分は何故それがそうと気が付かないのか」 という

「問題意識」 を自分で持っている必要がある訳です。

 

「なるほど、そういうものか」 ということで、自分の頭で考えている

だけではいけないのです。

 

かの有名な趙州(じょうしゅう)禅師でも 「法」 が分からない時が

あったのです。

ですから、お尋ねになったではありませんか。

だからわかったのです。

「知にも属せず、不知にも属せず」 ということが。

 

「今の自分」 の一呼吸一呼吸、「見聞覚知(けんもんかくち)」

するものというのは 「知にも属せず、不知にも属せず」 して、

ものが見え、聞こえ、考え、知り、呼吸が出来ているでは

ありませんか。

 

「今の自分」 はわかるわからないに関係なくものが見え、聞こえ、

考え、知り、呼吸が出来ているではありませんか。

 

そういう自分というものを、はっきり見極めること。

それが 「禅」 です。

 


問題意識2

2016年08月20日 | 法理

「目醒める必要なんかいらないじゃないか」 と、自分で決めてしまえば

それが 「我見」 というものです。

 

「我見」 でもって、自分の方向を定めているではないでしょうか。

しかし、「我見」 がなければ 「目醒めること」 は出来ないのも真実です。

 

問題は人の言葉の中で修行していくのではなくて、地に足の着いた

自分の問題として考える様にしてもらいたいのです。

 

おシャカ様を始め、歴代の覚者の中に真意を探り、言葉を捉えても

無駄な事です。

 

自分の問題に徹することが仲々出来ないのは、自分以外のところに

「解決(道、悟り)」 を求めているからです。

 

「問題意識それ自体が道である」 と承知してもらいたいところです。

 

要は 「問題意識」 だけに成って、考えて考えて、考え尽くすくらいに考えて

もらいたいのです。

 

何故ならば、「覚者の道」 は 「私たち(自分)の道」 ではないからです。


問題意識1

2016年08月19日 | 法理

どんな状態でも、総て 「道」 ならば、何故敢えて 「道」 を

求めなければならないのかと、疑問に思う人があるかもしれません。

 

一般的には、「自然(しぜん)」 に出て来るものは総て 「道」 ではないか

と思うものです。

 

しかし、「自然(しぜん)」 ということは、もうすでに人間(にんげん)的考えなのです。

 

以前にも詳細に記述しましたが、仏教では 「人が生じる以前、人の認める以前」

の自ずから道理にかなっていることを 「自然(じねん)」 といっています。

 

又、何でも 「道」 なのだから修行しなくてもいいじゃないかと

思う人があるかもしれません。

 

しかし、「無いものを有ると、錯覚を起こしている」 からこそ

目醒めることが必要なのです。

 

例えば、動物でも「道の真っ只中で生活を営んでいますが

「道」 に目醒めることは出来ません。

 

総てが 「道」 であるということは 「覚者」 でなければわからないことです。

 


説法とは

2016年08月18日 | 法理

「説法」 というのは 「法の要」 を説くことです。

しかし、その要が説かれない為に今日の宗教界の様相を

さらけ出してしまいました。

 

今では、「法要」 というと仏事でお経を読むこととか、

亡くなられらた方の葬儀が営まれる時だけに使われる言葉に

成ってしまいました。

 

しかし、本来、仏事は 「仏の事」 と書き、法要は 「法の要」 と書くように

仏事や法要、葬儀などあらゆる 「縁」 をとらえて、そういう場所で

宗教者は 「法」 を説くのでなければなりません。


よく信じる2

2016年08月17日 | 法理

「此の物、今の状態(事実)そのものが法であり、道であり、

禅であり、仏教である」

というように、おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々が、

もう明確に示して居られるのです。

 

「結論を先に出して居られる」 のですから、「私たち(求める側)」 としては、

「何故自分がそのことを、そのこととして本当に自分のものにならないのだろうか」

ということだけに、「問題意識」 を持って頂きたく思います。

 

どうか 「自分以外のところ」 に 「法(道)」 を求めない様にして頂きたく思います。

他に求めても求められる求められることは有り得ません。


よく信じる1

2016年08月16日 | 法理

新しい方(法を求める方)にまずよく信じていただきたいことがあります。

それは、おシャカ様が

「法(道)というものは、どこにでもあるものだ、いつでもあるものだ」

というふうにはっきりお示しになったということです。

 

そして、おシャカ様の教えに従って修行した人が、そのことを

「成る程、そうだ」

と悟られたということです。

 

「法(道)を求める人」 がそのように悟られたのです。

そして、こういう 「法、道、仏教」 というものが伝わってきて

今日に至っているのです。


二つの迷い

2016年08月15日 | 法理

「迷い」 とは、「感情」 によって迷う自分と、「道理」 に因って迷う自分という

二つがあると思います。

 

長い間修行して 「理(道理)」 が分かってくると、「理(道理)」 に迷うものです。

 

一応 「理(道理)」 は知らなければなりませんが、「道理に迷う愚かさ」 という

そういうことのないようにして頂きたいと思います。

 

「感情の迷い」 というのは、竹を割ったように後に引かなければいいのです。

又、「怒り」 が出た瞬間にその怒りとともに(自他ともに)そういう感情が

なくなればよいのです。

 

ところが、すぐ後に 「だけれども云々・・・・・」 というものがついてきてしまう

ものなのです。

 

そうなると、「真の懺悔(さんげ)」 にならないで 「六道輪廻(りくどうりんね)」 が

始まるわけです。

 

ですから、「思い出さずに忘れずに」 というお示しのように、

「不断の精進」 を心掛けて頂きたいと思います。


何故か3

2016年08月14日 | 法理

「何故か」 ということは、これから何らかの方法で、

そのことを解明していかなければならないと受け取られやすい

一面があります。

 

しかし、「何故か」 という疑問が起こる原因は、最初に

「何故か」 というものが原因になっているのです。

 

その 「何故か」 という原因は既に 「結果」 です。

これを仏教では、「因果一如(いんがいちにょ)」 といいます。

 

「道」 もその通りです。

「道」 というものは、すでに 「目的・結果」 です。

「目的・結果」 ですから手段でも方法でもありません。

 

したがって、「道」 を行ずれば、それが既に 「道の人」 なのです。

しかし、その 「自覚」 がなければ、今 「道」 に因って

「自己の正体」を見極めなければ、一生見極めることが出来ない

ということです。

 

ですから、すべてにおいて、「当たり前のことを、当たり前のこと」 として

其の物、其の物に成り切るように務めて、油断なく日常生活を

送って頂かなければなりません。

 


何故か2

2016年08月13日 | 法理

「ものと一体に成る」という言葉を聞くと、先にそういう

「観念」をつくって、「今一体と成った」と思い込むことが

ありますが、それは「一体」では、ありません。

 

思った時はもう一体から離れて、そういう状態を眺める

自分が残っているということなのです。

 

「何故か」ということを問題にして坐らないといけないのです。

それが、「現状公案(げんじょう こうあん)」です。

 

「何故か」ということは、「何故か」だけでもう解決している

わけですから、他に解決のしようがありません。

 

別の言葉で言えば、「疑問は疑問で解決しなければいけない」

のです。

 

「何故か」ということを「何故」思わなければならないのか、

「何故」しなければならないのか、

徹底して「何故か」だけに自分が成り切っていられるかどうかが

修行の方向でなければなりません。

 


何故か1

2016年08月12日 | 法理

おシャカ様の説かれた「法(悟り)」は、時代に関係なく

「平等」と「差別(しゃべつ)」を説いています。

 

すべてのものが「平等」と「差別(しゃべつ)」から

成り立っているのです。

 

「善悪」や「好悪(こうあく)」の判断も

「平等」と「差別(しゃべつ)」なのです。

 

いいと思えば喜び、悪いのは嫌だというのは

「差別(しゃべつ)」があって「平等」がないということなのです。

 

「禅」はいいものも悪いものも持とうとも思わないし、

放そうとも思わない、両方とも忘れなさいという考えです。

 

私たち衆生は、「悟り(平等と差別)」を離れた生活は出来ません。

つまり、自分の存在するということが、「悟り(平等と差別)」なのです。

 

私たち衆生は、色々な「縁」に因って存在していますが

自分存在していることに気が付いたことはないはずです。

 

気が付かないのにちゃんと「人」としての営みをしています。

「今の自分という、これほどの事実」が在るのに、その外に

「悟り」を求めるからわからなくなるのです。