「何ぞ無生慈忍の力を表せん」
というお言葉があります。
謗るということが無かったならば何ぞ
「無生慈忍の力」 を表することが出来る
のだろうかという意味です。
「慈忍の力」 とは、「慈悲忍辱力(じひにんにくりき)」
ということで皆菩薩の願力(がんりき)です。
世の中に謗ることがなかったならば
菩薩方は、「慈悲忍辱」 の願心を起こさせる
必要が無いのです。
謗ることがあるから、菩薩方は此の願いを
表わして世の中を救われるのです。
「無生」 とは、「無生無我」 で変わらないということです。
いまいましいと思えば 「無生」 とはいえず、
「有生(うしょう)」ということになります。
「無正無我」 は 「不生不滅」 といって
「空」 のことです。
「法の根本」 は 「空・無相」 ですから、菩薩は
謗りがあったからといっても常に
「常空」 に住して、少しも「怨親」を
起こさないのです。
それが、「忍辱力」 です。
却って謗るものを憐れむ、
そこが 「慈悲」 なのです。
そこで、「菩薩」 も 「人」 が謗らなければ
此の力を表わすことが出来ないのです。
謗りがあるから、菩薩に此の力が願われて
菩薩の菩薩たる處が顕れるというものです。