「仏見(仏様の言われること)」 に随わない限りは、言い換えれば
自分というものを認める相対的な判断を失くさない限り
どのような見方をしても誤ってしまうというのが
「一水四見」 という教えです。
私たち衆生がいつまでも 「一水四見」 の考え方や見方をしていると
どんなに坐禅に一所懸命になっても 「惑業(わくごう)」 という
「事の是非を取り違えた料簡、即ち悪業」 が相続されていって
そこから逃れることが出来ません。
そして、他で得た知識でおシャカ様や歴代の覚者の法を
自分なりに解明しようとしたり、自分なりの判断から
「坐禅(法)を分かった」 とか 「坐禅はよいことだ」 と
思ったり語ったりするという間違いをおかしてしまいます。