「人身(にんしん) 得(う)ること 難(かた)し、仏法 値(お)うこと 希(ま)れなり」
というお示しが、道元禅師の正法眼蔵にあります。
人間(にんげん) に生まれてこないと、同じことを同じように行っても
それが何のことか分からないから救われないのです。
ところが人間はそういうことを知(識)ることが出来るのです。
知識があるし思う力があるからです。
すべてのものを観察することが出来るから、正誤の方向を
見分けることが出来るし、自分で行うことが出来るのです。
そして自分で 「自覚」 することが出来るのです。
そこに人間として生まれて来た由縁があります。
「仏法」 というものは、創り手はいないし、創られた者も
いないのです。
知らず識らずに出来たのです。
その知らず識らずに出来た(生じた)ということ自体が
創り手も創られ手もない 「因縁の関係、不知不識生」 において
「法」 が 「法」 として作用したのです。
ですから 「此の物(自分自身)は作用体」 なのです。
「此の物(自分自身)」 は 「法」 として 「人間(にんげん)」 といわれる
構造としての「因果関係においての産物」なのです。