「生死(しょうじ)」とは一つの「公案」です。
「公案」とは「どんなにしても犯すことの出来ないもの」
というものです。
「生死、生死にあらず」という公案で悟った人がいます。
生死自ら生死と言わず、生死と一つに成るから「生死、
生死にあらず」という公案に透れるのです。
一つであれば生死とはいいません。
二つになるから「生死」なのです。
「生死」に実体がなければ「涅槃」です。
それをよく知(識)らなければなりません。
「田の草を 取りてそのまま 肥しかな」という道歌があります。
この通りです。
自分の妄想、思想が「生死」を認めるのです。
「生死」は「因縁和合」で出来るのです。
例えば「い」の字のようなものです。
「いの字」は偏にもなく旁にもありません。
因縁の外に実体はないのです。
実体があるものと思うのが「迷い」です。
「縁起」とは「空」です。
「空」とは絶大なものです。
「縁起」が分かれば煩悩はないのです。
何事も前世からの因縁であると、「観念する」
「諦める(明らめる)」のです。
思想というものは妄想です。
ただ「生死のまま」であればそれでよいのです。