「観念」と「事実」が相対的に有(在)るということは「自分自身(自我意識)」が残っているということです。
自分が無くなってしまうと、たくさんの「法」が有(在)ったとしても「差別(しゃべつ)のまま全てが平等」なのです。
全てが「平等」なら「差別(しゃべつ)」というものが無くなって本当に「一切の物が無くなる」のです。
当然、「だったら無くなったということが分かるのではないか」という疑問が出て来ます。
ですから、それを分かるために貴方も「修行(坐禅)をしなさい」と、歴代の覚者はいうのです。
そうすれば「分からないことということも分からないままに頷けることが有(在)りますよ」といっているのです。