ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。
「此の物自体」には名称は有(在)りません。
「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。
本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。
何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。
「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。
別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。