私たち衆生が自分自身でしている行為(見る、聞く、味わう、思う等々)に何となく物足りなさや不満足が残るというのはこれは全て「自我の介在」があるからです。
それはまた「本来の自己と一つに成れていない」ということなのです。
本当に見た、本当に聞いたという様子は、見たもの聞いたものが完全になくなった様子をいいます。
仏教では「空」と呼んでいます。
私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という縁に因って必ず「本来の自己」に目醒められる時節があります。
「悟りを開いたという人」は何方でも必ず「六根の縁」に因って「本来の自己」に目醒めているのです。
「おシャカ様の宣言」は「どんなもの(自分を含めて一切の衆生)でも仏でないものはない」ということなのです。
別のお経の中で、「私たち衆生は仏そのものである」といわれたのです。