私たち衆生は、いつのまにか不知不識に「此の物を自分だと認識」してきました。
しかし「此の物」は自分ではありません。「衆生」なのです。
「衆生」とは「六道(りくどう)を輪廻する存在」なのです。
「此の物」は「象徴」に過ぎません。
そこで「此の物という象徴」と「本来の自己」との隔たりを失くさなければなりません。
問題は「すでに一体であり、一つのものであった」ということを「自覚」することです。
「私が目醒める」ということではありません。
「此の物が縁そのものに成る」ということです。
おシャカ様の最後の説法の一節に「仮に名付けて身と為す」という文言(もんごん)があります。
ですから、「此の物」を名付けて「此の身」と称するのです。