仏道というのは、仏教(仏の教え)を、「聞思修(もんししゅ)」-聞いて、
あるいは読んで、よく考えて実行に移すことです。
実行するというのは「仏法僧の三宝(さんぼう)」に帰依することです。
つまり「同化」するということですが、自分(自我)があっては同化はできません。
ですから、自分の思うことを仏の法によって判断していくように努めて
いただかないと「実相は無相」というおシャカ様の教えを、世界の相対認識の
教えに合わせようとしても、これはとても無理なことです。
仏道というのは、仏教(仏の教え)を、「聞思修(もんししゅ)」-聞いて、
あるいは読んで、よく考えて実行に移すことです。
実行するというのは「仏法僧の三宝(さんぼう)」に帰依することです。
つまり「同化」するということですが、自分(自我)があっては同化はできません。
ですから、自分の思うことを仏の法によって判断していくように努めて
いただかないと「実相は無相」というおシャカ様の教えを、世界の相対認識の
教えに合わせようとしても、これはとても無理なことです。
「本来整っているのに何故、整わせていかなければならないのか」という
ことの方が問題にならないといけないわけです。
「いわれたからやる、こうしなさいというからその通りにやる」ということ
だけでは「この道」というのはなかなか成就するものではありません。
「道が成就しない」のは、「問題が自分の問題にならない」という事が一番の
「元」になっていると思います。
「調息の法」というものがあります。
これは「息を整える」ということです。
それは「自分の計らい」でもって呼吸を調えていかなければならない
ということではありません。
一応、自分を用いて「道」を修していくことも必要な時期もあるわけです
けれども、自分の考えでもって「こうしていかなければならない、ああして
いかなければならない」という意味での「整える」ということではありません。
「此の物」は「自受用」なのです。
皆「此の物、私(わたくし)」の働き(活動)なのです。
他のものではないのです。
何方のものか、あなた以外のものがあるのではないのです。
別の言い方をすれば、あなた以外にものがあるのではないのです。
そういう自分を自分で体得してみる必要があるのです。
「私(わたくし)」というのは「此の物(これだけのもの)」が「私(わたくし)」
かと言ったらそうではありません。
ことごとく環境といわれるもの、即ち六境です。
「色、声(しょう)、香、味、触(そく)、法」ということです。
この「六境(環境)」と一つに成って自由に活動するように出来ているのが
「私(わたくし)、此の物」なのです。
皆そうなのです。
どこへ行っても行った先で環境に適合するように出来ているのが「私(わたくし)、
此の物」なのです。
皆そうなのです。
どこへ行っても行った先で環境に適合するように出来ているのです。
今の自分が自分を使っている様子を「自受用(じじゅゆう)」といいます。
ですから「此の物」は四大そのものの結合体としての作用体なのです。
この中に「種」はないのです。
みんなこの「四大」が結合しただけなのです。
「此の物」は一切の活動をしながらどんなに作用しても何にも作用した
跡形はないのです。
きれいさっぱりと只、その時その時に活動して、そして活動しっ放しで
終りです。
そこに「宗(しゅう)に帰す」という「無生」といわれる「法自体」の動きが
あるだけなのです。
「地水火風」とは「四大(しだい)」のことですが、詳しくは旧稿「地水火風」
及び「人間(此の物)の構造1.2」を参照して頂きたいと思います。
すべては「一々の法(六根と六境との関係)」において活動するのです。
六根は六根自体として耳は耳の活動をし、鼻は鼻の活動をし、各々が各々の
分野を保って、そしてついにそれを犯さずに純粋に活動しているのです。
しかし、「四大の性」というように「地水火風」この四つの条件において
「仏法」ではすべてのものが皆構成されているということです。
それ以外のものは何もありませんということなのです。
「そこ(化城)まで」行けば「仏道」「法」「修行」といわれるものも
不必要であったということに気が付く分けです。
ですから、「実相は無相なり」これを自分の求める目標としてよく定めて
いただかないと、迷いながら修行をしていることになります。
しっかり、「目標を設定して修行」して頂きたいと思います。
学問としては「一つの点を認めない」と研究になりません。
仏道の「空」「無」ということもそうです。
最初から「空」「無」ということがあったわけではありません。
私たち衆生に「法」というものを分かってもらいたいために「空」「無」
ということを立てて、「化城(けじょう)」という幻のお城をつくったのです。
「成る程、すべてのものは縁起によって生じているので、中心になるものは
何もないんだ」ということを、知っていただきたい為に立てられたのです。
私が「因」であり、あなた方が「縁」なのです。
あなた方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」です。
即ち、私たち衆生は境遇に満足して安住せざるを得ないのです。
全く私たち衆生はひとつのものです。
「空」ということはひとつのものということです。
離れることはどうしても出来ないのです。