おシャカ様は、自分という者は本当に如何あるべきなのだろうか、如何あるべきなのが本当の様子なのかと、疑問にされてそうして出家されたのです。
そうして六年間「難行苦行(なんぎょうくぎょう)されたのです。
ところが「難行苦行」してみても、何も得る処が無かったということが「難行苦行の結論」だったのです。
おシャカ様は、自分という者は本当に如何あるべきなのだろうか、如何あるべきなのが本当の様子なのかと、疑問にされてそうして出家されたのです。
そうして六年間「難行苦行(なんぎょうくぎょう)されたのです。
ところが「難行苦行」してみても、何も得る処が無かったということが「難行苦行の結論」だったのです。
「自分で自分が生まれたという事」を、知っている人があるでしょうか。
おそらく無いのではないでしょうか。
「無いのが必然」なのです。
この必然として自分で生まれた事を知らない者が、知らないなりにそうして出て来て、何も知らない世界で「知らず識らず」に、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。
そうして出て来て何も知らない世界で、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。
そういう大きな問題に、目を注がれたお方がおシャカ様なのです。
おシャカ様は、人類史上初めて人間が、人間を救い得る事が出来る事を、見出されたのです。
そうして、「その救われた事実」を伝えられ、そうしてそれを実行せられた人々(歴代の覚者と言われる人々)は、必ず皆自分を自分で救われたという事が、はっきり自分で頷けたのです。
「おシャカ様のお示し」とは、そういう「法(道)」であるという事です。
「仏教」という物は、人間の都合で作り上げたような、教えではありません。
「私たち衆生の本質その物を、本当に知ってもらうという道」です。
「今の事実」は、私たち衆生の本質的な物を、そこにえぐり出して、おシャカ様や歴代の覚者方と言われている祖師方と、同じ世界に同じように生きている事が、「今の事実」であり、皆「立証」されるのです。
「今の事実」をもって居ながら、私たち衆生は何処かに、「法(道)を尋ねているのです。そういう処に間違いがあるのです。
それを本当に正されたのが「おシャカ様のお示し(仏教)なのです。
おおよそ人間は「人間同士」として、「自我」と云うものを認めて、日常生活を営んでいます。
そのような「自我を認めた世界」へ、「自我を認めない人」が出現したのです。
何故多くの人間にとって、諸々の事に対して苦悩が生ずるのでしょうか。
それは先入観念に取り付かれて、「今の事実」がはっきりしないからです。
そういう事を、おシャカ様ははっきりお示しになられたのです。
私たち衆生の日常生活としての実質な生活と言えば、「今の事実」「今の瞬間」にしか、有り得ません。
それは何故かと言いますと、私たち衆生には、永続的な実体と云うものが、有り得ないからです。
おシャカ様の知恵からすれば、今の私たち衆生の本来の姿は、何時何処で何をしていても、きちんとした日常生活が、誰にでも出来ているという事なのです。
おシャカ様は何を中心に捨てられたのか言いますと、おシャカ様のそれまでの修行と云うのは、自己中心だったのです。
それでは「真実とは何か」「自己とは何か」という問題は、どんなにしても、解決しなかったのです。
そこでこの問題が解決しなければ、どうしようもないではないかと思い、自己中心の考え方を全て手放されたのです。
手放してみたら、何時の間にか、本当に「自我心」と云う、ものの無い世界に入っていた事に、気が付かれたのです。
それに気が付いてみたら、今まで人間が「自我」を認めていた為に、余計な苦労をしていた事に、気が付いたのです。
おシャカ様の「道」を得られるまでの苦労というのは、「真実」とは何か、自己とは何かという事の、追究だったのです。
人は知らず識らずに修行と称して、身体や心を苦しめてしまうものです。
おシャカ様も、気が付かれなかった頃は、そういう「無駄な苦労」を、なされたのです。
それが「本当の道」のように思われておられたのです。
然しおシャカ様はそれが大間違いであることに気が付かれて、今迄の教えを全部捨てられたのです。
「真実(事実、法、道)」というものは「考え方(認識)」の先にあって
「考え方(認識)」を起こした時は、「真実(事実、法、道)」というものは
なくなってるのです。
・誰も皆 我がものと見てとって そっと程よく扱へよ君
・尋ねても 尋ねあてぬぞ道理なり 尋ぬる人が尋ねらるる人
それからそれを「土台」にして「発展(生長)」して「生活(活動)」している
のが私たち衆生なのです。
それが今になってから「真実(事実、法、道)」に対して「迷い(疑問)」が生じて、
それを考え方をもって、「解決(解消)」しようとするから、ますます分からない
ようになるのです。
何故ならば「真実(事実、仏、道)」は「体感の次元」であり「考え方(認識)」は
「思考の次元」だからです。
本当に「真実(事実、仏道)」に成ってしまえば、自分をも含めて何もない
のが本当です。
私たち衆生は何気なく日常生活を送っていますがその事に満足が得られない
ものです。
何故、満足が得られないのかというと、「子供の時分に物心が付いた」から
です。
「物心がどうして付いたのかと言うこと」は誰一人として分かりません。
「物心が付いた途端」にどんな人でも皆そうなるのです。
これは「人間の本性(ほんしょう)」なのです。
「法の働き」です。
それを「認識」というのです。
「識」を初めて認めたのです。
子供自身には物心が付いたという「自覚」がありません。
それですから「無明の煩悩」と言われているのです。