たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

訃報

2013年09月09日 | 日記

昨日の朝、中学のひとりの同級生から同窓会欠席電話があった。
8月の終り千葉に住む彼の二男がくも膜下出血で倒れ急逝したという。まだ50歳に届く直前の年齢で、在所の甥坊と同級生だとか。

大阪に本社のある某建設会社に勤めていたが、週末に帰宅入浴直後、「気分が悪い、救急車を呼んでくれ」と家族に言い倒れ、救急車が来た頃はもう絶命したらしい。

大学と高校在学中の子がいると。級友は急なことで葬儀など任され、慣れぬ異国の地でどうしていいか途方にくれた、全く変わり無い死に顔を見ていたたまれなかったと泣いた。

勤めていた会社に貢献度が大きかったとかで、社葬で送ってくれた、在所の親族は飛騨から遠い千葉までマイクロバスを仕立てたと、後で自分の姉に電話した際聞いた。
お気の毒に。動転するだろう。ご冥福を祈る。合掌

女人は連れ添いに一朝事あるとき、子供を養育自活できる、何かの資格を身につけよ、職業選択せよと、何かで読んだ。

"それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとく一期(いちご)なり、・・・・されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨となれる身なり、・・。”

浄土真宗中興の祖、蓮如上人の「お文」の一節が、がんがんと鳴り響いた。