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レジェンド The LEGEND (3)

2009年08月20日 | 風の旅人日乗
ビジネスマンとして。


 Fの競技セーラーとしてのキャリアは、1964年10月を境に、プッツリと途切れる。

 不本意な成績に終わった東京オリンピックが終わると、それまでの10年以上セーリングに没頭してきたことの反動が来た。オリンピックでの予期しなかった惨敗のショックが尾を引いたこともあっただろうし、オリンピック前にヨット部内のレギュラー選抜にまつわる軋轢を経験してしまったことも原因だったかも知れない。Fの心は、東京オリンピックが終わるとともにセーリングから離れていった。Fは32歳になっていた。

 葉山の鐙摺港に通うヨット部中心の生活に区切りを付け、Fは、社業の主軸であった遠心分離機の製造工場に転属した。そこでの勤務を3年半経験した後、営業畑へと進んだ。Fはセーリングへの未練を断ち切ろうとするかのように夢中で働いた。自分でも気が付かないうちに会社経営のトップへの道を歩き始め、いつの間にかT工業の社長にまで昇り詰める。そしてそのポストを8年間務めたあと、相談役に退いた。
 
 T工業の会社人としてのFの経歴を振り返るとき、入社から正味10年足らずのヨット部選手時代は、Fの会社在籍年数からすれば、時間的には僅かな時期に過ぎない。しかしFにとって、その10年間は人生の中で掛け替えのない時間だった。セーリングに夢中だった頃の話を披露するFの顔から、そのことが伝わってくる。

 セーリングに没頭し、オリンピックという大きな目標に向かって邁進する時間を持ったことは、Fのビジネスの場で役に立つことも多かった。

 あるとき、社長として海外に出張し、仕事相手との丁丁発止の商談が紛糾しそうになった。
 そして、互いの部下を別室に退けて、伸るか反るかの一対一のトップ会談になったとき、ふと相手から「ところで、あなたはセーリングでオリンピックに出たことがあるんですって?」という話題が出て、しばし話はセーリングの話に逸れ、そこから話がほぐれて、その難しい商談がいつの間にか成立したのだという。

 取り引き先には世界一周レースに出たこともあるという経営者もいたし、転勤する時に自分のヨットに乗ってアメリカからヨーロッパの本社に戻ったという猛者もいた。欧米のビジネス社会では、セーリングは共通語であり、商談の緩衝材にもなれば相手の心を掴むキッカケにもなる。そのことを、Fは身を持って経験してきた。
 東京オリンピックを境に遠ざかってしまった競技セーリングの世界と、それに一所懸命に関わっていた時間を、Fは今でも深く愛しんでいる。


丘の上のレジェンド。


 Fは、現在の日本では無名のセーラーだ。三浦半島の丘の上に広がる住宅地をのんびりと散歩しているFを見て、彼がかつてオリンピック選手だったと思う人はほとんどいないことだろう。だが、Fは正真正銘の一流セーラーであり、かつての黄金期の日本セーリング界を現役として牽引した中心人物の一人である。

 ぼくは、Fのようなセーラーに接するとき、ハワイのサーファーたちの世界に存在する『レジェンド』という言葉を思い浮かべる。

 ハワイアンのサーフィンの世界で『レジェンド=伝説』は、時代を超えて尊敬するに値する偉大なサーファーに対する敬称である。伝説の大波に乗った勇者であり、また人格者でもあると認められたサーファーには、たとえ彼が老いて海に出ることができなくなっても、新しい世代のサーファーたちは畏敬の念を持って接する。レジェンドが何かを語るとき、若いサーファーたちは真摯な態度でその話に耳を傾け、人間としての生き方や、海や波乗りの本質に関わる何かを学び取ろうと努める。

 F自身や、1960年代の日本の海で、世界を目指してセーリングしていたセーラーたちの何人かは、日本のセーリング界にとって、紛うことのないレジェンドだ。Fに接し、Fの控えめな言葉で語られる当時のセーラーたちの話を聞いているうちに、ぼくはごく自然にそう思えるようになった。

 彼ら日本のレジェンド・セーラーたちがセーリングに対して示してきた愛情や、彼らの生き様そのものから、自分は何を学ぶことができるだろうか。
 そのことを、いつも自分の心に問い掛けていようと思う。
(終わり)