Dec.14 2005 2月までさらば沖縄

2005年12月15日 | 風の旅人日乗
12月14日 水曜日

サバニ合宿最終日。
楽しかった(時々辛かったけど)サバニ合宿も今日で終わり。
午前中2時間、総仕上げの練習。その後そのまま、セーリングと漕ぎで、座間味港を出て、座間味村のサバニ艇庫に近い阿真(あま)港に向かう。『マリリンの像』のある宇論の崎をセーリングでかわすと、風が前に回ったのでセールを降ろし、4人で漕ぐ。

向かい風の中を、狭い阿真港にスムーズに入港、きれいにスロープに横付けする。そのことに自分で感動。
一週間前、この港を出るときには、自分がエーク(櫂)だけでこんなにスムーズにサバニを操れるようになるとは思ってもいなかった。昔の日本人の海の技術に、一歩近づけたようで、とても嬉しい。

4人でM丸を引っ張り上げ、艇庫まで押していき、簡易クレーンでラックに載せる。次にこのサバニに乗れるのは2月後半の第2次合宿だ。
それまでイメージトレーニングを続けるために、エークを一本持ち帰ることにする。

昼食を食べ、荷物をまとめて午後2時過ぎフェリー座間味に乗り込む。島の人たちが見送ってくれる中を出港。なんとなく名残惜しい。
船でしか行けない島での、連絡船の出港風景は、何か格別の意味がある。かつて、小笠原の父島で暮らしていたときのことを久しぶりに思い出した。

那覇までの海は大時化だった。昔の人はこんな海でもサバニを出していたのだろうか。今の自分たちの技術ではとてもこんな海をサバニでは走れない。今日の午前中、ちょっと天狗になりかけていた自分を恥ずかしく思う。まだまだである。

午後4時半、フェリー座間味が那覇の泊港に到着。ここで首里の自宅に帰るYオーナーと別れ、Uとタクシーで、シーカヤックガイドのOが経営するショップ兼事務所のSに向かう。

Sは空港のすぐ近くにある。夕方7時の飛行機までの時間、そこで泡盛を飲みながら、次回合宿の作戦会議をするのだ。
Oが島ダコを茹でてつまみを作ってくれ、従業員のS君が泡盛に氷を入れてくれる。今回、足掛け8日間過ごした沖縄最後の時間が平和に過ぎてゆく。

午後10時前、羽田空港駅を発車直前の京浜急行・新逗子行きに運良く乗ることができた。今まで8時とか9時に寝ていたので、眠い。蒲田を過ぎると車内がひどく混んでくる。みんな遅くまで起きて働いているんだなあ、ほとんど全員酒臭いけど・・・。

Dec.13 2005 サバニ泡盛武闘派合宿

2005年12月14日 | 風の旅人日乗
12月13日 火曜日

今日も北北西の風。沖縄の冬の季節風だ。
日本列島にはこの冬一番の寒気が入り、日本海側は大雪だそうだ。
ここ、沖縄慶良間諸島座間味島も日中の気温が20度を割り込むという予報が出ているが、水温が24,5度と高いので、水の中に素足で入っても、どってことはない。

座間味サバニ合宿も7日目、風は強いが、セールをリーフして元気に練習。
今日からは島のシーカヤックガイドのM君が加わり、4人で練習。心強い。
午前中、クォーターリーの走りを丁寧に繰り返し練習し、午後は強風でリーチングをいかに安定して走らせるか、に挑戦。

ドカン!と来るパフの前縁を受けるときに、そのパフに対してどの角度にバウを向けておくかが、その後安定して走れるか、否かに繋がる。この点は西洋型ヨットと同じだ。

なるべく舵を使わず、セールトリムのバランスとヒールバランスだけで艇を走らせるともっともスムーズにしかも速く走ることが出来る、この点も西洋型ヨットと同じだ。
だいぶ、不安感なく安定して走れるようになったと思う。

この日は午前中に一度、大きなパフで艇が一瞬大きくヒールし、風下の舷が海水を大量にすくい、あっという間に水舟になった。全員でうまくバランスを取ったので、転覆はしなかった。
次の課題は、転覆したときにどのような手順で舟に乗り込み、再帆走できる状態にもどす、という練習だろう。

これ以外はかなり順調にセーリングし、午後4時半、満足感一杯で、座間味港の一番奥のスロープに戻り、M丸を引っ張り上げる。

明日午後のフェリーで座間味を後にして那覇に戻るため、今日の夜は合宿打ち上げパーティー。お世話になっている民宿N屋さんで、宴会だ。

沖縄の人たちは、「今日は飲むぞ」というときは、まず夕ご飯をきちんと食べてから、宴会の席に向かう。ご飯と飲酒がきっちりと区別されているように思う。そう言えば内地でも、昔のお父さん世代は、仕事の後、家族と一緒に家でご飯を普通に食べてから飲みに出かけていたようにも記憶する。

飲みの席には、みんながそれぞれ泡盛をぶら下げてくるから、当然のこととして大量の泡盛が、宴会の席で消費されることになる。どの泡盛もみな美味しい。


Dec.12 2005 しのびのじしゃく

2005年12月12日 | 風の旅人日乗
12月12日 月曜日

Yオーナーの判断で、本日の練習は強風で危険なため中止。
というか、昨夜寒冷前線が通過して、座間味島もグッと冷え込み(といっても19度だけど)、『今日は、できれば沈(転覆)をしたくない』、という文字がぼくとUの顔に書いてあったようで、それで、Yオーナーも手綱を緩めてくれたのだと思う。

昼間はセールの改造、改良に精を出す。これで明日から更にスピード・アップが望めることと思う。

夜は、3人で泡盛とカツオの刺身を持って、座間味島で「座間味海洋文化館」を営むMオジイに、サバニの話、昔の舟の話を、聞きに伺う。

いろいろと勉強になったが、中でも、とっても面白かった話のひとつが、日本の舟に積まれていた和磁石(舟磁石とも言った)のルーツは、忍者が持っていたコンパスだった、という話だ。

ベテランの忍者はコンパスを懐に忍ばせて仕事(?)をしていて、そのコンパスの文字盤(通常は12支で示している)は、一般の人が分からないように暗号で書かれていて、そのコンパスは、忍磁石(しのびのじしゃく)と呼ばれていたんだそうだ。知ってましたか? 

『しのびのじしゃく』、語感からしてドキドキしますね。伊賀の影丸も持ってたんだね、多分。

Dec.11 2005 サバニとアメリカズカップ

2005年12月11日 | 風の旅人日乗
12月11日 日曜日

この日は那覇から一人、助っ人が来たので、4人での練習。
風は北に変わったが、比較的弱いので、リーチングから上り一杯の走りでの舵取りの練習。
エーク(櫂)での舵取りのポイントが徐々に分かり始めていて、とても嬉しい。しかし、外海で波や突風に瞬時に反応するためには、まだまだ精進を続けなければならない。

ところで、なぜ、ぼくがサバニでのセーリング技術を身に付けようとしているのか、不思議に思う人も多いことだろう。

これは、実は、なんと、ぼくの心と頭の中では、アメリカズカップ挑戦に直結していることなのだ。

「日本独自の海洋文化とその誇りをバックボーンにして、西洋の海洋文化の頂点とも言えるアメリカズカップに挑戦すること」

これがぼくの、2000年に敗退して以来の信念なのだ。しかし、言葉だけで「日本の海洋文化を誇りにして」と言っても、第三者に対しても説得力がないし、その前に、自分自身の心にも訴えるものがない。

現代に残る希少な日本のセーリング文化を伝えるサバニを、本来の乗り方でセーリングする技を西村自身が身に付けていなければ、これから先、どんなに言葉を尽くして「日本のセーリング文化は本来素晴らしいのだ」と訴えても、聞く人は納得してくれないだろう。

つまり、サバニを伝統の方法でセーリングする技術を身に付けることは、ぼくのアメリカズカップ挑戦にとって、避けて通ることが出来ない、極めて本質的な部分なのである。

夜、Yオーナーの知り合いのお宅に招かれ、ビニールハウスの素材で周囲を覆った心地よいテラスで、激しい雨音と風の声を聞きながら、泡盛とスパークリング・ワインのごっちゃ飲み。美味しい。

しかしまあ、どうして沖縄の人たちはこんなにお酒が強いんだろう。

Dec.10 2005 ダウンウインドいい感じ

2005年12月10日 | 風の旅人日乗
12月10日 土曜日

朝のフェリーで、宮古の池間島から助っ人が一人来るかもしれないというYオーナーの予想は、残念無念、外れた。

今日も3人での練習だ。
今日は、いよいよサバニでの、舵なしセーリングに挑戦する。
アウトリガーも付けず、双胴にもせず、本当のサバニの伝統のやりかたでセーリングするのは、現代の、やまとんちゅ(内地の人間)としては初めての体験であるはずだ。

今日の風は、渡嘉敷島の南端をかすめて入ってくる南東の風。結構ガスティーで、最大で20ノットくらいはありそうだ。
朝から夕方まで、昼食時間をはさんで、繰り返し繰り返しダウンウインドのセーリングを練習する。

クォーターリーが結構うまくいくようになったので、一度、バイザリーを試してみるが、ちょうどそのときに最大クラスのパフが入ってきたので、操船不能になり、転覆を避けるために慌ててセールを下ろす。3人だと、こういうときにもう一段階上の冒険が出来ない。

しかし、クォーターリーでは、サバニのものすごいプレーニングを経験した。前の二人は声をあげて喜んでいた。風上に15分以上かけて漕ぎあがった距離を、ものの1分ちょっとで下ってしまう。嬉しいやら、もったいないやら、だ。

この日もいろいろ学ぶことが多い1日になった。

夜は、現在は座間味島でSという酒場を経営する、早稲田大学ヨット部OB(昭和16年入学)のO氏という、ヨットの世界の大先輩に、果てしなくオリオン・ビールをご馳走になった。

Dec. 9 2005 プチ遭難

2005年12月09日 | 風の旅人日乗
12月9日 金曜日

 朝9時、スロープからサバニのM丸を降ろし、練習開始。気温23度。水温は25度。

昨日のフェリーでシーカヤックガイドのOは那覇に戻り、映画プロデューサーのK氏は那覇経由で東京に戻った。これからはオーナーのY氏、シーカヤッカーのU、そしてぼくの3人での練習だ。3人で、長さ9m近いM丸を漕ぎまわるのは辛いが、これも練習だ。

座間味港をぐるりと一回りし、ぼくのエーク(櫂)での舵取りの復習をしたところで、Y氏が一言、
「じゃあ、今日は阿嘉島まで行きましょうね」。
んー、、、。ぼくとUが固まった。阿嘉島は座間味の南隣にある島だが、その間に流れる潮は速く、しかも今日は強い北風。行きはまあなんとかなるかも知れないが、帰ってくるには、大変なことになりそう。しかも、本来は6人で乗る大きさのM丸に、たった3人。しかも、ぼくは昨日初めてエーク(櫂)による舵取りを知ったばかり。
サバニは波を被ると簡単に水舟(舷側が水没し、水を掻き出すはじから水が入ってきて、浮かび上がらない状態)になる。たった3人で、その状態になったときに対処できるのか・・・、
と思ったが、船主の意見に異論を唱える勇気がない。
「ハ、ハイ! では、い、行きますか…、」と語尾を震わせて従う。

結果は、ハイ、やっぱり大変なことになりました。遭難するかと思った。
阿嘉島まで行くのに、全力で漕ぎ続けて1時間15分。ハアハア。
阿嘉島で、船主のY氏は、秘かに用意してきた1000円札をビニール袋から出して、
「ビール、飲みましょうね」
と言って、ビールを3本買って我々に渡し、グビグビと飲んで、
「じゃあ、民宿のおばちゃんがおにぎり作って待ってるから帰りましょうね」。

帰りの航海。これはマジに本当に大変でした。向かい風と強い潮流の中、今度は1時間45分漕ぎっぱなしで、座間味島に生還。ハアハア。一時は、もう座間味島の土は踏めないかもしれない、と思った。
エベレスト登頂に成功し、無事ベースキャンプに帰ってきたような気持ちを、僭越ながら味わえたように思う。

昼食後、2時間ほど倒れたあと、午後3時から5時まで、Yオーナーのもう1隻の超小型サバニ、子M丸での、一人乗り漕ぎの練習を3人で交代で行う。
一人乗りサバニは、基本的には両舷を交互に漕ぐのではなく、片舷だけを漕いで、まっすぐ進ませなければならない。片舷だけを普通の漕ぎ方で漕ぐと、当然、舟は漕いでいる舷と反対方向にグルグル回る。これをまっすぐ進ませるには多少の技がいる。
しかし、以前、南半球のバヌアツ共和国で現地のアウトリガーカヌーを漕いだときに覚えた技を再利用して、結構うまく漕ぐことができ、Yオーナーから合格点をもらった。

夕食後、グッタグタに疲れ、そのまま布団に倒れこみたかったが、沖縄ではそうはいかない、今夜はYオーナーの友人宅に招かれて、泡盛三昧。

Dec. 8, 2005 さばにな日々

2005年12月08日 | 風の旅人日乗
12月8日 木曜日

 朝9時にサバニを海に降ろし、座間味港まで30分ほど漕ぐ。
 合宿初日のテーマは、『舵取り西村』の練習だ。本来のサバニは舵というものが付いてなく、一番後ろの船頭が櫂(サバニでは、エークと呼ぶ)を使って船を右に左に自在に操る。その上、帆走中は、風上側の手でセールを調整し、風下側の手でエークを使って船のコースを操る。今回の合宿のゴールは舵取り西村がその域に到達することである。

 今日は初日なのでセールは使わず、まずは漕いで進んでいる状態で、エークだけでサバニのコースを自在に変えられるようになる、という目標を立てた。
 午前中は、苦戦した。うまくコントロールできるときと、まったくサバニが言うことを聞いてくれないときとがあり、どうしてその差が出るのか、まったく理解できないでいた。
 
ところが、島の古老(子供の頃からサバニに乗り、沖縄本島や久米島まで遠出して米を運んだり漁をしたりしていた人だ)のアドバイスと、糸満のハーリーにも毎年出ているシーカヤッカー、Oのアドバイスが効き、午後からはかなり自由にコースを取れるようになった。真っ直ぐ進むことができるようになり、浮いているブイをくるりと回航できるようになった。嬉しい。K氏とOが午後4時発の高速船で那覇に帰らなければならないので、3時にこの日の練習を切り上げたが、最後の一本は、座間味港の水面にあるクジラのモニュメントの頭と尾っぽの間を8の字で回ることに成功した。非常に嬉しい。
 
それにしても昨晩はよく飲んだ。今回の合宿で使っているサバニ『M』のYオーナーの2隻目の超小型サバニの進水のお祝いも兼ねて、那覇から持ち込んだ泡盛「まいふな」と別の銘柄の泡盛の、計2升を5人(K氏は全く飲めないので実質4人)で飲んでしまった。しかし夕方5時半には宴会を始めたため、10時には布団に入ることができ、そのまま朝8時前までグッスリと寝ることができた。
 
 今夜もまた飲むことになるのだろうなあ。飲む理由は、合宿初日の練習の成功ということになるのかな。取りあえず沖縄では、飲む理由がなくて困ることはない。

Dec. 7, 2005 大恐慌を乗り越えて

2005年12月07日 | 風の旅人日乗
12月7日 水曜日
今日から沖縄の座間味島でサバニ合宿。嬉しいなあ。

朝5時に起き、6時半のバスに乗って、新逗子駅から京浜急行で羽田に向かう。昨日、というか今朝寝たのが2時だったので、えらく眠い。金沢文庫で快速に乗り換えて一安心したところで大事件勃発。トイレ問題だ。それも大。非常に急を要する事態である。朝、時間がなかったので羽田で排出すればいいや、と安易に判断したのがいけなかった。

秒を追って高まってくる緊張の中、少しでも腸内の圧力を下げてみようと、慎重に音を立てずに放屁したら、それがなんと、臭いの何の。自分でもビックリしました。

満員で誰も身動きできない状態の車内に、暴力的な黄色い匂いが漂い流れ、なかなか薄まらない。身近にざわめきが起きたので、他の皆さんと一緒に顔をしかめて周りを見渡し、失敬な犯人を探す振りをした。皆さん、ごめんなさい。

全国の私鉄の中でも際立って飛ばしに飛ばして突っ走る京浜急行が、今日に限ってはひどくノロノロ運転に思える。このまま当初の計画通りに次の乗換駅である蒲田まで行くのはもはや無理であろう、と判断を下し、横浜で降りてトイレに駆け込むことにする。
やっと着いた横浜で降り、重くて大きい荷物(シュラフやキャンプ道具やライフジャケットなどが入ってメチャメチャ大きい)を持って額に脂汗を浮かべ、人ごみをかき分けながら改札口を通り抜けようとするが、パスネット・カードが何回も拒否されて、扉が閉まって通せんぼされる。なんでだー、こんな時にー、と思ってよく見たらパスネット・カードではなくバス・カードだった。これじゃあ通れない。かなり慌てているようだ。

ウン良く、改札口を出てすぐ横にトイレのマークを発見して駆け込んだら、なんということだ、一つしかない個室トイレに先客がいる。
何度もノックをして先客を急かすが、それで気分を害したのか、なかなか出てこない。後ろにもう一人が並ぶ。その人も青い顔をしていて、恨めしい顔で僕のことをチラチラみているが、こっちも余裕がない。「すみません、僕もヤバイもので」と見ず知らずの人に変な言い訳をする。そのうちその人は足をよじり始め手で後ろを押さえている。大変そうだけど、ここで順番を譲ったら、こっちが危ない。

やっと先客が出てきて入れ違いに入りながら、後ろにいる、足よじりの人に「取りあえず一発出して、すぐ交代しますから」と伝えて、ドアを閉めるものもどかしくパンツを下げる。
取りあえず一発出して、すぐにパンツを上げ、ジーンズのジッパーを上げながら出て、交代してあげる。足よじりの人は中に突進していった。いつの間にかその後ろにはもう一人の人が深刻そうな顔をして立っていたが、こっちもすでに第2波の攻撃にさらされているので同情している場合ではない、元々の権利として前に並ぶ。しかし朝の駅トイレはすごいことになっているのだなあ。苦しんでいるのは僕だけではないのだなあ、と、下半身の筋肉が緩まないよう気を付けながら、妙な感慨に耽る。

足よじりの人のはやっぱりかなり危険な状態だったようで、個室の中から、液状のものが大量に噴出しているらしき音が聞こえてくる。今日は朝から他人にとても親切なことをすることができたなあ。
でも僕が2発目の爆弾を抱えて待っているのを知っているのに、足よじりの人は意外と慎重な人だったらしく、時間をかけてじっくりと取り組んでいる。それは困るぞ。
その人はしばらくして個室から出てくると、「ありがとうございました!」と真っ白い歯を見せて爽やかな顔で御礼を言ってくれ、でも手を洗わずにトイレから去っていった。入れ替わりに再び個室に入ると、中の匂いは爽やかではなく、とても臭かった。

第2波の攻撃を処理して、今度はキチンとジーンズの中にシャツを入れ、ベルトもキチンと締めて、やっとそのトイレを後にすることができた。まだ8時前なのに、今日はもう一仕事終えた気分だ。

トイレの入り口で作業をしていた駅構内清掃のおじさんに見ててもらった重くて大きいバッグを再び担ぎ、歩いて横浜のシティーエアターミナルに向う。トイレ問題で遅くなってしまったため、京浜急行はもう通勤ラッシュがピークになっていると思われ、こんなに大きな荷物を持って乗り込むと迷惑だ。当初の作戦を変更して、バスで羽田に向うのだ。

9時ちょっと前に羽田の第2ターミナルの3階にあるコーヒー屋さんに入り、パソコンを広げる。飛行機の出発まであと1時間半。あと2つ仕事メールを送信しておけば、晴れて、1週間の沖縄サバニ合宿に集中できる。

1時間くらいかかってその書き物を書いて無事送信し、横浜で出し切れてなかった第3波を、広くて清潔でウォッシュレットも付いている第2ターミナルのトイレに座って処理しているところに、今回の沖縄サバニ合宿の企画者であるシーカヤッカーのUから、「いま羽田に着いたよ」と電話が入る。原稿仕事も急ぎの物はすべて終え、他の仕事の段取りも1週間先の分まで一応済ませ、朝からわが身を苦しめたトイレ問題も爽やかに解決し、完璧なタイミングである。

 午前10時35分の全日空沖縄行きに乗り込む。冬の陽射しが差し込む窓際の席に座ったと思ったら、そのまま爆睡。
 那覇空港に着いたのが午後1時半、柔らかな陽射し、特有の匂いが混じった風。やっぱり沖縄はいいなあ。

 午後3時発の座間味島行き高速船に乗るために、タクシーで泊港に向かう。
 泊港で、沖縄のシーカヤック・ガイド会社社長のOと映画プロデューサーのK氏と合流して高速船クイーン座間味に乗り込んで、いよいよ座間味島へと出発する。今年の座間味―那覇サバニ帆漕レースでは、前日に相模湾で初島ダブルハンド・レースがあり、その翌日、レース当日の飛行機にしか乗れず、しかもフェリーに乗り遅れて座間味まで行くことができなかった。なので、1年半ぶりの座間味島なのである。阿嘉島経由で、夕方4時過ぎに座間味島到着。

まずは、座間味村の艇庫からサバニM丸を出し、阿真港のスロープから下ろしてみんなで漕いで座間味港に回航。
今日は合宿初日である。となれば、当然前祝である。
泡盛飲み比べの夜が始まる。


Dec. 5 2005 大好きだよわかめ蕎麦君

2005年12月06日 | 風の旅人日乗
12月5日 月曜日

ずっと続く睡眠不足の頭のまま、起きてすぐパソコンの前に座って原稿の最終仕上げをし、それをメールで送って、お昼前に葉山を出て、銀座のM社に行って打ち合わせをし、そのあと日比谷線で神谷町に行き、立ち食い蕎麦屋でワカメそばを食ってから次の打ち合わせをして、どこも寄り道をせずに葉山に戻ったら、もう、きれいな星がまたたいている夜だった。ついさっき、夜が明けたばかりなのになあ。

大時化のシドニー~ホバート・レースの24時間(3回も4時間当直が回ってくる)はすごく長いのに、名刺を持ってペコペコしながら東京を歩く日の、1日の短さに、改めて驚く。

早くこういう準備仕事を終わって、早く海に出っぱなしの人生になりたいなあ。ちょっと前には当たり前だと思っていたその生活を、絶対に、再び手に入れるぞ。

Dec. 4 2005 和か菜

2005年12月04日 | 風の旅人日乗
12月4日 日曜日

レースの予定を生まれて初めてキャンセルした。

7日に沖縄に行く前に、何本かの原稿と2件の企画書を仕上げなければならず、そのためにここのところ夜もろくに眠らないで机にしがみついている。
昨日も半徹夜で頑張ったのだが、沖縄に行くまでの時間を逆算すると、どうしても今日はレースに出ている場合ではないことが判明した。

ウロウロ迷っていたが朝8時前に心を決め、オーナーにドタキャンの連絡。
笑って許してくれたが、心が痛む。しかも仕事場の窓から見ると、海はほぼ無風で、しかも冷たい雨。冷たく湿って霞んだ景色の中に、海面をジワリジワリと動いているセールの群れが見える。つまらなくて辛いだろうなあ。これでは天気予報を見てからのキャンセルと思われても仕方ない。いや実は、ホントは半分、その通りだ。

友人が訪ねてきたので、お昼は家族共々お気に入りの蕎麦屋、Wへ。ここは葉山の山間部。棚田を借景にした窓からの景色が、本当に素晴らしい。ニッポンに生まれてよかったなあ、とシミジミ思う。
でも、世の中に「完璧」というものはなかなか無く、Hカントリークラブからの帰りと思しきオヤジさんが、椅子の上にあぐらをかいて、向かいに素敵な下町姉御風を座らせ、でも江戸っ子の粋と正反対の流儀で、モソモソモグモグと蕎麦を口に押し込んでいるのが気になる。しかし、それはそれでそのオヤジさんの流儀、こちらは見て見ぬ振りをすればいいだけのこと。

真冬のような寒さに、焼き味噌と天種で飲む辛口の熱燗が身体にしみわたる。美味しいなあ。
鴨せいろで〆て、家に戻り、地獄の原稿書き再開。

夜、今年から会員の末席に加えていただいたHヨットクラブの忘年会に出席。相変わらず凄い勢いで飲み、かつ語り合うメンバーの皆様に圧倒され、ペースが掴めないままに撤退。悔しい。
いつもワタクシのセーリング・ウエアを提供下さっているG社のS氏が参加されていることを予想できていながら、気にすることをすっかり忘れ、原稿ボケのまま着ていったウエアのブランドは、ジャケットもフリースもシャツも、すべてアメリカのPブランド。慌てて、S氏の前でそのジャケットを脱いだが、脱いでも脱いでも今日に限ってPブランドのロゴがしつこく出てくる。すでに酔っ払っていたS氏に頭を殴られる。
ホントにまずいことを仕出かした。申し訳ありません。

忘年会から帰り、また、原稿書き再開。原稿野郎と時間無制限バトルロワイヤルのようになってきた。

Dec. 3 2005 渋滞忍耐、パソコン忍耐

2005年12月03日 | 風の旅人日乗
12月3日 金曜日

昨日12月2日は、葉山で来年春から始める新しい、楽しい試みの打ち合わせをしたあと、車で東京へ。

週末金曜日午後の都内の渋滞のすごさを知らずに出かけた田舎者は心底驚いた。
これは絶対に何か前方で大事故が起きているのだ、と思い込むことで無心の境地を得て凌いだが、結局どこまで行っても大事故の現場には行き着かず、後で知ったところでは、通常の当たり前の東京の自然渋滞だった。

都内を運転している人たちは超人的に我慢強い人たちなのだ、と改めて尊敬しなおした。あの忍耐力は少しだけ見習わなければと思うが、二度とあんな時間つぶしを道路の上ですることはしないぞと心に誓った。

夜東京から葉山に戻って朝3時まで原稿書き。
本日朝7時に起きて原稿に手を入れ直し、10時過ぎ、さあ編集者に送ろうと思ったら推敲した分の保存ができておらず、昨日の朝3時の状態に原稿が逆戻り。
どこかに落ちてないかと、焦ってモニターの裏側や机の下をのぞくが、やっぱりない。あるわけないのだ。

外に出て、5回ほどバク転を繰り返して気持ちを落ち着ける。それから、初心に戻って2回目の書き直し。辛くて虚しい作業だ。結局お昼過ぎまでかかってしまった。
これだからコンピュータってやつは嫌いだ。俺の3時間を返してくれ。

これから月曜日締め切りの原稿にかかる。
明日は、葉山でレース。楽しみだな。

Dec. 1 2005 2005年残り31日

2005年12月01日 | 風の旅人日乗
12月1日 木曜日

丸1日、パソコンに向かい、企画書と原稿書き。

毎日毎日海に出てセーリングをしたいのに、そのセーリングをする仕事を得るために、海とは正反対の環境とも言えるパソコンに向かって書き物をしなければならないという不条理。考えてみれば面白い。

今現在、大西洋をケープタウンに向かってセーリングしているボルボ・オーシャンレースの各艇のスキッパーも、艇内のナヴィゲーションスペースに座ってレース本部に「航海日誌」をインマルサット経由のEメールで書き送っている。
彼らは海の上だとはいえ、パソコンの前に座る時間を強要されているという意味では、似たようなものじゃないか、と自分を慰める。

夕方6時、逗子の町まで出て、セーリングの後輩とメシを食いながら、仕事の相談。
とても面白いセーリングビジネスのアイディアを彼が提案してくれる。ちょっと、トライしてみようかね。その後は、お互いの家族の近況報告。

その後輩と駅前で別れた後、午後8時過ぎから逗子のスポーツクラブのプールでトレーニング。
忘年会シーズンが始まったのか、夜のプールが空いてきた。ありがたいことだ。