月曜日の僕の放送で「正岡子規」を取り上げました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の作品で香川照之が演じる正岡子規、それに秋山好古や真之、夏目漱石など、この大作は年末に放送されるらしいので、それはそれとして、今回はラジオですから、子規の人となり、彼の野心、そして病による挫折感などを話し、わずか36歳で生涯を閉じる人生とは何だったのか、を考えてみました。
正岡子規といえば、「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」は知らない人はいないでしょうが、僕もそうでしたが、では他の事で知っていることはそう多くはありませんでした。そこで人となりを知りたくて調べているうちに、強く惹かれるものがあり、36歳の生涯に残したものは何かについて興味を持ちましたので、放送に取り上げたわけです。
子規は伊予松山藩士の出身なのですが、江戸から明治に移るとき、江戸に加担して松山藩は敗軍の汚名をかぶるのです。そのせいか、こよなく松山を愛し、松山城にまつわる俳句を数多く作っています。その内の秀作は「春や昔 十五万石の城下かな」 「松山や 秋より高き 天守閣」「梟や 聞耳立つる 三千騎」など栄華を極めた四国松山に誇りを持っていたことがみてとれます。子規は病と終生闘いながら、文才を発揮し、随筆や絵画なども手がけています。
血を吐きながらわずか六尺の寝床が自分の生活の場だと病もまた楽し、と死をも受け入れながら、身辺の処理についても友人たちに哀しまずに談笑平生をもって送ってくれ、と言い残しています。司馬遼太郎は、近世日本の最も優れた教育者として吉田松陰、正岡子規をあげています。
放送一つするにしても、下調べはとても重要ですが、その勉強がまた自分の知識の肥やしにもなります。そう思うと放送もまた楽しいものです。
やさしいタイガー