私が先日、「姉妹の集い」でお話した中から、
詩篇139の解説とパッチワークの歴史と
原発のお話以外の事をここに残そうと思います。
来られなかった皆さんの為に少しずつ書いていくのが
この「恵みの余滴」です。
もしよろしければ、読んで下さいね。
m(_ _)m
まず今回は、私の若かりし日の出来事です。
私は、1982年にイエス様に出会い、洗礼を受け、
クリスチャンとしての一歩を踏み出しました。
洗礼後、1年するかしない頃、
私は当時、学生生活最初で最後のKGK(キリスト者学生会)の
春期学校に行くために、お小遣いを貯めていました。
私の両親は、教会に行くことは認めていても、
気前よく春期学校の為にお金を出してはくれなかったため、
私は自分で資金を貯めなくてはいけなかったのです。
そんなある日、一人の身障者の女性と知り合いました。
彼女は私より一つ年上で、「エホバの証人」と言う
キリスト教の異端グループで勉強していました。
しかし、彼女は、その団体をやめたいと助けを求めていました。
私は、実は、教会に集う前に、「エホバの証人」の研究生でした。
しかし、その団体に違和感を感じ、自分から抜けたいきさつが
あったため、彼女の叫びを自分のことのように感じて、
何とかしてあげたいと祈りました。
ある夜、教会の祈祷会で、信頼する今は亡き女性宣教師に、
このことを話して、祈ってもらうことにしました。
「教会にこの女性を連れてきたい。でも彼女は身障者。
私は車もない、連れてこられない。だから、何とかして
教会に連れてこられるように祈ってほしい」。
すると、女性宣教師は言いました。
「その人が来られないなら、あなたが行けばいいですよ。」と。
私は驚きと戸惑いを覚えました。
なぜなら、彼女は私が住む町からずっと遠く、
徒歩や自転車では行ける距離ではありません。
まして、私は学生であり、お金もなく、
卒論などのために時間もゆとりがなく、
どうしたらいいものかわかりませんでした。
しかし、私はこの日以来、宣教師のことばが心に残って
離れませんでした。
ずっと祈っていた時、ふと「資金がある」と思ったのです。
でも、この資金は、私が春期学校に行くための
大切なお金でした。やっと貯めたお金です。
しかし、今、私を待っている人がいる、
その方に必要とされている。
春期学校とその方を心の秤にかけてみたとき、
今の私のすべきことは何かはっきりとわかりました。
(誤解しないで下さい。私は春期学校に行くべきではないと
言っているのではなく、その時の神様のご計画は、別の方に
あったのだと言いたかったんです。)
その後、その資金を使って、その方の住む町の施設まで
電車通いを続けて、数ヶ月共に聖書を読み、祈り、
交わりをしてきました。
幸い、彼女はイエス様を信じて救われ、
それから数ヶ月後には洗礼を受けられました。
彼女はそれから数ヶ月後には、別の市に転所となり、
別の教会で歩み出しました。
数年前、彼女にたまたま再会して、
とてもお元気で教会生活を送っていらっしゃることを知り、
再会を喜び合って、主に感謝しました。
神様は、その時、その時の神様の御心を示されます。
私たちは、何が神様の示される事なのか、
良く祈って行かなくてはなりません。
どちらの方も神様の喜ばれる事なら、
なおさらその時の選択を、
主の御声に聴きつつ選択して行かなくては
ならないと思います。
主はみ心を必ず示して下さいます。
ここあでした。
詩篇139の解説とパッチワークの歴史と
原発のお話以外の事をここに残そうと思います。
来られなかった皆さんの為に少しずつ書いていくのが
この「恵みの余滴」です。
もしよろしければ、読んで下さいね。
m(_ _)m
まず今回は、私の若かりし日の出来事です。
私は、1982年にイエス様に出会い、洗礼を受け、
クリスチャンとしての一歩を踏み出しました。
洗礼後、1年するかしない頃、
私は当時、学生生活最初で最後のKGK(キリスト者学生会)の
春期学校に行くために、お小遣いを貯めていました。
私の両親は、教会に行くことは認めていても、
気前よく春期学校の為にお金を出してはくれなかったため、
私は自分で資金を貯めなくてはいけなかったのです。
そんなある日、一人の身障者の女性と知り合いました。
彼女は私より一つ年上で、「エホバの証人」と言う
キリスト教の異端グループで勉強していました。
しかし、彼女は、その団体をやめたいと助けを求めていました。
私は、実は、教会に集う前に、「エホバの証人」の研究生でした。
しかし、その団体に違和感を感じ、自分から抜けたいきさつが
あったため、彼女の叫びを自分のことのように感じて、
何とかしてあげたいと祈りました。
ある夜、教会の祈祷会で、信頼する今は亡き女性宣教師に、
このことを話して、祈ってもらうことにしました。
「教会にこの女性を連れてきたい。でも彼女は身障者。
私は車もない、連れてこられない。だから、何とかして
教会に連れてこられるように祈ってほしい」。
すると、女性宣教師は言いました。
「その人が来られないなら、あなたが行けばいいですよ。」と。
私は驚きと戸惑いを覚えました。
なぜなら、彼女は私が住む町からずっと遠く、
徒歩や自転車では行ける距離ではありません。
まして、私は学生であり、お金もなく、
卒論などのために時間もゆとりがなく、
どうしたらいいものかわかりませんでした。
しかし、私はこの日以来、宣教師のことばが心に残って
離れませんでした。
ずっと祈っていた時、ふと「資金がある」と思ったのです。
でも、この資金は、私が春期学校に行くための
大切なお金でした。やっと貯めたお金です。
しかし、今、私を待っている人がいる、
その方に必要とされている。
春期学校とその方を心の秤にかけてみたとき、
今の私のすべきことは何かはっきりとわかりました。
(誤解しないで下さい。私は春期学校に行くべきではないと
言っているのではなく、その時の神様のご計画は、別の方に
あったのだと言いたかったんです。)
その後、その資金を使って、その方の住む町の施設まで
電車通いを続けて、数ヶ月共に聖書を読み、祈り、
交わりをしてきました。
幸い、彼女はイエス様を信じて救われ、
それから数ヶ月後には洗礼を受けられました。
彼女はそれから数ヶ月後には、別の市に転所となり、
別の教会で歩み出しました。
数年前、彼女にたまたま再会して、
とてもお元気で教会生活を送っていらっしゃることを知り、
再会を喜び合って、主に感謝しました。
神様は、その時、その時の神様の御心を示されます。
私たちは、何が神様の示される事なのか、
良く祈って行かなくてはなりません。
どちらの方も神様の喜ばれる事なら、
なおさらその時の選択を、
主の御声に聴きつつ選択して行かなくては
ならないと思います。
主はみ心を必ず示して下さいます。
ここあでした。