雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

たかがトイレ、されどトイレ。

2005年07月28日 | 「発達障碍」を見つめる眼
自然学校を機に自宅以外の場所でも排尿ができるようになった
息子は、その後、いろいろな人といろいろな場所のトイレで
「おしっこ」に挑戦しています。

まだ立って必要なところだけを出して、というのは
難しいので、ズボンもパンツも下ろしてしまって
構わない、障碍者用トイレをメインに使っているのですが、
これまであまり使う事のなかった障碍者用トイレを
使うようになって、気が付いたことがあります。

確かにいまや、ほとんどの公共の施設には
障碍者用トイレがあるのですが、
「ある」ということと「気持ちよく使える」こととは
別なんですよね。

例えば。
男女別になったトイレの1番奥に
障碍者用の個室がある場合。
(異性の介助者が入っていくことができません。)

電気が薄暗い。
ペーパーが無くなっているのに、そのまま。
(洗面台に積み上げてあったって、交換できないひとは
たくさんいるでしょうに)

広いスペースだからか、お掃除用のゴム長だの
ビニールホースだの、デッキブラシなどが
積み上げられているところ。(倉庫じゃないんだからさ)

1番ぶっ飛んだのが、ある学校(もちろんM小ではありません)の
職員室の真ん前にある障碍者用トイレが、壊れて水が流れないように
なっていて、しかも便器の中にたまった水にボウフラがわいていたこと。

・屋外の公衆トイレならまだいざしらず、校舎の中のトイレを
どれだけの間掃除もせずに放置していたらボウフラがわくんでしょうか。


その学校の先生にそのことを告げたら、ニッコリ笑って
「うちの学校、使う人がいませんからね~」と流されたので、また愕然。

でもね。普段使っているかどうかは別として、こういう場所は
いつでも使えるようにしておくのが本来じゃないんですか。
つまり、この学校にとって、「障碍者用トイレを使うこと」自体が
「普通にはないこと(あるいは、あってはならないこと)」に
なってしまっているんだと思うんです。

実際にはうちの息子をはじめ、この校区にも、小さいお子さんがいる人、
車椅子を使っておられる人、車椅子というほどではないが、
立ち上がったり座ったりに少し手助けがいるシニアの方、など
普段はあまり目立たない、でも「学校の障碍者用トイレを使うかもしれない人」は
実にたくさんいるんですが。

「障碍のある人」というのを、自分達とは全く別世界に住む人、
自分達とはなんのかかわりも無い人、と考える風潮が
まだまだ一般的なのかもしれません。

施設が「ある」というところで満足するのではなくて、
「それを使う人」の存在まで想像する力が、私たちの社会には
まだまだ足りないのではないでしょうか。
「障碍のある子」の母である私ですら、今の今までそんなことにも
あまり意識が向かっていなかった、というのも恥ずかしい限りです。


たかがトイレ、されどトイレ。
障碍のある人が、「特別な存在」なのではなく、
「そこにいて当然な存在」だと認められる社会に
変わっていくために、私たちが気づき、考えていくヒントは、
こんなところにもあるのかもしれません。


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